あなただけ見つめてる


 それは放課後、杏が新生男子テニス部に向かおうと思った矢先の出来事だった。

「見つけた!」

 突然腕を掴まれた感覚に杏は驚き、勢いよく振り返る。先にいたのは自分と似た背丈の少女で、そこまで大きな反応をされると思って居なかったのか向こうも目を剥いてこちらを凝視していた。
 その少女の事を、杏は少しだけ知っている。

「なまえちゃん!?」

 自身の名前を呼ばれ、少女――なまえは「えへへ」とはにかみながら杏の腕を離す。ふたりは数日前にストリートテニス場で知り合った仲だった。あそこには滅多に女の子が来ない上にお互いなかなかの実力者だったため、仲良くなるのに時間はかからなかったのだ。

「杏ちゃん、同じ学校の先輩だったんだね」

 視線を杏の上履きに向けてなまえは呟く。彼女の視線につられて杏も下を見ると、2人の上履きに入れられた学年色のラインが違っているではないか。道理で、と杏は心の中でつぶやいた。九州から転校して少し経つけれど、校内でなまえを見かけた事がなかったから。

「これからは敬語じゃないといけないですね、橘先輩?」

 おどけた口調でなまえはからからと笑う。今更改まわれるのはなんだかむず痒かった。

「もう、今まで通りで良いわよ」
「本当に?」
「本当に!」
「じゃあ、お言葉に甘えて!」

 そう言ってなまえは杏の腕に自身のそれを絡めた。そしてふたりして廊下を進み、下駄箱に向かう。
 道すがら、なまえは再び口を開いた。

「杏ちゃん女テニにいないから、てっきり他校の人だと思ってた」
「私、実は転校してきたばかりなの」

 それにあそこはね……と杏は苦笑を浮かべて言葉を濁す。杏も転校してきた当初は女子テニス部に入ろうと思っていた。けれど男子部ほどとは行かないまでも女子部の雰囲気もどちらかと言えば楽しくのんびりテニスをするような場所だったので、はっきり言って彼女の肌に合わなかったのだ。この際だし、学校では兄の応援に徹しようと決めていた。

「なまえこそ、部活見学した時にいなかったじゃない」
「あー、だって、ストテニ行った方が楽しいし……」

 言葉を濁すなまえの目線は「杏ちゃんなら分かるよね?」と訴えているようで、同じ気持ちを抱えていた杏も同意せざるを得ない。こんな身のない話をしても仕方がないので、杏は空気を改めようとコホン、とひとつ咳をした。

「学校では兄の応援をしているの。新テニス部の部長なのよ」
「え、あの噂の!?」

 目をパチクリと見開かせるなまえの反応が新鮮で楽しい。今から兄である桔平の元に向かうつもりだと告げると、なまえは自分もついていくと意気込んだ。

 それから杏の紹介で新テニス部の部員たちとなまえが知り合ってから、もう数ヶ月が経とうとしている。

*****

「みんなー! そろそろ切り上げないと、最終下校時刻過ぎちゃいますよ!」

 太陽が地平線を目指す頃、なまえはテニスコートに向かって叫んだ。彼女が呼びかけた相手――男子テニス部の面々がなまえの方を振り向き、経過した時間の長さに驚きの声をあげる。今日は受験生である橘が週に1回部活に顔を出してくれる日だったので、みんなも張り切っていたのだろう。
 杏について男子テニス部に顔を出している内に、なまえはいつの間にはマネージャーのような位置に落ち着いていた。最初はただみんなに頑張ってほしくて、それで時間が空いたらテニスの相手をして欲しいと思って始めた雑用だけれど、今ではそれが楽しくて仕方ない。

「おうみょうじ、お疲れ!」
「神尾先輩お疲れ様です!」
「なんだか部室が綺麗じゃないか?」
「桜井先輩気付きました? なんと今日は大掃除したんですよ!」

 そして今日も部室の前で部員たちが集まってくるのをタオルを持って出迎える。タオルをそれぞれに渡すと彼らもなまえに一言声をかけていった。
 最後にやってきた人物はテニスコートに不備がないか確認していた桔平だ。

「いつもすまないな」

 黙っていれば怖いくらいの端正な顔に人の良さげな表情を浮かべて、彼はタオルを受け取る。なまえは正式なマネージャーというわけでなくボランティアでやっている立場なので、桔平も申し訳ないという気持ちが強いのだろう。

「いえ、お兄ちゃんがいっぱいできたみたいで楽しいです」

 しかしなまえは屈託のない笑顔を浮かべて首を振った。彼女の様子に桔平も思わず顔が綻び、頭に手を置いてぽんぽんと軽く撫でる。そしてなまえもそれを受けてさらに嬉しそうにするから、他の部員も寄ってきて同じような顔で同じように彼女の頭を撫でていくのだった。

「みょうじは偉いなぁ」
「えへへー、ご褒美に波動球教えてください、石田先輩」

 けれど、その輪に加わらない部員がひとり――伊武だ。彼はわざわざなまえを避け、自分のカバンから私物のタオルを取り出す。

「みょうじが波動球打っても、その細腕じゃさざ波にもならないんじゃない?」
「伊武先輩ひどいですよー!」
「ウルサイなぁ……本当のことだろ? だいたい掃除した事と波動球は関係ないし、そもそも掃除なんて誰も頼んでないし、あと着替えるんだから出てって欲しいんだけど……」

 伊武の声は次第に小さくなっていったが、不思議と声量に関わらず全員の耳に届いてしまう。その場にいたなまえ以外の全員が苦笑を漏らしつつも、伊武がこうやってボヤくのはいつもの事なので彼らもまた何事もないかのように自分たちの荷物を片付け始めた。
 けれど、面白くないのはボヤかれているなまえだ。彼女は不満そうに口を尖らせながら部室を一歩出る。

「じゃあ校門で杏ちゃん待ってますよーだ」
「え、杏ちゃんまだ帰ってないのか!?」

 伊武への嫌味のつもりの言葉だったが、過剰に反応したのは神尾だった。神尾の杏への想いはなまえもなんとなく勘付いていたので、ひとつ頷く。

「杏ちゃんは委員会があるから部活はお休みだけど、一緒に帰る約束をしてるんです」
「それじゃあ俺も「じゃあお先に失礼しまーす!」

 けれど彼の恋心を察するのと、協力してあげるのはまた別の案件で。
 神尾の声が聞こえていたのかいなかったのか、遮るようにしてなまえは明るく声をあげ、部室の扉を閉めてしまう。宙ぶらりんの言葉を言い終えないまま、虚空に手を伸ばす神尾を気にする部員などいなかった。

 一方部室から出たなまえは扉の傍に置かれたゴミ袋を掴む。掃除をした時にこれだけのゴミが出たので、校門に向かう時に出してしまおうとまとめておいたのだ。
 不動峰中のゴミ集積所は校門から外れた一角にある。普段は用事のある生徒しか通らず人気もない所だけれど、今日は違った。フェンスで閉ざされた入り口の前に、学ランをだらしなく着た生徒がしゃがんでいたのだ。学年は分からないが、見かけからして先輩だろう。

「……あの、」

 なまえは彼に声をかけたが返事はなかった。熱心にスマホを覗き込む彼の耳にはイヤホンが差し込まれていたのだ。「あの!」と今度は強めの声を出す。ようやく彼が顔を上げた。

「ンだよ」
「邪魔なんですけど」
「はあ?」
「ゴミ出しをしたいので、そこを退いてください」

 彼は立ち上がり、なまえを威圧的に睨みつける。ここまで剥き出しの敵意を受けるのは初めてでなまえは思わず怯みそうになった。けれど自分は何も間違った事を言ってはいない、とその場に踏みとどまる。その態度が気に入らなかったのか、彼はますます顔を歪めた。

「お前1年だろ? 先輩への口の利き方がなってねえんじゃねーの?」

 それだけ言って彼はおもむろに拳を振り上げた。
 殴られる!――なまえは咄嗟に目をつぶる。けれど想像していたような衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。
 恐る恐る目を開けると、視界に飛び込んできたのはいつもなまえが内心羨ましがっているカラスの濡羽のような黒髪で。

「先輩、テニス部辞めて、こんな所で何やってるんですか」
「伊武、てめえ!?」

 伊武がなまえの前に立ち、先輩の拳をつかんでいたのだ。
 突然のことになまえの頭は混乱していた。でも、なんで、そんなはずない。だって伊武先輩はいつも私にだけ意地悪で、面倒事が嫌いで。だからこうして助けてくれるなんて、想像すらした事なかったのに。

「みょうじ、橘さん呼んできて」
「でも、」
「早くしろよ、トロいな」
「は、はい!」

 パタパタとなまえは校舎の向こうに消えていく。それを見届けつつ伊武は視界の端で襲いかかって来るもうひとつの拳をサラリと避け、反動でよろめく彼の胴体を踏みつけるような蹴りを入れた。力加減をしなかったので、彼はそのまま校舎の壁に放り出される。伊武は更に彼の肩に足を乗せた。

「どうせ喧嘩なんでできないだろうと思ってました?……心外だなぁ、“あの時”は橘さんに手を出すなって言われたから耐えてただけで、俺だって別に弱いわけじゃないんだけどなぁ……」

 なんてボヤきながら、伊武は彼の肩をぐりぐりと踏みつける。痛さもあったがそれ以上に、以前はいくらでも好きなようにこき使えていた部活の元後輩に逆らわれて、彼は複雑な感情に顔を歪めていた。

「くそっ、なんなんだよ!?」
「何って」

 腰を折り曲げ、彼の耳元に顔を近付ける。

「アイツをいじめて良いのは俺だけなんで」

 いつもの平坦なボヤき声とは違う、周囲の人間が聞いた事もないような低い声でそれだけ言うと、彼の肩に乗せていた足をあっさりと退かしてその場から立ち去ったのだった。

*****

 橘兄妹を連れたなまえが再び集積場へ向かう頃、傷どころか埃ひとつ制服に付いていない伊武は校舎の影からひょっこりと現れた。最悪の事態を想定していたなまえは安堵のあまり思わず杏の腕にしがみつく。桔平が前に進み出て伊武の肩に手を置いた。

「無事か、深司」
「はい。あいつには丁重に帰ってもらいました」
「あまり無茶はするなよ。急にどこかへ行ってしまうから驚いたぞ」
「帰ろうとしたらソイツが絡まれてるの見かけたんで、男テニがまた面倒な事に巻き込まれる前になんとかしようと思っただけです」

 “ソイツ”と言ったところで伊武は目線をチラリと一瞬なまえに向ける。
 その目線を受け、なまえは自身の胸の鼓動が高鳴る事に気付いてしまった。

「じゃあ、暗くならない内に帰るか!」

 桔平が歩き出し、杏と伊武もそれに続く。けれどなまえの足は動くことがなくて、ふと振り返った伊武が苛立たしげに口を開いた。

「何ぼーっと突っ立ってるんだよ」
「あ、いえ、えっと……」
「早く行かないと、最終下校時刻に間に合わなくなるんだけど」
「今、行きます」
「あっそ」

 それからまた小声でぶつぶつと何か呟く彼の後ろを、なまえはそそくさと着いて歩く。彼女の視線が遠慮がちに、けれどしっかり自分の背中を追っていた事など、伊武は気付く由もなかった。

*****

 元男子テニス部の先輩だという不良から伊武に助けてもらって、1週間が経った。自分でも単純だと呆れてしまうけれど、あの日からなまえの中で伊武に対する想いは日に日に大きくなっていっている。
 きっかけは本当に些細な事で、それまでは他のみんなと変わらない、むしろちょっと苦手なくらいの意地悪なお兄ちゃんのひとりだったのに。あの時助けてくれた広い背中を思い出すと胸がぎゅ、と苦しくなるのだ。

 あれからそれとなく杏に伊武の好きなタイプを聞いたら歯並びの良い子だと教えてくれて、歯には少しだけ自信があると嬉しくなった。けれどそれも束の間、どこかから現れた神尾の「伊武か? 外国人の子が好きだって言ってたぜ!」という言葉に落ち込んだりもした。
 今から外国人になる事はできないけど、せめて英語の成績を良くしよう。あとは朝の挨拶とかも「ぐっともーにんぐ!」の方が良いのかな? うるさい人や空気の読めない人が嫌いだって前に言ってたし、少しは静かにしなきゃ。

 そう決意して、実行し始めてから3日。

「キモい」

 伊武から唐突に言い放たれた言葉に、なまえは最初何が起こっているのか理解できなかった。
 それは部活終了後、校庭の隅にある流し台での事だ。普段ならこの時間は部員たちが着替えている間、なまえはひとりでマネージャー業務に使った物を片付けているところだった。けれど不良に絡まれた事があってから、せめて冬の暗くなる間はなまえをひとりで行動させず、誰かが常に仕事を手伝うよう部の中で決定していたのだ。

「えっ」

 なんとなく決めた当番制で、今日はたまたま伊武の番だった。だからなまえは内心楽しみにしていて、けれどうるさいと思われぬよう最低限の会話だけに留めて黙々と仕事をこなしていたのに。

「なんなの、最近。お前おかしいよ」

 それなのに伊武から話しかけられたと思えば、核心に触れるような内容で。

「それは……っ」

 なんとか我に返って、一気に顔が熱くなる。そして、心の準備なんてできてないけれど、伝えるなら今しかないと思った。

「伊武先輩のタイプが外国人で、うるさい人が嫌いって聞いた、から」

 好き、です、伊武先輩。あの日助けてもらってから。
 言ってしまった。祈るような気持ちで両手を握る。正直自信なんて全然ないけれど、でももしかしたら、と期待する心を止められない。

「……バカじゃないの」

 けれどたっぷり間を開けてから聞こえたのは拒絶の言葉だった。自分の心臓の音がうるさくて何も聞こえないはずだったのに、伊武の声だけははっきりと耳から入ってナイフのようになまえの心に突き刺さる。
 鼻のあたりがツーンと痛くなって、泣いてしまいそうで顔を上げる事が出来ない。そうしてそのまま俯いていると、不意に鈍い音がして伊武の倒れる姿が視界に入り込んできた。

「……え?」

 突然の事に出かけた涙がどこかへ消える。思わず顔を上げると、ついこの間ゴミ集積場で遭遇した不良の先輩がテニスラケットを持って立っていた。傍らには更に柄の悪そうな男子生徒が数人控えている。

「いった……っ」

 伊武が頭を押さえながらのろのろと上半身を上げる。どうやら先輩の持つラケットで頭を殴られたようだった。

「いやあ、ふたりとも見つかるなんてラッキーっしょ?」

 なんて言いながら彼らは数人がかりで伊武を押さえつける。すぐに助けようとするなまえだったけれど、すぐに残りの不良が動き彼女を捕らえてしまった。抵抗するが、男子の力に敵うはずもない。

「この間のお礼をしようと思ってさ~」
「後輩の教育は先輩の義務ってね」

 口々に身勝手な事を言いながら、不良のひとりがなまえのセーラー服のリボンを解く。そしてそれを使い、なまえの両手を後ろ手に縛りつけてしまった。

「うっわ、変態だろ!」

 ぎゃははっ! と彼らは一斉に盛り上がる。下品な笑いが耳障りでうるさかった。
 その内伊武を押さえているひとりを残して彼らはなまえのスカートをめくったり、上半身を弄り始める。悔しくて気持ち悪くて、でも何もできない嫌悪感になまえは痛いほど唇を噛んだ。
 その時、横からの衝撃を受けて拘束していた男と共になまえは倒れた。引っ張られるまま転がるように走り出す。彼女の腕を掴んでいるのは険しい表情の伊武だった。隙をついて身体を押さえていた男から逃れ、体当たりでなまえを助けたのだ。
 2人が咄嗟に飛び込んだのは校庭の片隅にある体育倉庫だった。わずかに開いていた隙間からするりと入り、扉を閉める。

「伊武せんぱっ、むう」

 伊武の片手に口を塞がれてなまえは声を出す事ができなかった。続いて後ろのリボンが解かれるのが分かる。自由になった両手で伊武の手を外そうと試みるが、案外強い力で押さえられているようでビクともしなかった。
 するとしばらくしない内に倉庫の前を大人数の通り過ぎる音がする。「どっちだ?」「くそ、あのヤロー!」といくつかの言葉が聞こえた後、静寂は訪れた。伊武の手もなまえの口元から離れていく。

「……行ったみたい、ですね」

 安堵の息をつくなまえに向かって伊武はひとつ頷くと「とっとと部室に帰るよ」とだけ言って再び扉に手をかけた。しかし扉はびくともしない。どうかしたのだろうかと一瞬疑問に思って、すぐになまえは4月に体育教諭から聞いた言葉を思い出した。

『この倉庫は閉め忘れを防ぐ為にちゃんと閉めたら中からは開かないようになってるから、片付ける時は気をつける事!』

「みょうじ、携帯で誰かに連絡して」
「携帯カバンの中です。先輩は?」
「持ってるわけないだろ、部活中だったんだし」
「……すみません。私の、所為ですよね」
「元はと言えばそうだね」

 ったくさあ、なんだんだよもう。踏んだり蹴ったりってこういう事だよなぁ……俺なんかした?何もしてないよね?なのになんでこんな目に合うんだよ……。
 ぶつぶつと聞こえる伊武の声がチクチクとなまえの心を小さな針で刺していく。さきほどから何度も我慢してきた涙を、今度こそ流さずにはいられなかった。困らせたくない。迷惑なんてかけたくないのに。そう思うほど悲しい気持ちが涙に溶けて流れ出る。

 小さな嗚咽が聞こえて訝しげな顔で伊武は振り向き、予想外の光景に目を丸くした。
 伊武の想像するなまえはいつだって少しうるさいくらい元気で、無駄にニコニコと笑っていて、伊武が嫌味ったらしくボヤいていると舌を出して反撃してくる姿なのに。目の前にいる彼女にいつもの煩わしさの欠片もない。

「はあ? なんで泣くわけ?」
「だ、だってっ、」
「めんどくさいなぁ」
「っ、すみま、せん、!」
「……まぁまだ部活中だったし、すぐに誰か気付いて探してくれるだろ」

 だから泣きやめよ、ほんと、メンドくさい。
 そう言って伊武はぎこちなくなまえの頭に手を置き、小突くように軽く押した。なまえの頭を包み込んでしまう伊武の手は彼女の想像よりも大きく、ゆっくりと温もりが伝わってくる。
 こんなに迷惑をかけてるって分かってるのに、こんな事言ってる場合じゃないって事も分かってるのに、それでも、

「好きです、伊武先輩……大好き」

 口では辛辣な言葉を投げかけてくる癖に、本当は優しい伊武先輩が、大好きなんです。
 首まで顔を赤くしながら、消え入りそうな涙声でなまえは伝える。つい先ほど拒絶されてしまったのは分かってるけれど、自分ではどうする事もできないこの気持ちが苦しくて、もうどうしようもなかった。

 ずるずると座り込むなまえを見下ろした後、伊武は何の感情も表に出さず彼女の隣にしゃがみこんだ。両手で覆われたなまえの顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていて、こんな表情をさせているのは自分なんだと思うと――彼の心の底で湧き上がったのは、どろりとした暗い歪みを含んだ歓喜だった。

「……俺は、みょうじが思ってるような奴じゃないよ」

 ようやく顔を上げたなまえは目を丸くしている。肩を強く押し、倒れた彼女の上に覆いかぶさった。

「伊武、先、輩……?」
「俺の事を“文句が少し多いけどなんだかんだ優しい先輩”だと思ってるなら大間違いだ。俺はアイツらとそんなに変わらない。……みょうじにこう言う事したいと思ってる」

 なまえの両手を頭の上でまとめ、左手で押さえつける。セーラー服の裾からチラチラと覗く白肌に右手を這わせるのは先ほどの不良たちと何ら変わりがなくて、吐き気にも似た興奮を覚えた。

 本当はなまえの事がずっと好きだった。校舎裏の空き地をテニスコート用に整備していた時に杏に連れられてやってきたなまえの、屈託がないのにどこか色気のある笑顔からいつの間にか目が離せなくなって、他のみんなは「いつもの事だ」と流す伊武のボヤきにもいちいち反応する姿が見ていて楽しくて。
 けれど元々感情を表に出すのが得意でない伊武がその恋心を自覚したところで、彼にできたのはそんなもの存在しないかのように振る舞うことだけだったのだ。

 そうこうしている内になまえは部内でも可愛がられ始めて、なまえもまんざらでない様子でそれを受け入れて。なまえへの気持ちは嫉妬や焦燥と溶け合い、いつの間にかドロドロと黒く煮詰まっていた。

「みょうじの事をイジる奴は神尾ですら殺したくなる。お前の事をいじめるのは俺だけで良い。……本当は閉じ込めて俺だけのものにしたいけど、こんな気持ちバラしたくなかったから避けてきたのに」

 我慢できなくなったのは、全部お前の所為だよ。
 低い声がなまえの耳元で囁かれる。吐息が首筋を撫でていき、胸の奥がゾクゾクして熱くなった。伊武の右手がなまえの身体に触る度に電流にも似た感覚が全身を駆け抜けていく。

 こんなの、知らない。恋ってもっとドキドキして楽しくて、両思いは暖かい気持ちになれる素敵なものだと思っていた。なのに今目の前にいる「なまえが好きだ」と言ってくれる先輩は、なんだか怖い。不良に触られた時とは全然違う、先輩からもたらされるこの身体の熱さが、怖い。
 とても怖いけど、でも、

「……それでも良いです。私、伊武先輩のものになりたい」

 まるで危険な麻薬のように、一度触れたこのゾワゾワとした感覚を手放す事なんてできなかった。

「……本当にバカだね、なまえは」

 最後に聞こえた伊武の声はいっそ悲痛にすら聞こえて、目を閉じれば、なまえはもう何も分からなくなった。

*****

「本当に辞めちゃうの?」

 男子テニス部の部室の前で、なまえは杏や他のテニス部員たちに囲まれていた。杏は眉尻を下げ、名残惜しげになまえの手を取っている。

「うん、ごめんね」
「仕方ないよね、あんな事があったんだもの。ご両親に何か言われた?」

 不良たちへの怒りと、部活でなまえを失う悲しみを混ぜた様子でおずおずと聞く杏に、なまえは笑って曖昧に答えを濁した。

 なまえが伊武と共に体育倉庫に閉じ込められてから、既に3日が過ぎていた。あの日は伊武の予想通り30分もしない内に学校中を探し回った部員が助けに来てくれて、その足で職員室に向かって一連の事件を教頭に話したのだ。テニス部を辞めていった部員の中でもガラの悪い生徒が何人かいた事を学校は今まで黙認していたが、今回の事は悪ふざけでは済まされないという事で、例の不良たちは厳重な処分を受ける事になった。

「本当にすまなかった。みょうじにはなんて謝ったら良いか……」
「やめてください、橘さんの所為じゃないんですから!」

 頭を下げようとする桔平を制して顔を上げさせる。監督者として余程の責任を感じているのか、桔平がこうして謝る姿はもう何度も見ていて、その度になまえは必死で否定して来た。

「マネージャーの仕事はもうできないけれど、たまには顔を出しに来ますし、試合の日は絶対に行きます!」

 いつものように明るく振る舞うなまえの表情からは、見知らぬ男たちに酷い事をされかけたなんて事は微塵も感じない。たまらず杏はなまえを抱きしめ、部員たちも我先にと彼女の頭を撫でた。

「――ねえ邪魔なんだけど」

 そんな時、輪の外から気だるげに声をかける人物がひとり。

「伊武お前……今日でみょうじが辞めちゃうんだぞ!」

 いちはやく声の正体を察知した神尾が非難するような声を向ける。けれど張本人である伊武はいつもと変わらぬ無表情を貫いていた。

「元々部員でも何でもないし。それにもう練習時間過ぎてるのに部長の神尾がぼーっとしてるから代わりに声をかけただけだろ……俺が悪いわけ? なんなんだよもう……」

 ひとりだけ全く調子の変わらない彼の頑なな態度が逆に場を和ませ、桔平が「ったく、相変わらずだな深司は」と苦笑したのを合図に部員たちはなまえに最後の別れを告げて部室に入っていった。杏もようやくなまえから離れ、テニスコートに向かう。残された伊武も部室のドアノブに手をかける直前、ちらりをなまえに視線を投げる。

「何仲良さそうに話してんの?」
「ご、ごめんなさい」
「……………………」

 今度はなまえの顔も見ずに、伊武は部室に入っていく。誰もいなくなってなまえは弾けるように駆け出し、校門ではなく校舎に向かった。誰もいない教室まで戻り、窓から男子テニス部の練習が始まるのを見ている。
 本当は部活動を両親に止められてないし、何があったかなんて知らせてもいない。けれど深司先輩がもう誰とも関わるなって言ったから。私は深司先輩のモノになったのだから。

『あとでお仕置きだから』

 部室に入る直前、なまえにしか聞こえない小さな声で囁かれた言葉を思い出すと、身体の芯からゾクリゾクリと知らない感覚が湧き上がるのを感じた。自分を支配していくこの感覚は未だに少し怖いけれど、大好きな深司によってもたらされるこの気持ちは、もう絶対に手放せない。

「お仕置きって、どんな事されちゃうんだろう……」

 熱がこもった声が誰かに聞かれることはなかった。







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