人込みの中、1尺2寸
7月最後の登校日
蝉の声を聞きながら、私はいましがた受け取った通知表をそっと開いた。中に書いてある成績は決して優秀とは言えないけれど、そこそこの数字が並んでいる。夏休み中に行われる補習を回避できた事だけははっきりしていて、それだけ分かれば安心だった。
席に戻る。隣の越前くんは通知表を机に置いたまま頬杖をついていた。
「越前くんも、補習回避?」
「当たり前じゃん」
不敵に笑い、彼は「じゃないと部活で大変な事になる」と続ける。先を促すように、私はその言葉を反復した。
「部活の時間が減るし、乾先輩に汁飲まされる」
「汁……?」
「青汁みたいなヤツ。中間の時も、わざわざ高等部から持って来られたんだよね」
越前くんは5月の事を思い出しているのか、心なしか顔色が悪い。そんなに不味いのかな、と私までなんだか不安になった。
「えーちーぜーーーん……」
不穏な空気を破ったのは越前くんの前に座る堀尾くんだった。越前くんの方を向いて随分身を乗り出している。その分だけ越前くんは背中をのけぞらせた。
「なに?」
「俺、英語と数学補習……」
ガクリと、堀尾くんは項垂れる。汁の話を聞いた後だったから、私は余計に同情してしまった。一方の越前くんは堀尾くんの肩を押し戻し、再び呆れたように頬杖をつく。
「越前……英語、教えてくれ!」
「やだ」
「そこをなんとか! このテニス部期待の星、堀尾様がいなくても良いって言うのか!?」
「堀尾レギュラーじゃないから、別に大会に来なくても困らないし」
「そんなー!」
「まだまだだね」
2人の漫才のようなやりとりに笑いを漏らさずにはいられない。この学期中に仲良くなった前の席の子と顔を見合わせ、「相変わらずだね」と目線だけで会話をした。
今日は終業式。明日からしばらくこんな2人の様子が見られないかと思うと、ちょっとだけ寂しかった。
*****
そして夏休みが始まって最初の土曜日、私は青春台の駅前にひとり佇んでいた。今日は夏祭りがあって、友人と待ち合わせしているのだ。
「ぜーったい浴衣だからね、約束!」
昨夜電話でそう言われた通り、私は浴衣を着ている。ちらほらと同じような人を見かけるとはいえ、ひとりでこんな姿でいるのは恥ずかしい。早く来てくれないかな……。
「なまえ、お待たせ!」
そんな事を考えていると、友人が改札をくぐってこちらまで来てくれた。彼女も同じように浴衣を着ていて、やっと安心する。
お祭りの会場には歩いて行く事が出来た。到着すると既に人でいっぱいで、出店もたくさん出て賑わっている。
「なまえ、お夕飯は?」
「食べてきてないよ」
「さっすが、分かってる!」
お芝居のようなやりとりが楽しくて、私たちは目を合わせて笑う。そしてまずは近くにあったフランクフルトから攻めて行く事にした。
そしてお祭りも佳境に近付き、周りは信じられないくらいの人でごった返していた。そろそろ花火も上がる頃だと思う。
私達はと言えば、フランクフルトに続いてリンゴ飴、チョコバナナと甘い物を続けたおかげで、そろそろ塩気が欲しいと話しているところだった。けれど長蛇の列はたくさん出来ていて、もうどれがどのお店のもので、どこか最後尾なのかすら分からない。
「うわぁ、どこも並んでるね」
「……なまえ」
人込みに押されながら、私は改めて辺りを見回す。するといつも元気な友人はどこへやら、彼女は困り顔で私に耳打ちをした。小さな声で「トイレ行きたいかも」と言われる。
「着いて行こうか?」
「ううん、大丈夫」
この辺で待っててくれる? と続けられ、私は頷く。いそいそと人込みの向こうへ消えていく友人を見送り、私は再びひとりになった。
手持無沙汰になり、周りを眺める。沢山の出店が並ぶ中、イカ焼きの看板に心を惹かれた。そうだ、待っている間に並んでいよう。きっと買える頃には友人も帰ってきているはずだ。
けれど実際はそうもいかなくて。
イカ焼き2つ、と出店のおじさんに告げた頃、携帯電話が震えて伝えてくれたのは涙の絵文字をたくさん並べた友人からのメッセージだった。
『ごめん、なまえ! トイレすっごい並んでて、しばらく戻れそうにないよー!』
「そ、こ、ま、で、行、こ……あ、」
返事を書いている途中で電話の電源が切れてしまった。そういえば昨日の夜、寝ている間に充電しておこうと思って忘れちゃってたっけ。会場にはいくつか休憩場所があるのに、これでは今彼女がどこにいるか分からない。
戸惑っている間に「はいよ、2つね」とおじさんに言われ、イカ焼きを差し出される。ひとつキャンセルなんて言えなくて受け取ってしまうと、あれよあれよと言う間に後続のお客さんに押し出されてしまった。
仕方なく、人込みに流されてゆっくり進む。ぶつからないでいる事が難しいくらいの人の中、イカ焼きのソースを他人の服に付けないよう、気を付けて歩かなければいけなかった。
右手が強く引っ張られたのは、まさにその時だ。
「えっ!?」
「うわっ」
転びそうになったところをなんとか持ち堪えて、確認の為に後ろを見る。するとそこにいたのは驚いた顔をした越前くんだった。
「越前、くん?」
「みょうじ?」
越前くんはかばんが肩からズレ落ちていて、その先を辿ると私の袖に繋がっていた。かばんに付いたキーホルダーが、私の袖口に引っかかってしまったみたい。急いで外してあげたいところだったけど、生憎私の両手は塞がっていた。
腕の位置を変えたりしてなんとか袖から出そうとしているのに、キーホルダーは引っかかっているのか中々取れない。越前くんはズレたかばんを肘で止めたままで、苦しそうな体制だった。
「もうちょっとかばんが高ければいけそうなんだけど……」
「分かった。じゃあこれ、持っててくんない?」
よく見ると、越前くんは両手にそれぞれかき氷を持っている。短い声をあげて、私も両手を見せた。一瞬だけ無言の時間が過ぎ、いたたまれなくなったのか越前くんは「ちょっとあっち行こう」と人込みのない道路の外れを指す。
店のある表通りから一本外れただけなのに、ここは人通りがほとんどない。少し小さくなった喧騒が聞こえる中、雑貨屋さん前の腰の高さまである塀ブロックに座った。お祭りに参加しているのか、この通りのお店は全て閉まっている。
越前くんは傍らにかき氷を置き、かばんも腕から外して地面に置いた。ふう、と一息ついて手で風を顔に送っている。もう夏も盛りだし、暑いよね。
私はと言えば、さっきから鼻をくすぐるイカ焼きの匂いにいよいよ我慢できなくなっていた。元々自分が食べたくて買ったんだし仕方がない。でも越前くんの前で食べ始めるのは悪いし……。と少しだけ迷って、片方を越前くんに差し出した。
「良かったら、ひとついらない?」
「それ、誰かのじゃないの」
「この調子じゃあ、きっと会う前に冷めちゃうだろうから」
そう言うと、越前くんは礼を言ってイカ焼きを受け取ってくれた。私も「いただきます」と呟いて噛り付く。ふっくらとした触感と甘辛いタレで、思わず顔がほころんだ。
「うまい」
小さな声が聞こえて、越前くんもなんだか楽しそうに頬張っていた。そう言えばこの間もお弁当の焼き魚を美味しそうに食べていた気がする。海鮮、好きなのかな。
そんな事を考えていると目が合って、越前くんはふっと短く笑った。
「付いてる」
ちょいちょい、と越前くんは自分の口元を指さす。同じところに手を添えると、ソースがベトリと指に付いた。恥ずかしくて、急いで最後の欠片を口に押し込む。そしてすぐに巾着からティッシュを取り出し、念入りに拭いた。それでも越前くんの顔を見ることができなくて、近くのくず入れに串を捨てに行く。
「みょうじ、これいらない?」
くず入れから戻って来て心も落ち着いた頃、越前くんはかき氷の片方を私に差し出した。いちごのシロップがかかった氷がきらきら光っている。
「俺もいつ桃先輩に会えるか分かんないし、溶けるから」
「携帯で連絡は?」
「電話、家に忘れた」
似たような状況に苦笑し、私はお言葉に甘えてかき氷を受け取った。ひとくち食べると甘い氷が気持ちよく喉を下っていく。越前くんのはブルーハワイだった。
なんとなくあの人ごみに戻っていくのが嫌で、私は再びブロックに座る。普段の教室と違って机と椅子がない分越前くんが近い。さっきまではそんな事考えてもいなかったのに、気付いてしまった途端心臓がうるさくなった。
シャリシャリと、お互いの氷をつつく音までが際立って聞こえる。先に身の置き所がなくなったのは私の方だった。
「越前くん、制服のままなんだね」
夏服とは言えやっぱり暑そうだ。学校へ持って行くような大きなかばんも相まって、越前くんの身なりはお祭りには窮屈そうだった。
「練習終わってそのまま来た」
帰ってきた返答に納得し、私は相槌を打つ。来週は関東大会だとこの間言っていたし、きっと厳しい練習をしてきたんだろう。夏休みなのに、と私は感心してしまった。
会話が途切れ、再び無言の時間が訪れる。教室にいる時も図書当番の時も沈黙はそこまで苦じゃなかったのに、どうして今日はこんなに気になるんだろう。
頭の中で話題を探している時、向こう側の人込みが静かになり、次の瞬間夜空が明るくなった。追ってすぐ乾いた破裂音が響く。花火がひとつ上がる度に、近くで歓声が聞こえた。
「始まったね」
花火が始まった事で、勝手に抱いていた気まずさは私の中から消えていた。ふと越前くんの方に目線を向ける。越前くんは猫のような目をまんまるにして、夜空を見上げていた。色とりどりの花火の色が顔を照らし、瞳をきらきらと輝かせていて、とても、
「……きれい」
あ、しまった。そう思った時には遅すぎて、越前くんは「何か言った?」と私の方を振り向く。考えている事が思わず声に出てしまうのは、私の悪い癖だった。
「その……、花火、きれいだなって、思って」
頭のあちこちから言葉を探して、なんとか取り繕う。納得してくれたのか、越前くんは小さなえくぼを作り
「……悪くない」
と答えてくれた。吊り上がり気味の目尻が下がり、信じられないほど優しい顔を作る。それなのにまっすぐこちらを見る視線は強すぎるくらいで、すぐに逸らしてしまわないと射貫かれてしまいそうだった。
熱帯夜の空気にさらされたのか頬が熱い。無性にドキドキする心臓を誤魔化すように、もうひとくち、かき氷を頬張った。