夢本限定書き下ろし
夢から覚めて


「ごめん、もう会えないんだと思ったら、ちょっと無理だった」

 肩越しに聞く声はひどく切なく、その響きだけで泣きそうな気持ちにさせる。痛いくらいに私を抱きしめ好きだと告げる彼が心の底から愛おしくて、肺に幸せを詰めすぎたみたいに息が出来ない。
 でも、伝えなくちゃ。
 息を吸う。喉が震える。
 不安で瞳を湿らせるあの人に、私がどれだけ幸せなのかって伝えないと。

「私もずっと前から越前くんの事が、好きです」

 息を呑む声が聞こえた。越前くんが顔を上げる。信じられないくらい優しい顔で微笑む彼の赤く染まった目元をそっと指でなぞると、その手を取られて顔が近付いた。瞳を閉じる。きっともうすぐ彼の唇が私に触れ――

――ピピピピ! ピピピピ! ピピピピ!

 けたたましい電子音で私は反射的に目を開いた。枕元の目覚まし時計を止める。未だ現実味のない頭を抱えながら上半身を起こすと、いつもと変わらない自室の風景がそこにあった。

「ゆめ……?」

 言葉にすると同時に周りのものが現実味を帯び、先ほどまでの情景に靄がかかる。ジャージ越しの力強い腕の暖かさも、耳をくすぐる高めの声も、全て夢の中の出来事なのだと知って寝起きの鈍い体温が一気に上がった。わ、私ったら、なんて夢をみていたんだろう⁉︎
……でも、

『ごめん、もう会えないんだと思ったら、ちょっと無理だった』

 夢だったけど、夢じゃない。
 学校から帰って、ポストの中に届いていた氷帝からの合格通知を開いたのは昨日の事。勢いでそのまま越前くんにリストバンドを返しに行って、そうしたら告白されて……嘘みたいな出来事だけど、全部本当の事だ。流石にキスまでは、現実ではされなかったんだけど。
 思い出したらまたどうしようもなく恥ずかしさが込み上げてきたので布団の中で足をバタバタと動かす。ずっと憧れだった越前くんとあんな時間を過ごせただなんて何度思い出しても夢のようで、未だに信じられない。いつもと変わらない日常が始まる平日のはずなのに、真新しい朝が始まる感動に踊り出しそうだった。
 恥ずかしさから逃げ出すように視線をふらふらさせると、目覚まし時計が視界に入る。いつの間にか起きる時間を十五分も過ぎていた。

「いけない、遅刻しちゃう!」

 急いでベッドを抜け出し制服に着替える。いつもギリギリまで寝てるから十五分の遅れは致命的だった。


 流し込むように急いで朝ご飯を食べたおかげか、学校へは遅刻せずに到着する事が出来た。ちょうど運動部の朝練が終わる時間だったので下駄箱は少し混雑している。その中をすり抜けて三年六組の棚まで進んで行ったら、向かいにある七組の棚の前で越前くんが運動靴を仕舞っているところだった。心臓がひとつ跳ね上がる。

「お、おおはよう!」

 昨日の出来事と今朝の夢を思い出して挨拶ですら緊張してしまった。学校に着いて一番に会った人が越前くんってだけで、今日は良い日になりそうな気さえする。

「おはよ」

 越前くんはチラリこちらを見て、そして自然な動作で目をそらした。思い描いていたよりもずっと淡白なやりとりに私は肩透かしを食らった思いだ。
 続いて彼は上靴に履き替え、廊下に進んだ。けれど一歩、二歩と踏み出したところでまた振り向いて一言。

「なに?」

 あまりにもいつも通りの感情の読めない問いかけが私を更に戸惑わせる。返事をしようとしたけれど、声を忘れたようになんの言葉も浮かんでこなかった。やがて越前くんは痺れを切らしたのか訝しげに眉をひそめる。

「教室行かないの?」
「あ、えっと、行きます」

 急かすような言葉が私を現実に引き戻す。急いで靴を履き替え駆け寄って「お待たせ、です」と言うと、ようやく越前くんは喉奥で軽く笑った。

「なんで敬語?」
「なんとくなく……」

 照れ臭さを隠すように前髪を触って隠れる。
 三年生の教室まではほんの数分、最上階まで階段を登ってしまえばすぐだ。連れ立って歩く廊下の途中、私達の間に会話はない。

「じゃ、俺こっちだから」
「あ、うん……また、ね」

 階段はちょうど六組と七組を分断するように設置されており、越前くんは七組のある右手へ向かう。私も左手の六組へ向かわなければいけない筈なんだけど……。私はその場から動けず、教室に入る彼の後ろ姿を見つめていた。
 越前くんの態度は本当にいつも通りで、なんなら普段に比べてちょっと素っ気ないくらいで、とても昨日、こ、告白をしてくれた人の振る舞いとは思えない。
……もしかしたら昨日の出来事は本当に夢だったのかなと、思い始めている自分がいる事を、私は否定できなかった。






書き下ろし2
Unknown → Identified & Examining


 コイビトが、できた。
 黄色いボールと、ラケット、それに青学の柱という言葉だけでいっぱいいっぱいだった心の中に、気付いた時にはもうずっと前から住み着いていた人がいた。馬鹿みたいにお人好しで、考え込むくせに呆れるほど素直に物を言う、分かりやすいと思いきや理解不能な行動をする人間。そして俺がテニスに向かうのと同じくらい、好きなものに一直線な人間。
 彼女が俺の、コイビトになったのだ。

 言葉にしてみると簡単なのに、言葉にしたらしたで自分のコントロールできない部分が暖かく膨らんでいって、上昇気流に乗ってどこまでも飛んでいきそうになる。気を緩ませたら最後、あの日の潤んだ瞳で俺の事を好きだと言う彼女の姿を頭の中で再生して、だらしなく緩む口角を誰にも見られないよう必死で隠さないといけない。こんなに浮かれた状態な自分がらしくないのはわかっている筈なのに。初めての感情に戸惑っているけれど、嫌では、ないのだ。

 けれど誰かと付き合うなんて初めての事で、いざそういう状況になってみると何をしたら良いのか検討もつかないし、今まで通りで別段困るという事もない。
 そうして特に変わった事も起きないまま二週間が過ぎて少しだけこの話題を忘れかけていたところで、やけにご機嫌な母親がキッチンのカレンダーに何かを書き込む姿を見つけたのだった。

「あらリョーマ、ちょうど良かったわ。来週の金曜日は家にいないから、夕飯は自分で好きに食べてね」
「どっか行くの?」
「Yeah♪」

 鼻歌を歌いながら夕飯の支度をする母親を尻目に、リョーマはカレンダーへ目を向ける。
“来週の金曜日”に該当する日付のマスには“Dinner date with Daddy”と踊るような筆記体で綴られており、更にその下に小さく“バレンタインデー”と印刷されていた。
 そうか、今年ももうそんな季節か。
 父親である南次郎は普段こそ自他共に認める女好きで息子から見ても恥ずかしい言動をするものの、母親である倫子の事を本当に大切にしている。それはアメリカにいた頃から変わらず毎年バレンタインにはリョーマを置いて二人でデートに出かけたり、誕生日には必ず何かプレゼントを用意している事からも見て取れた。

 バレンタイン、か。
 今まで当事者になった事も、気にした事もなかったからよく分からないけれど、アメリカではこの季節になると彼女へのバレンタインのプレゼント特集を行く先々で見かけたから何かをプレゼントするのが普通なんだろう。日本のバレンタイン事情も多分そんなに変わらない。
 先述の通り、幼い頃から南次郎を見てきたリョーマにとって、ようやく両思いになれた彼女にバレンタインのプレゼントを渡そうという考えに至る事は、照れこそありはすれ普通の行動だった。

 問題は何をあげるか、だ。
 男テニの部員であればまだ希望はあったけれど、同い年の女子が貰って嬉しい物なんてリョーマには想像すらできない。
 だからこそリョーマは越前家に居候しているいとこの菜々子の部屋の扉を、ためらいがちにノックしていた。部屋の中から椅子を引く音がして、スーツ姿の菜々子が現れる。大学三年生で今年から就活を始めた菜々子のスーツ姿も見慣れたものだ。

「どうかしましたか、リョーマさん?」
「あの……日曜日、暇? 買い物に付き合って欲しいんスけど」

 おずおずと切り出すリョーマに菜々子は首を傾げて戸惑いを表した。当然だ。リョーマがこうして菜々子を外出に誘う事なんて今までなかったし、そもそもこうしてわざわざ菜々子を訪ねる行為でさえ両親に用事を言いつけられて以外では初めての事なのだ。

「バレンタイン、女子が好きな物とか分からなくて」
「あら、リョーマさんの方からバレンタイン……ですか?」

 こんな時、彼女ができたのかと余計な詮索をしないところが菜々子の良い所だ。けれどその物言いに何か含みがあるような気がしてリョーマは眉をひそめた。

「そうだけど、なんかあるの?」
「いいえ、最近流行ってますものね」

 取り繕うような笑顔は未だにどこか引っかかりを覚えるけれど、これ以上食い下がって空気を悪くするのも得策ではない。幸いにも日曜日は菜々子にとっても時間が空いている日であるらしく、出かける時間を決めてリョーマは自室に戻った。
 そうして菜々子と共に最寄りのショッピングモールへ出向いたリョーマは居心地の悪さすら感じる煌びやかな雑貨店の中、菜々子のアドバイスの元シルバーの花飾りがついたヘアゴムを購入したのだった。