こちらにおいで


「なまえ、お前の嫁ぎ先が決まった」

 お父様が朝食の席でそう仰ったのは、暑い夏の日差しがようやく弱まって、空気に秋の匂いが混ざり始めたある日の事だった。脳がその言葉の意味を処理している間に、今度はお母様が「式は1週間後だから、それまでに退学の手続きをしに女学校へ伺いますからね」と茶碗を差し出す。碗には赤飯が盛られて居て、確かに残さず食べた記憶は有るのに味は一切覚えていなかった。

 朝食の膳を片付けた後、教科書と弁当を持って家を出る。いつもなら3つ先の十字路でお友達と待ち合わせをして学校に行くのだけれど、無性にひとりになりたくて、今日はひとつ手前の道で右に曲がった。人生初めてのサボタージュだった。

 道が分かれる度に行った事の無い方を選んで、気が付けば其処は見知らぬ場所で。両脇に延々と続く塀の白さが無性に私の胸を弾ませる。今頃皆真面目に授業を受けているのかしら。今日は月曜日だから、朝から詰まら無い歴史の話を聞かなければいけない筈だったわ。と思うと、漏れ出る笑いを抑えるのは到底無理のように思えた。

「おーい、其処の嬢ちゃん」

 不意に声が聞こえたのはそんな時だった。はっと我に返って辺りを見回す。一本道のずっと向こうまで人影は無く、背筋が凍らずにはいられなかった。幽霊が出るには些か早過ぎはしないだろうかと思いながら、風呂敷を胸に抱く力は強くなるばかり。

「此処、此処! 足元ば見なっせ!」

 私の怯えなんてお構い無しに其の声はもう一度放たれた。奇妙なお国訛りに恐る恐る従って視線を下ろしていくと、塀の下3分の1程に広い感覚を空けて格子窓が作られて居る。敷地内の中地下に繋がって居るようで、其のひとつから男の肩から上が見えて居るではないか。
 初めて見る風貌の人だった。自由奔放な方向へ伸びる髪は鳥の巣の様で、厳格な父や街で見かける殿方のしっかりと撫で付けた開花頭とは似ても似つかない。申し訳程度に差し込む日を受ける肌は褐色に焼けて軍人様の様にしっかりとして居るのに表情と瞳は緩く、何処を取ってもちぐはぐして居る。
 男は「漸く気付いたと?」をからから笑い、格子の向こうからこっちへおいでとでも云う様に手を振った。けれど私の脚は棒の様に動かない。だってあんなに暗い所に居るなんて、やっぱり幽霊かも知れ無いもの。
 男は私の態度なんて気にもしていない様だった。

「すまんが、水を持って居たら少し分けてくれんね? もう喉が渇いて仕方なか」

 其の言葉に嘘はない様で、眉尻を下げる彼の声は掠れていた。流石に少し良心が痛み、私は一歩踏み出して格子の中を覗き見る。男は大きな体躯が漸く収まるかと云う程小さな空間に胡座をかいて座っていた。お世辞にも綺麗とは云えないその場所は、どう考えても牢屋に他ならない。そう云えば、この辺りには警察の屯所が在るから昔から安全なのだと父上が仰っていた事を思い出す。
 そして、私は急に目の前の男が怖くなった。

「ああ! ちょっと、待ちなっせ!」

 男が引き止めるのも聞かず、私は其の場を走り去ったのだった。
 息が切れるまで走って、気が付けば私は人気の多い大通りに到着していた。立ち止まって、呼吸が落ち着くのを待つ。如何してあんな場所に行ってしまったのだろう。

「――其処のお嬢さん」

 肩を叩かれ、慌てて振り向く。今日は呼ばれてばかりだと思っていたら、今度の人は巡回をしていた警察の方だったので胸を撫で下ろした。

「どうかされたか?」
「……いいえ、なんでもありませんわ」

 この辺りは不慣れなもので、少し道に迷ってしまって。と笑顔を作って続けると、巡査は納得したようにひとつ頷く。けれど次の言葉で、私は其の笑顔を崩さざるを得なかった。

「しかし昼間とは云え娘さんがひとりで居るのも危ないだろう。良ければ目的地まで送ってあげましょう」

 それは、非常に困る。だって私は今サボタージュの途中で、目的の場所なんて無くて、寧ろ誰かに見付かったら大変な事になるのだ。

「本当に大丈夫ですから……あら、今あすこを通ったのはお母様ではなくって?」

 では、ごきげんよう。なんて普段は絶対に云わない挨拶をして、此れ以上何か云われる前に其の場を離れた。巡査から逃げる様に大通りを駆け抜け、物陰に隠れてから、どうしようかと考える。いっその事純喫茶でコーヒーでも飲みたいけれど、あすこに女ひとりで行く勇気は流石に無い。ああ、考えて居たら喉が乾いて来たわ……。
 私は弁当の入った風呂敷から竹筒の水筒を取り出し一口飲んだ。コーヒーの美味しさなんて実はよく分からなくて、本当はこうして水筒から飲むお水が一番美味しい。

〝「すまんが、水を持って居たら少し分けてくれんね?」〟

 突然、脳裏の先刻の出来事が過った。そう云えば喉を乾いて居るのは私だけではなかった。寧ろあの人の方がもう何日も飲み物を口にして居ないのかも知れない。
 少しだけまた考えて、私の足は来た道を戻って居た。一度あの人の事を思い出したら、今度は気になって仕方なくなってしまったのだ。牢屋に入れられているのだから悪い人には違いないのだけれど、間の抜けた顔をしていたし、案外飲み過ぎて喧嘩したとか大した事の無い理由かも知れない。

 大通りまでめちゃくちゃに走ったはずなのに、案外身体は順路を覚え居た様で。格子窓の前にはあっという間に着いてしまった。半分地中に埋まった格子窓からは変わらず男の肩から上しか見えない。
 再び私を見るなんて思っていなかったのか、男は目を丸く見開いていた。彼の前に水筒を置くと、細身の竹とは云え牢屋の中に水筒を入れられる筈も無く、それでも彼はなんとか指先を外に伸ばして器用に水を飲んでいく。最後に気持ちの良い息を吐くと、此れでもかと云う程の大きな笑顔を浮かべた。

「たいぎゃ助かったばい、お嬢ちゃん。だんだん」

 奇妙なお国訛りはやっぱり何を云っているか半分も聞き取れなかった。けれど先刻とは違って、力強い声は耳に心地良い。なんて思って、それから急に如何しようも無く居心地の悪い思いが心臓の辺りをざわざわとさせた。どうしたら良いのか分からなくて、私は再びその場を走り去ってしまう。
……あんな風に笑う殿方なんて、初めて見た。




 昨日は結局、あの場所からまっすぐ家まで走ってしまった。幸いお父様は既に仕事に向かった後でお母様も何処かへ出掛けていたから、学校に行かなかった事は気付かれずに済んだ。
 そしてお母様に呼び止められたのは今朝の事。

「あら、なまえ、貴女の水筒が見当たりませんよ」

 其処でやっと、私は昨日あの場所に水筒を置いたまま逃げ去ってしまったのだと思い出したのだ。学校に忘れてしまったと苦し紛れの云い訳をして、今日は忘れないように咎められて家を出て、女学校からの帰り道。
 私は再びあの格子窓の前に立って居た。窓の前には水筒が昨日と同じ格好で置かれていたので、さっと取り上げて風呂敷の中に入れる。恐る恐る牢屋の中を覗き込むと男は寝ているのか大きな体を窮屈そうに折り曲げて横たわって居た。此方に向いた顔は半分ほど着物の袖に隠れているけれど、それでもよく通った鼻筋は無視できない。寝顔はまるで河原で日向ぼっこでもして居るかの様に穏やかで、私は目を奪われる。

「……また会うたね、嬢ちゃん」
「っ!?」

 彼の口が開いたのは本当に急な事だった。飛び上がる程驚いて、咄嗟に逃げなければいけないと思う。けれど身体は上手く心に着いて来ず、足が縺れ私は尻餅を着いてしまった。

「きゃっ!」
「嬢ちゃん、たいぎゃなか!?……痛っ!」

 格子窓の向こうで彼が動いたと思ったら続けて鈍い音がした。どうやら窮屈な牢屋の中で勢い良く動いた所為でぶつけたようで、頻りに頭を擦っている。先程の寝顔と良い今の態度と良い、彼の全てがミスマッチで、気が付けば私は笑い声を上げて居た。

「嬢ちゃん……?」

 目線がぶつかる。尻餅を着いた侭だと云う事を思い出して、急に恥ずかしくなった。如何やって取り繕うか考えている内に、よく分からない事を口走って仕舞う。

「じょ、嬢ちゃんではありませんわ」
「ほう、嬢ちゃんではなく坊ちゃんだったと? そりゃあすまんかったばい」
「そう云う意味では無く!」

 私にはみょうじなまえと云う名前が有ると云う事です。
 そう続けると、彼は切れ長の目を眩しそうに細めて微笑む。まただ。また笑った。今まで私が会った殿方は皆お父様のように厳格で笑わない方ばかりだったから、殿方が笑う所を見ると少し変な気持ちになって仕舞う。

……むぞらしか名前たい」

 柔らかな声で続けられれば、余計に訳が分からなくなってしまって。私の脳みそは彼が千歳千里と名乗るのを聞くので精一杯だった。
 さっきまで逃げる事しか考えてしなかったのに、なんだか今はまだ此処から離れたくない。

「……千歳さんは、如何してこんな所に入れられていらっしゃるの?」
「俺は隣国の諜報員だけん。此の国の機密を盗んだばってん、ヘマして捕まったと」

 ゆるゆるとした口調とは裏腹に、千歳さんから聞かされた言葉は物騒なものに他ならなかった。滅多な事では聞かない単語に固まっていると、彼は我慢できないとでも云いたげに吹き出す。

「冗談冗談! 田舎から出て来たばかりで、腹が減って店の団子盗んでしまったけん反省させられとるだけばい」

 今度の理由は想像に難く無い物だったので、やっぱり大した事なかったのかと安堵する。お団子泥棒だなんて格好がつかないと揶揄うと、千歳さんは左手を綿の様な其の髪に突っ込んで「云い返す事もできなか」と笑った。




 次の日、私はいつもより早く起きて台所に立っていた。お母様から「学校でちゃんと教えて頂いているとは思うけれど、お前さんが真面目に学んでいるか確かめなくてはなりませんからね」と云われ、急遽朝食と自分の弁当を用意する事になったのだ。

 台所の食材を使って自由に作って良いと云われているので、先ずは冷蔵庫を開けて中を確認する。幾つかの包みの内一番近い物を取り出して開いてみると、赤々として美味しそうなお肉が顔をのぞかせた。
 ご飯は炊いている途中だし、このお肉を使って煮物でも作っている間に味噌汁でもこさえれば、あとは常備菜で十分だろう。お弁当もおにぎりだけ握っておかずは同じ物で良いわよね。なんて思いながら、私は料理に取り掛かった。

 煮物が完成したところでご飯も丁度炊けて、お櫃に入れて朝食はこれでお終い。最後にお弁当を詰めたら、丁度良い時間に全て終わらせる事が出来た。我ながら段取りが良いと自画自賛しつつ、やり残した事が無いか確認していると、ふと竹筒の水筒が目に入る。そして引き摺られるようにして、鳥の巣の様な黒髪を思い出した。
……お腹、空いて居ないかしら。
 水さえも与えられない環境に居るのだから、食べ物なんて以ての外かも知れない。
 そんな事を考えていると居ても立っても居られず、私はもう一度お櫃の蓋を開けて、自分の物より少し大きめのおにぎりを用意していた。

*****

「……なんだ、この煮物の味は」

 朝食を一口食べるなり、お父様はいつもより更に眉間に皺を寄せて口を開く。お母様も一口食べて慌てて台所に向かってしまった。予期せぬ出来事に戸惑いつつ私も箸を取る。学校で習った通りの味付けをした筈なのに、煮物は変に淡白で、なのに獣臭い仕上がりになって居た。

「やっぱり……なまえったら刺身用に頂いた桜肉を使ってますよ!」

 お母様は冷蔵庫の中を確認して居たらしい。普段は感情を表には出さないお父様も珍しく深い溜息を吐いた。
 如何にもならない失敗に私は何も云えず、隠れる様に味噌汁を一口啜るしかなかったのだった。

*****

「火を通した桜肉は時間が経つともっと獣臭くなりますからね」

 なんて家を出る直前お母様に釘を刺されてしまっては、学校に行きたくもなくなるというもので。
 私は再び、女学校をサボタージュして千歳さんの元を訪れて居た。

「なまえ、おまんさんまた来たと?」

 千歳さんは呑気に歌って居た鼻歌を止め、呆れる様に私に問いかける。私は曖昧な笑顔で其れを受け流した。本当は学校帰りにさっと寄って、おにぎりだけを渡して帰ろうと思っていたのだけれど。
 お昼休みにお友達に揶揄われると分かってまで女学校に行きたくは無い。前は体調が優れない限り休むだなんて考えた事も無かったのに、私はサボタージュの癖がすっかりついてしまったみたいだった。

「あの、千歳さん」
「なんね?」

 声をかけたは良いけれど、次に繋げる言葉が見付からなかった。今になって、余計な事をしているのではないかと冷静になって来たのだ。もしかしたらあの日はたまたま喉が乾いて居ただけで、本当は毎日ちゃんと食べて居るのかも知れない。それに、ただのお団子泥棒とは云え千歳さんは投獄されている身だ。こうして軽率に交流している事が警察やお父様に知られてしまったら、大変な事になるのは目に見えて居る。
 色々な考えが頭の中で渦巻いて居ると、不意に千歳さんが何かに気付いたような顔をした。そしてくんくんと鼻を格子窓の外に出す。

「……なんか、其の風呂敷から良か匂いがするたい」

 千歳さんが指差したのは紛れも無く弁当が入っている方の風呂敷で。匂うと云われて一瞬肝を冷やしたけれど思い切って包みを開く。千歳さんの瞳がなんだかとても輝いていて、開けない訳にはいかないような気持ちになったのだ。

「お腹空いてるんじゃないかと思って、作ってきましたの」
「助かった! もう3日も何も食っとらんばい」

 格子の隙間からおにぎりを差し出すと千歳さんは顔を明るくして受け取ってくれた。その様子に安心するも、今度はおにぎりの匂いを嗅ぎ始めた千歳さんの姿に緊張が走る。流石に其れは失敗しようが無いと思うけれど……今朝の事もあったし、余計に不安だった。

「確かにおにぎりは嬉しか……ばってん、俺が嗅いだ良か匂いは此れや無かね」

 もっと精の付く様な、と続けられ、私は今度こそ白状する思いで弁当箱を手に取った。

「こっち、かしら?」

 蓋を開ける。お母様の云った通り、噎せ返る様な獣の匂いが鼻を直撃した。

「おお、そりゃあ桜肉ばいね!?」
「ええ、でも普通の煮物を作ろうとして、間違えて入れてしまって」
「馬は俺の大好物ばい! 刺身にするのが一番だばってん、火を通しても良か。少し貰っても良かと?」
「え、ええ……どうぞ」

 箸を差し出して格子越しでも掴める位置におかずを持って行く。煮物がその形の良い唇に消えて行く姿を、私は審判を待つような気持ちで見つめていた。

「うん、うまか!」

 故郷の味がするたい、と満面の気色で箸を動かす姿を見ると、暖かい気持ちが胸の辺りから喉に向かって迫り上がって来る様だった。




 次の日の朝食と弁当は失敗する事も無く、登校ついでに再び千歳さんへおにぎりを渡す事も出来た私は朝から上機嫌だった。穏やかな夏の風にそよぐ向日葵のような笑顔で「だんだん」とおにぎりを受け取る千歳さんの姿がまぶたに焼き付いて離れない。だんだんと云うのは彼のお国の言葉で〝ありがとう〟と云う意味らしく、声に出して見ると心が踊る不思議な響きがあった。

「……ねえ、やっぱりそうよね?」
「そうね、私もそう思うわ」

 そして昼休み、私は普段から仲良くしているお友達ふたりに挟まれていた。何の事を話して居るのかいまいち要領を得ないまま、けれど会話の種が私であると云う事だけはその視線からはっきりと感じ取れる。戸惑いと怪訝を声に込めてなんだ聞くと、好奇心でいっぱいの返答が返ってきた。

「なまえ、何かあったの? 最近待ち合わせ場所に来ないし」
「それになんだか今日はとても御機嫌だわ」

 ふたりの声色には明らかに冷やかしの感情が込められていて、私は此の声に聞き覚えがあった。左の子が純喫茶によく現れる書生さんに恋をした時に、私も似たような声で彼女を揶揄って居たのだから。
 咄嗟に千歳さんの顔が浮かぶ。そして〝そんな事〟は有り得ないと自身に云い聞かせるように大きく頭を振った。

「な、何もないわよ!」
「本当かしら?」
「ねー?」
「本当よお!」

 そろそろどうにか突破口を考えないと、あれよあれよと云う間に千歳さんの事を聞き出されて仕舞うだろう。女同士の友情と云うものは秘密に滅法弱く、色恋話に敏感だ。
 必死で別の話題を探して居ると、教室に先生がやって来て私の名前を呼んだ。これ以上ない程の好機に此れ幸いとお友達の包囲を抜けて先生の元へ向かう。

「みょうじさん、先程お母様がいらして退学の手続きをされて行きました。御結婚おめでとうございます」

 にこにこと喜色と誇らしさを浮かべて先生は微笑む。虚を衝かれた気分になって、すぐに無理やり自分を取り返した。ありがとうございます、今までお世話に成りました。と返すと、先生は一層誇らしそうな顔をして教室を出て行く。

「なるほどね。これはご機嫌にもなるわね」
「寂しくなるわ……でも、なまえの王子様が見つかったって事ですものね!」

 そして何時の間にか忍び寄って来ていたお友達にまた両側を挟まれた。左側から聞こえてきた「王子様」と云う寓話めいた単語に首を傾げると、彼女は大げさに私の両手を取って夢見るような瞳で続ける。

「だって、結婚するのでしょう? 御両親がなまえの為に見つけてくだすった殿方なんだから、それはなまえの王子様じゃない!」

 この子は純喫茶で見付けた書生さんにそっぽを向かれてから、もう恋愛等にうつつを抜かさず親の決めた相手を運命の相手だと思う事にした、といつか云って居たのを思い出す。それを抜きにしても王子様だなんて少し大袈裟過ぎやしないかと苦笑して仕舞うけれど、そんな考えも悪くないと思える自分が居るのも事実だった。

「そう……そうよね!」

 結婚と云う物は、お父様のように厳格で立派な殿方の側でお母様のように直向きに尽くす事だと思って居たから、少し不安だったけれど。
 千歳さんみたいな朗らかな殿方も居るんだもの。まだお会いして無いけれど、其の人だってとても素敵な、よく笑う人であっても可笑しくは無い。だからずきりずきりと胸が軋むのはきっと、ただ昼食を食べ過ぎた所為。
 ただ、それだけなのだ。




 お母様が退学の手続きをされたとなっては女学校に通う必要も無くなる。だから今日はいつもより思い切りお寝坊をして……と思って居たのだけれど、実際はそう云う訳にもいかなかった。
 今日は私の夫となる方の家に挨拶と明後日に迫った結婚式の打ち合わせをしに伺うと云う事で、土産におはぎを作っていたから。

「……そうね、この出来なら問題ないでしょう」

 お母様が出来立てをひとつ口にして、何処か満足げな表情で二三度頷く。二度寝して居たところを起こされて、朝一番にほんの少しだけ失敗をして今は二度目の挑戦だったから、私もほっと胸を撫で下ろした。
 出来上がったおはぎを我が家で一番高価なお重箱に詰め、風呂敷で包む。挨拶にはお昼過ぎに行くと云う約束らしいので、私とお母様は簡単な昼食に取り掛かった。

*****

 私が嫁ぐ殿方は、お父様が仕事で世話になって居る貿易商の跡取り息子だそうだ。お母様に連れられバスを乗り継いで都の端まで来た私は、西洋風のお屋敷の大きさに開いた口が塞がらなかった。お手伝いさんに案内されて居間で座って待って居ると、どうしても肩身の狭さで縮こまってしまう。私の家はひいお爺様の時代から住んでいる古い平屋なので、こう云った西洋のお屋敷では如何過ごしたら良いのか分からない。結婚さえすれば、いつか慣れる日が来るのだろうか。

「お待たせして仕舞いましたわね」

 お手伝いさんに淹れて頂いた紅茶の渋さに耐えて居ると居間の扉が開き、西洋風のドレスを来たご婦人と、その後ろを付いて来る様にしてスーツの殿方が入って来た。お母様が立ち上がったので私も倣う。ご婦人は明るく挨拶をしてからお母様とおしゃべりを初めたので、私は遠慮がちに殿方を見上げた。私よりも10くらい年上かしら。お父様のような厳かな表情でも、千歳さんのように春の日差しを思わせる穏やかな表情でもなく、能面のような無表情さは私を不安にさせる。
 暫く黙った侭やり過ごして居ると、ご婦人は漸く席に座る様に促してくれた。

「貴女がなまえさんね」
「初めまして、娘のなまえです」
「こんなに可愛らしい方がお嫁に来てくれるなら息子も幸せね!」

 手放しに褒められて悪い気はしない。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします。と練習してきた言葉を云い終えない内にお母様が「あれをお渡ししなさい」と小声で私に囁いたので、風呂敷を開いて重箱を取り出した。

「詰まらない物ですが、良かったらお召し上がりください」
「あらあ! そんな気を遣わなくて良かったのに!」

 早速頂きましょうか、とご婦人が傍で控えていたお手伝いさんを呼ぶ。けれどお手伝いさんが来る前に、婚約者の彼がお重箱を掴んで蓋を開け、能面のような顔を酷く顰めた。

「……僕はおはぎが嫌いだ。幼い頃から日本のあんこはどうも好きになれない」
「あらあら……ごめんねさいね。うちの子ったら昔から良い物ばかり与えていた所為か、舌が肥えてしまって」

 いきなりの事で私もお母様も戸惑ったけれど、ご婦人はにこにこと笑った侭だ。咄嗟に何か云わなくてはと思った。

「えっと……では何かお好きな物はありますか? 私、覚えたいです」
「肉も駄目だな。特に牛と馬が嫌いだ。僕は野菜と魚しか食べないようにしている」
「なまえさんにはこれからしっかり我が家の味を教えて差し上げますからね」

 間髪入れずに返って来た遠慮のない言葉と、それでもまだにこにこと笑っているご婦人の笑顔がとても不気味に思えて。
 それから彼が好きだと云う長ったらしい名前の南蛮菓子を頂いたけれど、あまり味が思い出せなかった。




 結婚式と云うものは、親戚を呼んでご挨拶と宴会をする程度だと思って居た。けれど向こうは商家さんだからか取引先なども呼んで盛大な式を上げたいそうで、お母様とご婦人の打ち合わせは長い間続き、その間私は未来の旦那様とあまり話も弾まない侭、永遠にも似た時間を過ごさなければならなかった。
 だからだろうか。
 独身最後の夜に急に悪い事がしたくなって、私は夜明け前に家を抜け出してふらふらと散歩に耽って居た。
 そして……気が付いたらまた、あの格子窓の前に立って居たのだ。

「早起きたいね」
「……千歳さんこそ」

 寝顔が見られるだろうかと思って居たのに、意外にも千歳さんは起きており、こんな時間に私が訪れた事に驚く様子も見られなかった。まるで私が来る事を分かっていたみたいだなんて、有る筈の無い事を考えては息が詰まる。
 今日は出来るだけ長く此処に居たい。そんな意味を込めて、私は格子窓の端に凭れ掛かるようにして座り込んだ。

「私ね、明後日……ああ、もう明日ね。明日、結婚するの。15も年上の人なのよ」
「そぎゃん珍しか事じゃなかけん、おめでとさん」
「そう、よね……」

 千歳さんの流れ雲の様な微笑みは、初めて会ったあの日から少しも変わらない。またひとつ、心臓の血管がきゅうと締まって息が出来なくなった。千歳さんは不思議な人だ。こんなに近くに居るのに遠くて、檻の中に居ても何処かへ行って仕舞いそうな空気を纏っている。きっと風が何処にでも吹いていけるように、此処から出さえすれば誰も彼を引き止める事なんて出来ないのだろう。勝手な事だけれど、取り残された様な気分になって少し切ない。
 何も云う事が浮かばない侭黙って居ると、不意に格子の中から地を這うような音が聞こえた。目を丸くして千歳さんを見る。向こうも一瞬放心した顔を見せ、それから眉尻を下げて苦笑した。どうやら其の音は、千歳さんのお腹から響いて来た様だ。

「……腹、減ったばい」

 先ほどまでの浮世離れした風格とは打って変わり、俗世的な姿に私の沈んだ気持ちは簡単に何処かへ行ってしまう。私は思わず短い笑いを漏らしてから、持って来た弁当箱を取り出した。

「おはぎ、良かったらいかが?」

 千歳さんが頷いたので、おはぎをひとつ取り出して格子の穴に手を差し入れ彼の大きな掌に乗せる。私の体格でやっと手首まで差し込めるような大きさの穴しか開いていないその格子窓は、確実に私と千歳さんの世界を隔てて居た。指で触れた千歳さんの皮膚は固く、夜を追い立てる太陽の柔らかい光の下でも私よりずっと日に焼けている事は伺える。一寸にも満たない小さな範囲での触れ合いなのにこのまま離れたくなくて、でもそれを悟られなくもなくて、後ろ髪を引かれながらも格子から手を引っ込めた。
 千歳さんは二口であっという間におはぎを食べてから、うまかね、と笑う。

「なまえは煮物も上手に作るけん、こぎゃんうまかもんが食べられるその男は幸せ者たい」

 吃驚する程優しい声が逆に私の心を蝕んだ。叫び出してしまう衝動を抑えて、私は膝を抱え込む。

「嫌いなんだって。あんこもお肉も嫌いで、魚しか食べないんだって」
「そんなに好き嫌いするとは、贅沢な奴たいね」

 私の様子を悟って慰めようとしているのか、千歳さんは芝居がかった様子で肩をすくめた。

「おまんさんはこぎゃん汚か場所に居る俺にも優しくしてくれる良か娘たい。心配せんでも、幸せになるに決まっちょるよ」
「……でもそこに千歳さんは居ないもの」

 我知らず出て来た言葉に頭を殴られたようだった。今更自身の口を押さえてももう遅く、千歳さんが息を飲むのが聞こえる。

「今、なんて」
「な、なんでも無いのよ!」

 急いで立ち上がり、着物についた土を払った。なるべく千歳さんの方を見ないようにしながら私は取り繕う言葉を必死で紡ぐ。

「此処に来るのは今日でお終いって事! だからまた会う事なんて無いだろうけど、もうお団子盗んじゃ駄目ですよ?」

 そして返事も聞かず一目散に駆け出す。千歳さんに名前を呼ばれ気がして後ろ髪を引かれたけれど、無理矢理足を動かし続けた。夜が明けて朝が来る前に、家に、私の居場所に帰らなければいけない。

 別に結婚が嫌と云う訳ではないのだ。巷では恋愛結婚なんてものが流行りだそうだけど、そんな物は夢や幻想でしかない事は分かって居る。それに女学校を卒業する前に結婚が決まると云うのは、寧ろ女にとって誉れであるという事も理解している。
 それでも……いつか誰かと家庭をもって子供を産む自分を想像した時、隣にいる人は千歳さんであって欲しいと願う自分を、もう無視できそうにもなかった。




 明け方に布団に潜り込んでもなかなか寝付けなかったから、昨日は随分と寝坊をしてしまった。最後の1日は驚くほど穏やかに過ぎていき、お父様もお母様もいつもより優しくて、あの家でもう過ごす事は無いのだと云う事実が余計に切なく降り注ぐ。
 そして今、私は真っ白な西洋のドレスを着て、嫁ぐお屋敷の一室に控えていた。

「まあ、綺麗に着せてもらって……っ!」

 別室から呼ばれたお母様は私の姿を見るなり涙ぐむ。こうして喜ぶ顔が見られるのなら、窮屈な衣裳を着るのも悪くないのかも知れない。お母様はその後お客様方のお持て成しが有るからと云って直ぐに出て行き、準備をして呉れたお手伝いさんも居なくなって、私は部屋にひとり取り残された。

 いつも来ている着物とは違って此の衣裳は随分と布が多く、四方に広がって居る。髪だっていつもと違う様に結われて、なんだか自分が自分じゃないみたい。
 やっとの事で布を巻き込まず椅子に座ると、式が始まってもいないのにどっと疲れてため息を吐いてしまった。

 扉が二、三度軽く叩かれたのはその時だ。
 ようやく座れたのに、と文句を云いつつ扉の前まで来て取っ手を掴む。後は捻れば開くと云うところで外にいる誰かに先を越され、よろめいた拍子に口を押さえつけられた。突然の恐怖に動けないで居ると手の主―― 白い軍服を着た背の高い男が部屋の中に入って来る。我に返り暴れようとしたら、男が人差し指を立てて「しーっ」と小さな声を出した。男が屈んで、私と目線を合わせる。彼の正体を見た途端、私は全身の血流が逆行するのではないかと云う程の喜びと興奮に包まれた。男が私の口を自由にしても、呼吸すら忘れてしまって声を出す事が出来ない。
 そんな、だって、彼が此処に、こんな所に居る筈がないのに。

「ち、とせ、さん……どうして、此処に……」
「俺は何ね?」
「何って……お団子泥棒?」

 千歳さんは「団子は置いといて」と苦笑したかと思うと、急にまた真剣な表情を作る。服装の所為だろうか、格子越しに見た彼とは似ても似つかない姿はまるで……まるで王子様のようで。

「盗人がする事はひとつたい。なまえ、おまんを盗みに来た。一緒に来てくれると?」
「……嫌」

 泣いて仕舞いそうになるのを必死に堪えながら千歳さんを困らせる。私ばかりが振り回されているような気がしたから、せめてもの仕返しだった。千歳さんの身体が困惑で強張るのが分かる。少し可哀想になって、私は続けた。

「私の事を好いて呉れる殿方じゃないと、嫌です」

 千歳さんはそんな事云われるとは予想だにもして居なかった、とでも云いたげに目を見開き、それから安心したように眉尻を下げる。そして其の長い腕を広げたかと思うと、私は彼の大きな身体にすっぽりと包まれていた。

「そぎゃんむぞらしか事云われるとは、一本取られたばい」

 お友達やお母様以外に抱き締められるのは初めての事で、両手に触れる硬い胸板が女の身体とは違うのだと云う事を此れでもかと云う程私に伝える。腕が少し緩められたと思ったら今度は千歳さんの髪が私の頬をくすぐって行き、耳元で囁く様な声が聞こえた。

「好いとうよ。なまえの一生を俺に盗ませてくれんね?」

 その言葉に、私は頷く以外の術を持っていなかった。
 吸い込まれるような黒い瞳をずっと見つめて居たかったけれど、時間という物は無情にも過ぎていく。
 再び扉が軽く叩かれ、今度は私の呼びかけを待たずに扉が開いた。

「失礼します、若奥様。式の準備が……貴方誰ですか!?」

 お手伝いさんは千歳さんを見るなり叫び、廊下に向かって人を呼び始めた。すぐに幾つもの足音が此方に向かって来る。如何したら良いのかと焦っていると、千歳さんは私を軽々と抱き上げた。

「俺に掴まりなっせ!」

 云われた通り首元に縋り付く。千歳さんは長い足であっという間に部屋の端に辿り着き、窓を開けて、一度庭を見渡してから迷わず飛び降りた。此の部屋は2階にあった筈で、内臓が浮き上がる感覚に思わず叫び声を上げて仕舞う。其れなのに千歳さんは私を抱えた侭いとも容易く着地し、丁度良く目の前に現れた車に乗り込んだ。
 何事かと周りが騒ぎ立てる中、車は片輪が上がる程乱暴な運転で走り出す。

「っとと……謙也、もう少し無駄のない運転をしいや」
「スピードスターと云われとる俺の運転は、こんなモンやあらへんでえ!」

 運転席と助手席にはそれぞれ殿方が座って居た。聞き慣れないお国訛りは千歳さんの其れとも違う物で、けれども隣国の訛りだと云う事は知識として知って居る。

〝「俺は隣国の諜報員だけん。此の国の機密を盗んだばってん、ヘマして捕まったと」〟

 ふとあの日、千歳さんが言った言葉を思い出した。まさかあれが冗談ではなかっただなんて。
 後部座席には千歳さんと私ともうひとり、先程から私の事を穴が開くのではないかと云う程見つめる赤毛の方が座っている。恐る恐る目を合わせると、彼は大きな瞳をくりくりとさせて首を傾げた。

「ねーちゃんが、千歳の〝死んでも一緒になりたい奴〟なんか?」
「あー、金ちゃん、それは云わん約束たい……」

 逆隣から千歳さんが弱り切った声を上げる。金ちゃんと呼ばれた赤毛の彼の言葉を理解する頃、私は耳が燃えるように熱くなるのを感じた。ちらり、と横目で千歳さんを見上げると、向こうも手で隠しては居るけれど軍服から見える首筋が褐色の肌でも分かるほど上気して居る。

「あ、あの、今の本当?」
「本当やで! どーーーーしても連れてく云うて、さっきまで白石と喧嘩しててん!」
「ああもう、金ちゃんは黙っとり! やないと毒手やで!」
「ど、毒手は嫌や! ワイ、黙っとる」

 見かねた助手席の彼が包帯の巻かれた腕を金ちゃんに見せると、彼は酷く怯えて口を噤んだ。辺りは気恥ずかしくなる程の静寂が訪れる。

「……と、云う訳ばい」

 それを破ったのは千歳さんだった。

「俺には彼奴みたいな大きな屋敷も無か。諜報員ちゅうんも本当の事な上に、こん国では脱獄犯やけん国境ば越ゆる前に酷か目に遭うかもしれん」

 逃げるなら今の内ばってん、どうする?
 そう続ける千歳さんはなんだか少し寂しそうで、いじらしくて。

「嫌だと云っても、もう離れませんから……!」

 今度は私の方から彼の腕の中に飛び込まずには居られなかった。







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