恋に落ちたら


 その日、なまえは県の美術館を訪れていた。朝からこの美術館に入り浸り、並べられた絵の前で感嘆の溜息を漏らしていたのだ。
 今日から始まったルノワールの展示会は、美術品好きの彼女が待ちに待ったイベントだ。ルノワールは彼女の最も敬愛する画家の一人だった。

「あのー……」
「あ、すみません」

 後ろから声をかけられて我に返る。長い間絵の前で立ち止まり、後続の客に注意されるのはこれで3度目だ。なまえは後ろ髪を引かれる思いで絵の前から立ち退いた。

 “彼”が視界に飛び込んで来たのはその時だった。
 緩く波打つ髪とやけに整った顔のかんばせの少年が、絵画の前で優しげな笑みを浮かべていたのだ。年の頃はなまえと同じくらいだろうか。中学生が校外学習以外でここにいるだけでも珍しいのに、整った横顔が彼を更に目立たせる。加えて、彼はなまえも通う立海大附属中学の制服を着ていた。
 珍しい事もあるんだな……――そんな事を考えながら、なまえは後ろを通り過ぎる。彼の前にある絵は既に30分かけて眺め尽くしていた。

 1日かけて展示会を楽しんだなまえが、最後に向かったのは物販コーナーだった。記念にポストカードでも買って帰ろうと立ち寄ったのだ。
 手頃な物がないか探す彼女の目線が辿り付いた先はしかし、分厚いルノアールの画集だった。自分の小遣いでは到底買えそうにないけれど……。それでもなまえは手を伸ばさずにはいられなかった。
 すると同じような影がもうひとつ。絶妙なタイミングで伸ばされた2人の腕は画集の前でぶつかった。

「「あ、」」

 反射的に顔を上げる。相手との距離は思いの外近かった。深いブルーの瞳は嘘みたいに長い睫毛に縁取られていて、同色の髪が目尻の横で揺れている。鼻筋は線を引くように美しく、陶器のような肌は思春期の少年のそれとは程遠い……それは先刻の少年だったのだ。

「すみません」
「あ、いえ、私の方こそ……」

 形の良い唇から発せられる声には変声期の兆しが見えて、彼は確かに“彼”だった。そんな当たり前の事に、なまえはひどく感心してしまう。

「……ルノワール」

 ぽつり、彼は呟く。何を言われたのか分からなくて、なまえは間抜けな声を出してしまった。けれど彼は気に留めず、こちらに向けていた視線を画集に戻す。

「好きなんだね」
「……うん。あなたも?」
「ああ。俺も、大好きだ」

 落とされた視線が再度上げられ、まっすぐなまえを貫く。自分の事ではないと分かっていても、彼の言葉にドキリとした。
 結構“する”みたいだから、流石にお小遣いじゃ買えないんだけどね。
 彼の表情と言葉は中学生そのものなのに、苦笑するかんばせは同じ生き物かと疑う程に優美だ。アンバランスなそれは彼の造形を一層際立たせた。

 まるで美術品のような彼との出会いが、なまえの脳に焼き付いて離れない。

*****

「それってC組の幸村くんじゃない?」
「ユキムラくん……?」
「この学校でそんなに綺麗な男子、幸村くんしかいないもの!」

 月曜日が来て、昼休み。なまえはいつもの友人と共に弁当を囲んでいた。自然と話題は週末の話になり、「そう言えば、」となまえは美術館で見かけた美しい少年について語ったのだ。
 あれだけ特徴的な彼だったが、なんせ立海は3年生だけでも20クラス以上ある超マンモス校だ。友人も彼の事を知っているはずがないだろうと高を括っていたなまえだったが、予想に反して帰って来たのは興奮気味の反応と、“ユキムラ”と言う姓だった。

「なまえ、もしかして幸村くん知らないの!?」
「有名なの? あ、生徒会長!?」
「あんたねぇ……」

 あきれる友人曰く、
 ユキムラくん――幸村精市とは、なまえと同じ3年生で元男子テニス部部長の事らしい。立海の中でも特に厳しいあのテニス部で、1年生の頃からレギュラーとして活躍し、部を優勝に導いてきたのだという。残念な事に今年の全国大会では負けてしまったが、それでも準優勝は大した成績だ。
 そんなにテニスが強いのに顔も綺麗で品行方正……しかも大会前まで入院していたのだと言うから、“悲劇から復活した王子様”として元々高かった彼の人気は今やうなぎ登りだという事だ。

「この学校の女子で幸村くんを知らない子なんてなまえくらいよ」
「そんな大げさな……」

 非難するような友人の溜め息に、なまえはムッとするでもなく困惑する。元々彼女は流行り廃りに疎い方だけれど、彼女と同じような生徒はいくらでもいるだろうし、なまえが同じ学年の違うクラスの生徒を把握していなくてもおかしくはない。なんせこの学校には、3年生だけで500人も生徒がいるのだ。
 しかし友人はそう思わなかったようで、しきりに驚いたり呆れたりと始終忙しそうだった。

「だってあんなにかっこいいんだよ!? なまえはなんとも思わなかったの?」

 詰め寄られ慌てて顔を仰け反らせる。口に入れたばかりの唐揚げを充分に咀嚼しながらなまえは思案した。

 あの時彼を見て、何を思ったんだっけ?…………ああ、そうだ。
 ただただ美しいと、そう思ったんだった。
 彼はまさに、なまえの大好きな画家の描く向こう側の完璧な美しさだった。
 でも、

「私、男らしい人が好きなんだよね」

 だからこそ思う。彼は自分の思い描く“魅力的な異性”ではないと。
 しれっと答えるなまえに、友人は言葉を失ったようだった。唖然とした表情のまま首を振り、口を開く。

「もったいない……もったいないよ、なまえ。幸村くんの魅力に気が付かないなんて!」

 友人の熱い言葉になまえは内心苦笑する。そういえば彼女は無類の美形好きだったか。
 そうだ! と友人は続けた。目を輝かせながらなまえの手を取る。危うく箸を落としそうになった。

「見に行こう」
「…………え?」

 何を、とは続けさせてもらえなかった。

「男テニの練習! 見たらなまえも、絶対幸村くんを好きになるわ」

 良い? 絶対だからね。授業終わっても勝手に帰っちゃダメだよ!
 友人の言葉に反論する隙も、もちろん与えられはしなかった。

*****

 立海大附属中では、3年生は夏の大会後に部活を引退するのが普通だ。しかし勉強に差し支えがない限り、引退後も顔を出すのは自由だった。ほとんどの生徒がエスカレーター式に附属高校へ上がる為、受験らしい受験をしないからだろう。つまり引退など、あってないようなものなのだ。
 そんな訳で、引退したはずの元テニス部部長の顔を拝む為、なまえは友人に連れられてテニスコートに向かっているのだった。…………背中を押されて、小走りで。

「早く早く、急がないと部活が終わっちゃう!」

 本当は授業が終わったらすぐにテニス部へ向かう予定だったのだが、教室を出る前に担任に頼み事をされてしまったのだ。
 気が付けばもう夕方。早くしないと運動部の活動が終了してしまう。
 海林館の横の道を抜けて目的地へと到着する。するとそこに人影はなく、練習は既に終了しているようだった。

「遅かったか〜!」

 息を弾ませるなまえの横で彼女はあからさまに落ち込む。
 仕方がない、今日はケーキでも食べて帰ろう。となまえが提案しようとした時だった。

「――それじゃあ、俺達は先に行くから」
『お疲れさまでしたーッ!』

 大きな声に見送られながら、海林館の玄関からテニスバッグを持った集団が出て来たのだ。人数は全部で7人。先頭を率いるのは他でもない、あの日美術館で言葉を交わした少年だった。
 目が合い、互いに「「あ、」」と短く声をあげる。なまえは自然と友人から仕入れた彼の名前を呼んでいた。

「幸村くん」

 途端、丸くなっていた彼の目が細められる。静かな湖にさざ波が広がっていくような笑みは、優しく穏やかなものだった。

「名前、知っててくれてたんだ」
「えっと、有名だから……」

 まさか隣で緊張して固まっている友人が彼の熱狂的なファンだとは言えず、なまえは言葉を濁した。彼の方も「あはは」と曖昧に笑う。

「折角だし、君の名前も教えてくれるかな?」

 しかし先に口を開いたのは、やっとの事で緊張がほぐれたなまえの友人だった。彼女は自分の名前を告げた後、隣のなまえを指して親友のみょうじなまえだと告げる。その行為に悪意がない事はなまえが一番よくわかっていた。幸村に対する彼女の崇拝っぷりは今日の昼休みから充分すぎる程見ている。
 食らい付くような勢いの彼女に幸村はくすりと笑って、それからまっすぐなまえを見つめた。

「そう。ふたりともよろしくね」

 まただ。となまえは思う。宝石のような瞳は怖い位に直線を描いてこちらに向かっている。睫毛で縁取られた奥の光は、一流の職人でも作り出せない複雑な色を放っていた。

「知り合いか、幸村」

 彼らの会話に更に割って入ったのは、同じようにテニスバッグを持った少年だった。太い眉に意思の強そうな鼻筋、真一文字に結ばれた口元が印象的だ。幸村と並ぶと2人の顔は正反対で、特別な好意を寄せている訳ではないなまえですら思わず見入ってしまう。なるほど、これではファンが増えるのも無理はないだろう。

「みょうじさんとは、この間美術館で偶然会ったんだ」

 幸村に相づちを求められなまえは頷いた。そういえば、と幸村の後ろにも目を向ける。一緒に出て来たテニス部員が所在無さげにしていて、見かねた彼が声をかけたのだろう。

「そろそろ行こうか。……それじゃあ」

 またね、と言われたので返事の代わりに手を振る。友人は弾むような声で応えていた。
 待たせたね、真田、みんなも。そう続けて、幸村は再び集団を率いて去って行ったのだった。

「……どう? かっこいいでしょ、幸村くん!」

 集団を見送ってすぐ、友人は黄色い悲鳴に近い声で言った。彼女の妙に輝いた顔を見ながら、なまえも答える。

「綺麗だとは、思うけど……」
「けど?」
「……私、真田くんの方が好みかも」

 3人の会話に入った厳しそうな彼は、幸村の言葉から察するにどうやら真田と言うらしい。
 なまえの答えに、彼女は口を開けたまま返す言葉が見付からないようだった。短い沈黙の後、やっとの事で言葉を絞りだす。

「ありえない……マジでありえないわなまえ……」

 続いて彼女は「テニス部の見学中に怒られてから真田くんが苦手なの」と零した。最初は心外だと思ったなまえだったが、それならば納得だ。何より彼女は中性的な美形が好きなのだという事もある。

「幸村くんは綺麗だよね。美術品みたい」
「でしょー? なのに何で真田くん!?」
「私、男らしい人が好きなんだよね」
「……あー、そっか……男らしい人……」

 なまえは昼休みに言った言葉をそのまま繰り返した。納得したのかしていないのか、友人は唸り声を上げながらもそれきり追求しない。なまえもそれを良しとして、改めて今しがた言葉を交わした2人の顔を思い浮かべたのだった。
 幸村の存在は端正だけど近寄りがたくて、飾ってある芸術作品を見ている気分になる。対して真田は男らしくて、より人間らしく感じられた。

「まぁ……良いわ。少しでも幸村くんに会えて良かった! なまえはこれからどうする?」
「うーん、そうだなぁ……」

 この様子だと慰めのケーキは必要なさそうだと安堵し、それならばとなまえは思案する。

「ジムに行って帰ろうかな」
「また走るの? よくやるねえ」

 なまえが美術館の次に好きな場所、それはトレーニングジムだった。体育が得意なわけではないけれど、ただ走るのが好きなのだ。競争するのは好きではないから部活には所属せず、不定期ながら駅前のジムに寄ってはルノワールの絵画に想いを馳せながる走っている。
 あの爽快感を思い出し、なまえは足元軽やかに校門をくぐったのだった。

*****

 男子テニス部の練習を見学し損ねてから数日が経った。
 放課後、なまえはひとりで帰路についていた。いつも一緒に行動している友人はいない。彼女は「ちょっとイケメン見て来る」と言ってさっさと帰ってしまったのだ。

「あれ、みょうじさんじゃないか」

 下駄箱で靴を履き替えるなまえを呼ぶ声がひとつ。顔を上げると、目の前に飛び込んで来たのは“園芸用培養土”の文字だった。薄い黄色のビニールに入ったそれは大きくて、しかもいくつか重なっているので抱える人物が見えない。
 事態を理解出来ない彼女が混乱していると「俺だよ、俺」と再び袋の後ろから声が聞こえた。そして培養土の向こうから顔を半分だけ覗かせたのは幸村だった。

「ゆ、幸村くん!?」

 大丈夫なの? と続けながらなまえは思わず駆け寄る。先日聞いた話によれば彼はこの間まで入院していた……つまり病み上がりなのだ。こんな重労働させてしまって良いのだろうか。

「手伝うよ」
「ありがとう。でも、これくらい大した事ないよ」
「でも……」

 やんわりと断られるが、なおもなまえは食い下がる。よく見れば、幸村は他に肥料の袋も脇に挟み、培養土を支える腕にはバケツを引っ掛けているではないか。バケツの中には小さなスコップまで入っている。これでは全ての重量に耐えきれたとしても歩き辛そうだ。

「じゃあ、バケツだけ持って貰っても良いかな。実はちょっと歩き辛いんだ」

 案の定、形の良い眉を下げて幸村は苦笑した。なまえは了承すると培養土を支えながら彼の腕からバケツを抜き取る。

「一番上まで行くんだけど、良いかな」
「うん。時間はあるよ」

 幸村と連れ立って廊下を進み、階段を上がる。学校に残っている生徒は皆部活や委員会に勤しんでいるのか、校舎内に人影はなかった。

「これ、委員会の活動?」

 途中、なまえはバケツを指差して幸村に問うた。これだけでも意外と重たいのに、更に重い物を持っている彼は顔色を変えず歩いている。

「半分正解かな。……と、悪いんだけど、扉を開けてくれるかい?」

 幸村が曖昧な返答をしたところで2人は最上階に辿り着いた。言われた通り屋上へ続く鉄の扉に手をかける。蝶つがいの軋む音を聞いた後、視界を占めたのは鮮やかな花々だった。

「部活を引退して時間が出来たから、ここの屋上庭園の世話を任せてもらってるんだ」

 本当は美化委員全員の仕事なんだけどね、と幸村は続けると、持っていた物を庭園の前に置く。そして屋上の隅に設置してある用具入れを開け、中からシャベルを取り出した。

「ありがとう、助かったよ……って、みょうじさん?」
「……モネの家の庭、みたい」

 なまえは庭園の美しさに目を奪われていた。ぽつりと呟いた彼女に、幸村は「アイリスだね」と顔を輝かせる。2人の頭に思い描かれているのは印象派画家であるモネの代表作だ。

「モネも好きなんだ?」
「うん。幸村くんも?」
「ああ。印象派の画家はみんな好きだよ」

 アイリスは春の花だから、今は咲いてないんだ。でも、あの絵に負けないくらい彩りには気を使ってる。
 無邪気に続ける幸村の顔は生き生きと輝いていて、なまえは今更ながら彼に対する認識を改めた。そうだ、彼は美術品ではなく生きた人間だった。
 なまえがそんな事を考えているとも知らず、彼はシャベルで培養土の袋に穴を開け、土を庭園に移していく。手伝うよ、となまえもバケツをその場に置いて彼の隣に立つが、今度こそ断られてしまった。

「その代わり、良かったら話に付き合ってよ。誰かと絵画の話が出来るなんて、思ってもみなかったよ」

 顔中に喜色を浮かべてそう言ったにも関わらず、作業に没頭してしまったのか幸村から次の言葉を聞く事はなかった。仕方なくなまえは自分から話題を振る事にする。

「花にも詳しいんだ?」
「少しだけ。ガーデニングが趣味なんだ」

 なるほど、それなら彼のやけに慣れている手付きにも合点がいく。植物に被らないよう土や肥料を撒いて、小さなスコップに持ち替えて苗を取っては違う場所に植え替えて。ガーデニングには明るくないなまえだが、彼の作業が繊細で丁寧なのは見て取れた。
 しかし全てを操る腕は想像よりもずっとしっかりとしていて、そういえばこの腕があの大荷物を持っていたんだよなぁとなまえは内心で感心する。ちらりと培養土の袋を見ると、ひとつ10キロと書いてあった。3つで30キロ、肥料も入れたらそれ以上……運動部の元部長は伊達ではないらしい。

「よし、今日はここまでかな。みょうじさん、本当にありがとう。良かったら下まで送るよ」

 気が付けば幸村の作業は終わっていて、ゴミを入れたバケツを持って彼は立ち上がった。その顔を見てなまえは思わず噴き出してしまう。汗を拭った時に付いたのだろう、彼の右頬が茶色く汚れているのだ。

「ほっぺに土付いてるよ」
「え!?」

 くすくす、とこぼれだす笑いが止まらない。絹のような肌は汚れてしまったけれど、手で土を拭おうとして余計に汚くしている彼は印象的だった。

「はい、ハンカチ」
「……苦労かける」

 照れくさそうにハンカチを受け取って、幸村の頬はようやく綺麗になった。彼はハンカチを丁寧に折って、けれどなまえには返さない。

「洗って返すよ」
「気にしなくて良いのに」
「そうさせて欲しいんだ」
「……分かった」

 さあ、行こうか。彼に促され、なまえは屋上を後にする。あっという間に地上へ到着すると、テニス部に寄って行くと言う幸村とは別れて、なまえは今度こそ帰路についたのだった。

*****

 次の日は土曜日だったが、なまえはひとりで学校内を歩いていた。部活にも委員会にも所属していない彼女にとって土曜は完全に休日だけれど、昨日忘れた体操服を取りに来たのだった。
 目的の物を握りしめて、後は帰るだけ……そう思っていたはずのなまえの足取りは、自然とテニスコートの方に向いていた。
 この間見逃してしまったし、ついでに覗いてから帰ろう。校門までは迂回するルートになるけれど、そこまで遠くなかったはずだ。

 数日前にも通った道を進んでいるとすぐに部活動の喧騒が耳に入ってくる。2号館の横を通り過ぎると、テニスコートはすぐそこだった。ボールがラケットに当たる音が随分と気持ち良くて、自分の学校ながらレベルの高さを感じる。

「――そこ! 動きが悪いよ」

 鋭く刺さるような声は聞き覚えのあるものだった。それもそのはず、声は幸村のもので、彼はテニスコートに入り後輩の指導に当たっていた。完璧なバランスをもつ彼のかんばせは、ルノワールの絵を見ていた時の優しい微笑みとも、昨日植物と触れ合っていた時の無邪気な笑顔とも違って、固い厳しさに縁取られている。あれが彼の元部長としての顔なのだろうか。首から下に付いている身体も細くはあるが華奢ではない。その体躯が繰り出す動きは繊細な容姿から想像もつかない程俊敏だった。その凛々しさに、なまえは自然と美術室に飾ってある石膏像を思い出す。

 そして他のテニス部員にも目をやる。全員がそれぞれやるべき事を心得ているようで、コートに入って練習する者、周りで基礎を高める者と様々だ。
 すごいなぁ……。なまえはひとりごちた。こんな練習を毎日こなしているのだから、毎年全国大会に進むのもおかしくないはずだ。

 良いものを見せてもらった。月曜日友人にあったら報告しなければいけない。きっと彼女も目を輝かせて同意してくれるだろう。と、なまえがぼんやりと考えていた、その時だった。

「危ないッ!」

 誰かの声がして、なまえは眠りから覚めたような衝撃に見まわれる。気が付くと黄色い玉が驚くようなスピードでなまえを狙っていた。思わず目をつぶって縮こまる。相当の痛みを覚悟したが、意外にもなまえを襲ったのはボールの堅い感触ではなく、何かが覆い被さる感覚と一際大きいボールを打つ音だった。
 恐る恐る目を開ける。目の前には自分を包む左腕と、芥子色のジャージがあった。目線を更に上げる。端正な顎と波打つ群青色の毛先が見えて、更に辿ると深い色をした瞳とぶつかった。

「ゆ、きむら、くん」
「……大丈夫、みょうじさん?」

 彼の首筋を汗が一筋流れる。いけないものを見ているような気になって、慌てて目線を逸らした。未だ自分を抱きしめる左腕は昨日眺めた時よりもずっと太くて筋肉質で、温かい。

「だ、だだ、大丈夫、ああありがとう!」

 なまえは慌てて言葉を紡ぎ、勢い良く幸村から自分を引きはがした。そして有無を言わさずコート横を走り抜ける。
 校門をくぐり抜けて最初の角を曲がったところでやっと止まって、そのままずるずると崩れ落ちたのだった。

 ああなんと言う事だ。心臓が狂ったように激しく脈を打つ。
 絵画の中の少女などではなかった。美術品ではなかった。

 彼は、幸村くんは、
 自分が思い描く男らしい人そのものではないか。







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