なんでも叶えられるあの日に
夏の暑さが鼓動を加速させる。
スーツの走り辛さに若干の苛立ちを覚えながら、それでも俺は彼女に追いつこうと足を動かしていた。
アイツに……なまえに、伝えなきゃいけない事があるんだ。
*****
全国大会後アメリカに渡ってすぐ、俺は日本にいる親父の代わりに知り合いの結婚式に出席する事になった。
親父がアメリカでコーチをしていたと言う新郎新婦は俺にとってもよく知る人物だ。出席者も顔見知りばかりで、保護者がいない俺は同じく招待されている幼馴染の家族と一緒に向かう事になっている。今着ている水色のスーツジャケットに灰色チェックのウェストコート、そしてこのオレンジのネクタイも、全部その人達に手配してもらったものだ。
結婚式まであと少し……。着慣れない正装に窮屈さを感じながらも準備を終えて居間に向かうと出発予定時刻まではまだ少しあるからか、おじさん――幼馴染の父親だ。俺の親父ともアメリカにいた日本人同士と言う事で仲が良い。――がスーツ姿で新聞を読んでいた。俺に気付いたおじさんが顔を上げる。
「お、ハンサムボーイの登場だな。スーツがよく似合ってる」
からかうような褒め言葉を軽く受け流し、なまえはまだ準備が出来ていないのかと尋ねた。昨日ここに到着したにも関わらず、未だに姿を見ていない。
「あの子なら花嫁のドレスが見たいと一足先に会場に向かったよ」
俺が日本に引っ越す前までは、だいたいどこにでも俺を引っ張っていくようなヤツだったのに。
まぁ、良いか。ウェイディングドレスなんて興味ないし、会場に行けば嫌でも会うんだろうし。なんてどこかでそわそわする心に言い聞かせつつ、俺はする事もないのでソファに腰を下ろし、無造作に広げてあったなまえの物であろうテニス雑誌を開いたのだった。
*****
会場に到着し、入口でドレスコードの小さなひまわりを胸に挿してもらう傍ら俺は辺りを見回す。そんなに広くない場所であるにも関わらず、見知った顔で構成された人混みの中を探してもなまえの姿を見付ける事は出来なかった。
俺は思わず受付のブライズメイドに尋ねる。すると彼女は目を丸くし、
「あの子なら花嫁の控え室に入っていくのを見かけたわよ」
と一言。
二人が一緒にいないなんて珍しいと思っていたのよ、と笑って続ける姿を俺は複雑な気持ちで眺めずにはいられなかった。
そりゃあ、物心つく前から、学校でも放課後のテニスコートでも夏休みのキャンプでもだいたいアイツと一緒に過ごして来たけれど。だからってお互い他に友達がいなかった訳じゃないし、言うほどずっと一緒に居た訳でもない。……と、思う。
それに今更指摘されてしまっては、日本での生活でようやく慣れて来た『自分の右側に誰もいない変な感覚』を、また思い出してしまうではないか。
……早くなまえを見つけよう。
*****
「ようリョーマ久しぶり! しばらく見ない間に大きくなって……!」
「たった半年でそんなに大きくなるわけないだろ」
式が終わって立食パーティが始まる頃、忙しなく挨拶をして歩く新郎新婦が俺の元にも現れた。新郎に軽くハグをされ、そして髪をぐしゃぐしゃに撫で回される。やめろと抗議する言葉が聞き入れられる事はなかった。この人は幼い時から親父の周りを出入りしていたから、いつまでも俺を出会った頃の赤ん坊のように扱うのだ。
「もうそれくらいにしてあげたら?」
見かねた新婦がやんわり新郎をたしなめると、ようやく俺は自由になれた。蹂躙された髪を直し、ついでに曲がってしまったネクタイもちょうど良い位置に戻す。そうしたら、急に言わなければいけない事を思い出した。
「結婚オメデト」
「ありがとう……あら? 今日はなまえと一緒じゃないのね」
新婦はあたりを見回し首を傾げる。みんなそんなにびっくりするほど俺達ってセットなわけ? と疑問に思いつつ、ついでに俺も彼女を探していると伝えた。傍らの新郎が腕を組む。
「アイツなら式が終わってから見てないな。でもま、ホールのどこかにいるんじゃないか?」
俺はまたそれかと項垂れつつ、やけに微笑ましげにしながら次の挨拶へ向かう新郎新婦を見送る。
ったく、なまえのヤツどこにいるんだよ。……用事、あるのに。
なんだかちょっとイライラしてきた。
*****
パーティーの盛り上がりもそろそろ落ち着き、気付けば日も暮れていた。
いくら知り合いが多いと言っても会場にいるのは大人ばかりだし、腹ごしらえも終わった今、俺は暇を持て余していた。なまえがいればテニスの話でもして気を紛らわせる事もできると言うのに、そろそろ帰る人も出て人混みがまばらなった今でも見付からない。……もう帰ってしまったのだろうか。いや、それないか。帰るなら一家全員連れ立ってだろうし、おじさんはまだあそこの角でビールを飲んでいる。
ならばせめてうるさいディスコ音楽から逃げだす方法はないかと俺は窓の外に目を向けると、今日一日探しても見つからなかった彼女が、バルコニーで頬杖をついて空を見上げていた。
びっくりするほどあっさりと見付けてしまった事実に拍子抜けしつつ、俺は一目散になまえの元へ向かう。一歩外に踏み出せば、月明かりが彼女の顔を白く照らしていた。
ふと、記憶が引っ越す前の時間に引き戻される。
なまえはテニスコート横の池で泳ぐカルガモを、練習終わりによく眺めているヤツだった。
最初はなんで見ているのか理解できなくて、幼い俺はそんな事よりもうひと勝負しようと毎日声をかけていた。そしたらいつの間にか、なまえから俺に声をかけてくれる事の方が多くなって、その頃には雛だったカルガモが成長して今度は自分たちの子供を連れて池の中で列を作っていた。その様子をなまえがあまりにも楽しそうに眺めているから、ようやくカルガモ達が少しだけ好きになれた気がしたんだ。
池の傍でしゃがみこむなまえと、ここで満月を見つめる彼女の姿が脳内で重なる。けれど半年ぶりに会う幼馴染はドレス姿で、少しだけ化粧もしているみたいで、汗だくになって黄色い球を追いかけあった姿とは似ても似つかない。
なんだか俺の知ってるなまえじゃないみたいで、かける言葉が上手く見つからなかった。
「……探したんだけど」
それでもなんとか絞り出してその横顔に声をかけると、なまえはハッとしてこちらを振り向いた。そして二、三歩後ずさりすると、何も言わずにその場から走り出してしまう。
「あ、ねえちょっと!」
バルコニーを去り、会場へ入っていくなまえを追いかけて俺も駆け出す。なんとかなまえの背中を見失わずに人混みを掻き分け扉から再び会場の外に出ると、彼女は既にホールの階段を早足で降りるところだった。後に続く。階段を下り切ればホールの玄関はすぐ目の前だ。さすがに向こうもテニスで俺と張り合う実力があるだけあって足も速く、なかなか追いつけなかった。
夏の暑さも相まって、鼓動が加速する。スーツの走り辛さに若干の苛立ちを覚えながら、それでも俺は彼女に追いつこうと足を動かしていた。このまま逃げられてしまったら、俺はきっとなまえに会えないままこの地を離れなければいけない予感がする。
その前に、アイツに伝えなきゃいけない事があるんだ。
なまえを追って裏庭に回る。
平坦な道になったのでラストスパートをかけると、ひまわりで飾り付けられたプールの前でようやく彼女の腕を捕まえられた。捕まった腕を振りほどこうとなまえは勢いよく暴れる。絶対に手を離すまいと俺は力を強め、そして二人して足を踏み外しプールの中へ落ちてしまった。
「離し……きゃあ!?」
「え!? う、わ……っ!」
高く水しぶきが立つくぐもった音を聞きながら、水面に浮かぶひまわりの花がゆっくり遠ざかって行くのが見える。夜空に浮かぶ太陽のようだと柄にもない事を思い浮かべつつ水底を蹴って水面からを顔を出すと、今度は満点の星空が視界に飛び込んで来た。
手探りで淵を見付けて這い上がる。同じタイミングでなまえも水を滴らせ、プールサイドに座り込んだ。夏とは言え、身体にぴったり張り付いてくる衣服が冷えて気持ち悪い。
頭を振って髪に含まれた水滴を落としていると、濡れた前髪の間から、なまえが落ち着く間もなく俺から距離と取ろうする姿が見えた。すかさず肩を掴みこちらを振り向かせる。
「なんで逃げるんだよッ!!」
「あ、あんな事してっ、合わせる顔あるわけないじゃない!」
久しぶりに見るなまえの顔はプールから出て来た直後にも関わらず真っ赤で、俺はハッとして手を離す。けれど遂に観念したのか、彼女がそれ以上逃げる事はなかった。
“あんな事”――その言葉に、俺はひとつだけ身に覚えがある。それは俺が日本に引っ越す直前のジュニア大会で、四連続目の優勝を手にした時の事だ。
『おめでとう、リョーマ!』
表彰式が終わるなりハグされて、目をつぶって欲しいと言われた。言う通りにしたら、口に何か押し込まれて、慌てて目を開くと、既に走り去る彼女の後ろ姿しか見えなかった。一体なんだったのかと疑問に思うのと同時に、口の中に誰もがよく知る甘い味が広がる。
『……チョコだ』
それから引っ越す日まで、俺達が会う事はなかった。
チョコを口に押し込まれたあの日は二月十四日、バレンタインデーだったのだ。
*****
「急にあんな事しちゃったからすごく気不味くて会いに行けなくて! そしたらあっという間にリョーマがいなくなっちゃって、どうしてっていっぱい泣いたんだから!!」
私も悪かったけど、引っ越す日を教えてくれなかったリョーマも酷いわ……。
尻すぼみに消えていった言葉の代わりに、いつの間にか嗚咽が聞こえていた。自身の顔を覆い、泣き始めてしまったなまえを他所に、俺はやっぱりと高揚する期待を抑えられない。
……もう気持ちをしまっておく必要はないんだ。
男も女もアジア人よりずっと早く成長するアメリカ人達に囲まれる中、ずっと変わらない目線でがむしゃらにラケット振るなまえは、俺にとって初めから“トクベツな友達”だった。
コートの外にいる時でも俺の右側になまえがいるのが当たり前で、二人にしかわからない
「……ひまわりの花言葉の意味、知ってる?」
唐突な質問に驚いたのか、なまえは呆然とした表情で顔を上げる。
「スピーチで言ってたやつの事?」
おずおずと返って来た言葉にひとつ頷く。それはさっき、新郎のスピーチに出て来たエピソードだ。彼はプロポーズをする時、新婦の好きなひまわりの花言葉を利用したらしい。
「あのチョコレートに意味があったなら、」
水面のひまわりを三輪掬い上げ、なまえに差し出す。俺の記憶が正しければ、あの時新郎もひまわりを三つ差し出したと言っていた。
「これが俺の答えだよ」
あまりにも気取り過ぎた行為だっただろうか。流石にクサ過ぎたかな。
なんて照れるし恥ずかしいけれど、今日の俺は、今日ばかりは違うから。
二月のあの日、彼女が伝えたかった想いが俺の“もしかして”と重なるなら、全部伝わってるんだって俺からも伝えたいから。
ひまわりと俺を交互に見つめ、彼女はこれでもかと言うほど目を見開く。
「……大好き!」
そして次の瞬間、俺は思い切り抱き締められ、その勢いでもう一度プールに落ちていたのだった。