我慢できない
今日の金太郎は上機嫌だった。朝練にも一等早く来たし、午後の部活が終わった今もソーラン節を口ずさみながら(と言うよりは熱唱しながら)着替えている。
「なんや金ちゃん、今日は随分ご機嫌やないか」
部品の最終点検を終え、皆よりも少しだけ遅れて部室に入ってきた白石は金太郎に問うた。元気なのはいつもの事やけどな、と続けて彼は自分のロッカーを開ける。
「今日はなまえが大阪に来る日やねん!」
金太郎は小躍りまでしながら答える。いつものヒョウ柄のランニングに学ランだけ羽織る彼に、着替える必要はなかった。
「きゃー! 金ちゃん、それってもしかして例の彼女?」
この間の合同学園祭で出会った金太郎の彼女であるなまえは東京に住んでいる。しかし学園祭から三人が帰ったその日の内に、彼女は四天宝寺中テニス部の中で有名人となっていた。
「そや! 週末使うて遊びに来てれるんやで! 明日の祭りにも一緒に行くし、ごっつ楽しみやねん!」
「ええわねぇ金ちゃん……恋しとるやないの。ね、ね、金ちゃん達はもうどこまで行っちゃったの!?」
「どこまでって……動物園まで行ったで?」
頬を赤らめながら金太郎に詰め寄る小春に、金太郎はキョトンとしながら答えた。すると小春だけでなく、聞き耳を立てていた周りまでもが溜め息を吐く。
小春は質問を続けた。
「そうやなくて、もうチューとかはしたんかって事よ!」
「チュー? なんやチューって、食えるんか?」
「金ちゃんチューも知らへんの!?」
「知らん! なぁ小春、チューってなんなん? 食えるん?」
「そ・れ・は・ねぇ……」
「ちょー待ちぃや、自分ら」
二人の会話に割って入ったのは、丁度着替えを終えた白石だった。鞄にジャージを詰めると、彼は何かを含んだ笑みを向ける。
「金ちゃん、チューっちゅうんは恋人同士がするモンやねん。でもな、チューがなんなのか知らんヤツは、教えてもらったヤツとせなあかんねん。金ちゃん、小春としたいんか?」
「あっらー! アタイは別にかまへんよ☆」
「浮気か小春! 死なすど!」
「うーん……なんやよう分からへんけど、こいびとどーしがするモンならなまえとがええな!」
「そやろ? だから今夜、なまえちゃんにしてもらい」
「教えてもろてからやなくてええのん?」
「してもろた方が手っ取り早いやろ」
「そやな! ほなワイ、駅までを迎えに行くさかい、先帰るわ。ほななー!」
ニッ、と太陽を連想させるような笑みを残して、金太郎は慌ただしく部室を出て行った。残された部員達は皆が皆、ニヤニヤとした笑いを止められない。
「よう考えたばいね、白石」
「金ちゃんの事や。あーでもせんと、一生なんの進展もなく終わるで」
「間違いないたい」
*****
「ここがワイの部屋や! なまえの部屋は隣の客間やで」
「お邪魔します」
学校が終わってからすぐ新幹線に飛び乗って、揺られる事三時間。私はやっと、大阪の金太郎くんの家に到着する事が出来た。
金太郎くんの部屋に椅子はないようなので、ベッドの端に座って一息つく。起きてからそのままなのか、掛け布団が端の方で固まっていた。
部屋を見回すと、テニス用品が乱雑に置いてある机に、床にはやけに綺麗な状態の教科書がちらほら。決して綺麗な部屋とは言えないけれど、なんだかそれが金太郎くんらしくて、私はくすりと笑ってしまった。
「明日の祭り楽しみやな! 食うで〜〜!!」
ぼすん、と豪快な音を立てて、金太郎くんは私の隣に座る。肩が少しふれて、内心ドキリとした。
「ふふ、金太郎くんってばそればっかり」
「なんや、なまえは楽しみやないんか?」
「そんな事ないよ。浴衣だって持って来たくらいなんだから」
「ホンマに!? 早よ見たいわ! な、な、今着て見せてや」
「だーめ、明日までのお楽しみ」
「うぅ……オモロないなぁ……そうや! ワイ、なまえに頼みたい事あってん!」
「どうしたの?」
「あんな、なまえ、ワイにチューしてくれへん?」
「…………えぇっ!?」
それは思ってみない頼みだった。顔がみるみる熱くなるのを感じる。たぶん今の私は、耳まで真っ赤になっていると思う。
ちゅ、チューって……キス、の、事だよね……?
一応恋人同士なのだから、いつかするんだろうなとは思ってた。きっとこんな雰囲気になるんだろうなとか、ちょっと想像もしてみたりして。(あ、なんか更に恥ずかしく……!)
けれどこんなに突然、しかもいきなり頼まれるだなんて予想外すぎるよ!! そもそも金太郎くん、キスはどういうものなのか知っているのかすらも怪しいし……。
「ど、どうしたの急に?」
結局答えは出なくて、私は失礼だと思いながらも、質問を質問で返してしまった。
「小春になーなまえとどこまで行ったー? とか、チューはもうしたー? とか聞かれてん。そんでワイが、チューってなんや? って聞いたら、白石が〝なまえにして貰うんが一番ええ〟って……」
うぅ、白石さんの馬鹿……。
私は心中ごちる。予想通り、やっぱり金太郎くんはキスを知らないみたい。でも、これじゃあ教えざる(て言うより、実践せざる)を得ないじゃない!
「なー、ええやろ? チューはこいびとどーしがするモンやねんで!」
「でも、は、恥ずかしいよ……。今度じゃだめ?」
「いーやーや! 今チューするんや!!」
こうなったら金太郎くんは絶対に引かないだろう。私はひたすら悩んで悩んで悩んで…最後に大きな深呼吸をした。(溜め息じゃないわ!)
「……分かった」
「ホンマに!?」
合同学園祭の時もそうだったけど、金太郎くんにごねられるとついつい言う事を聞いてしまう。つくづく私は金太郎くんに甘いな、と自分自身に苦笑いを漏らした。
「じゃあ、目、瞑って?」
「こうか?」
ぎゅっ、と金太郎くんの瞼がぴったり合わさる。いつも羨ましいと思う位大きな瞳が完全に隠れた。
どきどきどきどき――自分の心臓がうるさい。何しろこれは私にとってもファーストキスなのだ。
ゆっくりと金太郎くんに顔を近づけていって、まつげの一本一本が見えるまで近付いてから目を閉じて。そのままそっと、唇を合わせる。恥ずかしさがまた更にこみ上げてきて、すぐに距離を取った。お互いの唇がぶつかるだけの軽いものだけど、これが私の精一杯だ。
「……今のが、チュー?」
金太郎くんは目を開き、ぴちくりと何度か瞬きをする。何が起こったのか、全く分かってないみたいだった。
「そ、そう、今のがチュー」
「なんや口にやらかいモンが当たって、へんてこな感じやったな。なまえ一体何したんや?」
「唇同士をね、合わせるの。ちゅって音がするからチューって言うのよ。……たぶん」
「音なんてせぇへんかったで」
「今のは軽いものだったから……」
「ふーん……ワイもなまえにチューする!」
「え?――――っ!?」
あっと言う間で、目を閉じる機会すら無かった。顔を覆う様にしていた両手はかすめ取られ、手首を掴まれて離れられない。頭突きにも近いキスは勢いがつき過ぎたのか、私はそのままベッドに倒れ込んでしまった。
「いった……」
「ス、スマン!」
「大丈夫、でも、もっとゆっくり、ね?」
「分かった。ゆっくりやな」
と言い、金太郎くんはまた顔を近づけてくる。今度は目を瞑る時間もあった。ふに、と唇同士が当たって、また離れる。
「……もう一回」
また同じ事を繰り返して、
「…………まだまだや」
何度も何度も、私たちの唇は触れ合った。
やっぱり音すら鳴らないくらいの軽いキスを、もう何回繰り返しただろうか。そろそろ止めないと、と私は合間を狙って口を開く。目を閉じたままの金太郎くんはそれに気が付かなくて、だからまた彼の唇が降りてきて、――――絡み合った。
「き、きんたろ、く、んっ、!?」
今までとはまるで違う感触は、まるで身体中に電流が走ったみたい。向こうの身体も一瞬強ばって、金太郎くんもびっくりしたのを感じた。でも金太郎くんもこれが正しいキスだと理解したのか、私から離れる事はなかった。
金太郎くんが顔を動かす度に、ちゅ、ちゅ、とリップ音が漏れる。息をつく暇もない位の激しいキスだった。
次に金太郎くんが顔を上げた時、私たちはテニスの試合でもしたかのように肩で息をしていた。いつもは絶対に見せる事のない濡れた瞳と蒸気した頬の金太郎くんは、まるで別人の様だ。
「……アカン」
「え?」
「なまえの顔、よう見られへん」
金太郎くんは私の横に寝転び、そのまま私の顔を胸に押し付ける。少し強すぎるくらいの包容はむしろ心地よかった。
相手の顔が見れないのは私も同じだったので都合が良い。心臓の当たりに耳を当てると、私のそれに負けないくらいドキドキと脈打っていた。
「気持ちええのに、なんや変な感じもして、チューってこんなすごいモンやったんやな。……なんかワイ、辛抱堪らんくなってきた。なまえ、もっかいチューしようや!」
「え!? ちょ、待っ」
これ以上されたら、本当の本当に身体がもたない!!
「――金太郎、なまえちゃーん、晩ご飯やで!」
不意に部屋の外から聞こえた声は、私にとって天の助けだった。金太郎くんが一瞬気を逸らした隙にベッドから抜け出す。まさに危機一髪。
「あー! なんで逃げるんや!?」
「ほ、ほら、晩ご飯だって! おばさま待たせたら悪いし、もう行こう?」
「ぶー、じゃあ、飯食い終わったらまたチューしような、な?」
「……しません」
「へ?」
「もうしばらくはしませんッ!!」
「えーーー〜〜! なんでや!?」
「しませんったらしません!」
「いーやーーやーー〜〜〜!!!」
ベッドの上で駄々っ子のように手足をジタバタさせる金太郎くんを尻目に、私は逃げる様に部屋を出る。扉を後ろ手で閉めて、そのまま床にへたり込んでしまった。まさかあんなキスをするだなんて……ていうか、キスがあんなものだったなんて!
腰が抜けて力が出ない。全身が心臓になってしまったようなドキドキを元に戻すのには、まだまだ時間がかかりそうだ。