軍人という職業上、旧知の人間を彼岸へ送り出すという行為は幾度となくやってきた。其れでも慣れる事など無い。
 ましてや己の妻であれば、尚更。

 しかし俺の心情など御構い無しに告別式は恙無く終わり、参列者のいなくなった座敷で俺はひとり、何をするでもなく腰を下ろしていた。目の前には杉で出来た柩がひとつ、中にが横たわっている。改めて顔を覗き込むと、死化粧師の腕を抜きにしても只眠っているかのように穏やかな顔だ。「歳はとったけれど、まだまだこれからですよ」と言っていたのに、流行病で呆気なく俺を置いて逝って仕舞った顔とは到底思えない。
 思わず其の頰に手を伸ばしかけて、そして思い留まった。……だめだ、じっとしていてはしんみりしてしまう。そんな事は俺らしくも無いと云わんばかりに立ち上がる。今夜は夜通し起きてないといけないし、の遺品でも整理して気を紛らわそう。
 決意して、押入れの中から彼女の小物入れを取り出し開けたその時だった。
 見慣れたの筆跡で“若さんへ”とだけ書かれた分厚い封筒を見つけたのだ。
 取り上げて中身を出すと、何枚もの便箋が全て丁寧な字で埋まっていた。

『若さんへ
 こうして貴方へ手紙を書くのは初めてですから、なんだか少し照れてしまいます。この手紙を読む頃私はもう此の世には居ないのでしょうけれど、若さんの事だからとても御早い時期にこれを見付けてしまうのでしょうね。
 今朝は懐かしい夢を見たからか少し体調が良くて、御医者様も起き上がる事を許して下すったので、こうして筆を取った次第です。長くなって仕舞うだろうけれど、妻の最後の思い出話に御付き合い下さいな。
 若さんと初めてお会いしたのはもう遠い昔、私がまだ女学校に通う娘だった頃でしたね。……』

 らしい軽快な文面の手紙に、俺の意識も遥か昔に舞い戻って行くようだった。

 *****

 と初めて会ったのは、まだ俺が学生だった頃の話だ。あの頃俺は地方の士官学校での成績が認められ、同じように優秀だった幼馴染の鳳と共に首都軍への入隊が決定して居た。
 若い学生が急に都へ上がっても先立つ物が何も無い。けれど俺と鳳の成績は地元きっての快挙だったようで、年度が始まるまでの暫くの間、とある佐官の家に下宿出来るよう士官学校の校長が取り計らってくれたのだ。

―――― 失礼します。お茶をお持ちしましたわ」

 そこで紹介されたのがだった。少ない荷物を持ったまま屋敷の居間に案内され、近い将来俺達の上官になりゆくゆくは俺が追い越すであろう家主と対峙している時に、茶を運んで来たのが彼女だったのだ。

「おや、女中はどうした?」

 最初は随分若い女中を雇っているのだと思ったが、大佐が訝しげな顔で話しかけるのを見て考えを正す。

「夕飯の仕込みをしているわ。今日から此処に住む方がいらしたと聞いたから、お会いしたくてお茶出しを変わってもらったの」
「まったく……はしたないから、早く部屋に戻りなさい」
「はいはい」
「軍人の娘なら“はい”は一度だけだ」
「はーい」
「伸ばすで無い!」

 言葉の調子を荒げる父親を他所に、彼女は反省する様子もなく舌をチロリと出して悪戯な笑みを浮かべる。そしてこれ以上のお説教を食らう前にそそくさと立ち去った。

「済まない、あれは娘のでな。なんと言うか、少々お転婆な処がある奴なのだ」

 大佐は深いため息を吐き、愚痴染みた説明を続ける。女学校ももう直ぐ卒業だと云うのに、あれでは嫁の貰い手が無いかも知れないらしい。

「いえ、とても素敵なお嬢さんだと思います」

 しかし俺の隣に座る鳳はいつも通り万人が好印象を抱くだろう微笑みでやんわり反論する。大佐も満更でも無い様だった。

 *****


―――― あの頃の若さんはまるで不機嫌を絵に描いたような方で、少し怖かった事を覚えています。けれども実はね、初めてお会いしたあの時、私ったら若さんに一目惚れしていたんですよ。だから少しでも良く思われたくて、……ごめんなさい、嘘を書いてしまいました。本当は若さんの前に出るのが恥ずかしくて、いつも逃げてばかり居ましたの。
 ところで、若さんが御城へ行って仕舞う前の日の事を覚えておいでですか?……』


 *****

 あれはいよいよ入軍する日の前日であったから、三月も終わりの頃だっただろうか。

「あーもう、どうしたら良いのかしら!」

 与えられた部屋で、少し前に古本屋で見付けた古書を開いていたら、何やらお嬢さん(あの頃はではなくお嬢さんと呼んでいた)の声が聞こえたのだ。俺は思わず顔を上げて中庭に面した窓から様子を窺う。するとようやく暖かくなってきた春の日差しの中で、彼女が立派な桜の木を見上げて弱り切った顔をしているではないか。視線を追うと、遥か上の枝に手ぬぐいが引っかかって居る。
 洗濯物が風に飛ばされたのだろうと合点がいった時、ふとお嬢さんが此方に目を向けた。視線がぶつかる。俺は特に何も思わなかったが、彼女は大袈裟とも言える程に目を見開き、自身の顔を隠す様に両手をあてた。

さん、どうかされましたか?」

 そこへ丁度良く鳳の声が聞こえる。俺の部屋からは姿が見えないが、彼女が慌てて縁側の方へ向かったから、其処に居るのだろう。

「長太郎さん、丁度良い所に! ちょっと此方へいらしてくださいな」

 この頃になると、普段から奥方やお嬢さんの手伝いをしている鳳の姿がよく目についた。屋敷に住んでいるのは家主である大佐と奥方、そして一人娘のお嬢さんと住み込みで働く女中がひとり、それに俺と鳳の六人であった。とは言っても大佐は生活の殆どを城の兵舎で過ごし此処へは滅多に帰って来ないから、俺と鳳が来るまでは実質女ばかりの家だったのだろう。つまり俺達は体の良い男手で、俺はいつも外へ出て鍛錬をしているか部屋に篭って本を読んでいるかのどちらかなので、人の良い鳳が選ばれたという事だ。

「落ちないよう、お気を付け下さいね」
「此れ位、何て事は有りませんよ!」

 窓の外では鳳が木に登る様子をお嬢さんがハラハラと見守って居る。鳳は手ぬぐいを掴んでから手順を遡って木を降りて行き、最後に大きく跳んで地面に着地した。

「きゃあ!」
「ほら、何とも無いでしょう?」
「もう、驚かさないでくださいな!」

 くすくす、くすくす、と二人の楽しそうに談笑する声が続く。これ以上は時間の無駄だと、俺は古書に視線を戻した。


 暫くすると部屋の襖が開き、鳳が帰って来た。俺達は二人でも十分過ぎる一室で共に過ごして居る。

「随分と木登りが上手いじゃ無いか」
「なんだ、見てたなら声を掛けて呉れれば良かったのに」
「窓から偶々見えただけだ」

 それから俺はまた読書に戻りたかったのだが、鳳がそうさせて呉れなかった。今日の鳳はやけに饒舌で、お嬢さんはこれからお箏の稽古が有る事や、奥方が今日観劇に行った楽団の演奏が好きで自分も行きたかった事、後で米を買うからと女中に一緒に買い物に向かうよう頼まれた事などを矢継ぎ早に話し、そして急に黙った。

「……ねえ、日吉」
「なんだ」
「君は、さんの事をどう思ってる?」
「質問の意図が分からないが」

 俺は煩わしいと思う心を隠しもせずに鳳を見やる。しかし何かを考え込む鳳は俺の態度に気付いても居ないようで、数分黙ってから漸くまた口を開いた。

「俺、彼女の事が好きなんだ。だからもし日吉も同じ気持ちを抱いて居るのなら、正々堂々と勝負したいから言って欲しい」

 其の表情と物言いに、鳳が真剣なのだと云う事が窺えた。突拍子もない宣戦布告に一瞬驚いた後、軽蔑するように鼻で短く笑う。

「安心しろ、俺は色恋等と云う下らない事にうつつを抜かす程暇じゃ無い」

 他人であれば憤慨しそうな言葉だったが、鳳は分かり易く安堵の息を吐いた。そしてふと時計を見やり、そろそろ買い物の時間だと云って立ち上がる。
 
 ようやく静かになる部屋で、俺は読書を再開する前にふと先程のお嬢さんの姿を思い出した。彼女の俺に対する態度は出会った時からあの様な物だった。同じ建物の中に住んで居る訳だから少しの世間話くらいはするが、大体の場合彼女は俺と目が合うとああやって急いで何処かへ隠れてしまう。
 俺は恐らく彼女に怖がられ、避けられて居るのだろう。だから鳳が家の事を手伝うのは妥当な流れだし、其処から二人の距離が近付いたのも、まあ自然な事だ。

 何も別段珍しい事ではない。俺は自分が仏頂面で皮肉屋である事に自覚があったし、田舎に居た時も同年代で俺の事を苦手だと云う輩は男女問わず多かった。棘の在る物言いを意にも介さずに接して来たのは、あの御人好しを絵に描いたような鳳だけだったのだ。
 其の事に不満が有る訳では無い。何故なら俺の目的は下剋上―――― 田舎出身の貴族の次男坊と言う肩書きを脱し、この国のトップになる事―――― 唯其れだけなのだから。

「鳳」

 部屋を出て行こうと襖を開ける鳳に声を掛け、引き止める。「なんだい?」と振り返る鳳を見据え、俺は続けた。

「お前は何の為に軍人になる?」
「此の国の役に立ちたいからだよ。其れと今は、大切な人を守りたい」

 なんて、照れくさいけどね。などと続けながら、鳳は頭の後ろを掻く。

「其れがどうかした?」
「いや、ふと訊いてみたくなっただけだ」

 其れ以上疑問に思う事も無かった様で、鳳は今度こそ部屋を立去った。俺は今更読書に戻る気にもなれず、本を閉じて外の様子を眺める。ここは王家の敷地から程近く、垣根の外から立派な城が見えた。
 此の国は跡部家と言う一族が支配し、跡部家は王族であると同時に軍のトップに君臨している。だからこうして首都の軍に入隊出来ると言う事は、俺の下剋上の第一歩なのだ。
 だから、鳳が他の事に夢中になると云うのは、ライバルが一人減って清々すると云う物だった。


 次の日から軍の宿舎に行って仕舞うからと云う事で、其の夜は女中と奥方、それにお嬢さんも手伝って(料理が出来ると云うのは正直意外だった)三人がかりで豪勢な夕食を作ってくれたのを覚えている。料理は所狭しと机に並べられ、大佐も俺達のひとつ先輩に当たると云う宍戸さんと向日さんなる人物を連れて宿舎から駆けつけてくれた。其の夜は正月並みの賑やかさだった。

 夜も深くなった頃に大佐が寝室に下がり、宿舎に帰る宍戸さんと向日さんを通りの先まで見送って、俺もそのまま寝室に入ろうと思っていた。俺と鳳の部屋までは玄関を抜けるよりも中庭に回り込んだ方が早い。だからいつも通りそうすると、庭の隅で啜り哭く小さな声がしたのだ。咄嗟に先日購入した古書に記されていた話を思い出す。あれには確か、古い屋敷には必ず何か霊的な物が住んで居ると書かれていた。

「其処、誰か居るのか?」

 不思議な事を期待して声を掛けると、桜の木の向こうで息を飲む声が聞こえる。其処に誰か居るのは確かで、俺は盗人の可能性も考えて回り込んで正体を確かめた。すると其処に居たのは、涙で頰を濡らしたお嬢さんだったのだ。

「お嬢さん……?」
「若、さん、」

 涙が月の光を反射し、お嬢さんの睫毛と、頰と、赤く晴れた目元を星を散りばめた様に薄っすらと輝かせて居た。ふらふらと何処か頼りない瞳に俺が映り込み、直ぐにまた逸らされる。伏し目がちな瞳からもうひとつ涙が溢れて、あまりの美しさに今度は俺が息を飲んだ。
 気が付いたら、俺はお嬢さんの頰に触れ、親指で涙を拭ってやって居た。

「どうかしたのか?」

 途端にお嬢さんが此れでもかと云うほど目を見開かせる。

「い、いえ、何でも無いんです!」

 お嬢さんは怯える様に素早く身を引いて、屋敷に向かって走り出した。

「あ、おい!」

 髪が俺の目の前で靡いて、ふわりと鼻を掠める。甘い香りに釣られてお嬢さんの腕を掴んだ。俺の力が強すぎたのかお嬢さんにとって予想外の力が加わったからか、短い悲鳴と共に彼女は俺を巻き込んで地面に倒れる。
 俺はお嬢さんを胸に受け止め、仰向けに寝転んでいた。頭上では桜の空が広がり、花弁のひとつがお嬢さんの髪に舞い降りる。左腕に触れる肩は驚く程華奢で、俺の胸元に添えられた手は不安になる程に小さい。

「ご、ごめんなさい!……本当に、何でも無いんです。少ししんみりしちゃっただけで。それでは若さん、おやすみなさい。明日からのお勤め頑張って下さいね」

 しかしお嬢さんはすぐに起き上がって矢継ぎ早に言葉を並べた後、引き止める隙も無い速さで屋敷に走り去ってしまった。俺は庭に寝転がったまま、ひらひらと舞い散る桜の花びらを見つめる。……もう鳳の事を莫迦に出来ないと、自分の事ながら嘲笑せずにはいられなかった。人間の心と云う物は切っ掛けひとつでこうも簡単に変わってしまうらしい。
 このままお嬢さんの事を放したく無いと、咄嗟に思ってしまったのだから。

 *****


―――― いきなり泣いて居る所を見せてしまったのですから、さぞかし吃驚させてしまった事でしょう。実を言うとあの夜私が泣いて居たのは、長太郎さんに好きだと告げられて、吃驚して慌てて私が好きなのは若さんなんですと打ち明けてしまったからなのです。けれど長太郎さんに若さんが私に興味を持つ事など有り得ないから、自分にしておいた方が良いと言われてしまって。少し考えさせてくださいとお願いしてひとりになったすぐ後の姿を若さんに見られてしまったのです。とても恥ずかしい記憶で、未だに思い出しては若さんが覚えていませんように、とお祈りをしてしまいます。だからもしお忘れになっていたら、どうかもう思い出さないでくださいね。
 それから若さんを忘れられず、かと云って長太郎さんにはっきりとしたお返事をしないまま、御二人は御城での勤めに行って仕舞われました。御二人の来る前に戻っただけなのに、屋敷はやけに静かで、寂しくて、時々帰っていらっしゃる御父様から御二人の様子を聞く事だけが私の楽しみでございました。だから若さん達が御城へ行ってからもお正月には顔を出して下すって、とてもとても嬉しかったんですよ。……』


 *****

 国王軍に入隊してからの時間は光よりも早く過ぎて行く様だった。毎日日の出よりも早く起床し、訓練は田舎の学校に居た時とは比べ物にならない厳しさで夜まで続く。夜は詰め込む様にして飯を平らげ、やるべき事をやってから泥の様に眠った。いつの間にか研修生と云う肩書きが取れ、俺と鳳の袖には少尉の位を示す二本線が入れられて居た。
 そんな日々を過ごして居る内に年を越し、俺と鳳は幾日か与えられた休みで実家に帰省した後、の屋敷にも顔を出す。先の戦いで大佐から少将に上がった家の主人に正月の挨拶をしたら、一晩だけ屋敷に泊まる日程だった。
 久しぶりにも関わらず部屋の様子は全く変わっておらず、誰かが丁寧に掃除をして呉れて居たようだ。少将への挨拶は済んでしまったし、夕飯まで時間は有るがやる事が無い。鳳は用事があると云って何処かへ消えて仕舞った事だし、俺もいっその事街へ出て贔屓の古本屋が開いて居るか確かめるのも悪く無いかも知れない。と、決意して、部屋を出て玄関に向かった。
 途中で台所を横切り、横目でお嬢さんが台に乗って棚の上に手を伸ばして居る姿が視界の隅に映る。俺は思わず立ち止まった。お嬢さんは爪先立ちをしているが、指先すら荷物に届く様子がない。仕方ない、と其方へ向かおうとした処で、彼女は台の上で何度か小さく跳び、案の定不安定な箇所に着地して体制を崩した。

 思わず数歩の距離を駆け寄り、彼女が完全に倒れる前に腰を支えて体制を直させる。同時に衝撃で落ちようとして居た箱を空いて居る手で押し返した。お嬢さんも荷物も落とさずに済み、俺は安堵の息を漏らす。彼女を見ると状況が分かって居ない様で、ぽかんと阿呆の顔をして居た。

「危ないだろう!」
「あ、あの、すみません……」

 途端、彼女はしゅんと眉尻を下げる。小動物の様に縮こまる姿に、我ながら声を荒げるのは大人気なかったと良心を苛まれた。

「別に謝る必要は無い。俺が取ってやるから、どれが必要なのか云ってくれ」

 気不味さを紛らわす様に俺は棚に目を向ける。しかし彼女からの返答は無く、俯いて居て表情が窺えない。

「お嬢さん?……おい、聞いて居るのか、お嬢さん?」

 未だにお嬢さんはぴくりとも動かない。まさかどこか痛めたのでは無いかと云う不安が頭を過ぎり、俺は彼女の肩を掴んで顔を覗き込んだ。

「おい……おい、さん!」
「……今、何とおっしゃいました?」

 ようやく聞けた声は固く、顔を上げた彼女は厳しく眉間に皺を寄せて居るではないか。やはり何か有ったのかと気が気では無かった。

「“聞いて居るのか”?」
「其の後です!」
「“さん”?」
「……やっぱり。初めて名前で呼んで下さいましたね」

 途端、彼女は花が咲く様にぱっとはにかむ。此方の気を張り詰めさせておいて其の態度は何だとまた苛立ちそうになったが、それ以上に彼女の笑顔を見て湧き出た感情に何も云えなくなってしまった。耳の辺りが熱くなる。頭の中に浮かび上がった言葉は紛れもなく“可愛い”で、春の頃から終ぞ忘れられなかった感情がまた顔を出す。もう自分を誤魔化しきれないのだろうと諦めると、急にどうしようもなく彼女を揶揄いたくなった。

「……またはしたないと叱られるぞ」
「もう、直ぐそうやって私の事をお転婆扱いなさるのですね」
「本当の事じゃないか」
「それは!……否定、しませんけど」
「ははっ、自分で認めちゃお終いだな」

 もう、若さんの意地悪! そう食ってかかって来ると思って居た。少なくとも、お転婆と称されるならそれくらいの反応は見せるだろうと。けれどお嬢さんはため息にも似た消え入る様な声で「お終い……そうですね。その通りです」と自嘲気味に口角を上げるだけで。

「本当にどうした? 具合でも悪いのか?」
「……いえ、ただ、」

 私もそろそろ自分の幸せを考えないといけないのだと、思って。
 そう続ける横顔は何処か切なく、心臓が甘く痺れるような感覚を覚える。彼女に触れたくなって、思わず頰に手を伸ばした、其の時、

「日吉、少将が呼んで居るよ」

 いつの間にか何処かから帰って居た鳳に呼ばれ、俺は我に返ったのだった。伸ばしかけた手を引っ込め、取り繕う気持ちで鳳を見やる。いつもの人好きする微笑は何処へやら、珍しく硬い表情を見せる鳳に疑問に思いながらも、俺は一言礼を云って少将の部屋へ向かうべくその場を後にした。


―――― 失礼します。お呼びですか、少将?」

 少将の部屋に入ると改まった様子で目の前の座布団に座るよう促される。言葉の通り腰を下ろすと、間髪入れずに少将は口を開いた。

「最近のお前達の活躍は良く耳に入っており、私も誇らしく感じている」
「はあ、それはありがとうございます」
「そこでだ、私の上官である方が自分の娘をお前か鳳に会わせたいと言って居るのだ」

 突然の提案に俺は一瞬何を云うべきか分からなくなった。わざわざ娘に合わせると云うのはつまり、見合いに他ならない。

「何故其の話を鳳と二人の席ではなく、俺だけに話すのですか」

 だとしたら俺だけを、それも鳳を通して呼び出すと云う事は些か腑に落ちなかった。俺の優秀さを見初めて、と云う事であれば喜ばしいが、生憎未だ俺は鳳と其処までの差を出せて居ないのが現状だ。
 すると少将は険しい顔をし、短い間黙った後にゆっくりと続ける。

「……お前から見て、鳳長太郎はどのような男かね?」
「何故そのような事を」
「つい先刻、を嫁にくれないかと彼に土下座をされた」

 思わず息を飲む。動揺しそうになったが、拳に爪を食い込ませてなんとか耐える。なるほど、あの二人の関係については暫く音沙汰がなかったけれど、この様子では順調に交際が続いて居たらしい。
 俺はなるべく平静さを保てるよう慎重にひとつ大きく息を吸った。

「あいつは、良い奴です。故郷でもあいつの事を嫌いだと云う人間を、俺は見た事が在りません」
「そうか……。上官にはお前を推薦しておこう。それで構わんね?」
「お話、有り難く受け取らせて頂きます」

 もう下がって良い、と何処か満足げな少将の言葉に従い、俺は部屋を後にする。
 廊下に出たところで、良い話じゃないかと自分に言い聞かせるように呟いた。少将の上官と云う事はなかなかの地位をもった人間だろう。その娘と結婚できれば、俺の将来は約束されたも同然だ。また下剋上に一歩近付いたと喜ぶべきなのだ。

 *****


―――― 若さんから初めて名前で呼んで頂いて、私は天にも昇る思いでした。けれどもあの時既に御父様が若さんと長太郎さんに良い話を持って来ている事も知って居ましたし、その話を切り出す前に長太郎さんが御父様に私との結婚を申し出て居る処も盗み聞きして仕舞いましたから、流石にもう此の恋心を諦めなければいけないと覚悟したのも、また事実です。
 あの年は私に取って忘れようもありません。正月が明けて早々の戦いで御父様の訃報が届いて、それだけでも心が潰れそうになったと云うのに、其の戦場に今度は若さんと長太郎さんが出かけると聞いたものですから、本当に生きた心地がしませんでした。……』


 *****

 長きに渡る戦争が激化したのは、正月が明けて暫く経った後の事だった。
 件の戦争を始めた先代の王が突然崩御し、新王が戴冠したのは俺とそう変わらない歳だったから、随分若かった筈だ。そして何を思ったか、王は戴冠するなり少尉以上の士官を全て集めた会議を開いたのだ。

「単刀直入に言おう。俺は先王が始めた戦を終わらせる為にお前達を呼んだ」

 それは本当に突然の出来事だった。面倒な挨拶や前置きなど何もなく、戸惑う古参の士官や家臣を抑えて王は自身の考える作戦を俺達に説明する。

「今日この場では身分や階級なんざ関係ねえ。この作戦に反対の奴、他に意見のある奴、全員まとめてかかってきな!」

 そして最後にそう締めくくると、戸惑う者達を他所に尊大な態度で上座に腰を落ち着けたのだった。一番先に自分を取り戻したのは確か何処かの老いぼれだったか。やけに豪華な軍服を身につけ、階級を表す袖の線がこれでもかと云う程入って居る人物だったのを覚えて居る。

「勿論、反対に決まっております!」
「何故だ。理由を言ってみろ」
「これでは景吾様……失礼、王が前線に出なければいけないではないですか!」
「アーン? 俺は今や国王……軍のトップだ。その俺が大事な場面で前線に出ねぇでどうする」
「しかし……!」

 抗議する者、賛成とも反対ともつかない声をあげる者、ただ黙る者―――― 千差万別の反応が入り乱れる中でそれは本当に偶然の事、国王の気まぐれだったのだろう。

「おい、其処の、確か日吉若少尉と鳳長太郎少尉だったか? お前達はどう思う?」

 王と目が合ったと思えば、俺と、そして隣にいた鳳までもが指名されたのだ。まさか国王が士官の中でも一番下の階級である俺達の名前を覚えて居るだなんて思ってもみなかった事で、思わず呆気に取られる。しかし全ての士官が見て居るこの状況は、むしろ俺にとって最高にお誂え向きだった。

「……では陛下、失礼ながら少し意見がございます」
「ほう、なんだ。言ってみろ」

 俺は末端の席から王の前まで移動し、机上に広がる書類をざっと確認する。先程は口頭で聞いた王の作戦とやらが図式を交えて其処に記されていた。俺は話を聞いて行く内に見付けたこの作戦の穴を指摘し、それらを修復をした上で少しばかり発展させた案を出す。

「このように修正すれば敵国と我が国の兵力の損失を最小限に抑えつつ、最高のタイミングで終戦協定の会議へと持ち込めるかと思います」
「中々悪くねえ。それで、此処の鍵となる人物は?」
「其処はもちろん陛下、貴方様であれば兵の士気が上がり、成功の確率が格段に上がるでしょう」

 ニヤリ、挑戦的な笑みを浮かべ、上座に踏ん反り返る王を見上げる。向こうも同じ様に不敵な笑みを浮かべていたが、恐るるに足らず。

「おい、鳳少尉。お前はどうだ? さっきから黙って居るばかりだが」
「……俺は、」

 鳳は少しの間思案し、おずおずと机上に手を伸ばす。そしてたったひとつの事を付け加えた。

「……この隊の位置を逆にすれば、万が一の事があっても陛下が命を落とす事は無いでしょう。陛下さえ生き延びれば、国は生き延びますので」

 俺さえも見落としてしまった事を指摘されたのは悔しいが、流石俺と同じ様に優秀な成績で此処まで来ただけの事は有ると思う。鳳は“出過ぎた事を咎められるのではないかと云う不安で押しつぶされそうだ”とでも云っているような顔で恐る恐る玉座に視線を移した。
 王は俯き、その表情は影になって居て良く見えない。しかし次の瞬間、会議室の誰もが驚く声量で高笑いをし始めたのだった。

「おもしれーじゃねーの! 日吉少尉、鳳少尉」
「「はい」」
「この作戦、お前達は俺の部隊に入れ。生き延びた方を少将に昇格してやろう。少将の席が空いていたはずだからな」

 聞いていたかオメーら! 二人の作戦を使う。決行は明日の夜明けだ。良いな?
 それだけ続け、王はマントを翻して会議室を去って行く。王にあるまじき大胆な人物だ。いや、王だからこそあれほど不遜で居られるのかと思いつつ、俺達もその場を去るしかなかった。

「おい、」

 宿舎に戻る途中、俺は鳳に声をかける。

「どうしたの、日吉?」
「……いや、なんでもない」

 お前は行かない方が良いのでは無いのか、待って居る人が居るだろう。
 その言葉を、俺はついぞ口にする事が出来なかった。

 そして―――― 

 そして俺達の国は終戦を迎え、俺は一人で王国の土を再び踏んだ。故郷を出た時からずっと隣に居た鳳はもう居ない。爆撃に巻き込まれた俺の前に飛び出して、呆気なくこの世から居なくなってしまったのだから。鳳の遺体は故郷に送られ、葬儀には俺も参列した。
 都に戻ってすぐ、ついぞ顔を見る事もなかった婚約者が事故で亡くなった事を更に聞かされた。本当に人が死ぬのは一瞬の出来事で、あまりにも容易い。
 の屋敷を訪れると、主人を亡くした心労からか奥方は幾分かやつれ、心なしか屋敷自体も記憶より少しだけ寂れてしまった様だった。


「遅ればせながら、少将の事お悔やみ申し上げます」
「お国の為に死ねたのだからあの人も本望でしょう。……それにしても、若さんとは正月以来だからついこの間会ったと云うのに、なんだか随分昔の事のように感じますね」
「あれから沢山の事がありましたから。俺も、少将の席を頂きました」
「それはそれは、あの人も喜びますわ」

 貴方や長太郎さんの様に優秀な息子が居たら、と何度も私にぼやいて居ましたから。と奥方は疲れた笑顔で続ける。同情の念を抱かずには居られなかったが、同時に“言うのであれば今しかない”とも思った。

「奥さん、さんを俺に下さい」
「……よく考えたのですか」

 意表を突かれた様な表情を一瞬だけ見せた後、奥方は厳しい口調で俺を問いただす。俺は真っ直ぐ奥方を見据え、ゆっくりとひとつ頷いた。視線だけの駆け引きは、奥方が大きく息を吐いた事で終わりを告げられる。

「良いでしょう、差し上げます。父親が居なくなってしまった憐れな娘で良ければ、是非貰ってやって下さい」

 そして俺は、彼女をお嬢さんでもさんでもなくと呼び、白無垢に身を包んだ彼女と間近で見える事になった。

―――― ……。

「不束者ですが、どうぞ宜しくお願い致します」

 身内のみで済ませた小さな祝言を終え、寝室で二人きり。布団の上で三つ指をつくの前で、俺も正座をする。この光景を一度も夢見なかったと言ったら嘘になる。これは錯覚だ、色恋ごとなど邪魔でしか無いと自分に言い聞かせた事もあったが、の顔を見る度にそんな説得の言葉は頭の中から消えた。好きだ、と本人に言えぬまま、しかしこの甘い痺れにも似た感覚は、確かに今も胸の奥で疼いて居る。

 何も言わない俺を不審に思ったのか、はおずおずと顔を上げた。瞳が揺れて居る。初めてを好きだと思ったあの春の日の桜の下での出来事を思い出して、その頰に手を伸ばしかけ、止めた。

 この頰は、本当なら鳳が触れるはずだった頰だ。
 あの時泣いて居る彼女を見付けたのが俺でなかったのなら、俺は彼女に恋心を抱かずに済んだ。鳳が彼女を見付けていれば、こんな狡い方法で彼奴に勝たずに済んだのだ。
 もうこの頰に触れてはいけない。
 俺は伸ばしかけた手を下げ、代わりに彼女の肩を掴み遠慮しながらも少し引き寄せた。

 そして俺との結婚式があってから、もう何年もの月日が過ぎた。俺も歳をとって変わってしまったが、冷たく横たわるの変わり様には敵わない。

 *****


―――― 新しい国王様が誕生して、戦争が終わって、帰って来たのは若さん唯おひとりでしたね。私は長太郎さんと云う未来の夫を亡くし、若さんの未来の奥様も亡くなり、余り者同士の私達で結婚する事になりました。けれど……ああ、けれど若さん、どうか許してください。沢山の大切な人が亡くなってしまったにも関わらず、あの時、若さんが私を貰って呉れるとおっしゃったあの時、私はこれ以上無い程嬉しかったのです。色々ございましたけれど、私は自分の恋心を終ぞ諦める事が出来なかったのですから。』


 俺は震える手で便箋をめくる。何枚にも渡って綴られたの手紙は、想像だにしなかった内容が書かれて居て。石で殴られた様な衝撃に平静さを保つのが精一杯だった。手紙は残すところあと一枚だ。


『若さん、貴方の意地悪な所が好きです。意地悪だけど、本当はとても御優しい所が大好きでございました。貴方が私を仕方なく嫁にされた事は何となく知っておりました。何かの負い目を感じておられて、だからこそ必要以上に私に触れて来ないと言う事を知っておりました。それでも私は大好きな貴方様と一緒になれて、とても幸せでございました。
 それなのに、若さんを置いて先に逝ってしまう不幸をお許しください。若さんは何でも出来てしまう凄い御方ですけれど、それでも貴方の世話をする人が居なくなって仕舞うので少し心配です。ですから私の事などすっかり忘れて、今度は若さんが心から愛する人と一緒になってくださいね。男の人ですもの、遅すぎると云う事はありませんわ。』


 長い手紙を漸く読み終わり、俺は疲れた頭と体を休ませる様に畳へ手足を投げ出す。

「……お前は、漸く好いた男の元へ行けるのでは、なかったのか」

 思いもよらぬ情報の数々に頭が付いて行けそうにも無かった。

 俺は叶わぬ想いに振り回された阿呆では無かったのか。
 お前から好きな男を奪って、お前を無理やり手に入れた奴では無かったのか。
……俺は、お前に触れても良かったのか。もう一度涙を拭ってやっても、良かったのか。

 いくら問いかけても答えて呉れる者はもう居ない。迷子にでもなったような、何とも言い知れぬ気持ちで再び手紙の束を持ち上げた。すると手から溢れた紙が一枚ひらりと床に落ちる。どうやら手紙はまだ一枚残って居たようだ。俺はすがりつく様な気持ちで再び紙面に視線を戻した。

『若さん、こんな自分勝手な私を貴方の妻にしてくれて、本当にありがとうございました。―――― 

 最後の文は短く、たった一言そう書かれて居るだけだった。
 読み終えた手紙を傍に起き、再び棺の中を覗き込む。当たり前の事だが、が寸分違わず眠る様に横たわって居た。

、」

 声に出して名を呼ぶと、俺の瞳から涙が零れの頰を濡らす。まるで泣いているのはの方であるかのようだった。

「俺もお前を、ずっと愛して居た」

 手を伸ばして、涙を拭ってやる。あの春の日から随分皺も増えたし冷たく固まってしまっているのは確かなはずなのに、それでも微かにが微笑んだような気がした。


Written by ひじりしん