「ほらユウくん来たで!」

 小春に軽く背中を押され、ユウジは緊張した面持ちで一歩前に出る。ここは3年生の靴箱で、今は登校時間だ。解放された玄関から外を伺えば、たくさんの生徒に混じってなまえの姿が見えた。よし、と一歩踏み出し、緊張とほぐすように大きく息を吸って……そして我に返る。

「いや、オカシない!?」

 なんでこないな事せなあかんねん!
 周りが思わず振り返るほどの勢いでユウジは小春にツッコむ。しかし小春はそれをいとも簡単にかわし、きょとんとして答えた。

「せやかて、ユウくんの気になる子の正体、なまえちゃんやったんやろ?」

 小首を傾げる姿が可愛くて思わず見惚れそうになるが、いやいやそんな場合ではないとユウジは首を振る。

「そやけど、でも、」
「だったら、ユウくんの気持ちを知る為にも、まずはお近付きにならなアカンやんか」
「……そんなモンなん?」
「ユウくん、相方のウチの事信用してくれへんの?」
「んなわけないやん~! よし、行ってくるわ」
「チョロ……」
「なんや言うたか?」
「なんでもあらへんよ♡」

 小春が笑顔でそう言えば、ユウジにとっても何かある筈がなく。

「とりあえず、あの女の所に行って、挨拶してくるで」
「その意気やでユウくん!……でもな?」
「なんや?」
「あの女やなくて、なまえちゃんやで」

 最後に訂正され、軽く背中を押されて靴箱の影から追い出される。割りかし真面目なトーンでたしなめられたのが不満だったけれど、これ以上突っ掛かったら余計小春を怒らせてしまいそうなので止めた。

〝なまえちゃん〟……否、みょうじなまえ

 アイツの名前を忘れる筈がない。なんて言ったって、みんなに分け隔てなく接する天使のような小春が、クラスで一番仲が良いお友達と公言しているのが彼女なのだ。ユウジは相方だからまた別と言われて救われたが、最初にそう告げられた時はショックで心臓が2秒止まった。

 だいたい、アイツは最初からいけ好かない奴だった。

 ユウジがなまえに初めて会ったのは去年の4月。他所の地方から転校してきたという彼女の自己紹介には関西のイントネーションが欠片もなくて、なんだか四天宝寺の教室には不釣り合いに感じた。なまえはしばらくは大人しくクラスのみんなとの距離を測りながら過ごしていたけれど、ある日いきなり、腕を組んでユウジの前に立ったのだ。

 あの頃のユウジと小春はコンビを組み始めたばかりで、方向性をまだ決めかねていた。なので今とは違い、ユウジは小春のキャラを弄る事で笑いを取っていたのだ。あの日も、小春と一緒にいて突然起こった出来事だった。

「金色さんはジェンダーの壁を乗り越えてるんです! 茶化すなんて、デリカシーがなさすぎます!」

 ずっと聞いていましたけれど、もう我慢できません! と続け、なまえはユウジを睨みつけた。何を言われているかよく分からなくてユウジがたじろいでいたら、小春が突然笑い出して、「心配してくれておおきに。でもウチらは好きでこのやりとりをしてるんやで」とフォローを入れてくれたから良かったものの、あの時のしらけ具合と言ったら寒すぎてバナナで釘が打てそうな程だったのだ。
 しかしなまえは気付く様子もなく、首を傾げた。

「好きで……?」
「せや。漫才してんねん。ユウくんはウチのキャラをいじる役」

 それから小春は2人の関係性をなまえに説明した。同じテニス部員である事、ダブルスの絆を深める為に常に一緒にいるよう顧問に言われている事、その一環として(というより前から興味もあって)漫才のコンビを組んでいる事、けれどまだコンビとしての方向性が決まっていない事。
 全てを理解したなまえは真っ赤になってうつむき、消え入りそうな声で謝った。

「そうだったんですね……誤解してしまってごめんなさい」
「ええんよ。それよりウチら今度の金曜に華月で漫才デビューすんねん。良かったらみょうじさんも来てや」
「……はい、ぜひ!」

 こうして小春となまえはユウジを置いて会話をする事が多くなり、気が付けば「小春さん」「なまえちゃん」なんて呼び合い、そして取り返しが利かないほど仲良しになっていたのだ。

 全く、意味がわからん。

「――……あのー」
「…………」
「あ!の!」
「っ、うわっなんやねん藪から棒に!」

 去年の事を思い出している内にいつの間にかボーッとしていたらしい。気が付けばユウジの目の前には怪訝な表情を浮かべたなまえが立ちはだかっていた。

「そっちこそ、なんなんですか朝から。そこ私の靴箱なんですけど」

 その言種に言いたい事は山ほどあった。あったけれど、下駄箱の前に突っ立っているユウジが邪魔なのは事実だ。なので渋々一歩横にずれる。なまえさっさと靴を履き替えると、ユウジの事をチラリと一瞥して背を向けた。

 何食うたら朝からそんなに不機嫌になれるんや、とユウジは呆れる。できる事ならこのまま何事もなく教室に向かいたいけれど、小春に言い付けられたミッションがあるのでそう言うわけにもいかない。
 ふと、ユウジはある事を思いついて口角を上げた。なるべく足音を忍ばせながらなまえを追いかける。そして教室の手前で軽く咳払いをし、

「おはよう、なまえちゃん」

 小春の声を真似してなまえの背中に声をかけたのだった。

「おはようございます、小春さんっ!……え?」

 するとなまえはぱっと顔を明るくさせて振り返……ったと思いきや、ユウジの顔を見るなりぽかんと目を丸くする。その表情がなんだかおかしくて、ユウジは思わず吹き出した。

「ひーっかかったー!」

 してやったり、とニヤニヤ揶揄うような笑みを浮かべていると、なまえはさっと眉間にシワを寄せた。そして呆れとも嫌悪ともつかない表情でユウジを見上げる。

「なんだ、一氏くんでしたか」
「なんだとはなんや、挨拶は無視かいな」
「……おはようございます。一氏くん」

 先ほどとは何トーンか低い声色で他人行儀な挨拶をすると、なまえはさっさと教室に入ってしまった。そして自席につき、いつの間にか教室に先回りしていた小春に声をかけている。普段のユウジなら授業が始まるまではそこは俺の席だと言わんばかりの勢いで2人の間に割って入るのだが、今日はなんだかそこまで意固地になれない。

……昨日分かった事やけど、まあ、一応俺らのファンらしいし? ちょっとは優しくしたってもええかなって。朝の数分くらいは小春との時間を譲ったってもええかなって。あー、ホンマ俺って優しいなぁ!!

 なんて1人でぶつぶつ呟いていると、ふと小春と目が合う。小さな偶然に浮かれるのも束の間、小春の目が「チャンスやで」と訴えていた。
 せやった。さっさとちょっかいを出して、さっさとこの気持ちが恋でない事を小春に証明しないといけないのだった。あいつはただの、小春と俺の間に入ってくるイケすかん奴、それ以上でもそれ以下でもない。

 よし、と決意し、ユウジは鼻息荒く教室へ足を踏み入れた。そして2人の前に立つと、小さく咳払いをする。

「コホン……コンコン、ごめんください、どなたですかー? 小春の運命の王子、一氏ユウジですー、あら素敵お入りください、ありがとう。ガチャ、バタン、ガラガラ、キィ「いや長いわ! 古いし!」

 小春の鋭いツッコミがユウジの小芝居を中断させる。いつもの可憐な声でなく、たまに出てしまうザ・漢な低音ボイスも素敵やなとユウジが頬を緩ませていると、小春は取り繕うように小さく咳払いをした。

「なんや用なん、ユウくん?」

 視線が再び「早う」と語りかけている。少し緊張しつつもユウジは小春にだけ分かるくらい小さく頷き、なまえを見据えた。
 しかし、

「小春さんの前に座りたいんですよね。さっさとそう言えば良いのに」

 ユウジの決意を知ってか知らずか、なまえは呆れたようにため息をついて立ち上がったのだ。慌てて引き止めようとしたところで、ちょうどよくチャイムが鳴る。どこへ行こうとしたのかは不明だが、なまえは「あ……まあ良いです」と呟き再び席に座った。

「残念でした。また授業が終わったら来てください」

 口角を上げた表情が、少し意地悪で、いたずらっぽくて。

「ほらほら、早く席につかないと先生が来ちゃいますよ」

 いつもなら食ってかかるような言葉にも、手で追い払うような動作にも大した反応ができず、ユウジはおずおずと自席に向かう。そしてチャイムから少し遅れて入ってきた担任の言葉に耳を傾ける事もせずに、人知れず頭を抱えていた。

 頭の中でぐるぐると再生されるのは、他でもないなまえの今朝の表情。ユウジに声をかける怪訝そうな顔、少し鬱陶しそうに眉間に皺を寄せる姿、小春に向ける笑った横顔、そして最後にユウジに向けたからかうような笑み。

 アイツ、よく見たら結構いろんな顔すんねんな…………いやいや、ちょっと待って。なんで、今、ちょっとだけ、ちょおおおおおおおっとだけ、かわいいなんて思ってまったんや、自分!! 

 小春に自分の気持ちを証明するはずだったのに、意識すればするほどなまえの存在がユウジのなかでそれほど悪いものではなくなってきている。こんな筈ではなかったと、ユウジは盛大に頭を掻きむしった。

 その様子を小春が遠目に確認し、ますますオモロ……いや、大変な事になって来たとニヤニヤしている事なんて、知りもせずに。







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