Once upon a time in Summer...


 それはエルサとなまえの結婚式を控えた、夏の終わりの出来事――

 カーテンの隙間から差し込む光を感じて、エルサは自然と目を覚ました。ベッドから抜け出し、顔を洗って身支度を整える。はやる心に急かされるように、彼女は自室の扉を開けた。

 向かった先は中庭の東屋だ。

 なまえの国へ赴き、彼の身柄を正式に譲り受けてから今日で1週間……その間、2人は以前と変わらぬ生活をしていた。朝起きたら中庭に向かい、朝食の時間まで話をする。その後エルサが女王の仕事をこなしている間、なまえはアレンデールの城下町を回ったり、城の図書室で本を読んだりしていた。変わったと言えば2人の間に流れる空気くらいか。

 例えばベンチに並んで座り、ふと腕が触れ合った時、
 例えば、午後に図書室まで向かい、彼の肩を叩いて「休憩にしましょう」と言う時、

 触れたところからじわりじわりと熱が広がって、エルサの胸の奥をどうしようもなく甘く締め付けるのだ。そしてその感情がなまえにも感染するのが見て取れて、熱を持った彼の瞳がエルサの胸を更に高鳴らせる。こんな日々がずっと続くのだと思うと今すぐ逃げ出したい気持ちにすらなって、でもそんないたたまれなさも含めて堪らなく嬉しい。

 エルサが中庭に着くとなまえの影はどこにもなかった。けれど彼女は慌てる素振りも見せず、ベンチに座って息をつく。彼が初めてここを訪れた時とは違って、今ではエルサが先に到着する事の方が多かった。向こうが初めて遅刻した時は随分心配してしまったのだけれど、その理由を聞けば凝視しないと分からないくらいの苦笑をして、

「……夜眠れるようになったら、朝起きれなくなった」

と呟いたのだ。6日前の事である。あの時の彼を思い出すと自然と頬が緩んだ。けれど誰かに見られてやしないかと不安になって、すぐに表情を正す。

……それにしても、遅いわ。
 ふと街の時計塔を確認すると、エルサがここに到着してから随分時間が経っていた。いつもならとっくになまえはここにいて、昨日はどんな本を読んだのかや、今日は何をするつもりか等を話してくれているはずなのに。

 何か用事でもあったのかしら、と落胆をしつつ彼女が朝食を採りに戻ると、そこにもなまえは現れなかった。気がかりになって、エルサは仕事を始める前に客室に続く道へ進む。秋に控えた結婚式を挙げるまで、彼の部屋は以前と同じ2階の奥の部屋だ。
 扉を3回ノックする。返事はない。もう一度試してから彼の名前を呼んでも、奥からは何も聞こえなかった。

「出かけているのかしら?」

 自分に何も言わずに行ってしまうとは珍しいと思いながら、エルサはドアノブに手をかける。悪いと思いつつもドアノブをひねり、中を覗いた。するとベッドの上は未だこんもりと盛り上がっているではないか。どうやらただ寝過ごしただけのようだ。こうしてだんだんと隙を見せてくれる姿が可愛いと思いながら、エルサはそっと部屋に足を踏み入れた。きっと今起こさないと、後で「1日を無駄にしてしまった」と後悔させてしまうだろうから。

 名前を呼ぶ。反応がなかったので顔を覗き込むと、少し様子がおかしかった。

「なまえ……!?」

 彼は起きていた。けれどその瞳には覇気がなく、薄く開けられた唇からは荒い呼吸が繰り返されている。額には硬めの黒い前髪が、汗で貼り付いていた。思わず頬に触れると驚くほど熱い。

「……エルサ?」

 もう朝か、と続ける声は必要以上にかすれている。なのに起き上がろうとするので、問答無用でベッドに押し戻した。

「凄い熱……風邪を引いたのね」
「……そうか。道理で身体がだるいと思った」

 他人事のように呟く彼に少し呆れてしまう。自分自身に対してこうも無頓着なのはいかがなものかと思ったけれど、今日は小言はなしにした方が良いだろう。安静にしているようにとだけ告げて、エルサはなまえの部屋を出た。知らない国で一時過ごして、その後自国でも色々あったのだ。緊張の糸が解けて体調を崩してもおかしくない。大事になる前に気が付いて良かった、とエルサは息を吐く。そして彼の為に出来る事はないかと、気が付けばアイデアを巡らせていたのだった。

*****

 その日、アナが城に戻るとキッチンからとても良い匂いがした。どこか懐かしくて優しいそれは小さい頃に嗅いだ気のするものだ。今夜のおかずを作るにしては早すぎる時間だし……と不思議に思っていると、足は勝手にキッチンに向かっていた。自分の事ながら呆れてしまう。

「仕方ないわよね、美味しい物は誰だって好きだもの」

 なんて自分に言い聞かせながらキッチンの扉を開けると、まずは厨房を取り仕切る恰幅の良い女中がテーブルで紅茶を飲んでいるのが見えた。彼女が料理しているのではないのか。予想が外れて、アナは少し困惑する。次に料理番の彼女が注ぐやけに微笑ましげな視線を辿ってみたら、釜の前で料理をしているのはなんと自身の姉だったのだ。思わず目を丸くしていると、料理番の彼女と目が合った。すぐに挨拶をしようとする彼女を見て反射的に人差し指を口に当てる。そして音も立てずにエルサへ近付いた。肩越しに姉が向き合っているモノを覗き見る。するとそこには寸胴鍋があり、彼女はスープを作っているようだった。

「姉さんが料理だなんて珍しいわね!」
「っっ!……アナ…………驚かさないでよ」

 意外すぎて、言葉が勝手に飛び出していた。耳元で喚かれたエルサは屈みぎみだった背筋を伸ばし、目をまんまるにしてアナを凝視する。そして妹を非難するよう小さく呟いてから目線を鍋に戻した。

「ごめんなさい、びっくりしちゃったものだから。……で、何を作ってるの?」
「胃に優しいスープをなまえに」
「彼がどうかした?」
「風邪を引いてしまったみたいなの」

 そこまで聞いてアナは思い出す。どこか懐かしい香りだと思っていたこのスープは、幼い頃風邪を引いた時に母が作ってくれたものだったと。女王であるにも関わらず母は厨房に立つ事が好きな人だった。母の作った特製のスープと白パンが胃に優しく溜まり、次の日には元気になったのを覚えている。

「エルサったら、いつの間に母さんのスープを作れるようになったのよ!?」
「急いでレシピを探したのよ」

 それにしたって大したものだ。自分は一度も料理をした事がないし、エルサだってそうだろうに。つくづく自分の姉は完璧なのだとアナは感嘆の溜め息を吐いたが、その事を伝えると彼女は気まずそうに少し黙って、

「……実は既に1回、材料をだめにしたわ」

と頬を染めて言ったのだった。よく見れば右手には絆創膏が1つ付いている。そこまでして慣れない料理をするのも、ひとえに彼への愛があるからか。アナは思わず上がってしまう口角を抑えられなかった。

「夏の初めにはエルサが風邪を引いていたわね」
「そういえばそうだったわね」
「あの時はスノーギース達が出て大変だったわ。……そうだ! なまえはどうなの?」

 つい数ヶ月前の事を思い出して苦笑したと思えば、急に顔を明るくしてアナはエルサに詰め寄った。エルサは風邪を引いて迷惑をかけたと恥ずかしがる暇もないまま首を横にひねる。〝どう〟って……何が、どうなのかしら?

「風邪を引いてくしゃみをすると、何か出たりするの?」

 獣の耳とか生えちゃったりして! と楽しそうに続ける妹に、エルサは呆れた笑みを浮かべて首を振った。

「残念ながら人間のままよ。彼の呪いは完全に解けたのだと思うわ」

 魔法の力をもって生まれた2人でも決定的に違う事があった。自分のこの能力は体質のようなものだと、エルサは今ではそう捉えている。その気になればコントロールなど自由自在だし、何よりこの力を受け入れてからは誰を不幸にした事もない。それに比べるとなまえの力は正に〝呪い〟だったのだろう。エルサが彼を救い出した日以来、あの魔法の力は完全に消えている。彼の身体と心を蝕んでいたそれが消えて本当に良かったと、エルサはもう何度目かの安堵をせずにはいられなかった。

 そんなこんなで妹と話している内に鍋の中の物が完成へと近付いてきた。スプーンでひとくちすくって味を見る。1回目のように何とも言えない微妙な味になっていないか不安だったけれど、今度は昔母が作ってくれた物に近い味が出来た気がした。あの頃は風邪を引いた妹のついでだとせがんで飲ませてもらったものだ。

「――パンならここに、既に用意してございますよ。女王陛下」

 すると料理長がすかさず丸い白パンを差し出してくれた。丁寧に暖めてくれたのか、湯気は上がっているけれど固くなっていない。エルサは一言礼を述べて、銀のお盆の上にスープ皿とパンの籠を乗せ、キッチンを後にした。

……やけに暖かな目線を向ける、アナと料理長に見送られながら。

*****

 なまえは夢を見ていた。蒸し暑い船の中、波に揺られている夢だった。汗の心地悪さをリアルに感じながらも、意識はどこか遠くをぐらりぐらりと浮き沈みしている。
 不意に高波が船を飲み込み、水の中に放り投げられた。首の周りや額が気持ちよく冷え、意識が身体に戻ってくる。…………

……目を開けると、ずれたピントの向こうに雪の結晶を見た。柔らかな白はだんだんと輪郭を得てなまえの目前に人の形を作る。それは白銀の髪をなびかせた女性が、絹のような手でこちらの頬を撫でる姿だった。

……これは夢なのだろうか――未だ覚めやらぬ頭で彼は考える。〝掃き溜めのようなこの檻の中〟に、女神が現れるはずがない――

「え……なま……まえ……なまえ」

 そこまで考えて、なまえははっきりと意識を取り戻した。辺りを見渡す。広い客室に、傍らではエルサが自分を覗き込んでいる。そうだ、ここは故郷の檻の中ではない……アレンデールだ。

「調子はどう?」
「……悪くはない」

 身体を起こす。頭におもりを乗せたような気分だけれど、今朝よりはずっとマシになった気がした。それよりも貼り付いた服が気持ち悪い。
 部屋にある机に向かったエルサの背中を見て、先ほどの幻覚が甦った。彼女を神話に出てくるような女神と見間違えたのだと思い出して、なんだか気恥ずかしくなる。背中を向けられていて本当に良かった。

「何か食べられるかしら?」
「ああ、だが先に着替えてしまいたい」

 そう、と賛成はしても尚心配そうなエルサに1度だけ頷き、なまえは寝床から這い出る。ふらつく足取りをなんとか立て直すと、服を掴んでついたての向こう側へと消えたのだった。

 清潔な服を纏ってからテーブルに着こうとすると、またもやベッドに押し込まれた。平気だ、と言ったがエルサは頑として聞かず、上半身を起こしたなまえの膝に銀の盆を乗せる。スープとパンが用意されていて、そのどちらも美味しそうな湯気を上げていた。スプーンを取って、ひとくちすくう。口に入れると優しい味が広がり、胃の中を暖めた。思わず顔が緩む。

「うまい」
「本当に……?」

 ああ、と短く相づちを打って顔を上げると、エルサはベッドの縁に腰掛けたまま、身を乗り出さんばかりにこちらを覗き込んでいた。頬は薄く上気し、丸く開かれた瞳の奥が不安そうに揺らいでいる。ふとなまえの目に入ったのは、細い指に貼られた絆創膏だった。目の前の食事が誰の手で作られたのかを理解して、胸が痛いくらいに詰まる。喉から迫り上がる熱いものを堪えきれなくて、エルサの手を握った。

「ああ。今まで食べた物の中で、一番うまい」

 雪のように白い手を取り上げると、なまえはそっと自身の頬に触れさせる。壊れ物に触るようなうやうやしい仕草だった。愛しさのあふれる視線はエルサの手をなぞった後に、ゆっくりと上がる。

「ありがとう」

 熱の所為かいつもより情熱的な瞳に絡めとられて、エルサは身動きが取れなかった。触れられた箇所から熱が移る。今すぐにでも逃げ出したいのに、いつまでも見つめ合っていたかった。

「――なまえ! 風邪を引いたって、大丈夫かい!? 僕は熱を出す脳みそなんて持ってないけど、風邪ってとっても辛いんだよね!?」

 止まりかけた2人の時間を動かしたのは勢い良く開けられた扉の音だった。賑やかな声と共に入って来たのは雪だるまのオラフで、木の両腕を振り回しながら忙しなく動き回っている。びっくりしてなまえは彼女の手を離し、エルサはその場に立ち上がった。なんて大胆な事をしていたのだろうと、互いの顔が見られない。

「……あれ、エルサ?」
「わ、私はこれで戻るわ! 食事が済んだら盆はそのままで良いから!」
「あ、ああ……」
「行きましょう、オラフ。邪魔してはいけないわ」

 エルサの言葉に、オラフは「分かったよ」と素直に答えて先に部屋を出る。後に続いてなまえの顔も見る事なく去ろうとする背中に、とっさに声をかけてしまった。

「待ってくれ!……今日は本当にすまなかった。迷惑をかけただろう?」
「迷惑だなんて、」

 思いがけないひところにエルサは言葉を詰まらせる。何か気の利いたが出来ないかと考えてから、彼女は不敵にに口角を上げた。

「結婚式の前に、休息の日が出来て良かったわね」

 最近あなたが頑張っている事は、国中の人間が知っているわ。と続けた。アレンデールに引っ越してからというもの、なまえは少しでもこの国に馴染む為に毎日朝は歴史書を読み、昼は城の従者や街の国民と触れ合う機会を作っているのだ。
 エルサが何を言っているのか理解しのか、なまえも薄く微笑んで答えた。

「そうだな、生まれて初めての祝い事だ。これでも楽しみに感じている」

 エルサとオラフはなまえの部屋を後にして、廊下を進む。
 オラフがひとつめの角を曲がる前にふと振り返ると、エルサが座り込んでいた。

「どうしたのエルサ、具合でも悪いのかい!?」
「………………溶けてしまいそう」

 エルサは右手で頭を抱え、左手を頬に当てて自身の顔を包んでいた。薄く開いた唇から切なさの籠った吐息が漏れる。オラフにはどう見ても、なまえの風邪が移ってしまったのだとしか思えなかった。

「エルサもやっぱり暑いと溶けちゃうの? 僕の雪雲、半分使うかい?」

 心配そうに覗き込むオラフをエルサはぎゅっと抱きしめる。冷たい雪の身体が、少しずつ彼女から浮かれ熱を取ってくれるようだった。
 しばらくしてエルサは「よし」と呟いて立ち上がる。そして勇ましく女王の執務室へと向かった。何しろ、大切な人にとって生まれて初めての楽しいパーティを開くのだ。気合いを入れて計画しなくてはならない。

*****

 次の日
 なまえが目覚めてまず感じたのは、軽くなった身体の感覚だった。頭痛もないし、吐き気もしない。ベッドから出て身体を伸ばすと、完全に治ったのだと自覚する事が出来た。
 いそいそと着替えて部屋を出る。一刻も早く、エルサに昨日の礼を伝えたかった。

 すると部屋を出て最初に目にしたのは小さな雪だるまだった。少し歪な、けれども愛嬌のある彼はなまえの足下まで来て止まる。そして彼の後ろに回り、小さな身体を精一杯使って押してくるのだ。

「俺に何か用かい?」

 思わずつまみ上げて掌に乗せると、腕を伝って首元まで寄ってきた。オラフとは違って言葉が話せないのか、高い声をあげて何か訴えかけている。こんな事が出来るのはエルサしかいない――確信してなまえは雪だるまに指示通り城の中を進む。これが彼女の仕業であるなら、悪い事にはならないだろう。

 示された通りに歩いて辿り着いたのは執務室ではなく、エルサの寝室だった。女性の部屋に入るのは失礼ではないかと尻込みするなまえだったが、雪だるまに促されて扉を開ける。小さな隙間が出来ると、中を覗く前にくしゃみが聞こえた。もう少しだけ扉を開けてみる。中を覗くとベッドは未だ膨れ上がり、周りで雪だるまが数体走り回っていた。

「エルサ……?」

 何かがいつもと違う……。そう感じ、なまえは思い切って足を踏み入れる。ベッドまで来ると、寝ているエルサの呼吸が心無しか荒かった。

 ああ、これは、俺の所為だ。

 罪悪感を感じるべきなのに、タイミングが良過ぎていっそ笑ってしまう。彼女には悪いけれど、早速昨日の恩返しが出来るようだ。

「おはよう、エルサ」
「なまえ……?」

 彼女の額にそっと口づける。するとどこか虚ろな表情で薄く開けられた瞳と目が合った。

「……結婚式の前に休息の日が出来たな」

 昨日向けられた言葉をそのまま返す。するとエルサは眉尻を下げ、「やられたわ」と目線だけで答えた。髪も梳かしていない隙だらけの姿に、わき上がる優しい気持ちが抑えられない。
 俺の女王陛下、と心の中で続けると、なまえは彼女の髪をひと撫でしたのだった。







押して頂けると励みになります。無記名一言感想大歓迎です!