笑顔を見せて
麗らかな日差しに照らされた昼休み、小春が何をするでもなく頬杖をついていると、前の席に座るなまえが振り返った。その表情は浮かない。
「あら、なまえちゃん、どないしたん?」
「どうかしたんですかと聞きたいのは私の方です」
「ん? どーゆーこと?」
「小春さん、さっきからずっと溜息ばかりついてます」
あら、そうやった? と小春は嘯いた。溜息だなんて、自分でも気付かなかったのだけれど。
どうやら胸の内に潜むもやもやが、無意識の内に現れてしまったらしい。
「何か悩み事ですか? 私で良ければ聞かせてください」
よほど心配しているのか、なまえの眉間に縦筋が増えた。「眉間、またシワが寄っとるよ」と小春が半ばおどけて指し示すと、なまえは唇を尖らせつつも両手でシワを伸ばす。その様子に小春は笑いを漏らさずにはいられなかった。見ての通り、なまえはクラスメイトの小春にさえ敬語で接するほど大真面目な人物だ。そんななまえの眉間のシワを指摘するのは小春の日常であり、2人の仲の良さを体現していた。
〝いつもと同じ〟をこなしたら胸の内で使えていたものが少しだけ軽くなり、悩みを話してしまおうかという気分になる。クラス中に堅物と評価されている彼女の事だ、きっと悩みを打ち明けたところで悪い事にはならないし、秘密にしていたらむしろ余計に心配させてしまうだろう。
実はね、と小春は口火を切った。
「ユウくんが最近、漫才の練習に来てくれへんのよ」
「ユウくん……相方の一氏くんの事ですよね。漫才の練習とは?」
「ほら、ウチら華月で定期ライブやっとるやろ?」
四天宝寺では金曜日にお笑いライブがあり、小春とユウジはほぼ毎週漫才でエントリーしている。その為、テニス部の活動が終わってから2人は教室でネタ作りや練習をしているのだけれど、ここ数日ユウジは部活が終わるなり小春を置いて逃げるように下校してしまうのだ。
それだけではない。前までユウジは休み時間の度に小春の前の席の生徒を蹴散らし、その席を占領していた。けれど漫才の練習をすっぽかすようになった時期を同じく、休み時間にユウジを教室で見る事もなくなってしまったのだ。
蹴散らされていた被害者なのはなまえも例外ではなく、こうして貴重な休み時間に自分の席にいられるという事実に、彼女はそういえばと首を傾げる。
「今週は全然来ませんね」
「明日は定期ライブの日やから、今日中にネタを詰めておきたいんやけど……」
小春の話が終わった後、なまえはしばらく腕を組んで考え込んでいた。しかし何か閃いたのか突然両手を打ち付ける。
「私が放課後、一氏くんを練習に連れて行きます。事情を説明してもらいましょう!」
「ありがとう。でも、そこまでしてもらわへんでもええねんで? ウチは聞いてくれるだけでも……」
「いいえ! 仲良しの小春さんが困っているんだから、協力したいんです」
なまえは任せろと言わんばかりに自身の胸を叩く。ユウジなら小春が悲しんでいると言えば一発だと続ける彼女に、小春は一抹の不安を抱えながらも同意をする他なかった。
そして……
「なんやねん離せやこのドアホ!」
「離したら逃げるじゃないですか!」
放課後、部活動が終わって再び教室に戻って来た小春の元に、なまえがユウジの腕を掴んで引きずりながらやって来たのだった。
「なまえちゃん、よう連れて来れたわねえ」
「校門で張り込んで捕まえました!」
なまえがユウジを連れて来てくれたと感謝をすれば良いのか、はたまた2人の倦厭とした様子に呆れたら良いのか分からず、小春は苦笑する。
ユウジは小春の顔を見た瞬間、瞳を大きく見開いて踵を返して逃げようとした。しかし腕を拘束されている為、2歩ほど動いたところで小春の前に引き戻されてしまう。けれどこうして対面してもユウジは頑なに小春を見ようとしなかった。テニスの試合に負けた時は小春もついついユウジに冷たい態度を取ってしまいがちだが、面と向かって相方に避けられると小春も悲しく思わざるを得ない。
「ユウくん……ウチの事、嫌いになった?」
「んなワケあらへん!!」
恐る恐る尋ねると、小春の言葉に被せるようにして否定が返ってきた。
あまりに勢いが良かったものだからなまえは思わず腕を離してしまったけれど、ユウジは観念したのか逃げる様子もない。
「ちゃうねん……小春は全然悪ない……悪いのは全部俺なんや……!」
代わりにユウジは頭を抱え込み、傍目で分かるほど苦悩し始めた。その切羽詰った様子は小春でさえ今まで見た事がないくらいで、自分で悩むよりも逆になんとかしてやらねばと意気込む。
「ユウくん、1人で悩んどらんと話してや? こんな時に頼りにならんと、なんの為の相方やねん」
「小春……」
「何を話されても、ウチは受け止めるで!」
「……小春ぅ~!」
小春の優しい言葉に涙を浮かて感動し、ユウジは遂にポツリポツリと話し始めた。
その内容は、小春も、ましてやなまえも想像すらしていなかった事で。
「金曜のライブで、お客さんの中で毎回ごっつー大きな声で笑ってくれる女子がおんねん。顔も、どこの誰かも分からんけど、今週も笑ってくれるように頑張らなって思うとったら、いつの間にかその声が頭から離れんようになって、どんな子なんやろってばっかり考えるようになってしもて、俺には小春がおんのに何を考えとるんやって思ったら小春に会わす顔がなくなってしもて……!」
要約すると、それってつまり……
「好きな人が出来たから、小春さんに顔向けできなかったんですか?」
「ちゃうわドアホ! 気になる声や! 俺の好きな人は小春に決まっとるやろ!!」
半ば呆れる口調で尋ねるなまえに、ユウジは思い切り顔を歪めて否定した。小春に向ける素直な表情とは違い敵意が丸出しだがなまえは怯む様子もない。2人のクラスメイトであるなまえにとって、こんなユウジの態度は今更なのだ。
「なんや、ユウくん恋したん!? ウチは応援するに決まっとるやん♡」
「小春までぇ~ッ!?」
小春の態度に大袈裟な涙を流していたユウジだったが、急に黙り込んで俯いたかと思うと、「……分かった」と小さく呟いた。その様子に、小春となまえは顔を見合わせる。
しかし、次の瞬間ユウジは首が釣らんばかりの勢いで顔を上げ、拳を握りしめたのだった。
「俺が好きなんは小春だけやって、証明すればええんやな? やったろやないか! その女子を探し出して恋やないって証明したるわ!」
ユウジの瞳には闘志が燃えている。
一瞬、なんでそうなんねんと呆れかけた小春だったが、もしかしたらこれはチャンスなのではないかと思い直し、ユウジの肩に手を置いた。
「その意気やで、ユウくん! ほな、漫才の練習しまひょか♡」
「漫才……?」
「華月のライブでその子を笑かして見つけるんや!」
小春の提案を聞き、ユウジは流石小春は天才だと褒めそやす。手放しで褒められて悪い気はしないけれど、それ以上に小春自身もやる気に満ちていた。なんて言ったって、相方であるユウジが恋をした(かもしれない)のだ。応援したくない訳がない。それにこの方法なら明日のライブも問題なく迎える事ができるし、小春自身も願ったり叶ったりだった。
乗り掛かった船という事で、2人が漫才をしている間、舞台袖で笑い声の主を探すのはなまえの役割になった。
「そうと決まったら練習やで、ユウくん!」
「おう、任しとき!」
本番は明日だ。今更新しいネタを考えている暇はないので、2人はストックのネタを組み合わせて使うことにする。あれとこれとそれと……、常に一緒にいてお笑いをしているだけあって、小春とユウジはあっという間にネタを詰めて漫才をひとつ作り上げてしまった。
「あとは練習や。なまえちゃん、悪いけどちょっと観客になってくれる?」
いつもは部活終わりに男テニの仲間に観てもらうのだけれど、生憎今日はオサムのお笑い講座しかなく、部員達もとうの昔に下校してしまっている。
「もちろんです! 私、2人の漫才の大ファンなんですよ!」
善は急げと小春とユウジは教卓を動かし、ステージに見立てて黒板の前に並んだ。なまえは目の前の席に座り、真剣な面持ちでこちらを見上げている。
「「……どうも〜!」」
「小春と」
「ユウジの」
「「一心同体、少女隊です!」」
「って少女ちゃうやろが!」
「あら、ウチの心はいつでも乙女やで♡」
いつもの挨拶を披露した後、2人は軽快に言葉を繋げていった。小春がボケてユウジがツッコミ入れつつも、時折ユウジの物真似を織り込んだボケ返しに小春がツッコミを入れるいつものスタイルは健全だ。
そして……
「ふっ、あはははははは!!」
漫才を披露している間中、教室はなまえの笑い声に満たされていた。クラスメイトの中でも比較的仲の良い小春でも気づかなかったけれど、どうやら彼女は普段の生真面目な様子からは想像もできないくらい相当な笑い上戸らしい。
お腹を抱え苦しそうに呼吸を繰り返しながら机の上に突っ伏しているなまえがようやく顔を上げたのは、ネタが終わって少し経った時の事だった。目尻に涙を浮かべているその表情を見なくとも、2人のネタが大正解だった事は見て取れる。
一息ついたなまえは小春と手を取り合い、これなら明日のライブは大成功だと喜んだ。
そんな時、ちょうどいいタイミングでチャイムの音が教室を満たした。最終下校時刻を告げるものだったのだろう、窓の外見れば太陽はビルの向こう側にすっかり隠れてしまっている。
「あ、帰らないと」
「なまえちゃんは先に帰ってええよ。ここはウチらが元に戻しておくわ」
「え、でも……」
「これ以上暗くなったら、女の子には危ないで」
それじゃあ、と遠慮がちになまえは鞄を掴む。そして今度は小春もよく見る遠慮がちな微笑みで口を開いた。
「私、やっぱり2人の漫才大好きです」
明日のライブ、楽しみにしてますね。と最後に残して、なまえは教室を去っていった。その姿を見届けてから、小春は先ほどから声ひとつ出さないユウジの顔を覗き込む。
「うまくいって良かったわねぇ……ユウくん?」
漫才で満足いかない箇所でもあったのだろうかと思いながら、小春はユウジの肩をポンと軽く叩く。するとユウジは近くの机に手をつき、ずるずるとしゃがみ込んでしまった。
「ユウくん!?」
「……ツや」
「え?」
絞り出す声は何を言ったのか全く聞き取ず、小春は尋ね返すようにユウジの顔を覗き込み、そして全て理解した。
ユウジは耳から首元まで真っ赤にして、これでもかと言うほど眉間にシワを寄せていたのだ。
「アイツや……あの笑い声、や」
これはおもしろ……いやいや、大変な事になったと、小春は心を躍らせずにはいられなかった。