耐えきれないのは醜い熱情
全国大会が終わる頃には、俺となまえ先輩の関係は既に誰にも言えないモノになっていた。先輩は男テニのマネージャーを引退する間際で、俺はもうすぐアメリカに渡る事になっていて。そろそろ区切りをつけなければいけない時期だって言う事は、俺も先輩も知っていたけれど、
「おっちびー! 一緒に帰ろー!!」
「菊丸先輩……と、みょうじ先輩」
「ごめんね越前くん、英二が何か食べてから帰ろうって言うから……私も一緒させてもらうね」
「別に、大丈夫っす」
菊丸先輩の後ろ、気付かれないように触れ合わせる手の温もりを、まだ思い出にはしたくなかった。
*****
俺となまえ先輩の出会いは本当に普通で、男テニに入部したらそこには3年の女子マネージャーがいて、それがなまえ先輩だった。ただ、それだけ。
「あなたが噂の新人ルーキーね? 私はみょうじなまえ。大会前とか、テニス部が忙しい時だけ臨時のマネージャーをしているの」
「……ッス」
“それだけ”じゃなかったのは、俺がその内なまえ先輩を好きになって、なまえ先輩も俺を好きになって、でも先輩には既に菊丸先輩がいたって事だった。
初めは俺だってなまえ先輩の事なんて全く興味がなかった。でもテニス部が忙しくなって先輩が出入りするに連れて、菊丸先輩は部活で外に出っぱなしになって、逆に俺は図書委員の仕事で遅れたりして。気が付けば、2人きりで部室にいる事(と言っても、いつも10分ぐらいだけど)が多くなっていた。
だめだ、気のせいだと自分に言い聞かせても、俺の中で先輩は日に日に大きくなっていく。
そして梅雨のある日、その言葉は自然と口を飛び出していた。
「俺は、なまえ先輩の事が好きだよ」
「……私には英二が、」
「じゃあ!……ここだけで良い」
「ここだけ……?」
「そう。部活の時、部室で2人きりになった時だけで良いから。……ねえ、先輩は、俺の事どう思ってるの」
「…………心の中で、越前くんがどんどん大きくなっていくの」
お互いの気持ちが分かったあの日、俺達は秘密の関係になった。
*****
「……何、考えてたの?」
記憶の向こうまで飛んでいた俺の意識を、視界に飛び込んで来たなまえ先輩が呼び戻す。部室の机に座って事務仕事をこなしていた先輩と、図書委員の当番で遅れた俺と、部室の中で2人きり。それは俺が先輩の恋人でいられる唯一の時間だった。
「……俺となまえが出会った時の事」
だからわざと呼び捨てしてみたりして、俺は先輩の頬が染まるのを楽しんでみたりもする。照れくさそうにはにかんだ後、先輩はふと眉を下げて不安そうな顔を覗かせた。
「後悔してる?」
それは紛れもなく2人の関係に対する質問だった。揺れる先輩の瞳を見てしまうと、どうしても俺達の間に入るはずの菊丸先輩を思い出して、現実に引き戻されて行く。
俺はそんな夢から覚めるような感覚を振り払うかのように、椅子に座る先輩を後ろから抱きしめた。彼女の左肩に顔を埋めて、うなじにキスをする。「くすぐったいよ」と言って、先輩はまた笑った。
「……してるようなら“部室にいる間だけで良い”なんて言わない」
それから何か言いかけたなまえ先輩の口を、黙らせるかのように塞いだ。
酷い事をしているのはお互いに分かっていると思う。でもあの梅雨の日の事も、菊丸先輩と別れた帰り道でこっそりキスをする日々も、なくしたくない現実なんだ。
でも俺はもうすぐここからいなくなる。……だから、もっとなまえ先輩が欲しい。
アメリカに行っても、彼女を繋ぎ止める術が、欲しい。
「っ、どうしたの? 今日はやけに積極的だね」
キスの後、なまえ先輩は目線を逸らしながら俺に問う。伏し目がちな瞳が潤んで、頬が更に上気していた。濡れた唇が「もっと、もっと」と俺をそそる。
「俺……もっとなまえ先輩が欲しい。部室の外でも、みょうじ先輩じゃなくてなまえ先輩が良い。菊丸先輩じゃなくて、俺じゃあ、だめ?」
縋るようにきつく先輩を抱きしめる。恐る恐る見下ろすと、そこには酷く困惑した顔があった。
たっぷりと間を置いた後、先輩が出した答えは俺の腕を振りほどく事だった。
「だめ、だよ……私、英二ともう2年半も付き合ってるんだよ? 同じ高校に進む約束もしてる」
「でも、なまえは俺が好きだって……!」
「だめなの!!…………リョーマはもう、私の中ですごく大きくなってる。他に何も考えられない位大きくなってる。でも、私、……英二が大切で、大好きなの」
先輩の言葉が重く俺にのしかかる。“大好き”――そういえば、そんな言葉、先輩は一度も俺にくれた事はなかった。
「ごめんね、勝手だよね。でも私、英二もリョーマも、自分自身の事すら傷つけたくない、弱虫なの」
だからやっぱり部室の中だけ。でももう、2人だけでここにいるのは止めよう?
そう最後に締めくくると、先輩は乱暴に書類を片付けて席を立った。俺の方を一度も見ずに足早に部活の喧騒へと紛れていくなまえ先輩を、俺は止める事が出来ずにただ立ち尽くしていた。
部室の扉が閉まる。蝶番がきしむ音とラッチボルトのはまる音で俺は我に返った。
途端、悔しさがドロリと流れ出る。抑えきれなくなって、俺は自身のロッカーを思い切り殴っていた。
「……クソッ!!」
足に力が入らなくなってズルズルと床に崩れ落ちる。今度は悔しさよりも悲しみが勝って、俺は物に当る事すら出来なくなった。2人きりで部室にいるのを止めようだなんて、そんなのさよならと同義じゃないか。
本当に好きなモノなら手に入れる、いや、もう既に手に入っている気がしていたけれど、それは勘違いだったのだ。
こんなふうに、俺はあなたを想っている。それでも、
もっともっとと望む事がいけないなら、最初からくれなければ良かったのに。
お題はコチラからお借りしました。→ afaik