今更後悔か


 滅多に人の通らない廊下の片隅で、私とシリウスはひとつのマントに包まっていた。私たちのお気に入りは窓の横にあるくぼみの中で、特にシリウスは奥の壁に背を預けて座り込む事を好んだ。こうすると窓の外も、廊下の様子も見る事が出来るらしい。そうして床に足を投げて、その間に私が座るのだ。すると、私の身体はすっぽりと彼の腕に収まってしまう。
 誰にも知られずに会うのにはもう慣れてしまった。スリザリン生である私とグリフィンドール生であるシリウスが恋人同士だと言う事が、絶対の禁忌だと暗黙の了解で知っていたからだ。だからお互いの部屋に行った事もないし、私は彼がどんな部屋で一人の時間を過ごすのか想像すら出来なかった。

「ねぇ、その鞄には何が入っているの?」

 シリウスの足下には二人の鞄が転がっていた。私の鞄に比べて、彼のは随分と大きい。それが会う度に萎んでいたり、パンパンに膨れていたり。ちなみに今日は後者だ。私はいつも、その中身が気になって仕方なかった。

「あぁ、秘密」

 まぁ成功したらナマエもすぐに分かるよ。と言う口ぶりから、中には悪戯の道具が入っているのだろう。シリウスは悪戯が成功した時に報告してくれるばかりで、計画や予告は絶対に教えてくれなかった。きっとそれは〝悪戯仕掛人〟達だけの秘密なのだ。
 ニヤリとするシリウスの顔を直視できなくて、私の視線は宙を泳ぎ始める。彼と向かい合っている私には彼しか見えないし、こうするしか手段がなかったから。いたずらに笑う彼の顔は本当にかっこよくて、私は身体が熱くなるのを感じた。

「こっち見てろよ」

 するとシリウスは決まって同じ事をするのだ。片手をしっかりと私の腰に回したまま、もう一方の手を私の頬に添えて固定する。こうなってしまえば、私に逃げ場はない。

「ねぇ、シリウス」
「ん?」
「もし、シリウスが私に杖を向ける事があったら、」

 シリウスの腰の辺りを探って彼の杖を取り出す。大半の生徒はここに杖を入れているので簡単な事だった。そして私の頬に添えられていた手を外すと杖を握らせて、先端を私の左胸へと誘導する。

「外さないでね、一撃でここを射止めて」

 そしてその時が来れば私も、シリウスに向かって迷わず呪文を唱えるのだろう。

「俺がナマエを?……ありえないな」

 何を馬鹿な、とでも言いたげにシリウスは笑みの種類を変える。私は至って真剣だというのに、彼は「フ、」と鼻で短く笑うだけだった。

「本気よ。だって私、卒業したら死喰い人になるかもしれないわ」

 私の家は純血で、両親とも隠してはいるけど死喰い人だ。そんな家を嫌がりながらも、裕福なそこを飛び出す勇気もないし、両親と言う自分より強い力にも逆らえない。シリウスはそうじゃないと否定してくれるけれど、私も十分スリザリンに相応しくずるい人間だと思う。名門の家を飛び出せるほど勇敢で、絶対に闇の魔術に染まらないシリウスとは大違い。
 埋まらぬ距離、そびえ立つ壁、……壊せる魔法を、私は知らなかった。私はただ少しでも彼に近づけるように祈るしかないのだ。

「ならないさ。もしもの時は、俺がナマエを連れ出してやるよ」

 そろそろ時間だ、とシリウスは呟いて私の両脇に伸ばしていた足を引っ込める。そして立ち上がる前にキスをひとつすると、「また連絡する」とだけ告げてくぼみから出て行ってしまった。
 彼は生徒達の喧騒に混ざって、いつもの赤と金に囲まれた生活に戻るのだろう。私はもう少し、緑と銀から離れてこのままでいたかった。私を包んでいたローブと体温がなくなった分、少し寒かったけれど。

『俺がナマエを連れ出してやるよ』

 心はとても、暖かかった。

*****

 閃光と煙が立ちこめる中、俺は自分でも信じられない人物と対峙していた。14年経って顔立ちは変わっても忘れられるはずがない……ナマエだ。ホグワーツにいた時から俺の恋人で、スリザリン生の中で一番闇の魔術に遠い人物……そんな彼女が、何故俺の前に立ちはだかる? 全身を黒で統一した姿は、認めたくなくとも死喰い人そのものだった。

「なんで、お前が……?」

 絞り出すように出てきた質問に、彼女は何も答えないで無表情を貫くばかりだ。ナマエは杖を俺に向ける。頭の隅で警報が鳴った。危ない、今すぐ逃げろ。でも、何故だ? 俺は今でも彼女が好きで、別れたつもりなんてなくて、そんな彼女が、俺に杖を? 嘘だ。これは何かの間違 

「〝アバダ・ケダブラ〟!」

 久しぶりに聞いた彼女の声と共に、緑の一閃が俺の横を通り抜けた。

「あ、れ……?」

 貫かれるとばかり思ていた閃光を見送り、改めてナマエを見る。無表情なのは変わっていないはずなのに、どうしてか俺には彼女が泣いているように見えた。

――『もし、シリウスが私に杖を向ける事があったら、』

 昔ナマエとした話を思い出す。あれはまるで、今この時を予想していたかのようだ。彼女は占い学が得意だったのだろうか。今思えば俺は彼女がどの授業を受けていたのかも、どんな部屋で自由時間を過ごしていたのかも知らない。

『外さないでね、一撃でここを射止めて』

 そんな事、俺にはできない。だから約束はしなかった。なのにナマエの表情はまるで俺に早く早くと促しているようで。
 ならば、俺は俺の約束を果たそう。

『もしもの時は、俺がナマエを連れ出してやるよ』

 14年と言う長い歳月が経ってしまったけれど、今の俺ならそれができる。何より今は彼女を抱きしめて、泣かないでくれと頭を撫でてやりかった。その為に俺は一歩を踏み出す。

「何やってるんだい、ナマエ・レストレンジ!!」

 黒い影が俺たちの間に踊り出る。グシャグシャな髪と嫌な笑みは忘れもしないベアトリックス・レストレンジだった。
 それよりも、こいつは今ナマエを何と呼んだ?
 ミョウジだったはずのファイミリーネームが変わっている可能性は、考えたくもない。

「こいつは私が殺るよ。――〝アバダ・ケダブラ〟!!」

 ベアトリクスの杖から出た緑の閃光は俺に一直線に向かってくる。性悪女の向こうに表情の崩れたナマエが俺に手を伸ばしてそして俺の視界は眩しい程の緑に染

*****

 一瞬の出来事だった。緑の閃光に突き飛ばされたシリウスの身体が浮いて、石のアーチをくぐり抜けていく。カーテンのように薄く漂う煙に巻かれ、あっと言う間に彼の姿は見えなくなった。

「っ、シリウスッッ!!」

 叫び声を上げるように、もてる力の全てで彼の名を呼ぶ。シリウスの飛ばされた方へ駆け寄ろうとすると ベアトリックス 義姉さん に押さえられた。あぁ、この女は何をしてくれているのだろう。邪魔をしないで――!

「何考えてるんだいお前は!」

 パンッ! と乾いた音がすぐ耳の下で聞こえて、それから全ての音が正常に耳に入ってくるようになる。頬の痛みで、私は正気を取り戻した。義姉さんは怒りとも取れる形相で私を見下している。

「ごめん、なさい……」
「まさか、お前さんあんな裏切り者に惚れてた訳じゃないだろうね」

 ニタリ、と彼女が意地悪く唇を曲げる。この人は他人が苦しむ姿を見られるなら、それが仲間であろうと関係はないのだ。

「……まさか。レギュラス・ブラックと重なっただけよ。学生時代付き合ってたの」
「へぇ、あの腰抜け坊ちゃんと」
「ええ、我が君を裏切ったって聞いて別れてやったけどね」
「そうかい」
「心配しないで、今はあなたの弟一筋よ」

 それから義姉さんは、如何にもつまらない事を聞いたとでも言いたげに私の前から去ってしまった。ブラックを殺った!ブラックを殺った! と狂ったように笑いながら、彼女は渦中へ戻っていく。まだ戦いは終わっていないのだ。
 それでも私はただ、飛び交う魔法に当たってしまわぬように気を付けながらその場に佇むだけだった。ただ一点、シリウスが消えていった所だけを見つめて。あそこへは確か入ったが最後、ゴーストにもなれずに消えると聞いた事がある。……もう、彼はどこにもいない。

『もしもの時は、俺がナマエを連れ出してやるよ』

 もうその言葉も果たされない。もっとも、先に待ちきれなくなったのは私の方だけれど。私にはやっぱり一人で家を飛び出す勇気も、シリウスが来てくれるまで待ち続ける勇気もなかった。だから死喰い人にもなったし、親の決めた相手とも結婚した。それでも久しぶりに彼の姿を見た時、私は図々しくもあの頃に戻れるような気がしたのだ。だから約束を果たそうと迷わず呪文を放ったわ。でも、当てられる訳がない。当てられるはずが、あるわけなかった。だから代わりに、早く私の胸を貫いてくれと願った、のに、結果としてやっぱりあの頃になんて戻れる訳がなくて。

 さいごにあなたを好きだと言う気持ちすら偽ってごめんなさい。本当は、今でもあなたが好きなの。でも、いえ、だから言ったのよ。あなたに似合う色は赤、私とは組み合わせている色さえリンクしない。そして私は緑に相応しい、ずるい人間なのよ、って。







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