早起きの理由


「お母さーん、私のお弁当どこー!」

 履き慣れたローファーの踵に指を引っかけながら、怒鳴る様に質問を投げかける。いつもは玄関先に置いてある私のお気に入りの巾着袋が、今日に限ってどこにも見当たらなかったからだ。
 するとパタパタとスリッパの音を響かせながら、台所からお母さんが姿を現した。手に持っている巾着袋から察するに、私のお昼ご飯は出来立てなんだと思う。

「あんた今日はいつもより一時間も早いじゃない。どうかしたの?」
「いーのー! それじゃあ、行ってきまーす!」

 お母さんが遅いわけじゃなくて、全部私の気まぐれの所為なのは分かってる。だけど朝の忙しなさも手伝って、私は少しイライラしながら慌てて玄関を出たのだった。

 扉を出ると、庭へ通じる狭い道に自転車が二台並んでいる。大きな籠がついている方がお母さんので、結構使い込まれている方が私の自転車だ。いそいそとそれを引っ張りだして、家の前まで持って来てから跨がった。私の通う青春学園は、ここからは自転車で二十分くらいの所にある。

*****

 大きな交差点に差し込んで、信号で止まって腕時計を確認する。時刻は六時五十分で、早い所為か車の通りは随分少ない。青学の朝練は確か七時だから“もうすぐ来る”はず……。
 案の定後ろからもの凄いスピードでタイヤが回る音がして、来た、と思う頃にはもうその黒い影は横を通り過ぎていた。
 そして赤信号に気が付いて、慌てて止まる。丁度自転車一台分私よりも前に出たそれは、前輪だけが横断歩道にかかっていてちょっと、危ない。

「誰かと思ったらみょうじじゃねーか!」
「おはよう桃城くん。……偶然だね」

 おう、おはよう! と返してくれるクラスメートの桃城くんは、朝とは思えない程元気が良い。
 彼とは仲が良い方だから、自然と会話は続けられた。

「こんな朝早くに、珍しいな。お前朝練あったっけ?」
「ううん、委員会。桃城くんは遅刻ギリギリでしょ?」
「うっせ。どうせ寝坊だよ」
「ふーん」
「聞いた割には興味無さげなのな、お前って」

 信号が青に変わる。呆れ顔のまま桃城くんは前を向き、ベダルを漕ぎ出す。相づちを最後に頑なにそっぽを向く私の斜め前を、今度こそ彼は過ぎていった。私もそれに続く様にしてペダルに足をかける。最初の一歩は、いつも少し重い。
……あーあ、素直じゃないなぁ、私。本当は、偶然じゃないのに。本当は桃城くんが毎朝この時間にこの交差点を通ると知って、わざと一時間早起きしたのに。委員会だなんて、嘘まで吐いちゃってさ。

 素直じゃない自分を振り払うかのように、私はペダルを漕ぐ足に力を入れた。過ぎていく街並が線のようになって、徐々にスピードが上がっていくのが分かる。流石運動部と言うか、先に行ってしまった桃城くんは随分と前の方に見えた。
 追いつきたい。隣に、並びたい。その一心で足に力を入れ続ける。頬を撫でてから、髪の毛をぐちゃぐちゃにしていく朝の風すら感じられなくなる程、いつの間にか夢中になっていた。

*****

“カンカン カンカン”

 目の前の線路を、ぎゅうぎゅうに人を詰め込んだ電車が走り過ぎていく。踏切のおかげでやっと桃城くんに追いつく事が出来た。

「お、意外と早いな」

 私は息も切れ切れだと言うのに、彼の呼吸は少しも乱れてはいない。こっちの気も知らないで……と少しムッとしたのをなんとか隠して「まぁね」とだけ言ってみた。
 随分飛ばしたお陰か、彼にも少し余裕が出たらしい。しばらく私達は並んで走ると、通り道にある大きな公園の前に出た。途端に桜の甘いような、新鮮な匂いが鼻を掠める。見上げると通りに面した桜が二分咲き位にまで色づいていた。
 あぁそうか、あと一週間で春休みで、それも過ぎたら……。
 切なくなって、私は思わず俯いた。クラス替えをしたら、桃城くんのクラスメートでいられなくなるかもしれない。部活も委員会も違う彼と会う確率は、クラスが違ければほぼゼロに近いと思う。――会えなくなるのは、嫌だな。
……あーもう良いや! 先の事を考えるのは止そう。私は嫌な思いを振り切る様に、ペダルに力を入れた。

「お先に!」
「あー! ずりぃぞみょうじ!」

 立ち漕ぎで桃城くんとの距離を離すも、ムキになった彼にあっという間に追いつかれてしまう。桃城くんは不適に笑って、私は少し悔しくなった。追いつかれた事にじゃないくて、その笑顔にときめいてしまった、自分の心に対して。

「急にどうしたんだよ?」

 過ぎ去る景色達は振り切っていて、隣にいる桃城くんの顔だけが鮮明に形を残している。こちらを覗き込む様にする彼と目が合った。内心「危ないぞー」と思いながら私は目をそらす。

「なんとなくー!」

 答えにならない答えを言って、私は空を見上げる。雲一つない快晴だ。こうしてずっと、なんにも考えずに二人で並んで走っていられたら良いのになぁ……。
 簡単に伝えられてしまう程単純ではないこの胸のモヤモヤとその奥に眠る気持ちを、まだ彼に話す勇気はなかった。

「――危ないッ!」
「え……? きゃぁぁあっ!?」

 急にハンドルが利かなくなって、自転車が勢いよく傾くのが分かる。気が付いた時にはもう、冷たいコンクリートの上に投げ出されていた。強く打ち付けたのか擦りむいたのか、顎と膝が痛い。

 慣性の所為で少し先に行ってしまった桃城くんが戻ってきてくれる間に、その場に座り込んだまま自転車を確認する。前輪が見事にパンクしていた。家を出たときは何ともなかったのに……と思っていると、すぐ近くに割れたビールの瓶底が、鋭利な切っ先を空に向けて突き上げているのが目に入った。

「そいつの上に乗り上げちまったんだよ、お前。忠告したのに気付かねーんだから」
「……痛い」
「大丈夫か?」
「これが大丈夫に見える?」
「お前なぁ……。もっと可愛げのある言い方出来ねーのかよ?」

 桃城くんは私を見下ろして苦笑した。うるさいなぁとも返せずに、私は俯く。さっきから彼には呆れられてばかりで、こんな自分にイライラする。そう言えば今日は朝からすっきりしない事ばかりだ。

……私だって、桃城くんの前ではもっと可愛くいたい。好きだって、それだけ言ってしまえばこのモヤモヤも無くなるはず。だけど、……自信、ないよ。告白して駄目だったら、仲の良いクラスメートでもいられなくなるじゃない。
 頭の中がぐちゃぐちゃになって、鼻の奥がツーンと痛くなって視界が滲みだした。あ、駄目だ、泣く。

「ったく、怪我してるじゃねーか。……ほらよ」

 不意に涙のカーテンの向こう側に、何か肌色の物が見えた。目元を拭って先を辿るとすぐに学ランの袖が見えて、それは桃城くんの手だった。

「後ろ、乗せていってやるよ」
「でも、自転車」
「家の人に連絡して取りに来て貰えば良いんじゃね? ほら、遅刻するぞ」
「……うん」

 そっと桃城くんの手に触れる。すると彼は私の手を握って、力強く引っ張り上げてくれた。
 彼の自転車の荷台に横座りして、学ランの裾を少しだけ掴む。「危ないからもっとしっかり掴まれ」と言われたけど、口が勝手に「大丈夫」と返事をしていた。またまた可愛くない。
 でも今度は彼も気にならなかったようで、そのまま自転車は動き出す。バランスを崩さない様に、腹筋に力を入れた。

「桃城くん」
「なんだー?」
「……自転車漕ぐの、早いよね」
「だろ? 伊達に鍛えてねーからな!」

 ありがとうとは言えなくて、代わりに他の言葉を口に出す。へへ、と桃城くんは嬉しそうに笑って、更にスピードを出した。目の前にある背中は、クラスメートの距離から見るよりもずっと広い。あ、今胸がきゅんとした。
 どうしよう、手が震えてる。私、すごく桃城くんが、好き。

「桃城くん」
「今度はなんだー!?」
「…………………すき」

 しまった。そう思った時には既に、キキーッ!! と朝の空気にけたたましい音を響かせて自転車は止まっていた。後輪が浮くくらいの急停車で私は桃城くんの背中にしがみつく。文句を言ってやろうと思って彼を見上げると、後ろからでもはっきり見える耳が真っ赤に染まっていた。

「も、桃城くん……?」

 思わず学ランを握っていた手を緩める。どうしたの? とは聞けるはずが無かった。(だって私の所為だって事は明白だもの)

「――俺も」
「え……?」

 桃城くんは私の手を取って、自身の腰に巻き付ける。彼のおへその辺りで両手を交差するように添えられて、私達の距離はゼロになった。

「危ないから、しっかり掴まってろ」

 自転車がまた動き出す。それから一言も喋る事無く、彼は足を動かし続けた。
 あぁどうしよう。聞こえるはずのない彼の鼓動が、背中越しにもの凄いスピードで脈を打っている気がする。それともこれは、私の物なのかしら?







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