A Handover
全国大会決勝――
青学はシングルスとダブルスで一勝ずつもぎ取って、そして全てを決めるシングルス1。眩しいくらいの太陽の光を受けるコートに一歩、リョーマは足を踏み入れた。
歓声、応援、悔し涙……全てが混ざりノイズになる中で、不思議とコートの周りだけ静かに感じる。メンタルがちょうど良く出来上がっている証拠だ。
「コシマエ~~!!!」
ふと、静寂に割り込む声がひとつ。顔を上げたら、やたらと大きな図体が高く飛び上がってコートの中にしゃがんで着地した。相手が立ち上がる。日に焼け赤茶けた髪の毛がバサリと動き、見知った人物の顔が現れた。キンタロー、と彼の名を呟くと、リョーマを移す瞳は一層輝いた。この二年間で身体は見間違えるほど成長したくせに中身は全くと言って良いほど変わってないらしいという事が、その表情から読み取れる。
「ようやっと……ようやっっっっっっと試合が出来るなぁ!」
「野良試合ならもう何度もやったじゃん」
「ちゃうねん!」
溜息交じりに訂正すれば、被さるようにして更なる訂正が返ってきた。どういう事かと思っていたら、ネットを飛び越しかねない勢いで金太郎は続ける。
「ここで……全国の決勝のここで! 会うんは絶対にコシマエがええって、一年の時から思っとってん!」
興奮した金太郎の言葉に思わず武者震いし、衝動を抑えるようにラケットを床に立てる。
俺も、だなんて、思っていても絶対に教えてやらない。
「全国まで来て負けたいなんて、変わってるね……which?」
「スムースにするで!……って、それどういう意味や?」
首を傾げる相手を他所に、リョーマはラケットを回す。ラケットは勢い良く何周か回転した後、緩やかな曲線を描いて床に倒れていった。ラケットが完全に静止してから、エンドマークを確認する。Rの字が逆側を向いていた――ラフ、リョーマの賭けた方だ。
「じゃ、サーブ貰うから。コートは?」
「このままでエエ!」
うるさいくらい元気な答えを貰い、それならばとベースラインに向かって歩き出す。
「なーなーコシマエ~! さっきのどういう意味やねんって~!」
けれどそれを引き止めるように金太郎の言葉は続き、リョーマはたまらず溜息をついて振り返った。どうやら彼には皮肉が通じないらしい。
「……この試合、勝つのは俺だってコト!」
ニヤリと挑発的に口角を上げれば、合点がいった金太郎はむしろ心の底から楽しそうに歯を見せる。
「ワイかて負けへんでぇ!!」
そして跳ぶようにサーブを迎え打つ場所まで下がった。リョーマはそれを確認するまでもなくベースラインに向かい、ボールを取り出す。
黄色い球が右手と地面を何度か行き来し、空中へ、放り投げられた。
*****
全国大会とお盆休みが終わって、心は夏が終わる予感を感じ始めていると言うのに、照りつける太陽は秋なんて存在を忘れてしまったかのような顔で容赦なく気温を上げている。
ましてやテニスコートの硬いアスファルトであれば、なおさら。
昼までの部活動を終え、リョーマは部室に誰もいない事を確認してから、副部長であるカチローと共に職員室へ向かっていた。部活動の日誌を届け、ついでに何事もなく全員が下校した事を報告する為だ。去年部長を任された頃はこんな細々とした部長の仕事が面倒で仕方なかったけれど、いつの間にかそれも身体に染み付いてしまった。
「――失礼します」
職員室の扉を開けるカチローの後ろにくっつき、自身も扉をくぐる。夏休み中のがらんとした部屋の中で、スミレの姿はすぐに見付ける事が出来た。入って来たのが自分の管轄内の生徒である事にも気付かず、彼女は書類を前に何やら眉間にしわを寄せて考え込んでいる。
「竜崎先生、今日の部誌です」
「ん?……あぁ、終わったのかい。ありがとうね」
「どうかしたんですか?」
「今、来年の部長を決めているところでねえ……ちょうど良い、お前さん達の意見も聞かせておくれ」
カチローがスミレの書類を覗き込むその背後で、リョーマもチラリと目線を同じくする。それは男子テニス部の二年生部員の名簿だった。傍らにはテニス歴や試合成績、性格などと言った情報も細かく書かれている。
「僕、部長はてっきりみょうじくんがなるんだろうって思っていました」
カチローが挙げたみょうじと言う部員の名前も当然リストの中ほどに載っていた。彼は二年の中でも実力者だし、学年問わず部員からも親しまれている。来年度の部内構成について特に意見がないリョーマから見ても問題はないように思えた。
対してスミレは溜息をつき、未だ憂いた表情を湛えたままだ。
「いやね、アタシも最初はみょうじだろうと思ってたんだけど……」
彼女曰く、これまで青学の部長は主に部内の雰囲気を引き締める〝剛〟の存在で、親しみやすい〝柔〟の副部長を置く事でバランスを保ってきていたらしい。
「二人もそれは分かってたと思うけど」
とスミレは横目でカチローとリョーマを一瞥する。心当たりなどある訳がないリョーマはその目線を訝しげに受け止めたが、対してカチローは苦笑いを浮かべながらひとつ頷いた。
とにかく、部長は一番の実力者であり、それ以上に努力家でなければならない。一目置かれ、背中を見せる事で部員の士気を上げるような存在でなければならないとスミレは続けて説明した。
「みょうじの性格はむしろ副部長向きだと思うんだが……」
「だからと言って、みょうじくん以上に上手くやってくれそうな部員もいないですしね」
「そこなんだよ」
二人が悩む様子を眺めながら、リョーマはふと、二年前の高架下での試合を思い出していた。
〝「越前、お前は青学の柱になれ」〟
あの日手塚から言われた言葉は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。
あの時の俺はまだ青学の柱の意味なんて分からなくて、ただ目の前の人物に勝つ事に必死だった。本当は、今だってまだ分からない。俺はちゃんと青学の柱になれていたのか。……あの人みたいな部長に、なれていたのだろうか。
「聞いてるのかい、リョーマ!」
叱咤に近いスミレの声が意識に割り込み、背筋が伸びる思いで我に帰る。いつの間にかぼーっとしていたらしい。
「聞いてるッス」
慌てて取り繕ったけれど、スミレには全てお見通しのようだった。彼女は呆れたように本日何度目かの大きな溜息をつき、リョーマを見上げる。
「みょうじが部長として向いてないかもしれないのは、お前さんにも原因があるんだよ。お前さんがいなくなった後のあの子を想像するだけで心配になるというモンさね。……まぁ、今日のところはこれで終わりにしておこうか。来週で良いから、二人の意見もまた聞かせておくれ」
スミレが名簿を閉じるのを合図に、カチローは「分かりました」と返答し、リョーマもその横で頷く。そして連れ立って職員室を後にし、帰路についた。
ひとりになった帰り道で、リョーマは先ほどの話題について考える。
青学の柱としての自身の役割は終わったと、思っていたけれど。
もうひとつだけ、やり残した事があるのかもしれない。
*****
次の日
誰もいない朝の部室でリョーマはジャージに腕を通していた。いつもは部長であるリョーマが登校する事が部活開始の合図になるほどギリギリの登校をしている彼だけれど、今日は目的があってカチローが鍵を開ける直前には到着していたのだ。
「おはよーございまーす」
蝶番の軋む音が響き、部室の扉が開かれる。予想通りの人物が現れ、リョーマは彼の名前を呼んだ。
「みょうじ」
「越前部長!? なんで部長がここに!?」
リョーマの姿を確認するなり、このみょうじなまえと言う名の後輩は大袈裟に驚きの声を上げる。
「俺が部室にいる事がそんなにおかしいわけ?」
「いやそうじゃないんスけど! だってめちゃくちゃ早いじゃないですか!!」
「まぁ……ちょっとね」
言葉を濁すと、納得したのかしてないのか、なまえは曖昧な相槌を打ちながら自身のロッカーに向かった。
リョーマが不得意な早起きをしてまで早く登校した理由は、部室の鍵を預かるカチロー以外では彼が最も早く練習を始める人物だと言う事を知っていたからだ。
―――― ……。
リョーマがなまえと出会ったのは去年の事だ。
『俺、越前先輩に憧れてテニス部に入ったッス!』
仮入部初日、なまえはリョーマがテニスコートを訪れるなり目の前に現れ、前のめりになるくらいの勢いでそう言ってのけたのだ。そのまま聞いてもいないのに語られた内容によると、青学に入学し部活動を決めかねていた時に偶然見たリョーマのテニス姿に心酔してしまったのだと言う。
『テニスってちゃんと見たの初めてだったんスけど、越前先輩がちょ~~~~カッコよくて! 俺もこんな風に強くなりてぇって思ったんス!』
リョーマはふーんと相槌を打ち、瞳を輝かせる後輩を退かすつもりで彼の肩に手を置く。ラケットすら握った事のない少年がリョーマの卒業までに対等に渡り合えるようになってくれるとは到底思えないけれど、強い相手が増えるのは一向に構わない。試合になれば誰であろうと本気で相手にするだけだ。
『ま、精々頑張ったら?』
『はい! 俺めちゃくちゃ頑張るんで、よろしくお願いします!』
……――――
初めて会ったあの日から変わらず、なまえはリョーマの周りを飼い犬のようにうろちょろしている。けれど二年に進級しなまえ自身にも後輩が出来て、最近は指導したり相談を受けたりする姿も見られるようになった。時々生意気で概ね素直な後輩はいつの間にか頼れる先輩にレベルアップしていたらしい。
「越前ぶちょお~、折角早く来たんなら俺と試合してくださいよ!」
なまえは自身のレギュラージャージを羽織りながらリョーマに問うた。偶然か必然か、二人はまともに試合をした事がない。ランキング戦では部員の実力を分散させてブロックを作っていたし、試合形式の練習もなんだかんだでまともに交えた事がなかった。そしていつの頃からか彼は口癖のように試合を挑み、リョーマはそれを断り続けていたのだ。なまえとテニスをする事自体嫌ではなかったが(コイツが強いって事は知ってるし)単純に部長として、部活中勝手に試合をする時間なんてものはなかったのだ。
しかし、今日のリョーマの返事は違った。
「……良いけど」
「やっぱ今日もだめ……え!? 良いンスか!」
どうせ今日も断られるのだろうと高を括っていたのか、最早なまえの反応は困惑や混乱に近いものだった。
彼の言葉に直接返答せずに、リョーマは一足先にラケットとボールを持って準備を整える。
「ほら、他の部員が来ない内にやるよ」
そして部室の扉を開けて振り返りもせずになまえを促せば、彼は見る見る内に顔を輝かせてラケットを手に取ったのだった。
「了解ッス!」
*****
仲間に先立たれた晩夏のセミが最後の鳴き声をあげている。太陽が空のてっぺんを目指しながら照らす朝のテニスコートに、リョーマとなまえの影だけが伸びていた。
ベースラインよりも後ろに立ち、リョーマはラケットを構える。現在のスコアは40-0。あと一球でこのゲームは彼のものとなる。
対してなまえは額に汗を滲ませているものの、試合前からの破顔はそのままだった。今のなまえにとっては自分が試合で不利な状況に陥っている事よりも、憧れの先輩のテニスをようやく真正面から見れていると言う事の方が心を占めていたのだ。
「……みょうじ、」
なまえがサーブを打った直後、リョーマは後輩の名前を呼んだ。
きょとんとした表情と一緒に「はい」と返事が帰ってくる。そんななまえの顔をチラリとも見ずに、彼のコートへレシーブを打ち返しながらリョーマは言葉を重ねた。
「みょうじ、アンタは、どんなテニスプレイヤーになりたい?」
「そりゃあもちろん、越前部長みたいなプレイヤーっすよ!」
間髪入れず、なまえはリョーマの質問に答えた。一緒に打ち返されたボールが思っていた通りの場所へ向かって軌跡を描くので、軽々と追いついて再びラケットに当ててやる。なまえとちゃんと試合をしたのは今日が初めてだけれど、リョーマには彼のプレイが手に取るように理解出来た。けれどどこかの誰かのようにデータを集めて予想した訳でも、才気煥発の極みを発動させている訳でもない。
でも、〝自分自身ならここに打つと思ったから〟
試合をする前から分かっていた事だけれど、フォームやプレイスタイル、ここぞと言う時の技に至るまで、なまえの使用するものは荒削りではあるがリョーマのそれと全く同じと言っても過言ではないのだ。
―――― ……。
入部して以来、少々冷たいくらいのリョーマの態度に他の後輩達が萎縮する中、なまえは物怖じせずに何かと話しかけてくるようになった。あの頃はまだ桃城も卒業しておらず、親和性の高い二人でリョーマを挟んで(かつ置いてけぼりにして)よく盛り上がっていた記憶がある。
菊丸が抜けなまえが入る形で過ごした半年間、テニス初心者だからと高を括って眼中に置いてなかったなまえがリョーマの意識に浮上したのは、九月に入ってすぐの事だった。
中学に入るまでラケットすら握った事がないと言っていたにも関わらず、なまえは本入部後すぐのランキング戦で未熟ながらもなかなかの成績を残したのだ。
聞けば、ラケットを握ったのが中学に入ってからなのは間違いないと言う。けれどその後無邪気な顔で続けた言葉は、その場にいた部員全員を驚かせ、そして呆れさせるものだった。
『俺早く越前先輩みたいになりたくて、飯食って寝る時以外はずっと練習してたんッス!』
突出した才能や、身体能力がある訳でもない。あるのはリョーマへの憧れ、その一心だけ。けれどたったひとつのその想いで、なまえは部員の誰よりも熱心に部活に打ち込んでいたのだ。
そして一年後、彼は同学年の中で一番の実力と共にレギュラー常連になるまで成長した。
…… ――――
リョーマのようになりたいと言って入部してきた彼だったが、まさかそれがまるっきりコピーする事だったなんて最初の頃は想像すらしなかった。相手の動きをコピーするプレイスタイルは悪いものではない。今までそんな選手を何度も見ているし、相手の心理を揺さぶると言う意味では非常に有利な戦法だ。
けれどなまえの場合、戦略として対戦相手を模倣しているのではなく、ただ『リョーマのようにテニスがプレイしたい』とリョーマのプレイスタイルだけを真似しているのだ。加えて、なまえに勝利への執着はない。たった今、あっという間に1ゲーム奪われたにも関わらず未だにヘラヘラと笑っているなまえの態度から見ても明らかだった。
「やっぱ部長はスゲェや!」
打球を重ねれば重ねるほど、心懸かりは湧き上がって膨らむ。そうか、スミレが懸念していたのはこの事だったのか。
このままではいけない。
なまえは二年の中で誰よりも努力家で、部長になるだけの実力がある。
けれど、このままでは来年の青学は確実に負けてしまうだろう。
「よっし、じゃあ次は部長のサーブから――」
言葉の途中でなまえの声が途切れる。リョーマが何も言わずに打ち込んだボールが、彼の髪の毛を揺らす程の至近距離を掠めていったから。
「何するんスか!」
「15−0、真面目にやれよ。じゃないと、次は顔に当てる」
「何を言って……」
言い終わらない内に再びリョーマはボールを頭上に放る。右腕に持ち替えたラケットでサーブを打てば、球はなまえの足元で鋭利に跳ね上がり、針に糸を通すよりも正確に顔面を狙った。
「うわっ!?」
咄嗟に身体が動いたのか、なまえは顔の前にラケットを上げる。ガットに触れたボールが弧を描きながらリョーマの元へ帰ってきた。球威も弱く、これ以上ない打ちやすいロブだ。リョーマは高く跳び上がる。
そしてみたびなまえの顔面目掛け、思いきりスマッシュを打ち放った。距離も近いので先ほどのようにラケットを構えても怪我は必須だろう。
「うわぁああっ!」
なまえは情けない叫び声を上げ、その場にしゃがみこんでしまった。スマッシュが彼のすぐ左を掠め、コートに落ちる。
「……30−0」
リョーマは悪びれもせず、淡々と得点を告げた。
ハッと我に帰り、立ち上がったなまえの顔には困惑と混乱、それに少しの苛立ちが浮かんでいる。
「もー、なんなんスか!」
部長ってこんなラフプレイする人でしたっけ、と苦情を訴えるように口ぶりでなまえは続けた。そんな訴えに応える事はせず、リョーマはサーブを打つ体制に入る。
「みょうじ、アンタは何の為にそこに立ってる?」
代わりに、ボールを放る直前リョーマは問いかけた。
投げかけられた質問の意図を飲み込めずになまえは首を傾げる。コートにいる理由なんて、試合をする他にあるのだろうか。
なまえの返事を待たずにリョーマはサーブを打った。今度は不自然に顔面目掛けて飛んでくる事もなく、なまえはようやくまともにレシーブ出来る。
ボールがラケットに触れた時、なまえは腹を立てていた。真面目にやれとか勝負しろとか、さっきから何だと言うのだ。試合中にふざけた事なんてない。だいたい、ようやく間近でリョーマのプレイが見られると言うのに、ふざける筈がないじゃないか。
そうこうしている内にも二点取られ、このゲームもリョーマの得点となった。
コートチェンジをし、サーブ権も再びなまえに与えられる。
なまえがサーブ体制に入る直前、リョーマの視線がまっすぐ彼を捕らえた。
「俺はみょうじに勝つ為にここにいる。真面目に〝勝負〟しないなら許さない」
〝勝負〟――その言葉に、なまえは息を呑んだ。
なまえの口角が上がる。しかしその笑みは先程までのひたすらリョーマのテニスを賞賛するそれとは明らかに違っていた。緊張と、楽しさと、少しの畏怖が混ざった笑み……リョーマが試合で何度も見てきた、窮地に追いやられてなお勝とうとする者の笑みだ。
「……ちゃんとモノにするまで秘密にして、びっくりさせてやろうと思ってたんスけど」
なまえはラケットを右から左へ持ち換える。独特のリズムでボールを弾ませてから頭上高くに放り投げる様は、リョーマもよく知るフォームに瓜二つで。
ボールがラケットに当たる。黄色い流線がネットを跨ぎ、足元で跳ね上がってリョーマ目掛けて伸びていった。――ツイストサーブだ。
思った通りの、けれど自分のそれよりもずっとあまい打球をリョーマは易々と打ち返す。ボールは鋭い角度でなまえの死角へと滑り込んでいった。
「俺の真似じゃ、俺は倒せないよ」
ネットの向こうでなまえが悔しげにラケットを見つめている。再び本来の利き手である筈の右手に持ち替え、なまえは次のサーブを打った。
それからのなまえのプレイは酷いものだった。フォームは決して綺麗とは言えず、アウトも増え、体力だって無駄に消費している。
けれど最初の2ゲームよりもずっとがむしゃらにリョーマの打球に食らいつき、予想もつかない打球で返してくる。そしてそんな球をラケットに受ける度に、リョーマは心が踊るのを無視できなかった。
そう、それで良い。俺以外の誰かになるんだ。
もっと強く、俺の好敵手になるくらい強く。
そして――青学を勝利に導けるくらい、強く。
そしてリョーマは不意に、自分でも気付かなかった心の奥底にある感情を見つけた。
そうか、そう言う事だったのか。
最後の一球の着地地点に滑り込み、飛び上がった勢いで打ち返す。黄色い軌跡は天高く真っ直ぐな直線を描いた後、急速に地面に向かい、二回跳ねてフェンスに当たった。
「6-0……俺の勝ち」
なまえは苛立たしげにラケットを振り上げる。そして勢い良く叩きつけようとして、踏みとどまって唇を噛んだ。
「くっそ……1ポイントも取れないのかよ……っ!」
なまえを尻目に、リョーマはコート外に出てフェンスの扉に手をかける。
「みょうじは、」
そして出て行く直前、もう一度彼の名前を声に出した。
なまえはリョーマの姿を直視出来ず、視線を下に向けたまま意識だけでその後ろ姿を追いかける。
彼が聞いている事は分かっていたから、リョーマはそのまま続けた。
「次の青学の柱だって事を、意識した方が良い」
「青学の、柱……?」
「そう。お前は、青学の柱になるんだ」
〝「越前、お前は青学の柱になれ」〟
二年前自身が言われた事を、もしかしたら手塚や海堂も誰かから言われていたかもしれない事を、今度はリョーマがなまえに告げる。
部長達が次に託したもの。
青学の柱として、次に繋げることの意味。
ああ、俺は多分、来年も青学が優勝するのを見たいと思ってる。
きっと手塚部長も、海堂部長だって、同じ気持ちだったんだ。
「もう一度聞くけど、みょうじはどんなテニスプレイヤーになりたいの?」
リョーマが問いかけてから、随分と長い沈黙があった。ようやくなまえが顔を上げる。その瞳はまっすぐリョーマを捕らえ、貫こうとしていた。
「アンタを、倒せるようなプレイヤーに」
ニヤリ。なまえの答えを聞き、リョーマは満足げに口角を上げる。
「ま、精々頑張ったら?」
「……はい!!」
そして今度こそフェンスを開き、リョーマはテニスコートを後にするのだった。
*****
部室の前ではカチローがひとりリョーマを待っていた。何か言いたそうな、けれどちょうど良い言葉が見つからないとでも語るような視線を受け、リョーマは居心地悪く帽子のつばを下げる。
「リョーマくん、あれはちょっと乱暴過ぎじゃない?」
「みょうじにはあれくらいでちょうど良い」
「そうかもしれないけど……」
そのまま部室に戻るカチローと別れ、職員室へ向かう。部活顧問の教員でいささか賑やかな空間の中スミレを呼ぶと、彼女はリョーマを会議室まで誘導した。
「どうしたんだい、リョーマ? まだ部活が始まるまで時間があるのに珍しいじゃないか」
「次の部長の事で」
「誰か候補でも見つけたのかい?」
「俺は、部長はみょうじだと思うッス」
ほう、とスミレが意外そうに相槌を打つ。理由を知りたそうだったが、リョーマは特に説明するでもなく「アイツと試合してきたんスけど」とだけ言って窓の外を眺めていた。この部屋からはテニスコートがよく見えるのだ。
コートではなまえが、いつの間にか登校していた一年生達と仲睦まじく部活の準備を始めている。何やら冗談でも言っているのか、後輩は皆一様に腹を抱えて笑っていた。
……アンタのそれは、俺にはない才能だと思う。
後輩に囲まれるなまえを眺めながら、心の中でリョーマはひとりごちる。
彼はきっと、リョーマとも、手塚とも海堂とも全く違った部長になるのだろう。部の雰囲気も変わると思う。
けれどなまえにはなまえ部長の形があるのだ。彼がリョーマでいる必要はない。
「まぁ、お前さんがわざわざ言いに来るくらいなら、間違い無いんだろうね」
いつまで経ってもちゃんとした説明をしない現部長に、呆れた溜息混じりのようなスミレの一言がかけられる。
「ッス」
リョーマは短く返事をすると、猫のような目を優しく細めて会議室を後にしたのだった。