The days we were.


 20年ぶりに訪れたスピナーズ・エンドは相変わらず分厚い雲に覆われる暗鬱とした場所だった。目的の一軒家は、その場所の隅で世間から隠れるように建っている。家の番号が合っているのを確認して、懐から鍵を取りだす。使い古されたそれはルシウスに「これを託せるのは君しかいないだろう。何年後でも良いから、行ってきて欲しい」と渡されたもので、扉に差し込むと重い音を立てて私を招き入れた。

 家の中にはほとんど物がなく、誰かが立ち入る事を拒んでいるようだった。申し訳程度に置かれた生活品には薄く埃が被っている。その埃だけが、この家の持ち主がいなくなってからもう1年だと言う事を覚えているかのようだ。部屋の空気は随分冷やされていて、思わず身震いをする。傍らの暖炉に杖を向けて火をつけると、かびの臭いと共に部屋が少しずつ暖かくなった。

「さて、と」

 改めて部屋を見渡して、古い肘掛け椅子に腰掛ける。部屋に生活感が感じられないからか、想像していたより何の感情もわかなかった。

 私は今日、この部屋の物を処分する為にここにいる。
 大した準備も道具も必要ない。要は目についた物から順に暖炉の中に放り込んでいけば良いだけなのだ。魔法で炊いた炎は普通のそれよりよく燃やしてくれるし、なんなら全て袋に入れて縮小して一気に、なんて事もできる。

「これは……グリンコッツからの書類かしら?」

 それでもそれをしないのは、この空間に愛着があるからだろうか。一応私もこの家に住んでいた時期があるから。
 本当に短い間だったけれどね、と自嘲しながら、私は持ち上げた紙の束を暖炉に投げ入れた。

*****

 私が最初にこの家を訪れたのは11になったばかりの夏の事だった。その頃の私は年の離れた兄以外のきょうだいもおらず、ほとんど一人娘のように甘やかされていたので、自分の事を一国の姫か何かだと思っていた気がする。
 その日は新しく仕立ててもらったワンピースを着てのおでかけだった。母親に手を引かれて最初は胸を高鳴らせていた私も、マグルの町に入る頃には不安が募り始めて、廃工場を見る頃には不機嫌なべそをかいていた。

「良い加減になさい、ナマエ。レディはそんなみっともない顔をしません」
「だって、私、こんな汚い所いや……! 馬鹿なマグルがこっちをじろじろ見ているわ!」

 早く帰りたいと駄々をこねる私を無理矢理引っ張って、母はこの家の扉を叩いたのだ。出てきた女性の顔を見るなり母は「あの人は?」と聞き、相手は「どうせ今日も、明け方にならないと帰って来ないわよ」と答えていた。暗い目をしたその人が、幼い私は苦手だった。

「ほら、ナマエ、アイリーンおばさまに挨拶しなさい。お母様の従姉妹ですよ」
「……こんにちは、アイリーンおばさま」
「あなたの娘、随分大きくなったじゃない」
「ええ、確かあなたの息子と同じ歳よ。彼も秋からホグワーツでしょう?」
「そうよ。父親の血を引いてスクイブにならなかった事が唯一の救いだわ」

 母が「彼はどこ?」と尋ねると、アイリーンおばさまは家の中に向かって「セブルス」と声を張り上げた。どこかから私と同じ背丈の、けれど気の毒になるくらいほっそりとした男の子が現れる。真っ黒な髪に青白い肌、鉤鼻と窪んだ目は母親譲りで、すぐにこの人の息子なのだと分かった。

「この子がセブルスよ、ナマエ。お母様達が話をしている間、彼に遊んでもらっていなさい」

 嫌だと目で訴えたけれど、母はそれを許しはしなかった。
 仕方なしに彼について家を出る。玄関先で改めて彼の顔を見ると、「面倒事を押し付けられた」とでも語っているような表情をしていた。

「……何よ」
「別に」
「あんたみたいな暗い男の子と私が遊んであげるんだから、感謝してよね」
「頼んでない」

 彼は玄関先にあるブロックに腰をかけると、私の事なんておかまい無しに本を読み始めた。ちやほやされ慣れていた私にとってその態度は面白くなくて、一刻も早く家に帰りたいと訴える為に再び家の中に入る。言いつけを破った後ろめたさもあって、忍び足で居間へ向かった。

「――ねえアイリーン、まだあの男と別れないの?」
「……悪い人では、ないのよ」
「毎日妻と喧嘩する夫のどこが悪い人じゃないのよ。マグルなんかに嫁いだのが間違いだったと言う事がまだ分からないの?」
「うるさいわね、あなたには関係ないわ」
「アイリーンの為を思って言ってるの! 私達、一番仲が良かったじゃない……」

 子供ながら聞いてはいけない話をしているのだとすぐに分かった。見付からない内にその場を離れて、再度家を出る。
 セブルスと呼ばれた彼は、変わらずブロックに座って読書をしていた。この子、半分マグルなんだわ……。来る途中で私と母をじろじろ見ていたマグルの老人と重なって、彼が汚らわしいものに思える。私はなるべく彼の方を見ないようにまっすぐ門へ向かった。玄関から数歩で着いてしまう距離にびっくりしながら門に手をかけると、初めて向こうから声をかけられる。

「外に出たらだめだ」
「良いでしょ別に。私の勝手よ」
「良くない。僕は君の面倒を見るように言われたんだ」
「違うわ! お母様は『私と遊んでも良い』って、あなたに許可したのよ!」

 私はその日見たものや起きた出来事全てにイライラしていた。
 彼は読んでいた本を閉じて、溜め息まじりに私を見やる。やっと何かが思い通りになったとほんの少しだけ機嫌を直す私を他所に、彼は心底面倒くさそうに口を開いた。

「どっちでも良いけど、これ以上僕の邪魔をしないでくれるか?」

 放たれた言葉には私に対する関心なんて微塵も感じられなくて、直りかけていた機嫌はまたどん底まで悪くなる。あの頃の私は何に対しても大袈裟で、その時は自分が世界で一番不幸な女の子になったのだと思っていた。

「……何よ、純血じゃないくせに」

 泣いてしまいそうになるのを堪えながら、私は彼を睨む。彼は一瞬だけ驚いた顔を見せた後、明らかな敵意を私に向けた。

「黙れ! お前に何が分かる!!」

 誰かの怒鳴り声を聞いたのは初めてで、それも男の子のだったものだから私は酷く驚いた。今思えば、私に怒鳴る彼を見たのはこれが最初で最後だった。彼が怪獣に変身して襲ってくるのではないかと怖くなり、門を押し開いて走り出す。制止の声が聞こえた気がしたけど、おかまい無しに逃げ出した。

 オーダーメイドの靴が汚れてしまうのも構わずに走って、気が付いた時には廃工場の敷地に足を踏み入れていた。よく分からない水がそこらかしこを流れているのも気持ち悪かったし、あの建物の陰から鬼婆が出てきて食べられたらどうしようと不安になる。何もかもが思い通りにならなくて、心細くて、涙は次から次へと溢れた。

 しゃがみ込んだまま、どれくらい泣いていたのかは覚えていない。カラン、と何かが動く音がして、母が迎えに来てくれたのだと思って顔を上げると、獰猛な顔つきをした野犬が唸っていた。

「あ、や、やだぁ……っ」

 野犬からしたら、新鮮な肉が縄張りまで来てくれたと言う事だろう。涎を垂らしながら理性のない瞳を向けられて、私は完全に足がすくんで動けなくなっていた。飛びかかられる瞬間は思わず目を瞑ってしまう。ここで死んじゃうんだ、痛いのは嫌だ、と思っていたにも関わらず、いつまで経っても牙が肌に食い込む感覚はなかった。
 恐る恐る目を開ける。目の前には私を嫌っているはずの彼が立っていて、勇敢にも野犬と対峙していたのだ。彼が犬に向かって何かの小瓶を投げ付ける。瓶が割れて中の液体が掛かったところから煙が上がった。犬は苦しそうに鳴き声を2、3漏らして、いつの間にか泡を吹いて死んでいた。

「大丈夫か?」
「いま、の……どうやって……?」
「なんでも蒸発する薬。作った後ポケットに入れっぱなしにしてたんだ」
「教わってもいないのに、もう薬が作れるの!?」
「本を読めばだいたい分かる」
「すごいわ! 天才じゃない!」

 野犬に怯えていた恐怖も忘れ、私は彼に詰め寄る。陰気くさいと蔑んでいた瞳や、鬱陶しい長い髪も気にならなくなっていた。子供の頃の私は本当に単純で、自分を助けてくれた彼が大好きな童話に出て来る騎士に見えたのだ。

「えっと、セブルスだっけ?」

 さっさと歩き出した背中を追いかけながら、私の口は止まる事なく動き続ける。ついさっきまでの不機嫌なんて忘れてしまっていた。

「私はナマエよ。覚えておいてね」
「言われなくても。僕は名前すら覚えられないウスノロじゃない」
「父親がマグルだって聞いた時は驚いたけれど、こんなに優秀なら混血じゃあもったいないわね……そうだ、半純血って事にしちゃいましょうよ!」

 それが良いわ、とひとりで盛り上がって手を叩く。すると彼は不思議な物を見るような目で私の顔をまじまじと眺めた。これが初めて目の合った瞬間だったと言う事を、大人になった今でも覚えている。

「どうしたの?」
「いや……僕以外にも、半純血なんて思い付く子がいたんだな」
「あら、それって素敵!」

 家に着いてからも、玄関先のブロックに腰掛け本を読む彼の横で私はひとり、他愛のない事を話し続けていた。彼は面倒くさそうにしながらも相づちを打ってくれて、私にはそれが嬉しくてたまらなかったのだ。

「セブルスももうすぐホグワーツなんでしょ? 楽しみね!」
「ああ、そうだな」

 彼は遠くを見つめ、初めて微笑みのようなものを浮かべた。しかめっ面以外の顔はできないと思い込んでいたので、珍しい魔法生物でも見た時と同じくらい驚いたと思う。その時は「私に毎日会えるんだもの、当然よね」なんて思い上がりも良い事を考えていて、その微笑みが何を想ってのものかなんて想像もしなかったのだ。

*****

 机上の物を処分するのに時間はかからなかった。重い腰を上げ、私は本棚の前に立つ。全ての物が足りないくらいのこの家で、十二分にあるのは書物ぐらいだろうか。本当に、あの人は勉強に関してはなけなしの情熱を注いでいたと、この家の主人を思い出した。無数にある本の中には価値のある物も含まれているのかもしれないけれど、そんな事などおかまい無しに端から暖炉に入れる。彼が傾倒していた研究と言えば闇の魔術に関連する物ばかりで、これからの世には必要のないものだ。

 幾分か空いた本棚に我ながら感心しつつも、次の本を手に取る。なかなかに劣化したその表紙には〝中級変身術〟と書かれていた。教科書は全て寄贈したと思っていたのに、珍しい事もあるものだわ……と、なんの気なしにページをめくる。真ん中の辺りで彼の物とは思えない可愛らしい書体で『この間はありがとう。ここは変身させる物の質感を特にイメージすると成功しやすいわ』と書かれていて、ああ、道理で、と納得してしまった。本を閉じる。中級変身術と言えば、4年生の時の教科書だった。

 4年生の〝あの日〟の出来事は、私にとっての最愛で、最悪の記憶だ。

*****

 クリスマス休暇を控えた寒い日だった。金曜日までに魔法史のレポートを書き上げないといけなくて、私とセブルスは図書館で羊皮紙と睨み合っていたのだ。私も彼も魔法史は苦手で、何冊もの本を互いの脇に積み何度もページをめくった事を覚えている。

「ああ、もう。やめよ、やめ!」
「……少しは静かに集中出来ないのか?」
「だって私が生まれる前の事なんて知ったこっちゃないじゃない!」

 ゴホン、通りがかりのマダム・ピンスがわざとらしい咳払いをし、何か言いたげな目線を寄越す。しまったと思って、私は積み上げた本の間に隠れた。セブルスは目線も上げずひたすら参考書に指を滑らせている。その早さでちゃんと文章も読めているのだと言うのだから、毎回感心せずにはいられなかった。

「追い出される前に終わらせたらどうだ?」
「はーい」

 未だ本に夢中のセブルスの真似をして、私も手近のものを広げる。レポートのテーマとして出題されている項目のページを開き、読み進めるフリをして彼の顔を盗み見た。これは当時の私の得意技と言っても良かったくらい、頻繁に行っていた気がする。

 出会ってから3年でセブルスは随分変わった。ホグワーツできちんと3食採っているからか、入学前は私の方が大きい位だったのに今や私の方が見下ろされている。重たい黒髪は相変わらずだけれど、その奥に隠れる学者然とした瞳の魅力を私は見逃しはしなかった。……ルームメイトのキャシーに言ったら、「あなたって趣味が悪かったのね」とゲロでも吐きそうな顔をされたけれど。

 11歳の夏の日、野犬に襲われた私を助けてくれてから、セブルスはずっと私の騎士だった。ホグワーツに入学してからはなるべく一緒に行動して、互いに友人と呼べるくらいには仲良くなったと思う。誰よりも闇の魔術についての知識があって、スリザリン生にすら不気味がられている彼だったから、ぶっきらぼうながらも我が侭な私にいつも付き合ってくれる優しさがある事を知っているのは私だけだと自信があった。

 何かレポートに使える文章を見付けたのか、セブルスが本を机において羽ペンを取る。私はすかさず目線を本に戻し、今まで勉強していた風を装った。いくら盗み見が得意だからと言って、ずっと見ていては流石にバレてしまう。

 それから私の集中力はやっぱり10分ももたなくて、レポートだってあと5インチも残っているのに何を書いたら良いのか分からなくなっていた。

「ねえセブルス、ここの『我々魔法族が、実際に才能を示した若者をマグルの魔女裁判で見かけた時』って所なんだけ、ど……」

 最早魔法史の参考書なのか、マグル学の参考書なのかも定かではないその本を、彼に押し付けて解説をしてもらおうと思っていた。あわよくば次に繋がる文章でも考えてくれないかな、なんて思惑は、一瞬にして吹き飛んだ。

 遠くを見つめ、切なく眉を寄せるセブルスの横顔が、あまりにも美しかったから。

 いつの間に羊皮紙から顔を上げたのだろう。羽ペンの動きを止めたのだろう。私がどれだけ話しかけても、目線すら寄越してはくれなかったのに。

 彼の視線を辿る。マダム・ピンスが鎮座するカウンターで、目を引く赤毛の女子生徒が本を返却していた。リリー・エヴァンス――私よりも先にセブルスに出会った、グリフィンドールの女の子。

 彼女が返却手続きを終え、勉強場所を探そうと本棚の向こう側に消える。私は周りの本の山を杖で軽く叩いた。それだけで本は元々収められていた場所に自ら帰って行く。

「ナマエ、何をするんだ!?」
「もう資料なんていらないでしょ? 行きましょう。私、紅茶が飲みたいの」

 セブルスの分の荷物まで自分の鞄に入れて、問答無用で彼の手を引いて歩き出す。図書館から出て地下牢に向かうまで一言も話さなかった。

「ナマエ! ナマエ?……まったく、どうして君はいつもそう勝手なんだ」
「だってっ!!」

 溜め息まじりのセブルスの声は私の神経を逆撫でした。廊下の真ん中で止まり、人目も厭わず彼を睨みつける。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。

「私達はスリザリン生だもの! スリザリンの談話室でレポートを仕上げても、誰も文句は言わないわ!」

 スリザリンを強調したのはわざとだった。あの子の首にぶら下がっているネクタイと、私達のネクタイの色の違いを彼に思い出して欲しかったから。
 マダム・ピンスがうるさいから、本当は図書館なんて嫌い……。
 取って付けたように言い訳をすると、セブルスはもう一度溜め息を吐いて私を追い抜かす。

「行こう。僕も丁度、図書館が騒がしくなってきたと思っていた」

 すたすたと寮への道を進む彼に今度は置いて行かれぬよう、小さく頷いて私は彼のローブを握り締めて後ろを着いて行った。

「愛してるわ、セブルス……お兄ちゃんみたい」
「ここまで世話を焼いて嫌いと言われたら、今夜のお前のゴブレッドにトロールの鼻くそを入れてやるところだ」

 昔から何度も『愛している』と伝えているのに、本気だと捉えてもらえた事は一度たりともなかった。その理由を目の当たりにしてしまって、私は初めて『兄のように慕っている』と好きの理由に嘘をついた。

「セブルスも好きって言って」
「……僕も愛している。友人としてな」

 1年生の頃、私の愛しているを無視したセブルスに癇癪を起こしてから、彼は不機嫌な顔を更に不機嫌そうに歪めてそう返してくれるようになった。こんな台詞他の誰にも言わないだろうなんて事、私が一番よく知っていたから、少し勘違いをしていたのだ。

 知らなかった。セブルスがあんなに綺麗な顔をする事を。
 知りたくなかった。知ってしまった。
 私では彼をあんな風に、美しい人にはできない。

 それでもセブルスが私の我が侭を許してくれるから、私はいつだって彼に甘えずにはいられないのだ。

*****

〝中級変身術〟が燃え尽きるまでの間、私は呆然と炎を眺めていた。灰すら跡形も無くなるまで見届けて、私は心の隅で「ざまあみろ」と毒づく。同時に、大人になっても変わらない傲慢な自分を自覚して嫌になった。

「あー、もう!」

 ベルトに挟んでいた杖を取り出し、残りの本の背表紙をなぞっていく。最後に〝ビューン ヒョイ〟の勢いで暖炉に杖先を向けると、本は我先にと暖炉に飛び込んだ。炎は一回り大きくなり、あっという間に行列を喰らい尽くす。壁を埋め尽くす本棚が空になったのを見て、最初からこうしておけば良かったとあごを出さずにはいられなかった。

 リビングの片付けが粗方終わり、疲れも見えてきた私は休憩を取る事にした。部屋の奥に申し訳程度に伸びているキッチンに向かって、オーブンすぐ横の戸棚を開ける。記憶と変わらぬ場所にケトルとマグカップが並べられていて、無性に安堵した。
 水道やガスはまだ通っていると事前に聞いていた。ケトルとマグカップを洗い、湯を沸かしている間に換気扇から2つ右のキャビネットを開ける。やっぱり変わらないまま、ティーバックの入った容器が几帳面に並んでいた。買ってきた紙箱のままのビルダーズティーがセブルスの物で、密閉型のガラス瓶に移し替えられた数種類の茶葉が私の用意した物だ。20年も置いてあるのに、中のティーバックが減った様子は無い。いつも教科書通りのミルクティーしか飲まない彼は、私の淹れる紅茶は華やか過ぎると前に言っていた。容器には劣化防止の魔法をかけてあったので、蓋を開けても当時と変わらず華やかな香りが私の鼻をくすぐった。ひとつ取り出してマグカップに入れ、ちょうど沸騰したお湯を注ぐと、心地良い香りがキッチンに広がる。

 マグカップを片手にリビングへ戻る。もう一方の手で杖を操り、キャビネットの中のティーバッグを炎に放り入れたのを忘れなかった。

*****

 私がこの家で暮らし始めたのは、人生で20回目のイースターを終えた後の事だった。その頃既に彼の父親は行方が知れなくなっていて、母親は聖マンゴで入退院を繰り返していたと覚えている。
 その日はセブルスをミョウジ家に呼んで、夕飯を済ませてから彼に着いて帰ってきたのだ。スピナーズ・エンドに到着するなり、セブルスは座りもせずに私を問いつめた。

「……ナマエ、どう言う事だ。私が君の、婚約者だって?」
「そうよ。お父様がそろそろ私の婚約者を決めるって言うからセブルスを推薦したら、本当にそうなっちゃった!」
「冗談もほどほどにとあれほど……!」
「あら、本気よ。これはお互いの為でもあるんだから」

 よほど動揺しているのか、彼の口から上手い言葉が出て来ないのを良い事に私は畳み掛ける。なんでも無い事なのよ、と装うつもりで、彼のキッチンを勝手に使って紅茶を淹れ始めた。

「ホグワーツ在学中は『誰か私の夫に相応しい人はいないかしら?』ってチェックしていたけれど、みんなパッとしないんですもの。年下はありえないし、そうなるとよく分からないおっさんと結婚させられるって事でしょ!? セブルスだって、パーキンソン家のパグ顔3姉妹からどれか1人選びなさいって言われるより、私と結婚した方がマシだと思わない?」

 この日の為に何度も練習した台詞は、想像していたよりもスラスラと口から飛び出した。
 ケトルから湯気が出たので、ガスストーブの火を止める。2つ並んだマグカップにお湯を注ぐと、ティーバッグの周りのお湯がじわりと赤茶色に変わった。似たような髪色の〝あの子〟を思い出さずにはいられない。憎たらしくなって、いつもより多めにミルクを注いだ。グリフィンドールだった彼女は、なんのしがらみもなく好きな人と結婚したらしい。

 でも、私達は、

「……どうせスリザリン以外、許されるわけないんだから」

 聞いたわよ、男の子なんですってね? なんて言葉が口から出そうになったけれど、そこまでセブルスを傷付ける事は出来なかった。
 リリー・エヴァンスがリリー・ポッターになってから既に2年が経っていて、それでも諦めきれなかった彼も、あの女のお腹に他人の子供がいる今なら現実を受け入れるかもしれない。……そこにつけ込む自分が一番卑怯だなんて事は、痛いくらい理解していた。

「…………分かった。受けよう」
「流石セブルス、愛してるわ!」
「私も愛してるよ。まぁもっとも、」
「本当に? ありがとう!」

 彼の言葉に被せるようにしてはしゃぎ、勢い良く抱きつく。「I love you too」の後に『友人として』と続けられる事は分かりきっていたけど、今日くらいはそれが聞こえる前に彼を黙らせたかった。

*****

 短い休憩を終えて、残るは上の階だった。隠し扉を開けて狭くて歪んだ階段を上がると、左右に部屋がひとつずつある。右手の扉を開ければ、中には段ボールが無造作に積まれていた。それぞれにセブルスの無骨な字か、私の殴り書きで何が入っているかが書かれている。ここは幼い頃のセブルスの部屋で、彼の母親が亡くなってからは物置となっていた。そして本当なら、私の部屋になるはずの場所だった。

 一番近くの箱を開ける。私の字で『パーティ用』と書かれたその中には、20年前に流行っていた型のドレスが詰め込まれてあった。今更着れるはずもなく、杖を振って箱ごと下の暖炉に飛び込むように魔法をかける。この家に住んでいたのは2ヶ月くらいの出来事だったからか、4回同じ確認を繰り返しただけで私の物はなくなってしまった。

*****

「別れましょう、私達」

 婚約をしたその年の夏の終わり、解消を切り出したのも私からだった。私は既にスピナーズ・エンドに引っ越しを住ませていて、セブルスが幼い頃使っていた部屋で開ける気のない段ボールに囲まれて暮らしていた。にも関わらず私達が顔を合わせる時間は以前より減り、セブルスが大半の時間を死喰い人の活動に宛てている事をその時初めて知ったのだ。

 実家にいた頃は、むしろミョウジ家の屋敷でセブルスを見る事が多かった。父は死喰い人でこそなかったけれど例のあの人を支持していたし、兄に至っては完全に入れ込んでいたので、屋敷での晩餐会には必ず関係者が招待されていたから。私はお馬鹿な箱入り娘と言う立場のおかげで死喰い人にはならずに済んで、しかも彼らが難しい話を終えた後はセブルスを食後のティータイムに誘う事も出来たのだ。

 セブルスの匂いのするこの家で、彼の帰りを待つ時間は想像以上に長く感じられた。雄鶏が鳴くまで待ってやっと玄関の開く音を聞いたとしても、彼ときたら「起きていたのか」の一言で寝室に向かってしまう。
 時々休みができた時、セブルスは1日中リビングで本を読んでいて、私の一方的な話にぞんざいな相づちを打ってくれる。そうやって一緒に過ごしている時間は何よりも楽しかったけれど、その分次の日の朝の静寂は、いつもより耳鳴りを酷くした。

 どんな理由でも良いから好意を向けて欲しい、傍にいたいなんて期間はとうに過ぎていて、最近は「愛している」と言われるほど悲しみだけが心臓を握りつぶそうとしてくる。自分勝手な理由で始めたおままごとのような同棲生活は、結局セブルスの事は何ひとつ変えず、ただ私を憔悴させただけだった。

「私達はひどく喧嘩をしたの。お互いもう限界で、先に家を飛び出したのは私の方だった」
「話が見えないのだが」

 セブルスは不機嫌そうな顔のまま、日刊予言者新聞から顔も上げなかった。きっとまた私が冗談を言っているか、些細な事で癇癪を起こしているのだと思っているのだろう。

「……だからセブルスがどこに行こうが、何をしようが私の知ったこっちゃない。セブルスも夜な夜な忍び足でどこかへ向かう必要も無い」

 セブルスがやっと新聞から目を離す。こちらをまじまじと見つめて、まるでトロールがOWL試験に合格したのを見たような表情だった。

「お前、知っていたのか?」

 何を、とはセブルスも言わない。誰かが裏切って自分の属する派閥に不利に動くかもしれないと言うこの世の中で、親しい者にすら自分のしっぽをつかませるような発言をしないのが、例のあの人に付随する彼らの行動である事はよく知っていた。

「だから言ったでしょ? 知った事じゃないの」

 夏の初め頃から、セブルスは夜中に家を抜け出す事が何度かあった。どこに行っているのかまでは知らないけれど、最近例のあの人が躍起になってポッター一家を探していると言う噂を聞けばだいたいの想像はつく。幸い私は死喰い人ではないから、彼の密会相手が例のあの人に都合の悪い人物でも告げ口などするつもりはない。でも私がここからいなくなればセブルスだって随分動き易くなるだろうし、何より私自身が閉まる扉の音に嫉妬しなくて済むのだ。

「セブルスと初めて会ったのはホグワーツに入学する直前で、その時からずっとあなたには色んな我が侭を聞いてもらっていたわね」

 懐かしむように話を逸らすと、もうどうにもならないと分かったのか、セブルスは溜め息を吐くように「そうだな」と言う。珍しく彼の方から紅茶を淹れてくれて、私好みの甘いチャイティーを手渡してくれた。その時の彼の表情を、私はよく覚えていない。

「身勝手なお前のお守りを9年もしてきたのだと思うと、自分で自分に功労賞を贈りたくなる」
「これで最後だって約束するわ。もうセブルスに我が侭は言わない」

 だから、お願い。そう言う代わりにセブルスを見つめると、重たい髪の隙間から覗く瞳を見付けた。

「勝手にしろ」

 なんの感情も込めずにセブルスは答えて、顔を逸らす。その横顔は悲しいくらいいつも通りで、いつか見た美しい彼とはほど遠かった。

 それが生きたセブルスの顔を見た最後の時だった。私はその夜の内に実家へ戻り、去年までボーバトンで英国式呪文学の教鞭をとっていたのだ。そして父がアズカバンで発狂し、兄も死喰い人として戦って死んだと知らせが入って帰国した私は、数十の戦死者に紛れる彼の遺体を目の当たりにした。

*****

 物置部屋は思っていたよりも早く空になった。途中から中身の確認をやめてひたすら杖を振っていたおかげかもしれない。
 最後に残った部屋はセブルスの寝室だった。廊下に戻り左手の扉に手をかけるけれど、一瞬入るのを躊躇う。ここに足を踏み入れるのは、彼との長い付き合いの中で一度も無かったから。

 丁寧に呼吸をして、ドアノブを回す。蝶つがいの軋む音と共に、部屋は呆気無く私を迎え入れた。中には1階の物よりも小ぶりの暖炉があったので、これ幸いと火付けの呪文を唱える。ぐるりと見回すと、部屋はベッドとナイトテーブル、それに無造作に積まれた本だけで作られていた。テーブルの上には額縁があり、珍しい事もあるものだと持ち上げる。写真なんて撮るような人ではなかったけれど、簡単な話だった。

 額縁の中には切り取られた写真の一部と、同じように手紙の破片が入っていたのだ。愛らしい字で『愛を込めて リリー』と書かれた横で、深い赤毛の女がこちらに手を振っている。写真の中の人物が目を細めた所で、微笑みを作る前に炎に投げ入れてやった。

 かつてセブルスの両親も使っていたであろうベッドはキングサイズだったので、縮ませる呪文でてのひらサイズにしてからこれも暖炉に入れる。難しい表題が書かれた本の山も1階と同じ要領で処分が終わった。ベッドサイドのナイトテーブルだけが残り、一抹の罪悪感を覚えながら最後に引き出しを開ける。中には小さな箱と封筒だけが隠すようにして保管されていた。

 まさかこれも彼女に宛てたのかしら――?

 いっその事哀れに思いながら封筒の開ける。罪悪感がいっそう深まったけれど、確かめずにはいられなかった。中身はシンプルなカードで、ぶっきらぼうな、けれど真面目に角張った文字が綴られていた。

『ナマエが結婚相手で良かったと思っている。君は私の一番の友人であり家族だ。――セブルス』

 思いも寄らぬものに開いた口が塞がらない。何かに急かされるように箱を開けると、そこには同じデザインの指輪がふたつ鎮座していた。
 足の力が抜けてその場に座り込む。こんな物あるなんて知らなかった。私との結婚に積極的な素振りなんて、最後まで見せてくれなかったのに。

……あぁ、もう無理みたいね。感傷に浸っては作業が進まないからと、必死で考える事を抑えていたけれど。私もセブルスの事なんて責められないくらい、今でも彼を想っている。
 ねえ、セブルス。本当はね、あなたが死んで、少しほっとしているの。だってあなたが想い続けたその人に、天国でやっと会えているのでしょう? 泣きたくなるくらい綺麗だったあの時の横顔を私に向けてくれる事はなかったけれど、おつりでオリバンダーの杖が店ごと変えるくらい、代わりに色々なものを与えてくれたもの。「友人として」がついぞ取れる事はなかったけど、あなたが愛していると言える相手は私だけだったわ。それ以上何を望むと言うの?

 もう私の我が侭なんて聞かなくていいから、どうか、安らかに眠って。

 最後に少しでも想いが報われたからだろうか。私は軽い気持ちで立ち上がり、そっと指輪を暖炉にくべる。魔法の炎はそれすらゆっくり溶かし、灰に変えてくれた。







押して頂けると励みになります。無記名一言感想大歓迎です!