緋色に白く麻の葉文様が抜かれた着物を纏い、蒲公英の色をした帯を締める。髪を結い上げ濃い目の化粧を施し、最後に真白い前掛けの紐を結べば、何処にでも居る女給の完成だ。衣装は何れも共用で、幾多の女子に使い古され草臥れていた。だけれど店内は薄暗いのである程度なら誤魔化せるし、大抵の御客はそこ迄見ていやしない。‬
‪最後に紅を引いて姿見の前で全体を確認し、店員の私物で散らかった控室を出る。昼の三時と云う早い時間であるし、店自体が小さいので女給はそう居ない。今出ているのも数人程度だろう。‬
‪雑多に物が犇めく廊下を通り、厨房に辿り着く。カウンターの裏側である此処もまた物が散乱しており、ついつい溜息を零しそうになった。‬

‪「さん、御客様が御出でです。お願い致します」‬
‪「はあい」‬

‪待ち構えていたボーイに生返事を返す。ほら、矢っ張り人手不足だ。出勤直ぐの仕事に気が乗らず溜息が増していく。‬
‪陰りかけた気分を振り払う様に、扉を開けて一歩踏み出す。草履が石灰岩の床を力強く躙った。‬
‪此処は——カフェー・鈴蘭。小さく寂れたカフェー、詰りは所謂特殊喫茶だ。‬
‪洋食店から鞍替えしたこの店は古く、それは内装にも云えることだった。元は白かったのだろう壁紙は数十年前から張り替えられていないせいでくすみ、階段は良く軋んだ。昼でも分厚い窓帷が掛かった窓は隠されてはいるが硝子が大きく割れている。客と女給が睦み合う為の部屋が多数ある二階に至っては、壁が薄過ぎて嬌声どころか衣擦れの音まで筒抜けである始末。何処も彼処も襤褸襤褸で、私はこれで良く経営を続けていられるなと逆に感心していた。‬
‪籐で編まれた低い衝立で申し訳程度に仕切られた空間には机が一台にと椅子が二脚ずつ。その古びた円卓に敷かれた白い布だけが眩しく、しかし営業中の今は薄暗い照明のせいで輝きは薄れていた。‬

‪「今晩和。隣に座っても宜しいですか?」‬

‪三人の客に対し女給は二人しかおらず、どちらも其々の客に掛り切りの様だ。"盛り上がって"いる其方の卓とは相反し、店の隅で一人静かに硝子の洋杯を傾けている男性に声を掛ける。‬
‪俯かせていた顔が此方を向き、私は思わず息を呑んだ。その相貌が余りにも整っていたから。歳は二十代後半位だろうか。海松色の鋭い眦に通った鼻筋。艶々とした髪は白茶で、それ等の薄い色彩が儚さを際立てていた。‬
‪冷淡にも映るその造形はしかし、人好きのする笑みを浮かべた。‬

‪「嗚呼、良えよ」‬
‪「あいすみません、暫く御一人にさせて仕舞った様で…」‬

‪肩透かしを食らった気分ではあったが平静を装い、隣の椅子に腰を落ち着ける。聞き慣れない訛りに内心首を傾げつつ。これは西の方言だっただろうか。面白そうな人だな、と少し興味が湧いた。‬

‪「良えって、俺は先輩らの気に入りが居るから連れて来られただけや」‬

‪ほら、と彼が立て続けに目線で指したのは残り二組の客人達。顔までは見えなかったが衝立越しにちらちらと覗く茶髪と黒髪の二人はそれぞれ女給との会話や触れ合いに夢中の様だ。‬

‪「成程…先輩というのは御仕事の、ですか?」‬
‪「そうやで。何の仕事してるんか解る?」‬

‪ふと湧いた疑問をそのまま口に出せば、悪戯っぽく笑いかけられる。‬
‪仕事。何だろうか。嗚呼——若しかすると。‬
‪改めて目の前の男を隅々まで見渡し、少し考える素振りを見せつつ。‬
‪一つの可能性を、口にした。‬

‪「若しかして軍人、とか」‬
‪「っ! ……良お解ったなあ」‬

‪苦笑いし乍ら正解だと告げられ、此方も驚く。真逆本当に軍人だとは。‬
‪理由を問われ、柳葉色の着流しの上からでも理解る筋肉質な肉体。それに隙のない立ち居振る舞いがそう思わせたのだ、と続ける。‬

‪「でも其の理由やったら、警察官とか武術家何かでも良えんとちゃうんか?」‬
‪「目、です」‬
‪「目?」‬
‪「はい。貴方様の眼は、只の警官のものでは無い」‬

‪同じ様な人は今迄にも沢山見て来たから理解る。数々の死線を潜り抜けて来た、兵士のそれだと。直感的に感じたのだ、とそこ迄話し、云いすぎた事に気付いて口を閉ざす。‬

‪「済みません、私の様な女が随分と、っ」‬

‪そっと彼の顔を伺い、咄嗟に黙り込んだ。‬
‪背筋がぞっと冷たくなる。‬

‪「——おもろい子やなあ」‬

‪獲物を見付けた、とでも云う様な。決して笑っていない笑顔の中で細められた目の、その鋭い視線が。‬
‪私を貫いていたから。‬

‪「白石! 帰るで」‬
‪「…嗚呼、はいはい」‬
‪茶髪の方の上官に呼び掛けられた男は、ひらひらと手を振りそれに応える。‬
‪私は急いで立ち上がり腰を曲げる。心臓はどくどく脈打ち、冷や汗が滝の様に流れていた。若いとは云っても軍の方だ。機嫌を損ねて仕舞えば最後、私の首が飛ぶだけでは到底済まないだろう。‬

‪「も、申し訳御座居ません! 過ぎた真似を…」‬
‪「気に入った。また来るわ」‬

‪呆然と立ち尽くす私に彼は、多すぎるチップを机の上に置き。‬何事も無かったかの様に笑顔を見せた。‬




‪軍人の彼は、次の日の昼下がりにも店を訪れた。前回と同じ席に同じ姿勢、同じ顔。違うのは着ている物ぐらい。‬
‪「こ、今晩和…」‬
‪「どうも。昨日ぶりやね」

‪昨日の今日の事にぎこち無く挨拶をする。‬
‪真逆こんなに早く来店されるとは思わなかった。否、再び私を指名する事すら無いだろうと考えていた。‬
‪途轍も無く気まずいのは私だけの様で、気にすることなく彼は話始めた。‬

‪「昨日は御免な、何も頼まん内に帰ってしもて」‬
‪「いえ…っ、私の方こそ済みません、気分を害されては居ませんでしたか?」‬

‪彼の後は自分の侵した失態に頭を抱え、仕事にも中々身が入らなかった。‬
‪しかし意に反して、彼の機嫌は良く。‬

‪「何が? そんな事より何か頼みや。俺未だ飯食べてないねん」‬
‪「そ、そうでしたら此れと…此れを」‬

‪ともすれば忘れていそうな彼に気勢の削がれた私は、ボーイを呼んで飲物と食物を幾つか頼む。‬

‪「そう云えば自己紹介も未だやったな。俺は白石云うんや。君は?」‬
‪「私は、と申します」‬

‪名乗った彼に、他の客にもしている様に名前だけを述べれば破顔される。‬

‪「ちゃんか。宜しくな」‬
‪「此方こそ…あの、如何して私を?」
‪「んー? 面白いなぁ思って」‬

‪足を組み換え、机に肘を付く。そんな些細な動作一つでも絵になる男性だ。‬屹度引く手数多なのだろう、等と頭の隅で考える。

‪「面白い…ですか」‬
‪「そうそう。自分、生まれは何処なん?」‬
‪「六角国の田舎です。此方…氷帝国に移り住んだのは最近で」‬
‪「成程ね」‬

‪何処か納得した様な素振りを見せる白石様。それが理解らなくて首を傾げるが答えは無く。‬

‪「後もう一つ。野暮な質問やけど、何で又こんな仕事を?」‬
‪「ええ、と…親を亡くしまして」‬

‪前置いて私は話始めた。‬
‪とは云っても良くある話だ。侍だった祖父が開いた道場を継いだ父、そこで育った私。先の戦に徴兵された父は亡くなり、後を追うように病に倒れた母も逝った。親戚に裏切られて道場ごと遺産を奪われ、頼る宛もなく天涯孤独と成った私は。歓楽街のある氷帝国まで働きに出て、カフェーの女給に収まった。‬

‪「あー…御免な」‬
‪「いえ、お気になさらず…話したのは私なので」‬

‪俯いて微笑を零す。話したのは何も彼を信頼したからだとか、そんな理由では決して無い。‬
‪確かに話した事柄は事実だが、多少なりとも表現は大袈裟に成っている。同情を誘い気を引いて主導権を握り、次の指名に繋げる。常套手段だった。‬
‪それに、この人が如何いう反応をするのか。大いに気になったから。‬

‪「凝りんなあ」‬
‪「え、…っ」‬

‪くく、と喉を鳴らした彼の双眸に視線を引き上げ、私は後悔した。‬
‪面白そうな顔で此方を見詰める姿とは裏腹に伸し掛る重圧。それは息が出来なくなる程のもの。‬
‪嗚呼、またやってしまった。好奇心は猫をも殺す。そして私は如何あってもイニシアティブを取ることは出来ないらしい。‬

‪「強かで、小賢しい。無駄多いで? 自分」‬
‪「そ、んな…っ失礼、致しました」‬

‪耳元で囁かれ、首に白石様の手を添えられる。身体を強張らせた私に構わず、その指は肌を滑った。‬

‪「まあ俺は嫌いやないよ、そう云うん。只々従順で有るよりずっと良え」‬
‪「っ、あ」‬

‪今にも指が絡み付き、締め上げられるかと思ったその時。‬

‪「——失礼します」‬

‪ボーイから声が掛かる。酒と飯を届けに来たらしい。その一声で危うげな雰囲気は雲散霧消し、私は胸を撫で下ろした。‬
‪率先して盆から飲食物を下ろし振舞う。白石様も何事も無かったかの様に肴をつつき始めたのでそれに倣った。‬

‪「然し成程な。其れで俺が軍人やって理解ったっちゅう訳か」‬
‪「は、はい。良く見て来ましたので…」‬

‪昔から道場には手練が多かった。それは祖父や父が育てた門下生や士族の子息、また道場出身である六角の軍人も含まれていた。‬

‪「でも、白石様程お強い方は初めてお目にかかりました」‬
‪「次は媚び諂いか?」‬
‪「本心ですわ」‬

‪愉しそうな様子で此方に目線を寄越した彼の手を取る。歳の割にごつごつとした肌には幾つもの傷痕。屹度服の下にも同じ様な痕が数多く隠れて居るのだろう。‬

‪「其れも態と…じゃあ無さそうやな」‬
‪「え…?」‬

‪何が、と聞くより早く。美しい顔が此方に近付き——唇を舐める、生暖かい感触。‬
‪行き成りの事に身体が戦慄き肌は粟立つ。‬

‪「ひ、っ」‬
‪「不思議な子や。益々気に入ったわ」‬

‪その白い肌に薄い唇。其処から覗く唐紅の舌が迚も鮮やかで。無意識にごくり、喉が鳴る。‬
‪——嗚呼。このひとがほしい。‬
‪子宮に熱が宿り、急速に全身へと広がってゆく。何処か浮かされたまま口を開いた。‬

‪「白石さ、」‬
‪「っと。時間やな…」‬

‪態とらしく腕時計を確かめ、彼はあっさりと席を立つ。‬呼び止めようとして、不自然に手を伸ばすがそれすら無視される。

‪「あ、」‬
‪「ほな、またな」‬

‪以前の様に数枚の拾圓紙幣を残し、立ち去る白石様。‬
‪逃げられた。そう思った。口惜しくて拳を握る。‬
‪私の内を焦がす焔は、行き場所を知らず燻った儘だ。




‪それから白石様は、毎日の様にお店に顔を出してくださった。‬
‪但し私を買う事は疎か、碌に触れ合う事も、まともな接吻すら無い。何時も飲み食いし、数刻程話して店を出る。以前の先輩や同僚と連れ立って来る事もあったが、一人での来店が殆どだった。‬
‪彼により悪戯に掻き立てられた欲は、他の男に抱かれたとて埋められる筈もなく。私は何時しか、彼の事ばかり考える様に成っていた。丸で恋煩いの様。馬鹿らしいと一蹴するけれど。多少なりとも慕う様になっている事も又事実。‬

‪「さん、御客様が御待ちです」‬
‪「はあい」‬

‪間延びした返事をして椅子から立ち上がる。傍らの御客が不満そうに声を上げた。‬

‪「何だい、来たばかりだろう」‬
‪「御免なさい。直ぐに戻りますから」
‪「ほら、また其れだ。どんな客かは知らんが随分と入れ込んでいる様だな」‬
‪「其んな事有りませんわ、怒らないで下さいまし」‬

‪宥めている途中でボーイから急かすように声がかかり、慌てて席から去る。‬
‪指名客である私だけでなく、店や私がいない間に着いた女給にも気前よく金を落とす白石様は、見事に大御得意様と見做された様だ。潰れかけた小さなカフェーにとっては渡りに船だったろう。‬
‪しかしあの客には参らされる。同衾だけなら未だ良い、今更何を嘆いても私にとってはそれが仕事だ。それだけでなく、やれ店の外で食事がしたいだの待合に行きたいだのと会う度に求められ、その度に私は辟易していた。他の女給はそういう事を良くしている様だが、私は未だ抵抗が有った。‬
‪客は皆そうだ。最初は従順でも、付き合いが長くなるに連れ欲望も要求も肥大化してゆく。全く面倒で仕方ない。‬

‪「浮かない顔やな? ちゃん」‬
‪「…いえ。そんな事は」‬

‪すっかり彼の定位置になった席に辿り着けば、挨拶もそこそこに指摘され。苦笑いで誤魔化した。‬

‪「そうか? 然し人気有るんやねえ、可愛いだけ有るわ」‬
‪「そんな事を仰って下さるのは白石様ぐらいですよ」‬
‪「ほんま、妬けるわあ」‬
‪「…思っても無い事を」‬

‪言葉に反し余裕を持って微笑む彼に溜息を吐く。何時しか彼は私に、睦言を囁く様になった。最初こそ戸惑ったものの、冗談だと気付いて以来は軽くあしらい続けている。‬

‪「嗚呼、そうそう。仕事が忙しゅうてな…暫く来れん様に成るんよ」‬
‪「其れは其れは…寂しくなりますわ」‬

‪口を衝いて出た言葉は決して嘘では無い。‬けれど胸の内で育ってゆく想いを認めたく無くて、押し殺した。

‪「浮気せんとってや」‬

‪悪戯っぽく片目を瞑る彼の姿に、再び苦笑が漏れた。‬最早私には貴方以外見えていないと云うのに。




‪数日後。白石様は宣言通りぱったりと来なくなってしまった。‬
‪同時に私も暇を貰い、束の間の休暇を楽しんでいた。其れまで働き詰めだった事もあり、休暇申請は簡単に通った。‬
‪休みも今日で三日目。昼前まで眠っていた私は漸く起き上がって薄く化粧をし、着物を纏って当て所無く街へ繰り出した。
‬ ‪取り敢えず繁華街を目指して歩けば、号外号外と叫ぶ‬声。釣られて振り向いてみれば。新聞社の名前が書かれた腕章を着けた男性が二人。配られていた新聞に集る人々を掻き分け、何とか一部手に入れる。
喧噪から離れ、記事に目を通そうとして。一面を飾る人物に——その見知った顔に、眉を上げた。


こんなものかと買い物袋を抱え直す。百貨店で化粧品やら何やらを購入し、さてこれから如何しようかなと頭を悩ませる。取り敢えず休憩しよう、と純喫茶に足を進めるが。

…っ」
「っ!?」

突然腕を掴まれ、路地に連れ込まれる。突き飛ばされ泥濘の中に尻餅を着いた。買い物袋の中身が飛び散る。

「な、にを」
「又彼の男の所か」
「誰なの…っ」

強かに腰を打った痛みがじわじわと這い登る。
泣き出したい気持ちを堪え、相手を睨み付ける。

「貴方、は」
「如何してだ…」

其処に居たのは、先日相手をした客だった。
昏い顔の中で目だけが狂気的な光を放って、それが此方に躙り寄って来て。

「如何して、は俺の物だろう」
「嫌だ、やめて」
「俺はこんなに好きなのに」

ゆらゆらと頼りなく、だが確実に距離を縮めて来るその男。着物の胸元から取り出したのは、刃物。

「ひ…っ」
「御前が悪いんだよ」

湿度の高い声が鼓膜にへばりつく。声が出ず悲鳴は喉元で留まった。
只々恐怖に震えることしか出来ない。逃げようにも身体がまるで動かなかった。

「なあ…愛してる、愛してるんだ」
「っ…!」

大きく振るわれた刃が頬を裂く。咄嗟に強く瞼を閉じた。
嗚呼、ここで死んでしまうのだろうか。
父を亡くした時だって、誰も助けて呉れやしなかった。それでも助けを求めてしまう。
ざり、と地面を踏み躙る音。何故だか脳裏に、白石様の御姿が過ぎった。

「——何しとんねん」

この場に似合わぬ涼やかな声が、して。真逆、と目を瞠る。
嗚呼、客の後ろに立つ、彼のひとは。

「御、御前は…!」
「俺のに何を巫山戯た事しとんねん、って聞いてるんやけど」

純白の軍服に身を包んだ白石様が。見た事の無い、鋭い目線で客を睨んで居た。
夢では無いのか。自分の脳が見せている幻影では無いのか、と疑う。だって、こんな都合の良い展開。有り得無いだろう。

「ひいっ」
「失せろ。今なら不問にしたる」

眉に皺を寄せ唸る様に彼が云えば、瞬く間にその客は逃げ去る。
這う這うの体で走ってゆく男を姿が見えなくなるまで見届け、彼は再び此方を向く。揺れる金の肩章や飾緒が眩しくて少し目を細めた。

「大丈夫か? あーあ、こんなに汚してもて…」
「如何して、此処に」

立とうとしたが腰が抜けた様で足に力が入らない。諦めて座り込んだまま疑問をぶつける。

「惚れとる女ぐらい助けられんと男が廃るからなあ」
「っ…答えに、なっておりません」

惚れていると云われ内心で動揺する。冗談だ。その筈だ。本気にしてはいけない、だけど。
その熱の篭った視線が嘘だとは思えなくて、思いたくなくて。
考えるのを放棄した私は、誤魔化すように話題を変えた。

「白石様…大将と云うのは、本当ですか」
「アララ。もう知ってるんや」

私が先程読んだ号外は「四天宝寺国軍、白石蔵ノ介少佐が大将に」と云う見出しのもの。載っていた写真は紛れも無く白石様で。

「前の大将に押し付けられてもうただけや」

何でも氷帝軍との演習の為此方に暫く滞在して居たが、会議中に大将…否、前大将が何を思ったか白石様に大将位を譲ると云い出したのだと。少佐から大将への昇進等前代未聞だと、初めは断ったが前大将が全く折れず。他の上官や同僚にも勧められ、仕方無く貰い受けたらしい。

「因みに前大将はな、良う店に来る茶髪で巻き髪の男おるやろ? その人やで」
「え、っ」

再び驚く。上官だと聞いていたがまさか、そんな。何でもうちの店主の子息が直属の部下だったとかで、付き合いはかなり長い様だ。
そんな背景が有ったとは露程も知らなかった。だから大将と云う地位の有る人があんな寂れたカフェーに来ていたのかと今更乍らに納得した。

「さてお嬢さん。此れから如何する? まだ続けるんか?」

何が、とは聞かなくても解る。仕事の事だろう。
正直こんな怖い思いをしてまだ続けたいとは到底思えなかった。
だけど。伝手も学も無い女が生きていくにはこれしか無い。どんなに嫌でも、身体と媚を売らねば生きてはゆけない。静かに頷いた。

「身請け。したろうか」

さらりと言い放たれた言葉。甘美な誘いでは有るけれど、従順に是を唱えられるほど純粋では無くて。もし裏切られたら、という恐怖に苛まれてしまう。臆病なのだ。如何しようもなく。
だから私は、無けなしの虚勢を張る。

「寝た事も無いのに私娼にすると?」
「素直やないなあ」

また無駄な抵抗だと嗤われるだろうか。それでもこれは私の意地だ。
一歩また一歩と彼が近付く。少し身を硬くした。

「其れにしても酷い格好やな、ちゃん」
「っ、ひ…」

傷ごと垂れた血を舐められ、背筋に電流が走る。
じわじわと熱を持つ頬。嫌悪感は無い。むしろ、もっと。

「其の儘帰す訳にもいかんし、待合で風呂でも入らん?」

明け透けな誘い。手を差し伸べられ、躊躇う。
この男の手を取っては危険だと、もう戻れなくなると。頭の中で警鐘が鳴り響いている。‬
‪だけど。‬心の臓が脈打ち、毛先まで震えが走った。
‪本能には、逆らえない。‬

‪「は、い——喜んで」‬

ぎこちない乍らも是と返せば、唇を吊り上げる白石様。汚れるのにも構わず抱き締められ、私はそっと目を閉じてその背中に腕を回した。


Written by ルイ
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