Sweet Me Do (not)!


 氷帝学園主催のテニス部合同文化祭が終わり、2学期が始まって、私が立海男子テニス部の臨時マネージャーになってから2週間が経った。
 今日も1年生と一緒に倉庫からボールやネットを出しておき、部員たちがそれぞれの練習に入った事を確認して部室に戻る。その道すがら、頭の中では今日やらなければいけない事をリストにした。何かを考えながら行動をする事は文化祭ですっかり癖になってしまって、それがこうして誰かの役に立っているのだから参加して本当に良かったと思う。

 ええと……ドリンクを用意するのは休憩前で良いから、それまでは部誌を書いて、消耗品のチェックもしておかないと。なんて考えなら部室の扉を開け、まずは共用の本棚から部誌を取り出し最新のページを開く。するとそこは既に、今日の日付で書くべき事が全て埋まっていて。

「また……」

 感心するほど達筆な字は書いた本人の性格を表しているようで、筆記者の欄に書かれた角ばった『真田』に指を滑らせ、私は溜息をついた。時間が空いたらで良いから部誌も書いて欲しいと言われたのは初日の話で、なのに実際書いた事は一度もない。だって毎回こうして、弦一郎先輩が既に書いていてくれているから。
 少しだけ憂鬱な気分で今度は消耗品の管理ノートを広げると、案の定ここにも同じ筆跡で既に記入が終えられている。

「……綺麗な字」

 そう呟いた声の半分は本心で、あとの半分は嫌味だ。
 やろうとしていた事がなくなってしまい、どうしようかと私は再び頭の中でプランを練り直す。こうなったら先にドリンクを作ってしまおうかな。
 気を取り直して準備を始める。すると部室の扉が開き、弦一郎先輩が入ってきた。

「弦一郎先輩、お疲れ様です」

 私の方を一瞥すると、先輩は「ああ、お前か」と無一文字に引き締めていた唇をほんのわずかだけ緩める。テニスコートでは決して見られないであろう優しい表情が有無を言わさず心をくすぐって、あまりにも単純な自分に複雑な気持ちを抱かずにはいられない。

「頑張っているようだな」
「はい、なんとか」

 先輩、何か必要な物でもあったのかな。私が用意出来る物であればすぐ差し出せるように様子を見つつ、ドリンクの準備を進める。先輩はロッカーを開け、ラケットを取り替えるようだった。私の出番はないみたい、と安心してドリンクの入ったタンクを持ち上げたらなかなかに重たくてよろけそうになったけど、落とさないように慎重に移動した。9月も半ばとは言えまだまだ暑いし、コートの隅にでも置いておけば休憩前でもみんな飲んでくれるかもしれない。
 肘をドアノブに引っ掛け、体重をかけて扉を開く。こんなはしたない姿、弦一郎先輩がいるのにちょっと恥ずかしいけれど、両手がふさがっているのだから仕方がない。
 けれど扉がほんの少し開いたところで背後から黒い影が覆い被さった。かと思うと扉が閉められ、私の両腕があっという間に軽くなったのだ。

「無茶をするな。危ないではないか」

 見上げると、眉間にシワを寄せた弦一郎先輩の顔が間近にあった。タンクを取り上げた拍子に転んでしまわないよう気を遣ってくれたのだろう。先輩は片手にタンクを持ち、もう片方の手でドアノブを掴んでいる。おかげで扉と先輩に挟まれているような体制で、顔を上げれば先輩の顔がぶつかってしまいそうなほどの距離にあった。かと言って俯いてもユニフォームから見える首筋や、たくましい腕に目がいってしまって、どこを見たら良いのか全然分からない。文化祭のダンス以来の至近距離に顔が熱くなった。

「……ありがとうございます」
「構わん。しかし己の出来る範囲を見極めるのも大事だぞ。無理をして怪我でもされては困るからな」

 目のやりどころが分からず、結局視線を泳がせながら返事をする。私の態度がおかしいと感じたのか弦一郎先輩は首を傾げたけれど、すぐにこの体制に気が付いて慌てて離れていった。

「と、とにかく気を付ける事だ! これは俺が持って行こう」

 咳払いしながらそう締めくくった先輩の耳が、実は真っ赤になっていて。先輩もドキドキしてくれているのかな、なんて思ってしまったら、今度は込み上げてくるニヤケを抑えるのに必死にならなければいけない。
 不思議だ。さっきまで先輩に対して不満を抱いていたはずなのに、こうして優しくされると許してしまいそうになる。優しくしてくれる事に嬉しくなってしまう。
 けれど、これじゃあ私がマネージャーになった意味がなくなってしまうから。
 私はタンクを取り返そうと、取手を掴む先輩の手に自分のそれを重ねた。
 先輩の手がびくりと跳ね、力が入る。

「お前、な、何を!?」
「大丈夫です。これは私が持っていきます」

 そう言うと、先輩はあからさまに安堵の息をついた。けれど握った手はそのままに

「ああなんだ、そういう事か……遠慮するな。どうせ俺もコートに戻るのだからな」

と、タンクを自分の方へ引き寄せた。けれどここで引き下がってはまた頼りきりになってしまうと、私も負けじと手に力を込める。

「でも、これは私の仕事ですから」
「しかし、お前には他にもたくさん仕事があるだろう?」
「だからと言ってひとつを疎かにして良いという言い訳にはなりません」

 ぐい。ぐい。どちらかが力を入れる度にタンクは一方に引き寄せられる。何度かやっている内に込める力はどんどん大きくなっていって、気が付けば私たちは奪い合う様にタンクを全力で自分の方へ引き寄せ合っていた。
 そしてそれは一瞬の出来事だった。引き寄せる力が思いの外大きくなってしまって、その表紙にタンクは2人の手から離れていったのだ。

「「あ!」」

 咄嗟に動く事も出来ず、タンクが落ちてドリンクが溢れる様子をただ呆然と眺める事しか出来なかった。気不味い空気が流れる。厳しい弦一郎先輩の事だ。きっと雷が落ちるように怒られるんだろうと覚悟を決めて顔を伏せていたけれど、怒声はいつまで経っても降ってこなかった。
 疑問を抱きつつ、恐る恐る顔を上げる。すると先輩は何も言わずに部室の隅にある掃除道具入れからモップを取り出していた。

「弦一郎先輩……?」
「ここは俺が掃除しておくから、お前は部員たちの様子を見て来てくれないか」

 黙々と片付ける先輩を前に、根が張ってしまったように私は動けずにいた。ホッと胸をなでおろすなんて出来ない。悲しみにも似た悔しさが心をぐちゃぐちゃにかき乱して、終には堪えきれず流した涙が頬を伝っていた。

「どうした、早く行かん、か……!?」

 その場に立ち尽くす私を疑問に思ったのか、弦一郎先輩は掃除道具入れから視線をそらし、こちらを見て見開いた。情けない姿を見られたくなくて思わず目を逸らす。けれどそれだけじゃ隠れられる筈もなくて、先輩が戸惑いがちに息を呑む。

「……ごめんなさい」

 もう無理だった。有無を言わさず私は部室から走り去る。「待て!」と言う弦一郎先輩の慌てた声に後ろ髪を引かれたけれど、振り払う為に一層足を速めた。

*****

「待て!」

 ほとんど怒鳴り声に近い制止の声も、部室の扉が閉まる音にかき消される。咄嗟に伸ばした右手も虚しく空をつかむばかりだった。

 誰もいなくなった部室で弦一郎は呆然と立ち尽くす。一体何が起こったのだろうか。いつも通り部活に精を出して、部室に寄ったら最近出来た彼女がいて、偶然とは言え2人きりになれて弦一郎なりに少しそわそわしていた。けれど浮かれている様を悟られないようあくまでいつも通り接していたはずが、気が付けば彼女は泣きながら走り去っていたのだ。

 そうだ、アイツは泣いていた。
 弦一郎はハッと我に返る。こうしてはいられない、早く追いかけなければ……!
 濡れた床の掃除もそこそこに扉を開けるも、ちょうど部室に入ろうとしていた蓮二と危うくぶつかってしまいそうになって立ち尽くしてしまった。

「弦一郎か……なるほど」

 腕を組んだまま、何やら納得したように頷く蓮二の真意が分からない。それよりも今は追いかけるべき人物がいるのだと、弦一郎はどうにか扉の前に立ちはだかる蓮二の横をすり抜けられないか模索した。

「すまない蓮二、急いでいるのだ。通してくれないか」

 けれど蓮二は頑なに道を開けないどころか、弦一郎を行かせまいと後ろ手に扉を閉めてしまうではないか。

「いや、みょうじのところへは、今は行かない方が良い」

 全て知っているのではないかと錯覚してしまうくらい鋭い考察に思わず心臓が一度跳ね上がる。何故それを、と尋ねるとしかし返ってきたのは思いの外普通の答えで。

「先ほど、目元を抑えながら走っていく彼女の姿を見かけた」

 そういう事かと納得しつつ、同時に心の底で複雑な気持ちが湧き上がるのを自覚する。相手は全幅の信頼を置いている蓮二とは言え、彼女の泣き顔を他人に見られたのは弦一郎自身うまく説明出来ないが嫌だった。そして半ばそれを隠すように苛立たしく声を荒げる。

「ならば尚更早く通さんか!」
「まあ落ち着け、弦一郎。今行ってもお互い冷静に話し合えないだろう?」
「しかし……」

 弦一郎が渋っている間に、蓮二の後ろで扉が再び開かれた。もしかしたら彼女が返ってきたのではないかと思い、蓮二の肩越しに覗き見る。けれど入って来たのは待ち望んだ人物ではなく、精市だったのだ。

「蓮二、さっきの練習なんだけど……って、2人ともどうかしたのかい?」

 弦一郎と蓮二の間に流れる微妙な空気を感じ取り、精市は目を丸くする。彼まで入って来られては流石にここをすり抜ける事など出来ないだろうと、弦一郎は不本意ながらもようやく自分が冷静になるのを自覚した。

「……すまない。どうかしていた」

 焦りを体内から吐き出すように、ひとつ長い溜息をつく。そんな弦一郎の肩を軽く叩き、蓮二は座るよう促した。

「構わない。ちょうど部活も休憩に入ったところだし、良かったら何があったのか話してみないか。力になれるかもしれない」
「なんだよ、2人して何の話? 俺も入るよ?」

 そして精市も揃って腰掛けたところで、弦一郎はつい先ほどの出来事を語ったのだった。

―――― ……。

「と、いうわけなのだが……」

 弦一郎が語った出来事は精市と蓮二の想像よりもシンプルなものだった。2人は彼がなまえと喧嘩でもしたのだろうとあたりをつけていたけれど、話を聞く限りではどうやら喧嘩にすら辿りついていなかったらしい。
 蓮二がこの事態をどう見るか熟考する横で、精市が呆れたように首を振った。

「どうせ真田が何か厳し過ぎるような事でも言ったんじゃないの? たるんどるとか、けしからんとか、仕事が遅いとか」

 精市から見て、この真田弦一郎という幼馴染は昔から自分にも他人にも厳しすぎる嫌いがあった。それ故にデリカシーのない言動をする事が多々あるのだ。今回も大方のところ、〝マネージャーになったばかりで不慣れ〟と言う事も考慮せず彼女の仕事ぶりに苦言を呈したのだろう。簡単に想像がつく。
 けれど弦一郎は精市の言葉を聞くなり、ぐっと眉を寄せて勢いよく反論するではないか。

「そのような事は言っておらん! だいたいアイツの仕事が丁寧ながらも早いという事は、俺たち全員がよく知っているだろう!」

 文化祭からこちら彼女の働きぶりは弦一郎自身がよく評価しているし、批判する事などありえない。それに彼女には意識して優しくしていた……はずなのだ。少なくとも、弦一郎の中では。
 ここまで激しく反論される事が予想外だったのか、精市は目を丸くして弦一郎を見つめる。そんな精市に弦一郎が少しの罪悪感を抱いたところで、腕を組み今まで何やら考え込んでいた蓮二がようやく口を開いた。何か閃いたようだ。

「待て。もしかしたら逆ではないか?」
「逆……だと?」

 疑問と戸惑いの表情を浮かべ、言葉を反復する弦一郎に向かって蓮二は頷く。弦一郎の話と、なまえの性格、それに2人の関係を鑑みればみるほど、自分の考えは間違いないのではないかと確信すらあった。

「弦一郎、お前はみょうじに対して不自然に優し過ぎたのではないだろうか。文化祭の時から、彼女はもっとお前に頼って欲しかったように思える」

 今回の事も、根の部分は変わらないのだろう。弦一郎の力になりたくてマネージャー業を始めたなまえと、生来の性格から全て背負ってしまう弦一郎の思いがすれ違ってしまったのだ。
 弦一郎はしばらくの間俯いたまま沈黙していたが、思うところがあったのか、やがてポツリとつぶやいた。

「俺は……ただあいつを大切にしたかっただけなのだ」

 様々な葛藤の渦中にいるのが伝わる声だった。
 蓮二は次にかける言葉が思いつかない。弦一郎を責めたいわけではなかった。

「……ぷっ」

 そんな時、重い空気を打ち破ったのは精市だった。精市は吹き出したかと思うと、もうこれ以上我慢出来ないとでも言うようにお腹を抱えて笑いだす。この真面目な雰囲気にそぐわない行動に、弦一郎どころか蓮二ですらポカンとしてしまった。

「真田……お前面白すぎるよー!」

 目尻に涙を浮かべるほど笑い転げる精市に戸惑いすら覚える。打たれ強い弦一郎でさえ少し傷ついたように顔を歪めており、さすがにデリカシーが無さ過ぎるのではないかと蓮二は咎めようか迷った。
 けれど一頻り笑い、落ち着いた精市が続けたのは意外にもまともな言葉で。

「良いかい? みょうじさんは真田を好きになったんだ。自分にも他人にもやたら厳しくて、馬鹿みたいにまっすぐなのが真田だろ? そんな面倒臭い君を好きになったみょうじさんが、変に甘やかされて嬉しいと思う?」

 確信をつくような内容とは裏腹に遠慮のないその言葉に、弦一郎は怯んで何も言い返せない。それを良い事に、精市は更に畳み掛けた。

「それに君、文化祭の時にも同じように全部自分でやって、結局影でみょうじさんに心配かけてたらしいね。同じ事でトラブるなんて最早バカのやる事だよ」
「な、何もそこまで言わんでも……」
「本当の事じゃないか。ねえ、蓮二?」
「俺に同意を求めるな、精市」

 蓮二は溜息混じりに否定とも肯定ともつかない返事をする。
 幼馴染でありライバルという立ち位置だからだろうか、普段他人には穏やかな気遣いをする精市も、弦一郎にだけは容赦がない。けれど間違った事は絶対に言わないし故意に傷つけようとしているわけでもない事を弦一郎も分かっているからか、弦一郎も落ち込みはすれどその物言いが癪に障る事もないようだ。

「……アイツと話合って来る」

 やがて弦一郎はおもむろに立ち上がり、出口に向かう。
 蓮二は弦一郎の様子を注意深く観察したが、先ほどとは打って変わり、その姿に行かせてはいけないなどと言う不安は感じられなかった。

*****

 部室を飛び出したからと言って行く宛てもなく、マネージャー業務をサボってしまう訳にもいかないので、結局私はコートの隅でボール拾いをしていた。部活はちょうど休憩に入ったようでコートの中には誰もいない。その方が今の私には気楽で、さっき1年生が来て球拾いを手伝ってくれようとしたけれど、休む時はちゃんと休まなくてはいけないと追い返してしまったくらいだ。

「……はぁ」

 溜息はとめどなく溢れて、もう何度目か分からない。まぶたの裏に焼き付いて離れないのは、泣いている私を見て戸惑う弦一郎先輩の姿だった。罪悪感と情けなさで押しつぶされそうだ。だって単なる私のわがままで先輩を困らせてしまったんだもの。
 でも……それでも。
 優しくされるくらいなら怒って欲しかった。「たるんどる!」って、切原くんにするみたいに怒鳴って欲しかった。だって仕事もさせてもらえない上に、失敗しても怒って貰えないなんて、役立たずだと言われているみたいだったから。

「けど何も泣かなくても〜……」

 自己嫌悪に頭を抱える。声に出すと余計に罪悪感は増してくばかりなのに、声に出さないと心に押しつぶさそうだった。先輩を困らせるつもりなんてなくて、ただ私は役に立ちたいだけなのに。

「はぁ……」
「溜息ばかり吐いとると、幸せが逃げてくぜよ」

 そんな時、不意に声が頭上から降って来た。視線の隅に脚が6本入り込んで、慌てて顔を上げる。なんと仁王先輩と丸井先輩、それに切原くんまでが立ちはだかっていたのだ。何が起こってるのか分からず順番に名前を呼んでいる内に、3人は私を囲うようにしゃがみ込んでしまった。

「1年生が心配してたぜぃ」
「玉川も『切原の方が仲良いし、見て来てくれないか?』とか言って、いっちょ前に部長ヅラしやがってさー」
「愚痴ってんじゃねーよぃ」
「みょうじ、おまんらしくないの。どうした?」

 丸井先輩と切原くんが賑やかにやりとりする横で、仁王先輩は傍らのテニスボールを拾い上げ、手品で消したり出したりしながら尋ねる。その鮮やかな手つきに感心しつつも、私は誤魔化すようにわざとらしく眉をひそめた。

「仁王先輩が優しい……もしかして、柳生先輩だったりしません?」
「心配した俺がアホじゃった」

 ジト目で睨んでは来るけれど、本気で怒っているわけでない事は明らかだった。その様子に丸井先輩と切原くんが大げさに吹き出し、私も楽しくなってきちゃって「冗談です」と笑わずにはいられない。おかげでいくらか心が楽になって、誤魔化さずに話す勇気が出てきた。最初はこんなプライベードな事を聞かされてもみんなが困ってしまうのではないかと思ったけれど、やっぱり誰かに聞いて欲しかったのだ。

「……たるんどるって、言われなくなったんです」
「真田か」

 仁王先輩の短い確認に、ひとつ頷く。
 文化祭で弦一郎先輩と話をする事が多くなった頃は、会う度に「たるんどるぞ」と言われていた。ちょっと目を細めて、どことなく嬉しそうに言ってくれるのが好きだった。もしかして、と期待せずにはいられなかったから。

「弦一郎先輩はとても優しくて、さっきだってドリンクをこぼしたのに怒られなくて……それだけじゃない。本来マネージャーがするべき仕事も、今まで自分がやっていたからって先回りして全部終わらせてしまうんです」
「は!? お前怒られないし手伝ってくれるのが不満なの!? 意味分かんねー……引くわー……」
「だ、だって! まだまだ仕事を任せる事なんて出来ないって思われてるみたいで悔しくて!」

 切原くんが本気で顔を青くするから、思わずムキになって反論してしまう。そんな話をしている内にまた少しずつ悲しい感情を思い出してきた。

「全部私の考えすぎだって事は分かってるの。でも、信用、されてないみたいで悲しくて、弦一郎先輩に当たっちゃって。……名前だって呼んでくれないし」
「名前ぇ?」

 切原くんが今度は素っ頓狂な声を上げる。
 どんどん愚痴っぽくなってくる自分が嫌なのにもう止められなかった。

「前まではみょうじ、って呼んでくれたのに、私が弦一郎先輩って呼び始めてからずっとお前、お前、って、全然名前を呼んでくれないの」
「あー、なんでだろうな?」
「……切原くん、ちょっと飽きて来てるでしょ」
「な、そ、そんな事ねーよ!」

 図星だったのか、切原くんはあからさまに慌てていた。そんな彼とは裏腹に丸井先輩と仁王先輩は顔を見合わせ、何故だか急にニヤニヤと含みのある笑みを浮かべ始める。

「それはのう……」
「なるほどねぃ……」

 何やら悪戯でも考えていそうな表情に不穏な予感がよぎったけれど、こうして相談にのってくれている先輩たちに失礼だと私はそんな考えを振り落とすつもりで頭を振った。
 すると気が付けば、鼻がくっついてしまいそうなくらい近くに丸井先輩の顔があって。

「なまえ」

 丸井先輩が私の手を取り、何かを握らせてくる。手を開くと、先輩がいつも噛んでいるグリーンアップルのガムだった。

「それ、賄賂な。真田じゃなくて俺にしとくって手もあるぜぃ?」
「え……?」
「いやいや、このメンツじゃったらどう考えても俺ぜよ。のう、なまえ?」
「え、いや、えっと……」
「は? よく分かんねーけど、どう考えても俺が一番っしょ! なあ、みょうじ?」
「「それはない」」

 先輩たちの声が綺麗に重なり、切原くんの言葉を否定する。漫才のようなやりとりが面白かったけれど、それよりもどうしていきなりこんな流れになってしまったのかと私は事態についていけなくなっていた。

「ほらどうする? こんなイー男達の中から選び放題、名前も呼ばれ放題だぜぃ?」
「なんなら世話だって好きなだけさせてやるぜよ。おまんさんは誰を選ぶ?」

 3人の申し出に圧倒されて、私は仰け反るように一歩、後ろに逃げる。なのに一層ぐいっと距離を詰められてしまっては、どこにも逃げ場がなくて。
 その時、

「無論、駄目に決まっている!」

 大きな手に腕を掴まれ、力強く引き上げられたのだ。勢い余って後ろに倒れそうになったけれど、暖かい何かに受け止めてられて、見上げるとそこには弦一郎先輩がいた。
 先輩は私の腕は離したかと思うと、仁王先輩と丸井先輩、それに切原くんに詰め寄る。

「こいつは俺の恋人だ」

 この位置からは先輩の表情までは見えないけれど、一言目とは打って変わりトーンが随分低くて怖いくらい。切原くんなんて真っ青になって弦一郎先輩を見上げているのに、その両隣にいる先輩たちは意に介す様子もなくひらひらと手を振った。

「おっと、殴られるのは勘弁だぜ」
「冗談ぜよ。こうして発破かけてやらんと、誰かさんは油断しとるようだからの」

 それだけ告げて、2人は切原くんの両腕を抱え込んでコートを出て行ってしまった。
 先ほど弦一郎先輩を困らせてしまった事もあって、2人きりで残されてしまってはそわそわと落ち着かない。何か声をかけた方が良いのかなと思いつつも何も思いつかなくて、いっそ向こう側にあるボールを拾う体でまた逃げてしまおうかと考えていたら、先に口火を切ってくれたのは先輩の方だった。

「先ほどはすまなかった」
「いえ、謝るのは私の方です!」

 思ってもみなかった謝罪の言葉に私は慌てて否定する。弦一郎先輩が悪いだなんて少しも思っていない。
 けれど先輩は首を横に振るばかり。

「いや、俺も仕事を取り上げている自覚はあったのだ。幸村に言わせれば、俺はお前を甘やかしていたらしい」
「弦一郎先輩が、私を……?」
「ああ。俺はただお前に負担をかけ過ぎないようにと思っていただけだったのだが、逆にそれが重荷になっていたとはな」

 先輩が、あの厳しいを体現したような弦一郎先輩が、幸村部長から見ても分かるくらい私を甘やかしていた?
 甘い言葉の連続にとろけそうなくらい嬉しかったけれど、それ以上の安心に足の力が抜けてしまいそうだった。良かった。信頼されていない訳じゃなかったんだ。

「……私たち、文化祭の時からずっとこうですね」
「そうだな」

 先輩が目を細める。凛々しく真一文字に引かれる事の多い唇がうっすら弧を描いた。驚くほど優しげなその表情を、ずっと見ていられたらと願ってしまうほどに、幸せで。

「……あのー、おふたりさん?」
「「え?」」

 夢見心地な気分でいたら、急に声をかけられた。我に返ると私たちの前にはいつの間にか桑原先輩が気まずそうに立っている。

「仲が良いのは大変結構なんだが、ここがどこだか覚えているか?」

 ハッとして周りを見渡すと、休憩を終えた部員のみんながコートに入る事も出来ず固唾を飲んでこちらを見守っていた。中には顔を真っ赤にしている人や、ニヤニヤと揶揄いの笑みを浮かべている人もいる。こんな大勢の前でなんて事をしてしまったのだろうとみるみる内に顔が熱くなった。
 弦一郎先輩も腕を組んだまま、首筋まで真っ赤にして固まっていて。

「……さ、」
「さ?」
「さ、さっさと練習に戻らんかー!!」

 次の瞬間、雷のような先輩の怒鳴り声がコート内に響き渡り、部員たちはみんな弾かれたように各々の練習場所へと向かったのだった。

「し、仕事に戻りましょう! 私、もう一度ドリンク作って来ます」
「待て、重いだろうから俺も……いや、任せるとしよう」
「はい、もちろんです」

 ようやく聞けた任せるという言葉が嬉しくて、浮立つのを抑えられないまま小走りで部室に向かう。顔に当たる風が熱を連れ去ってくれるようで気持ちが良かった。
 部室からドリンクの粉やタンクを持ち出して給水所に向かう。ひとりになって気持ちも動悸もようやく落ち着いた頃、再び現れたのは弦一郎先輩だった。

「どうかしましたか?」
「いや、ひとつ聞いておきたい事があってだな」

 どうしたんだろうと思いつつ、弦一郎先輩の次の言葉を待つ。先輩は「その、なんだ」とやたら口籠もっていて、こんなにはっきりしない姿は初めてで少し新鮮だ。

「お前は……先ほどの仁王と丸井が本気だったとしたら、どうしていただろうと思って、だな」

 詰まりながらも紡がれる言葉に、酷く驚いた。だってもしかして、妬いてくれてる?
 緩んでしまいそうな口元を隠すために、私は先輩に背中を向けてドリンク作りを再開する。答えなんて、そんなの決まってる。けど、今は本当の事を言いたくない。

「……なびいちゃうかもしれません。だって弦一郎先輩、いつまで経っても名前で呼んでくれないし」
「なっ!? それはいかん!」
「だってずーっとお前、お前って。私ちょっと怒ってるんですよ」

 怒ってるなんて、そんなの嘘だ。だけど悲しかったのは事実だし、今まで私が悩んでいた分、先輩を困らせてみたかった。先輩に甘やかされていると知って、どうやら私は調子に乗っているらしい。

「必要な時は、ちゃんとみょうじと呼んでいるつもりなのだが……」

 唸るように小さい声なのに、少し上ずっている。振り返って様子を伺うと、眉間に刻まれた縦じわがいつもより随分と濃くなっていた。真一文字に引かれた唇は怒っているようにすら見えるのに、全然怖くない。むしろもっと困った姿を見たいと思ってしまう私は、自分が思っているよりも実は性格が悪いのかもしれない。

「必要がなくても呼んで欲しいです。出来れば、なまえって」
「いや、まあ、それは、だな」
「……もう甘やかしてくれないんですか?」

 私、もっと先輩に甘えたいです。
 と続けたら、だんだんこっちが恥ずかしくなってきちゃって、蛇口を締めるフリをして再び先輩に背を向ける。そうしたらすぐに、後ろから先輩に抱きしめられてしまった。

「あまり煽らないでくれ、止められなくなっても知らんぞ……なまえ」

 耳に先輩の吐息がかかる。けれどそれ以上に、先輩の声が作る「なまえ」という音が脳を溶かしてしまいそうで。このまま振り返ってしまったら、どうなっちゃうんだろうと考えながら、先輩の腕の中で身体をよじる。すると大きな手を頰に添えられて、後ろを向かされる。吐息が唇にかかった。

「――おい、赤也押すなって!」
「だってジャッカル先輩がそこにいると見えないんスよ!」

 そんな時、聞き覚えのあり過ぎる声が聞こえて来た。慌てて先輩から距離を取りつつ声の出所を探すと、すぐに悲鳴が聞こえ、校舎の影から切原くんと桑原先輩が雪崩のように転がり現れる。

「貴様ら……」

 折り重なった彼らの前に弦一郎先輩が立ちはだかる。始めこそ誤魔化すようにへらへらと笑っていた彼らだったけれど、先輩と目が合うと見る見る内に顔から血の気がなくなっていた。

「その腑抜けた野次馬根性を叩き直してやるッ!!」

 そうして先輩は両手にひとりずつジャージの襟を掴み、2人を引きずるようにしてコートを戻ってしまった。

 残された私は今更ながら力が抜けてその場に座り込む。
 名前を呼んでくれるだけであんなに嬉しかったのにキスまでされそうになって、どんな顔して部活に戻ったら良いのか全然分からなかった。







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