雨曇に滲む矜恃


窓から見えるのは、今にも雨の降りそうな曇り空。寒々しい廊下を歩く速度がだんだん早くなる。
早く早くと心は焦るばかりで。今にも走りだそうとする足をなんとか宥め、教室の前に立つ。
深呼吸をして扉に手をかけ、開け放てば。

「おはよ! あれ?越前くん」
「…はよ」

読んでいた教科書から顔を上げ、こちらに笑いかける彼女。その姿に内心どきりとしながらも平静を装う。

「どうしたの? こんな時間に来るなんて珍しいね」
「あー…部活の朝練、あると思って来たんだけど…なかったんだよね」
「そっか、今日からテスト期間だもんね。ていうか越前くんでもそんな失敗するんだ」

くすくす笑うみょうじ。まあもちろん嘘なんだけど。始業前の誰もいない教室でみょうじと二人きりになりたかった、ただそれだけ。
他の生徒が来るまでの数十分か、それともたった数分か。短い時間でもいい。誰にも邪魔されずに話せれば、それで。
――それでよかった、はずなのに。

「……みょうじってさ、好きな人いるの?」

しまった、と。言ってしまってから口を噤む。されど言葉は戻らない。
ひやりとしたものが背筋を走ってゆく。

「突然、どうしたの?」
「いや…特に意味はないんだけど。ちょっと、気になって」

目をちょっと見開いて驚いた様子の彼女に、言葉を濁した。
どくりどくり、心臓の脈打つ音があまりにも大きくて。みょうじにも聞こえているんじゃないか、なんて危惧する。

「で、どうなの」

知りたくない、だけど知りたくて。堪えきれずに急かしてしまう。
ああ、もし彼女に好きな人がいたら? それが自分だったら?
でも。自分じゃ、なかったら。

「いない、けど…」

視線を迷わせ少し眉を寄せて、彼女は答えた。意図がつかめない様子のみょうじに、内心で息をつく。
安堵と落胆。そのどちらもが色濃い。
こんな自分をらしくないとは思う。なんだか違う人間みたいだ、と。
それでもみょうじ相手だと、どうしても慎重にならざるをえない。

「そ、っか」

歯切れ悪く返事するオレに小首を傾げるみょうじ。
さらりと艶やかな髪が流れる。シャンプーの匂いさえ薫った気がして目眩がした。
彼女の一挙一動が、オレを捉えて離さない。

「越前くんは、好きな子いるの?」

放たれた台詞。それに微かに体が震えるけれど、悟らせまいと頬をかく。
静まっていた鼓動がまたうるさくなって。彼女から目を逸らすのは、唇が微かに震えるのは。
好きな子、なんて。アンタ以外にいるわけがない。

「……っおれ、は」

逡巡する。言ってしまおうか。そうすれば楽になれるだろうか。
でも、彼女は好きな人はいないと言った。それなら告白しても失恋するだけ?
だけど、それでも、ああ。
伝えてしまいたい。その誘惑がオレを掴んで離さない。

「越前、くん?」
――すき、だ。

はっとして改めて前を見る。困惑と心配が綯い交ぜになったような表情のみょうじ。
ああダメだと、寸でのところで零れそうになった言葉を飲み込む。

「何でもない。……オレもいない、かな」
「そう…なんだ」
「っ、それよりさ――」

まだ思案顔の彼女に別の話題を振る。苦しい胸を抱えて。
それでも強がって何でもないふりを続けるのは、男としてのプライドってやつで。
ねえ。溢れて零れる前に、この気持ちをきっと伝えるから。
だから今だけは。アンタのことになると臆病になってしまうオレを、どうか許して。