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 最初に彼女を見かけたのは、リハビリの為に通っていたトレーニングジムでの事だった。
 退院してすぐ、俺は失った体力を一刻も早く取り戻す為に、無理を承知でジムに通っていたのだ。長い間甘やかされた身体は思うように動くはずがなく、なかなか伸びない成績に苛立ちが募っていた。
 そんな中で俺の目に飛び込んで来たのはランニングマシーンで汗を流す少女だった。歳は俺と同じくらいだろうか。中学生が一般施設であるここにいるのが珍しいからか、つい様子をうかがってしまう。捲った袖から覗く腕やハーフパンツから伸びる足は、クラスの女子にありがちな、こちらが不安になる細さではなく程よく引き締まっていて健康的だった。
 苦しそうにするでもなく淡々と息を弾ませ、髪を揺らしながら走る姿がやけに輝いて見えて目が離せない。あんな風にまた走れたらどんなに良いだろうか、と羨ましくもあった。

 名前も知らない彼女が頭の中から消えてくれなくて、気が付けば俺はジムを訪れる度に彼女の影を探したけれど、結局彼女が再び姿を現す事はなかった。

 今思えば、俺はその時から彼女に惹かれていたのかもしれない。

*****

 次に彼女が視界に飛び込んで来たのは遅刻しかけていたある朝の事だった。
 急ぐ俺の目の前を、同じように慌てた彼女が走り抜けて行ったのだ。しかもよく見ると、彼女は俺と同じ立海大の制服を着ているではないか。ずっと忘れられなかった少女が思ったよりも近くにいる事を知って、俺は呆気に取られる。校内で彼女とすれ違った覚えはないけれど仕方ない。俺の通う学校は中学生だけでも2600人以上いる大きな学校なのだ。

「……あんな顔もするんだ」

 初めて見かけた時とは違う、感情を伴った表情は新鮮で……とは言ってもまだ一度しか見かけていないけれど。俺はその頃ジムへ行く度に彼女を思い出していたので、いつしか彼女とは何度も会った気になっていたのだ。
 とにかく、俺は驚くと同時になんだか嬉しかった。

*****

 3度目は一方的に目撃したのではなく、ちゃんと会話をする事が出来た。
 それは全国大会も終わった頃、ルノワールの展示会を見に訪れた美術館での事だ。物販コーナーにあった画集に思わず手を伸ばしたら、隣にいたのが彼女だったのだ。

「「あ、」」

 心臓が跳ね上がる。
 運命だと、思った。

 同じ市内とは言え、違う場所で意図せず3回も会えるなんて!

「すみません」
「あ、いえ、私の方こそ……」

 それだけ言って、彼女の視線はすぐに画集へと戻っていく。彼女が俺と同じものを好きなのは嬉しかったけれど、それ以上に彼女の視線を取り戻したくて俺は口を開いた。

「……ルノワール」

 俺に話しかけられたのが意外だったようで、彼女は「へ?」と間の抜けた声を出す。また新しい一面が見られた気がして胸が弾んだ。はやる気持ちを抑えるように、俺は画集に視線を戻す。

「好きなんだね」
「……うん。あなたも?」
「ああ。俺も、大好きだ」

 控えめに返された言葉に俺は頷く。自身で紡いだ言葉は驚くほどすぅと胸の中に染み込み、俺はいつの間にか彼女に恋をしていたのだと自覚した。これは彼女に向けた言葉だったのだ。
 気が付いた途端なんだかおかしく思えてきて、俺の口角は上がっていく。それを誤摩化すように再度声を出した。

「結構“する”みたいだから、流石にお小遣いじゃ買えないんだけどね」

 違和感がないと良いのだけれど、と心配する俺を他所に、彼女は「そうだね、私もちょっと買えないなぁ」と苦笑する。そして何気なくその場から離れると、迷った末にレジ横のポストカードを1枚買っていた。

『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』――あまりにも有名すぎるその絵画は、俺にとってもお気に入りの作品だ。
 俺も同じポストカードを購入するのに躊躇はなかった。

*****

 全国大会が終わった後も、俺は変わらずテニス部に通い続けていた。部長の座を玉川に引き継いだと言えども彼はまだ不慣れな事もあるようだし、来年の立海が優勝を奪い返せるよう指導する責任がある。
 そう思っていたのはレギュラー全員とも同じだったようで、あの仁王でさえ毎日通っているのには少し驚いている。
 そんな訳で、今日も黄色いボールを追いかけた俺達が帰路についたのは日暮れの頃だった。片付けを後輩に任せて、3年の元レギュラーだけで海林館を出る。

「それじゃあ、俺達は先に行くから」
『お疲れさまでしたーッ!』

 威勢の良い声を聞くと先輩として頼もしくなる。あれだけのメニューをこなしてもこれだけ元気なのだから、明日はもっと厳しくしてみようかなんて考えながら前を見ると、信じられない光景を目にした。
 他でもない、驚いた彼女の顔がそこにあったのだ。

「「あ、」」

 短い音が同時に漏れる。するとあろう事か、彼女は俺の名前を呼んだ。

「幸村くん」

 思わぬ事態に俺は目を細める。
 出会った時から彼女には驚かされっぱなしだ。

「名前、知っててくれてたんだ」
「えっと、有名だから……」

 曖昧な返事に俺は短く笑う。俺達テニス部の人気を全く感じられないほど鈍感ではないけれど、はっきりと言われると反応に困った。
 それよりも、今は彼女の方だ。向こうが俺の名前を知っている今、こちらもいつまでも“彼女”では味気ない。

「折角だし、君の名前も教えてくれるかな?」

 すると彼女が口を開くよりも先に、隣にいた子が自分の名前を捲し立てた。そして彼女を指さし、親友のみょうじなまえだと続ける。その様子に、彼女……みょうじさんは気分を害する事なく一度頷いた。きっと俺の名前もこの子に聞いたのだろう。この子はそういった事に詳しそうだ。

「そう……ふたりともよろしくね」

 軽く受け流して、俺は再びみょうじさんを見つめる。こちらを覗き返してくる瞳は驚くほど黒目が大きく、周りを囲う部分はいっそ青いほどに白い。クマもなく頬は仄かに上気していた。

「――知り合いか、幸村」

 突然真田が割って入って来て、ようやく俺は我に返る。そう言えば今は下校の途中で、後ろにはみんながいたのだった。すっかり忘れていたけれど、態度には出さない。

「みょうじさんとは、この間美術館で偶然会ったんだ」

 ね、と促すと彼女は再び頷いた。俺は満足してテニス部のみんなに語りかける。名残惜しいけど、不自然に長引かせる訳にもいかないだろう。

「そろそろ行こうか。……それじゃあ」

 またね、と続けるとみょうじさんの友人が「また明日ね!」と元気よく答えてくれた。それに便乗したのか、みょうじさんからは返事はなかったが代わりに右手を小さく振ってくれる。彼女の口元は少しだけ上がっていて、はにかんだような笑顔が可愛らしかった。

「待たせたね、真田、みんなも」

 それだけ言って歩き出す。すると何事もなかったようにみんなも俺の後ろに続いた。毎日一緒に帰る訳ではないけれど、校門までの道のりは全員同じだ。話の流れによってはどこかに寄り道する事もある。

「……どう? かっこいいでしょ、幸村くん!」

 距離を取った俺達にはもう聞こえないと思ったのだろう、明るい声が聞こえてきた。思わず歩みが遅くなる。「幸村がお目当てだったみたいじゃの」と仁王が寄って来て、からかうように耳打ちした。巧い返し方が見付からず、俺はまた曖昧に苦笑する。

「……私、真田くんの方が好みかも」

 微かに聞こえたみょうじさんの声は、俺を動揺させるには十分だった。我にも無く次の一歩が遅れ、後ろにいた柳生とぶつかりそうになる。ごめんとも言えず彼を見やると、眼鏡に反射した自分の顔が微妙な笑顔のまま強張っていた。
 取り繕うように今度は早足で歩き始める。雰囲気を察したのか言葉を発する者はいない。

「どうした幸村、顔色が悪いぞ」

 否、いた。この期に及んで空気を読まずに話しかけて来たのは、ついさっき彼女の口から名前を聞いた人物だ。いつも通り威厳ぶった顔をしているけれど、まんざらでもない様子が透けて見えて腹が立ってくる。

「……別に、なんだか動き足りないだけだよ」

 ねえ、真田。と、続ける。相づちが帰ってくる前に、俺はわざとらしいくらいの笑みを浮かべて再び口を開いた。

「今からもう一試合しよう」

 こう言ってしまえば、真田の頭の中はテニス一色となる。二つ返事で彼は了承し、俺達は駅の近くにあるストリートテニス場に向かう事となった。
 張り切る真田を他所に、蓮二はやれやれと言った様子でノートを取り出している。これを機にデータを増やすつもりなのだろう。丸井やジャッカルなんて哀れんだ目で真田を見ていたけれど、全て見なかった事にした。

……さて、今日の真田はどの五感からなくなるのかな。

 八つ当たりだなんて事は自分が一番分かっているけれど、こればかりは仕方がない。

*****

 彼女の名前を知ってから数日が経った。
 あの日は真田の五感を完全に奪ってもまだ不満で、次の日には部活のメニューを3倍にしたり。
 見兼ねた蓮二がみょうじさんについて色々教えてくれて、それによると彼女は男らしい人が好みらしい。……なるほど、あの短時間では真田が一番男らしく見えるかもしれない。この時ばかりは自分の女顔を恨みざるを得なかった。

 そして、今日。
 部活の前に屋上庭園に寄ろうと思っていた俺は、下駄箱で靴を履き替える彼女に遭遇したのだ。
 これ幸いと、本当は2回に分けて持って行くはずだった物を全て持つ。腕にバケツを引っ掛けて、肥料の袋は脇に挟めばいけるはず。最後に培養土を3袋抱えると前が見えなくなったけれど、おかまいなしに足を進めた。

 彼女の前まで来てひと呼吸置く。わざとらしくならないよう自分に言い聞かせてから、俺は一気に言葉を紡いだ。

「あれ、みょうじさんじゃないか」

 積み上げられた培養土の向こう側にいるはずの彼女からは何も聞こえない。誰だか分からないのだと気が付いて、「俺だよ、俺」と再び声をかけた。そして首を傾け、荷物の端から顔を出す。培養土の袋が大き過ぎて、彼女の顔が半分しか見えなかった。

「ゆ、幸村くん!?」

 大丈夫なの? と続けながらみょうじさんは駆け寄ってくる。これくらいの重さ、どうって事ない。の、だけれど……重たい物を持てるのだと言う、男らしさのアピールのつもりだった。

「手伝うよ」
「ありがとう。でも、これくらい大した事ないよ」
「でも……」

 軽い調子の俺に、みょうじさんはなおも食い下がる。本当に平気だったのだけれど、ふと思い直した。持って貰った方が、長く一緒にいられるじゃないか。

「じゃあ、バケツだけ持って貰っても良いかな。実はちょっと歩き辛いんだ」
「うん、分かった」

 みょうじさんはやっと安心したようで、俺の腕から器用にバケツを抜き取る。彼女がバケツの取っ手に手をかけた瞬間、指先が俺の腕に触れてドキリとした。
 そのまま連れ立って目的地の屋上庭園へと向かう。校内には誰もいなくて、聞こえるはずの喧騒もなんだかとても遠くに感じられた。
 こんな風に隣で歩ける日が来るなんて考えた事もなかった。

「これ、委員会の活動?」

 庭園まで後少しというところでみょうじさんが話しかけてくる。バケツを持ち上げて示したので、中のスコップが音を立てた。
 彼女にどう説明しようかと考えあぐねる。委員会である事はあるけれど、今日は個人的な用事だった。そう言ったら彼女は気を悪くするだろうか。

「半分正解かな」

 結局俺は曖昧に答えるだけだった。ちょうど屋上へ続く扉の前に着いたので、白々しく彼女に扉を開けるよう頼む。彼女の返答をいちいち予想して、気にする自分がもどかしい。これでは男らしいとは言えないじゃないか。
 俺がそんな事を考えているだなんて知らずに、みょうじさんは素直に扉を開けてくれた。その向こう側に広がるのは自慢の屋上庭園だ。育てた花たちを見ていると本当の事を言わないのも申し訳なくなって、俺は葛藤なんてなかったかのように告げる。

「部活を引退して時間が出来たから、ここの屋上庭園の世話を任せてもらってるんだ」

 本当は美化委員全員の仕事なんだけどね、と続けながら、俺はいつもと同じ要領で庭園用の用具入れを開けた。金属同士の擦れる音がして、ほこりが鼻を刺激する。これもいつもの事なので、おかまいなしにショベルを手に取った。

「ありがとう、助かったよ……って、みょうじさん?」

 ショベルを片手に戻ってくると、みょうじさんは呆然とした様子で庭園を見つめていた。ここで彼女を見かけた事がなかったから、彼女がここを訪れるのは初めてなのだろう。……お気に召さなかったのだろうか。

「……モネの家の庭、みたい」

 ぽつりと呟かれた言葉を合図に、俺の瞼の裏にも見渡す限りのアイリスが広がる。色彩の魔術師と呼ばれたモネの絵は、アイリスの紫がかった青だけでなく様々な色が取り入れられていた。彼女がモネまで知っているだなんて!
 それにつけてもあの素晴らしい絵画と、この庭園を比べてくれるのは素直に嬉しかった。震える声を悟られないように、俺は恐る恐る言葉を選ぶ。

「モネも好きなんだ?」
「うん。幸村くんも?」
「ああ。印象派の画家はみんな好きだよ。アイリスは春の花だから、今は咲いてないんだ。でも、あの絵に負けないくらい彩りには気を使ってる」

 嬉しくなって俺は一気に捲し立てる。今まで絵画の良さを誰に解いても話を逸らされるばかりで、一度だって話の合う人はいなかった。蓮二や柳生は知識として知っていても、美術品を趣味として嗜んでいる訳ではなかったから物足りなかったのだ。
 浮き足立っている間にも、身体は何をすべきか覚えていたらしい。自然と作業を始めると、みょうじさんが「手伝うよ」と隣に並んだ。けれどこればかりは道具も足りないし、彼女に土まみれになってもらう訳にもいかない。
 だけどもう少しここにいて欲しくて、俺は間髪入れずに口を開いた。

「その代わり、良かったら話に付き合ってよ。誰かと絵画の話が出来るなんて、思ってもみなかったよ」

 堪らずそこまで言って、はっと我に返る。嬉しくてつい饒舌になってしまった。暴れだしたいくらいの羞恥が押し寄せてきて、なんとか押し殺す為に作業に没頭する。少し喋りすぎた……引かれていないと、良いのだけれど。
 そんな俺の心配を他所に、みょうじさんは何気ない様子で口を開く。

「花にも詳しいんだ?」
「少しだけ。ガーデニングが趣味なんだ」

 しまった、と思った。あれだけ男らしさを気にしていたのに、本音がつい口を滑ってしまったのだ。彼女は呆れていないだろうか。
 自分でコントロール出来ないところで俺はまだ浮かれているらしい。当然だ。彼女と2人きりでいられるなんて、緊張しない方がおかしいじゃないか。
 早々にやる事を片付けて、ゴミをまとめて俺は立ち上がる。彼女とここで過ごす時間には後ろ髪を引かれるけれど、これ以上は俺がもたないのも事実だった。

「よし、今日はここまでかな。みょうじさん、本当にありがとう。良かったら下まで送るよ」

 にこりと笑って、みょうじさんを見つめる。彼女は俺と目が合った瞬間に噴き出した。眉尻を下げ申し訳なさそうにしながらも、鈴が転がるような声でくすくすと笑い続ける。一瞬訳が分からなくなった。しかし彼女の次の一言で、俺は身体の芯まで熱くなる。

「ほっぺに土付いてるよ」
「え!?」

 慌てて右手で乱暴に頬を拭う。作業に夢中になって気が付かなかったけれど、いつの間にか付いてしまったらしい。いつまでも取れない気がして俺は更に頬を撫でた。

「はい、ハンカチ」
「……苦労かける」

 やっぱり見当違いのところを拭いていたようで、見兼ねたみょうじさんがハンカチを差し出してくれた。淡い色使いのそれは女の子らしくて、汚してしまうのは気が引ける。それでも好意を無下にする訳にはいかず、俺は受け取った。そこでやっと、自分の右手が汚れている事に気付く。なるほど、これでは綺麗にならないはずだ。
 彼女のハンカチを使って、丁寧に土を拭き取る。茶色くなってしまった布に心がちくりと痛んだ。俺は苗を扱うかのようにハンカチをそっと畳んで、けれど彼女には返さない。

「洗って返すよ」

 俺の一言を彼女は遠慮がちに拒否したけれど、細かい土の粒は落としにくいだろうし、このまま返す訳にはいかない。だめ押しで食い下がると、向こうも折れたのか「……分かった」と呆れたように笑った。
 俺は満足してそのハンカチをポケットに仕舞うと、彼女を促して屋上を後にする。そして1階に着いたところで短い挨拶を交わして、彼女は校門の方へと向かった。
 彼女の後ろ姿をいつまでも見ていたかったけれど、指導を待っている後輩達がいる。俺は未練の糸を断ち切るようにしてテニスコートへと向かったのだった。

*****

 次の日も俺は機嫌が良く、午前中の基礎練習にも気合いが入っていた。我ながら単純だなと呆れるけれど、後輩達のレベルが上がるなら良いじゃないかと自分に言い聞かせる。折角なので赤也の指導は真田に任せて、俺は新しくレギュラーに入った2年生をコートに入れた。7割ほどの力でサーブを打ったにも関わらず、彼は球の動きに着いていけない。この調子では来年のレギュラー陣が不安だと、自然と俺の声は固くなった。

「そこ! 動きが悪いよ」

 ネットの向こう側にいる相手の肩がすくむのが見えたが、これくらいで怯んでもらっては困る。俺はもう一度サーブを打った。目が慣れて来たのか、寸でのところで彼のラケットがボールを捕らえる。すかさず俺もラケットを構えた。

 その時だ。視界の先に、彼女の姿が入って来たのは。
 魔が差したと言えば良いのだろうか、俺は強い回転をかけてボールを相手へ返す。狙いはわざと、彼がギリギリ追いつける場所だ。そんな物がスイートスポットに当たるはずもなく、彼の短い悲鳴と共にボールは明後日の方向へ飛んでいいった。――そう、俺の作意通りに。
 彼女の近くに落ちれば良いと思っていた。俺が取りに行って、少しだけ会話が出来ればと。彼女めがけて飛んで行くなんて、思ってもいなかったのだ。

「危ないッ!」

 身体が勝手に動く。金網の扉を開けるのももどかしくて、観覧席を駆け上って一直線にみょうじさんの元へ向かった。左腕で彼女をかばうように抱きしめて、右手のラケットでボールを打ち返す。黄色い軌道は綺麗に弧を描いて、それを打った彼の足下で小さく跳ねた。
 目をぎゅっと瞑り、縮こまっていたみょうじさんの肩は想像よりも華奢で、女の子なのだと言う事を全力で示している。腕の中に彼女がいるという事実も相まって、俺の脳は芯から麻痺していった。
 彼女は怖々と言った様子で目を開けて、ゆっくりと視線を上げた。半開きの唇が誘っているような錯覚すら覚えてしまう。
 目が合って、名前を呼ばれる。そこでやっと、俺は自分の口が動く事を思い出した。

「ゆ、きむら、くん」
「……大丈夫、みょうじさん?」

 放心状態の彼女は一転、すぐに目線を逸らした。シャンプーの匂いと、それから別の甘い香りが鼻をかすめて逃げていく。

「だ、だだ、大丈夫、ああありがとう!」

 俺の腕を振り払うようにしてみょうじさんは後ずさりし、あっという間に校門まで走っていってしまった。残された俺は左腕に残る温もりを噛み締めながら、身体が震えるほどの喜びを感じていた。彼女の赤く染まった頬と潤んだ瞳を思い出す。確かに手応えがあったのだ。

 ようやく、彼女の心に残る事ができた。
 このチャンス、絶対に逃がさない。







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