たくさん学んだあの夏、僕らは少し大人になった。
リリアデント・クラウザー


 クラウザーくんと出会ったのは、梅雨入りをした六月最初の金曜日の事だった。
 英語係だった私はクラスで集めたプリントを教科の先生に渡すため、職員室を訪れていたのだ。その帰り際、担任の先生に呼ばれて机まで行ったら、先生の隣に立っているのが彼だった。プラチナブロンドの髪とガラスを思わせるアイスブルーの瞳はまるで人形のようで、それが急にこちらを見下ろしたものだから、少し怖くて身体に力が入る。背は見上げる程に高いし顔立ちも大人びているから、新しいALTの先生だろうか。

「月曜日に声をかけようと思ってたんだけど、ちょうど良かったわ」

 先生はそのまま、私が以前ランゲージパートナーに応募した事がある筈だと確認してきた。先生の横で圧倒的な存在感を放つ彼の存在を気にしながらも私は頷く。
 名古屋星徳は中学生の頃から国際化を謳った学校で、海外からの留学生も多く在籍している。その為留学生ひとりひとりには、助け合ったりお互いの国の言葉を教えあったりする〝ランゲージパートナー〟と呼ばれる生徒が割り当てられるのだ。もちろん校内には日本人の方が多いので、パートナーになる為には応募して選考される必要がある。私も星徳に入ったからには積極的に海外の子と交流をしていきたいと思って入学してすぐ応募したのだけれど、留学生はみんな違うクラスだからと言う事で選考に落ちてしまっていた。

「転校生のリリアデント・クラウザーくんよ。週明けから登校する予定だから、まだパートナーが決まってないの。クラスメイトになる訳だし、良かったら担当してみない?」

 先生じゃなくて、生徒なの?
 どう見ても同い年とは思えない風貌に内心驚きながらも、予期せぬチャンスに私はすぐに「やります」と答えた。先生も満足そうに頷いて、今度はクラウザーくんに向かって私の名前と、彼のパートナーになる事を伝える。流暢な英語で「OK」と答える声が想像よりもずっと高くて、本当に同い年の男の子なんだなあと感心してしまった。

「これからよろしくね、クラウザーくん」

 勇気を出して声をかけてみると、クラウザーくんは真顔のまま先生の顔を見た。何か変な事を言ってしまったのだろうかとドキッとする。先生は少し苦笑いを浮かべて、彼はまだ日本語がよく分からないのだと説明してくれた。

「えっと、ないすとぅみーちゅー」

 星徳は他の学校に比べてたくさん英語の授業があるとは言え、いざ外国人の前で英語を話すと言うのはなんだか恥ずかしい。もごもごと発音もままならない英語で挨拶をすると、クラウザーくんは「Nice to meet you」と「ヨロシク」を交互に呟いて、最後に小さく「oh, I got it(ああ、なるほど)」と言った。

「Ah…こちらコソ、ヨロシクおねがいシマス」

 目線をそらされたままの顔はその瞳に負けないくらい氷のようなクールな表情で、私の想像していた理想の出会いには程遠く、正直な話戸惑わずにはいられなかった。

******

 週明けに登校すると教室には誰も座っていない机がひとつ増えていて(私の席の後ろだった)、先生の予告通り朝のホームルームでクラウザーくんが紹介された。彼の祖国の事やテニス部のスカウトで留学してきた事、それにまだあまり日本語を習得していない事を先生が告げる間、本人は金曜日に見た時と同じように精悍な顔つきでじっと教壇の隣に立っている。最後に例の空いている席を示された彼はしっかりとした足取りでこちらへ近付いてきた。無表情具合が本当にお人形さんみたいだなと思いながら眺めていると、クラウザーくんも私の姿に気付いたようで視線がぶつかる。逸らす事も出来ずにそのまま固まっていたら、向こうも私をじっと見つめたまま何も言わずに横を通り過ぎて行った。

 アイスブルーの瞳の視線に晒されるのは、まるでガラスの破片の上を裸足で歩いているような感覚だ。やっぱり、なんだかちょっと怖いな。ランゲージパートナーとして上手くやっていけるのかなあ……。
 窓の外を見上げると私の不安を写したように空は曇り始め、一時間目が終わる頃には梅雨特有のじめじめした雨が降り始めていたのだった。

******

 ランゲージパートナーとは週に一回、一緒にお昼休みを過ごしてご飯を食べたりなどの交流をする事が義務付けられている。クラウザーくんとは席も前後な訳だから、それ以外にも時々話しかけたりする、べき、なんだけど……。
 実際のところ、彼がが転校してきてからの一週間で私達が会話をしたのは、移動教室への行き方とか必要最低限の事だけだ。
 自分でもだめだなあとは思うんだけど、クラウザーくんってあんまり表情が動いたりしなくて何を考えているか読めないから、どうしたら良いのか分からないのだ。それに一度だけ一緒にお弁当を食べたんだけど、男の子との話題なんて検討もつかない割に何度か喋りかけてもあんまり答えてくれなくて、なのにあの馴染みのない青い瞳でじっと見つめられるばかりだったので、やっぱり少し怖いと言う思いが抜けなかった。それに何よりもパートナーにそんな感情を覚えてしまうのが申し訳なくて私の心を苛む。

 一度罪悪感を覚えてしまったら、学校に行く事自体も憂鬱になった。それでも毎日登校しない訳にもいかないし、それに今日は教室に飾ってある花瓶の中身を取り替える予定なので、いつもより早く学校に行かなくてはならない。
 私の所属する園芸部では活動の一環で学校の正面玄関や体育館などに飾ってある花を定期的に替えていて、昨日がまさにその日だった。学校で育てている花じゃ心もとないから毎回顧問の先生が発注した花も使うんだけど、そうなると毎回少し余らせてしまう。だからこうして次の日に分けてもらって、教室の隅に飾っているのだ。
 顧問の先生に保管してもらっていた花を職員室で受け取ってから、私はまだ誰もいない廊下を歩いている。普段は朝練の音がここまで聞こえてくるんだけど、生憎の雨で今日はほとんどの部活が練習を中止してるみたい。

 教室の前に到着したら、締め切ってある扉を肩で押さえる無理矢理こじ開ける。通学鞄と花で両手がふさがっている時は毎回こうして力技でスライドさせているのだ。特に今日は体操服や部活で使う物も持って来ているから、いつもよりいっぱいいっぱいだった。

「よーいーしょっ、と」

 誰もいないのを良い事に独り言とは思えない声量を出しながら扉を開く。ガラガラという音を立てて、人ひとりなんとか通れるくらいの隙間が出来て、中に足を踏み入れ……たところで、既に登校し自席についていたクラウザーくんと目が合った。瞬時に熱が顔に集まる。誰かいるって分かっていたら、独り言なんて言わなかったのに……!
 内心パニックになっている私をよそに、クラウザーくんは立ち上がってまっすぐこちらに向かってきた。事態が飲み込めないまま彼は私の目の前まで来て、残りの分の扉を開けてくれる。そして私の腕から花束と荷物の一部を取り上げた。

「Are you alright? You’re carrying more than you can handle.(随分色んな物を持っているけれど、大丈夫か?)」
「え? あ、えーっと、いぇす、いぇす」

 後半は何を言っているかよく聞き取れなかったけれど、前半はなんとなく分かったので取り合えず頷いておく。するとクラウザーくんはホッと息をつき、それから花を眺めて目を細めた。初めて見る彼の柔らかな表情に私は思わず動揺してしまう。

「They’re so beautiful. Did you bring them from home?(きれいだな。家から持って来たのか?)」

 幸いな事に私の困惑は伝わらなかったようで、クラウザーくんは柔らかな表情のまま言葉を重ねた。サラサラと繰り出される言葉は所々としか聞き取れず、再び私は焦り出す。実を言うと、ランゲージパートナーに応募したは良いけれど本当は英語がそれほど得意という訳ではなく、特にリスニングには自信がなくて、だからこそ楽しくスキルを上げられたらと思ってこその応募だったり。

「すろーりー、おあ、あげいん、ぷりーず」

 頭の中にある貧相な辞書を必死でめくって、なんとか単語だけでも絞り出す。

「Oh, I’m sorry.(ああ、すまない)」

 クラウザーくんはしばらく考え込んで、視線を宙に漂わせつつポツポツと喋り出した。

「いえ、から、モッテきまシタ、カ?」

 カタコトの日本語はなんだか私の英語みたいで、私もこんな風に喋っていたのかなと少し恥ずかしく思いつつも親近感が湧いた。今までは「分かりマシタ」とか「ダイジョブです」だとか例文的なのしか聞いた事がなかったから、こうして文章を考えながら話してくれる姿は新鮮だった。

「ううん、学校の花壇からだよ。あ、でもお花屋さんのも混ざってるかも」

 すると今度はクラウザーくんが首を傾げる番だった。私は慌てて言い直す。

「ふろむ、すくーる」

 そして教室の後ろに飾ってある花瓶の所まで行き、枯れかけた古い花とクラウザーくんの持っている新しい花を交互に指差した。

「ちぇんじ」
「Would you mind if I arrange them?(僕にアレンジさせてもらえないか?)」

 こんな拙い話し方で分かってもらえるだろうか、なんて私の不安とは裏腹に、クラウザーくんは目を輝かせて口早で何か言いながら花瓶の前までやって来た。またもや言われた内容が分からずに戸惑っていると、クラウザーくんは眉をひそめて、さっきよりもずっと長く頭を抱える。何か言いかけて、止めて、それから自分の持つ花と、花瓶と、クラウザーくん自身を順番に指差した。

「……もしかして、やりたいの?」
「?」
「えっと、えっと……どぅ、ゆー、うぉんと、とぅ、どぅー?」 
「Yes, please!(ああ、ぜひ!)」

 顔をほころばせるクラウザーくんに、私は思わず息を呑む。キリッとした顔立ちは近寄りがたいとさえ思っていたのに、それが崩れた笑顔はまるで、梅雨の晴れ間に差し込む虹のようで。氷のように冷たいと思っていた瞳ですら、今は青空の色だと感じずにはいられなかった。






ハジメテに気付いたあの夏、僕らは少し大人になった。
遠山金太郎


 梅雨が終わり、本格的な夏が到来した。しとしと雨と今年もさよなら出来たのは良い事だけれど、その分アスファルトが人間の水分を奪ってジトジトは加速するばかり。
 ましてやひっきりなしにたこ焼きを作り続けるプレートの前では暑さは殊更だ。まあ、焼くのは父親の仕事やから、私はレジ作業をしているだけやねんけど。
 私の家はおじいちゃんの代からたこ焼き屋を営んでいて、私も幼い頃からお店に出入りしている。高校に上がった今年からはバイトも兼ねて本格的に手伝っていた。
 夕方のこの時間になると、学校帰りの学生で店はしばしば忙しくなる。父の焼いたたこ焼きを箱詰めして次々に会計を済ませて行く中、聞き慣れた元気な声が店いっぱいに広がった。

「姉ちゃん、たこ焼きひとつ下さいな!」

 聞いてるだけでこちらも元気になってしまうようなその声は、近所の四天宝寺中でテニス部に所属している遠山金太郎くんのものだ。彼は週に二、三度通ってくれている。
 同じ年代のお客さんの中で一番元気で、おしゃべりで、一番贔屓にしてくれる子だから彼が来てくれるのは私にとっても嬉しい事だった。

「金ちゃん! よう来たね。今日は来るのちょっと早いやん」
「おん! ワイお腹ぺっこぺこで、学校から走って来てん!」

 私の知っている誰よりも夏が似合いそうな笑顔で、金ちゃんはカウンターの前でたこ焼きに目を輝かせていた。

「今日は何個入りにする?」
「いっっっっちゃん大きいの頼むわ!」

 昨日は小遣い日やったから金持ちやねん! と胸を張る金ちゃんを見て、内心であと二週間は大丈夫……だとええんやけど、とひとりごちた。大判振る舞いが普通サイズの注文になって、お子様用の四個入りになって、月末にはお金が足りないと絶望して訴える金ちゃんに私のバイト代からこっそり奢った事があるのは一度や二度ではない。

「はい、どうぞ」
「おおきにありがとう!」

 これから必ず起こりうる未来に苦笑しつつ、一番大きなたこ焼き二十個入りの箱を渡すと、金ちゃんはいそいそとイートインスペースの一角に腰掛けた。

「姉ちゃんもはよこっち来てや! お話したい事い~っぱいあんねん!」
「はいはい、すぐ行くから待っててな」

 しばらくしない内に夕方の喧騒も過ぎ去って、父もテレビを見に家の中へ引っ込んだので、私は調理スペースから出て金ちゃんの隣に座る。彼がここへ来てくれた日はこうして部活の話や、前回来てくれてから今まであった出来事の話を聞くのが習慣になっていた。
 だからと言って、最初からこんなに仲が良かった訳ではない。
 ここまで話すようにきっかけは梅雨入り前のある春の日、不定期で来てくれるなあと思っていた男の子が、その日もたこ焼き十個入りを頼んでくれた時の事だ。

「たこ焼き十個入りで五百円ね」
「おおきに! えぇっと……ひい、ふう、みい、よ……あ~~~~~っ!!」

 ズボンの中から出した硬貨を手のひらに広げ数えていた彼が、急にこちらまでびっくりする位の大きな声を上げたのだ。

「百円足りひん!!」
「四百円しかないなら八個入りのがあるで」
「う~……しゃあないわ、ほなそれ下さい……」

 その表情があまりにも絶望的で、たまに来てくれた時にたこ焼きを頬張る姿があまりにも可愛らしかったから、他にお客さんがいなかった事もあってつい間違えて箱の中にふたつたこ焼きを多く入れてしまったのだ。
 イートインスペースに座るなり箱を開けた彼は首を傾げて中身を数え、小走りで再びカウンターまで戻って来きた。

「姉ちゃん、これ十個入りや。他の注文と間違えてんで」

 てっきりラッキーと思って食べてしまうかと思っていたのに。箱を差し出す姿は子犬のようにも見えて、素直な様子が更に可愛らしくて笑みを零さずにはいられなかった。

「……きみ、四天宝寺中の子やろ?」
「そやけど、何か関係あるん?」
「私も去年まではそこの生徒やってん」

 だから、贔屓。他のお客さんにはナイショやで。
 ちょっと格好つけて「しーっ」と人差し指を口の前に持って行く。ポカンと開いた口がゆっくり動いて「おおきに!」と聞く頃には太陽みたいなきらきら笑顔を見せてくれた。
 そして彼はその日、口の周りにソースをいっぱいにつけながら、自分は遠山金太郎という名前という事、みんなからは金ちゃんと呼ばれている事、ついでにテニス部に入っている事を教えてくれたのだった。
 ちなみに彼が帰った後、こっそり見ていた父親に「たこ焼き二個分、バイト代から引かして貰うからな」と言われたのはついでの苦い思い出である。


「――そんでなあ、明日から関西大会やから、えっと、身体を休めるために? 今日の練習は早めに終わってん。でもワイ、まだテニスし足りひんわぁ!」

 今日も今日とて口の周りにソースと青のりをたくさん付け、金ちゃんは色んな話をしてくれる。くるくると喜怒哀楽が変わる姿は万華鏡のようで見ていて飽きなかった。

「それもあのシライシって子に言われたん?」
「せやねん! 白石の言う事聞かんと毒手やから、今夜はテニス我慢なんや……」
「あはは、だから毒手って何やねんって」
「毒手は怖いんやでぇ!」

 全身を使って説明をしてくれるその内容は、相変わらずよく分からなかったけれど(金ちゃんの語彙力はなんやこう、独特で、たまに何言ってるかちょっと分からんねん)一生懸命に話す金ちゃんを見るのが楽しくて、笑いが止まらない。
 たこ焼きが全て胃の中に収まり、話が先週の特撮番組の内容にまで飛躍する頃、金ちゃんから大きな電子音が鳴った。金ちゃんが慌てて学ランの内ポケットを漁り、携帯電話を取り出す。私が持っている物とは随分違う簡素な作りのそれは所謂子供ケータイと言う物だろう。

「あ、白石や!」

 金ちゃんは携帯電話の画面を確認し、通話ボタンを押した。

「もしもし! どないした……ええっ、なんで知っとるん!?……う~、分かっとるがなぁ……うん、ちゃんと晩メシも食べれるって! うん、ほなな!」

 通話を終了した金ちゃんは心なしか沈んでいるようだった。何があったのかと聞くと、傍らに置いていたテニスラケットを背負いながら(教科書とかどないしてんのやろ……)

「白石に『寄り道しとらんとはよ家帰り。あんまりたこ焼き食べ過ぎたら夕飯入らんくなるで』って言われてん……せやからもう帰るわ……」

と背中を丸めて店を出て行く。私は金ちゃんが空けた箱を片付けつつ、その背中に向かって声をかけた。

「いつもありがとう金ちゃん、また来てや」
「おん! 姉ちゃんとこのたこ焼きいっちゃん美味いし、またすぐ来るわ!」

 すると金ちゃんは振り返り、しょぼくれていたのが嘘のようにニッと青のりの付いた歯を見せてくれた。走り去る姿は台風のようで、過ぎ去った後はいつもカラリと晴れた元気をくれる。
……それにしても、

「すごいな、シライシくん」

 シライシくんの名前は毎回金ちゃんの話に十回は出てくるから、よほど仲の良い先輩なんだろうと言う事が分かる。けれどそれにしたってピンポイントで何をしているか察知して電話をかけて来るだなんて、エスパーかオカンかとすら思う。
 オカンなんやろうな、多分。知らんけど。
 まあでも分からんでもないなぁ。あんなまっすぐで素直で元気の良い子、見守りたくなっちゃうに決まっとるもん。あんな弟か、もしくは自分がおばあちゃんになった時の孫が金ちゃんみたいだったら、随分楽しい老後が過ごせるんやろうなぁ。
 なんていらん空想を描きながら私は父親が戻る前にカウンターに引っ込み、残った仕事を再開したのだった。






現代科学じゃ説明できなかったあの夏、僕らは少し大人になった。
越前リョーマ


 眠れない。
 無理矢理閉じていた瞼を開き、額にくっついた前髪を払いのけながらリョーマは悪態をついた。ジットリと纏わり付くような七月の暑さは日が落ちてなお空気中の不快指数を高めている。それなのに、なんの冗談か昨日エアコンの室外機が故障して使えなくなってしまったのだ。本体でないだけに修理にも購入にも時間がかかるらしい。ありえない。
 それにこの耳をつんざくような音はなんだ。アメリカにいた時はセミなんて見た事もなかったけど、こんなにうるさいだなんて。昼夜問わず鳴り止まない雑音は学校に居たりテニスをしている内は気にならないけれど、一度意識下に入れてしまうと無視出来なくて気が狂いそうになる。
 加えて今夜は近くで事故でもあったのか、救急車のサイレンまでもがリョーマの眠りを妨げるのだ。

 もう我慢できない。リョーマは一度麦茶でも飲んで落ち着こうとタオルケットを蹴り上げ、傍らで寝ているカルピンを踏んづけないよう注意しながら部屋を後にした。
 キッチンでグラス半分の麦茶を一気に飲んでから、残りの半分を手に縁側へと向かう。吹いているのか吹いていないのかよく分からない風を感じながら少しずつグラスを傾けていると、蝉の羽音もだんだんと小さくなっていくように感じられた。

 その所為だろうか。家からそう遠くない場所で、何やらガサゴソと草を搔きわける音が聞こえたのだ。
 敷地内にある雑木林の方だろうか。いくら気持ちばかりの木々があるとは言ってもここは東京のど真ん中だ。野生の動物なんてカラスや鳩ぐらいしかいなくて、でも先ほどの音は鳥が作るそれよりもずっと大きい。敷地内で野良猫を見た事なんてないし、カルピンは家の中だ。
 まさか、泥棒?
 そんな筈はないとは思いながらも、一度頭によぎった〝もしかしたら〟は簡単には消えてはくれない。それに眠れない夜を過ごしていたところだったし、ちょうど良い。
 そんな気まぐれから、リョーマは玄関に向かいサンダルに足を差し入れたのだった。


 リョーマが暮らしている寺の敷地は入口から伺えるよりもずっと奥に広く、寺院部分とテニスコート、それに住居部分とは少し離れた一角に草木の生い茂る土地がある。リョーマを始めとした越前家の人間はこの場所を『林』と形容しているのだが、実際には林と呼べるほどの大きさはなくリョーマも普段横切る分には大した感情を抱いた事もない。
 しかし明かりの少ない夜ともなると、奥まで見えない事もあり遠目から見ても昼間とは大分雰囲気が違っていた。
 林に近付くにつれ、リョーマの耳を掠めた例の雑音は大きくなっていった。やっぱりこっちの方だったんだ、と木々の中に一歩足を踏み入れる。途中でまたひとつガサリ、と聞こえたので、自分の足音と混同してしまわぬよう慎重にリョーマは音を辿った。
 ガサリ……ガサリ……途切れ途切れではあるが音は確かに続いている。心なしか速まる鼓動を抑えながら音の元を辿って行くと――そこには人影がひとつ、四つん這いで地を這ってゆっくりと動いているではないか。
 思わず声を上げそうになった口を押さえ、木の陰に隠れる。泥棒にしては動きがおかしいし、まさか、ゆう……いやいや、そんなのいる訳ないだろ。と思いつつも、自身の鼓動は耳元でうるさく鳴るばかりだ。
 覚悟を決めるように呼吸を正し、意を決して木から顔だけを覗かせる。暗闇の中で目を凝らして見ると、人影は少女のようで、リョーマが想像していたようなおどろおどろしい雰囲気は感じられなかった。
……ので、リョーマはそっと彼女に近付き、背後に立つ。

「ねぇ、」
「いやぁああああああっ!!」

 そして声をかけたところで、絹を咲いたような悲鳴を浴びる事になったのだった。

「え、」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい悪気はなかったんです成仏してええええ!!」
「いや、ちょっと!」

 訳の分からない言葉を並べ立て、少女は手足を振り回して暴れまわった。夜遅い事もあり咄嗟に近所迷惑という四文字が頭をよぎる。リョーマは慌てて彼女の両腕を掴み、動きを止めさせた。

「ねえってば!!」

 思い切り顔を近付け覗き込むと、涙を溜めた瞳と視線がぶつかった。今や顔もはっきりと見える。年齢は自分とほぼ変わらない位だろうか。
 これでもかと言う程に見開いたまん丸の目が一秒、二秒、と見つめられ、自分からの行為でこの体制になったとは言えリョーマがその遠慮のない視線に居心地の悪さを感じ始めていたところで、相手の唇が震えるように開いた。

「…………触れる……生きて、る……?」


 落ち着いてから、少女は勝手に自分の事について話し始めていた。それによると彼女は友達数人で肝試しをしていて、一人はぐれて迷っている内にこんな時間になってしまったらしい。リョーマが近付いて来る音をこの世ならざる者の気配だと勘違いし、腰を抜かしてしまったのだとか。

「それにしても本当に幽霊じゃなくて良かった! で、君は一体なんなの?」

 夜遅くにこんな場所で一人なんて大丈夫? なんて続けられ、盛大なブーメランにリョーマは呆れ返る。いやそれ俺のセリフだし、という言葉をやっとの思いで飲み込んだ。

「ここ、俺ン家」
「……まじ?」

 ひとつ頷くと、彼女は見る見る内に顔を青ざめる。

「お邪魔してます。お願いだから家の人には黙ってて……怒られちゃう」

 頭の上で両手を合わせ、リョーマを拝む様子に今度は「コイツ馬鹿?」という言葉が出かけたが、初対面だしそれも我慢したら代わりに溜息が出ていた。

「じゃあさっさと帰れば?」

 それだけ言ってリョーマは元来た道を歩き出した。すると彼女が戸惑いがちに呼び止めたので振り向く。

「道が分からないんでしょ? 正門、こっちからならすぐだから」

 その途端パッと顔を輝かせ彼女はお礼を述べた。そして歩き出そうとしたところで今度は木の根元に足を引っ掛け転びそうになる。その姿を見て、リョーマは何故だかどっと疲れ、再び溜息を零してしまうのだった。


 構造さえ把握していれば、林は決して大きな面積ではない。木々を抜け寺部分を回り込む形で歩くと、正門までは五分とかからなかった。

「わ、本当にあっという間だった!」
「だからそう言ったじゃん」

 正門からは石畳の階段が伸びており、そこを降りると公道に出れるようになっている。踏み出す直前、少女は改めてリョーマに向き直った。

「ありがとう。じゃあ、またどこかで」
「もう人の家で勝手に肝試ししないでよね」
「分かってますよーだ!」

 べ、と舌を出してから無邪気に笑い、彼女は石段を降りていく。それを確認せずリョーマは家までの道を戻った。なんだかんだでかなりの時間が経ってしまったし、良い加減無理矢理でも良いから寝ないと明日の朝練に遅刻してしまうかもしれない。

「きゃあっ!?」

 その時、リョーマの背後で金切り声がした。反射的に振り向くと石段を降りている筈の背中が見えない。まさか落ちたんじゃないかと慌てて駆け寄って見下ろしたけれど、少女の影はどこにもなかった。今の悲鳴は聞き間違いだろうか。それにしても随分と早く移動したようだ。

「……変なヤツ」

 まあ、何なかったのならそれに越した事はない。リョーマは今度こそ家に入ろうと石段に背を向けたのだった。