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「ねえ、みょうじさんいるかな?」

 それは短い秋も終わり、冬の寒さが近付いて来た日の事だった。
 3年J組の入り口に、学年の中で1位2位を争うほどの有名人“幸村精市”がやって来たのだ。丁度その場にいた3人の男子生徒は話した事もない彼にきょとんとし、「え、みょうじ……?」と戸惑い気味に顔を見合わせる。“みょうじ”と言えばクラスにひとり、みょうじなまえしかいない。

 あいつって女テニだったっけ?
 知らねーけど、でも美化委員でもなかったよな。
と彼らは目線で会話を交わすけれど、彼に返答を返す事はなかった。けれどそんな反応を物ともせず、精市は人当たりの良い笑みを浮かべている。

 やがて近くの女子生徒が騒ぎに気付き、短い、けれど黄色い悲鳴をあげて窓際の方へ駆け寄っていく。
 こうしてなまえは彼女に肩を押され、何事か理解する間も与えられずに教室から放り出されたのだった。

「あれ、幸村くん……?」
「こんにちは、みょうじさん」

 そんななまえを迎えたのは穏やかな笑みを浮かべた精市だ。相変わらずこの人は信じられないくらい綺麗な顔をしているな、となまえは感心してしまう。
 思えば先日テニスコートの傍で助けられてから、2人は一度も会っていなかった。それもそのはず、2人がつい最近までお互いの存在を知らなかったくらいこの学校は広いのだ。前回立て続けに会えたのは偶然に偶然が重なっただけだろう。

 それがどうして、わざわざJ組に? このクラスにテニス部の部員はいないはずだし、彼のいるC組からここはだいぶ距離がある。
 なまえが頭の中にハテナを浮かべているのを他所に、幸村はいそいそと制服の胸ポケットに手を伸ばした。出されたのは少し折り目の付いた2枚のチケットだ。その紙面に印刷されているのは『印象派大展覧会』の文字と、鮮やかな、けれど深みのある色で描かれた絵画の一部だった。

「これ知り合いに貰ったんだけど、2枚あるんだ。良かったら今度の日曜、一緒に行かない?」

 その誘いに一も二もなく大きく頷く。なまえは絵画や美術品が大好きだった。
 幸村は満足そうに微笑むと、「それじゃあ、10時に駅前で」とだけ伝えて去って行く。彼が階段の向こう側へ消えた時、初めてなまえは心臓がいつもより早く鳴っている事に気付いた。

 どうしよう、すごく楽しみだ。
 誰かと展覧会へ行けるなんて、きっとひとりで行くよりもずっと楽しくて、絵についても心置きなく語れる。困ったように笑って、話題を変えられたりもしないだろう。

 ふとなまえの頭の中に、テニスコートでの事が浮かんできた。飛んでくる黄色い球、自分を庇うように伸ばされる逞しい腕――あの一瞬が頭の中で繰り返し再生されて、心臓はますますうるさくなる。……“誰か”とじゃなくて、彼と行けるのが楽しみなのだ。

「ちょっと、なまえ」

 精市と別れた後、教室に戻ったなまえを待ち受けたのは眉を吊り上げた友人だった。戸惑う彼女を椅子の上に押し込めると目の前に仁王立ちになる。そして不機嫌に口を開いた。

「いつの間に幸村くんと仲良くなってんのよ!」
「……あー……えっと、まぁ、ちょっと」

 なまえは口ごもる。彼女が崇拝と言えるまでに精市を慕っているのは知っていたし、元々彼女のおかげで彼と接点を持てたようなものだ。展覧会に誘われた時はつい浮かれてしまったが、よく考えれば友人を裏切っているようで罪悪感が染み出してくる。気が付けばおずおずと、答えにならない返答をしていた。

「…………仲、取り持った方が良い?」

 心とは正反対の言葉。本当は精市と彼女が自分を置いて仲良くなるだなんて、考えただけで悲しくなってしまうけれど、こうでも言わないと友情がたちまち露と消えてしまう気がした。先ほどの罪悪感も相まって、胸の辺りからドロドロと重い物がこみ上げて今にも口から出てきそうだ。
 一方友人はきょとんとした後、何を言っているのだとでも言いたげに眉間に皺を寄せる。そして思っても見なかった事を言ってのけた。

「いや、それは良い。美形は見てるだけで充分」

 って言うか、私はなまえと幸村くんに何があったか聞いてるの!
 友人の言葉になまえは呆気に取られ、すぐに安心して大きく息を吐いた。そして今度は別の罪悪感に襲われる。いくら友人が美形好きとは言え、こんな風に疑うなんて。
 謝罪の意味も込めてなまえは、屋上庭園で精市と話をした事、その時に2人とも絵画が好きなのだと知り意気投合した事を話した。流石にボールから助けて貰った事は言えなかったけれど、話している内にあの時の事を思い出して恥ずかしくなってしまったので、彼女には何か悟られているかもしれない。

「それで幸村くんが、展覧会のチケット余ってるから一緒に行かないかって」
「それってデートじゃ「ねー、みょうじさん、幸村くんと仲良いのぉ?」

 どこから聞いていたのか、2人の会話にとある女子生徒が割って入った。クラスメートである彼女の顔と名前は知っているけれど、クループが違うのでまともに話した事はほとんどない。何よりなまえにとって、色々な意味で目立つ彼女のグループは少し苦手な存在だった。

「あ、えっと、その、」
「えー、私全然知らなかったんだけどぉ。みょうじさん水臭いよぉ」

 私たち友達でしょー? と間延びした調子で彼女は続ける。いつからクラスメートから友人に昇格したのかは甚だ疑問だったが、彼女の強引な調子に返す言葉が見付からなかった。

「で、みょうじさんと幸村くんって付き合ってるの?」

 冷たい視線が突き刺さる。彼女の口元は笑っていたけれど、目が笑っていなかった。ゾクリと背筋の凍る思いをしてなまえは首を振る。見下ろす彼女はその話が真実か見極めていたのか、少し間を置いてからニコリと笑った。

「良かったぁ! 実は私ぃ、幸村くんの事良いなって思ってたんだよねぇ」

 それにぃ、と彼女は髪の先を遊ばせながら続ける。嫌な予感がした。

「みょうじさんじゃ、幸村くんに釣り合わないもんね!」

 無邪気を装って笑う彼女の言葉に、心臓が一度嫌な音を立てた。――彼とは釣り合わない。そんなの言われなくても分かってる。彫刻のように綺麗な彼とは違って、自分はその辺にいるごくごく一般的な生徒だ。少しルノワールやモネの話が出来たと言うだけで、少し助けて貰ったと言うだけで、ときめいて、浮かれ過ぎていたのかもしれない。幸村くんだって、そんなつもりじゃないはず。

「……なまえ? おーい、なまえ!」

 気が付けば、友人は目の前で手を振ってなまえの意識を取り戻そうとしていた。彼女が考え込んでいる間に、例のクラスメートは自分のグループへ戻っていったらしい。教室の向こう側から伝わるクスクスと言う笑い声が、無性に攻撃的に聞こえた。

「何アイツ、感じわる」

 友人は嫌悪感を隠しもせずに呟く。そして厳しい調子のままなまえに向き直ると「気にしちゃダメだからね!」と肩を叩いた。なまえは曖昧な相づちを打つだけだった。お構いなしに友人は続ける。けれど今度は他のクラスメートに聞かれるのを嫌がってか、顔を近付けて小さな声で囁いた。

「私はなまえと幸村くんの事、応援してるからね」
「そんなんじゃ、ないよ」
「良いから良いから! ……それよりもさ、」

 途端、彼女は頬を赤らめて口籠った。いつもの様子とは打って変わったしおらしい姿になまえはきょとんとする。促すように無言で待つと彼女は続けた。

「……幸村くんに、桑原くんの事聞いといてくれない?」
「クワハラ……?」
「I組のジャッカル桑原! 体育でたまに見るでしょ、あのブラジルハーフ。桑原くんもテニス部なんだよね」

 頭の中で体育の授業風景を思い出す。なんとなくだが地黒の少年の顔が浮かんできた。美形好きの彼女にしては意外なのか妥当なのか分かりかねたが、聞かない方が良いのかもしれない。代わりに、なまえは任せろとばかりに頷いた。彼女には色々と世話になっているし、協力出来るのならしてあげたい。

 お願い、お願いね! と手を握ってくる友人を前に、なまえは「分かった」と神妙に返答したのだった。

*****

 そして日曜の朝、なまえは走っていた。時刻は10時……彼女は寝坊してしまったのだ。
 昨夜は着ていく服を何度も見直して、その所為でいつもより寝るのが遅くなってしまった。やっとベッドに入ったと思えば楽しみやら不安やらで目が冴えてしまって、結局明け方までうつらうつらとしていたのだ。

 何が楽しみだったの?――絵画の展覧会が。……ううん、それだけじゃない。大好きな絵画を、他でもない幸村くんと見られる事が。
 何が不安だったの?――私、幸村くんの隣にいて迷惑じゃないかな?
 先日クラスメートが放った一言は未だなまえの心に小さな刺を残していた。

……なんて、遠足前の小学生じゃあるまいし。我に返ってひとりごちる。そしてラストスパートとばかりにスピードを上げた。走る事は好きだし、もうすぐ最寄り駅だ。

 足踏みしながら乗っていた電車を降りて、改札口を駆け抜けて約束の場所へと到着した。休日だから待ち合わせをする人々はたくさんいたけれど、精市の事はすぐに見付けられた。制服でもジャージ姿でもない彼はとても新鮮で、洗練されたその姿は雑誌から切り取ってきたようだ。
 時計を見る。時刻は10時半……完全に遅刻だ。

「幸村くん!」
「おはよう、みょうじさん」

 なまえが駆け寄った途端、精市は顔を綻ばせた。寒い中待っていてくれたのか、形の良い鼻のてっぺんが赤くなっている。その姿に胸が締め付けられ、なまえは挨拶を返すなり腰を折り曲げた。

「本っ当にごめん! こんなに遅れるなんて……」
「気にしないで。実は俺も今来たとこなんだ」

 そしたら俺が先だったから、むしろ安心したよ。と精市は悪戯っぽく続けた。なまえは胸を撫で下ろす。
 彼女は知る由もないが、それは彼の気遣いから来る嘘だった。本当は待ち合わせの10分前には到着していたのだが、謝る彼女の姿があまりにも切羽詰まっていて、気が付いたら言葉が口をついて出ていたのだ。

「それに、良いモノも見れたしね」
「え……?」
「ふふ、なんでもないよ」

 ついでに言うと、初めて会った日からなまえの走る姿が好きだった精市にとって、彼女が自分に向かって走って来る姿は嬉しいハプニングですらあった。

「それじゃあ、行こうか」

 互いの心中を知らぬまま、2人は美術館へと足を踏み入れたのだった。

*****

 訪れた美術館は、2人が初めて言葉を交わした場所だ。前回のルノワール展が好評だったのか、今回はかなり規模を拡大し同時期の画家の作品を集めた大展覧会となっている。
 受付をくぐると、広々としたスペースを緩やかに仕切った独特の空間があった。まだ朝も早いからか、人はちらほらとしか見られない。2人はここぞとばかりに並べられた絵画のひとつひとつを丁寧に眺めていった。

「きれい……」
「モネの“サンタドレスのテラス”だね。彼の父親と伯母一家を描いた作品だ」
「初期の作品だから、モネっぽくなくて、写実的なんだよね」

 ごく自然に成された会話に驚き、2人は丸くなった目を合わせる。そしてまるで「楽しくて堪らない」と代弁するようなクスリと言う笑いがこぼれた。まさか本当に、こうして誰かと絵の話が出来るなんて。
 自分が知っている知識を語り合うのは本当に楽しいし、心なしか絵もいつもより綺麗に見える。同じ絵の前で5分以上佇んでいても申し訳なく思う事もない。

「みょうじさんは、絵を描いたりもするの?」
「私は見るだけ。幸村くんは?」
「……少し。とは言っても、ただの真似事だよ」

 照れくさそうに下を向く彼はなんだか可愛くて、眼前の見るべき物を忘れて見とれてしまいそうになる。それを悟られたくなくて、なまえは次の絵の前まで精市を促した。モネの絵は粗方見終わって空が印象的な絵が増えれば、次はモネよりもいくらか時期が早い画家であるシスレーの作品だ――

“ドンッ”
「っきゃ!?」

 焦り過ぎたのか、なまえは通行人と肩がぶつかってしまった。足がもつれ、転びそうになる。そんな彼女を支えたのは精市だった。かばうように肩を抱いた為、2人の距離は近い。通行人が「すみません」と言うのを聞いた気がするけれど、そんな事は意識の端へ追いやられてしまった。

「大丈夫?」
「……うん、ありがとう」

 目が合って、今度こそ本当に見とれてしまった。一瞬間が空いた後、2人はぎこちなく離れる。そこで初めて周りに気をかけると、広い館内が混雑してきていた。

「混んできたし、はぐれないように気を付けないとね」

 精市の言葉になまえは頷いて隣に並ぶ。一瞬、精市が彼女の手を取りかけた事には気が付かなかった。暴れだしそうな心臓を抑えていたからだ。
 どうしよう……。つい先日まで「タイプじゃない」と豪語していた彼に、こんなに夢中になるなんて。
 思わず口数が減ってきて、このままではいけないとなまえは余計に焦りだす。するとふと、友人の顔を思い出した。これだ。

「あの、」
「うん、なーに?」

 綺麗な顔で微笑まれてなまえはますますクラクラしてきた。けれどしっかりするよう自分に言い聞かせる。
 落ち着いて。共通の話題にもなるし、きっと上手くいくはず……。

「テニス部の桑原くんって、どんな人なの?」

 必死に捲し立てるなまえの言葉に、精市は自分の顔が歪むのを自覚した。先ほどまでころころと表情を変える彼女を見て上機嫌だったのに、やっとこぎ着けた最初のデートで他の男の名前を聞くなんて。

「……どんな人って?」
「えーっと、彼女とか、いるのかなって」
「…………へぇ、みょうじさんはああいうのがタイプなんだ?」

 確かにブラジル人とのハーフで彫りが深い彼も、男らしいと言えば男らしい。てっきり彼女のタイプは真田だと思っていたけれど、いつの間にか思い違いをしていたようだ。明日はジャッカルと試合をしよう。
 そんな事を思いながらなまえの返答を待っていると、彼女は慌てて両手と首をぶんぶんと振った。

「ち、違うの! 私の友達……ほら、海林館の前で私と一緒にいた子。その子に聞いてきて欲しいって言われてっ」

 言われてみれば、と精市はあの日の事を思い出す。朧げだが彼女の友人の顔が浮かび上がってきた。あの時はなまえ以外に興味がなかったのでよく思い出せないけれど、確かにいたと言う事だけは覚えている。
 へえ、あの子がジャッカルを……。意外に思うのと同時にひどく安心している自分がいた。良かった、ライバルはあの老け顔だけで十分だ。

「……ジャッカルに彼女はいないと思うよ。あと、アイツは色白な女の子が好きだって、友達に教えてあげて」

 本当はジャッカルはグラマーで色白な女の子が好きなのだけれど、精市は黙っておく事にした。彼女の前でそんな生々しい言葉を口に出すのは気が引ける。

「幸村くん……、ありがとう!」

 なまえは感動したような顔で精市を見つめた後、軟化した彼の態度に安心して顔を綻ばせた。その華やかではない、けれど春の日差しのような暖かな表情に精市も目を細める。何かある度に彼女の新しい一面を知って、どんどん目が離せなくなるのだ。

「みょうじさん」
「どうしたの、幸村くん?」

 理由もなく名前を呼びたくなったなんて言ったら、今度はどんな顔をしてくれるのだろうか。そうだ、このまま手を繋いでしまおう。館内は混む一方だし、それを言い訳にして。
 精市が再度手を伸ばしかけた、その時だった。

「――あれぇ、みょうじさんじゃん。ぐうぜーん」

 やけに良く通るその声は精市には知らない声だったが、なまえにとっては十分に聞き覚えがあるものだった。持ち主を探して振り返る。思った通り、先日2人の仲を尋ねたクラスメートの姿があった。

「こんにちはぁ! 幸村くんもこんなとこに来るんだね!」

 ごくごく自然に彼女は2人の間に割り込んだ。呆然とするなまえを他所に、彼女は「あの絵きれー!」と言いながら精市を引っ張っていく。なまえは2人の後を追いかけるように着いていくしかなかった。

―――― ……。

「これすごーい」
「あ、これは、」
「ねえねえ幸村くん、この絵ってぇ、なんて言うのー?」
「……“舞台の2人の踊り子”だよ。ドガが描いたんだ」
「ふーん。あ、そういえば昨日テレビでぇ……」

 あれから30分、3人はずっとこんな調子だった。クラスメートの彼女は時たま絵に関心を示し、題名を尋ねる。なまえも「一応友達と思ってくれているのだから」と口を出すけれど、結局いつも遮られてしまうのだ。やはり彼女の目当ては幸村だったようで、質問は毎回彼に向けられている。そしていつの間にか彼女は精市に語りかける話題を見付け、彼も相づちを打って応えているのだ。なまえの目には2人が話に花を咲かせているようにしか見えなかった。

……やっぱり幸村くんは話の出来る誰かと来たかっただけで、私じゃなくても良かったんだ。
 氷を丸呑みしたように、その言葉はストンと胸に落ちて冷たい波紋を広げていく。息が出来ないほど苦しくなって、なまえは静かにその場を後にした。
 元々絵は独りで見てきたんだもの。幸村くんと一緒に見なくても、私は大丈夫。こんなに広い会場なんだから、少し離れれば楽しそうに話す2人の姿を見なくて済むはず。

「みょうじさんっ!」

 去っていくなまえの姿に精市が気付かないはずもなく、彼はすぐさま追いかけようとした。しかし、それを阻止したのは例の彼女だ。彼女は精市の腕を掴んで行かせまいとしている。

「きっと詰まんなくなっちゃったんだよ。元々そこまで興味なかったのかも」

 私たちだけで楽しもうよぉ、と続ける彼女の手を精市は振り払った。
 今までなまえの友達だからと気を遣ってきたが、彼女にはもううんざりだ。
 間延びした口調、うるさいほど通る媚びた声、遠慮なしに利き腕を触る行為……全てが精市を苛立たせた。

「……ドガはバレリーナを数多く描いていて、モデルの生き生きとした表情が評価されてるんだ」
「はぁ?」
「でもこの絵は練習風景なのか、舞台本番なのか分かっていない。緊張感とリラックスした表情の、両方が描かれてるからね」
「意味分かんないんですけどぉ」

 みょうじさんなら全部分かってくれるよ。精市は出かかった言葉を飲み込み、代わりの言葉を探す。
 もっと分かりやすく――この子を拒絶しなければならない。

「それは俺だって同じだ。君の好みがなんだとか、昨日のテレビがどうだとか、意味が分からないしどうでも良い」
「はぁ!? 私は場を盛り上げようと思って!」
「美術館にいるのに、うるさいんだよ」

 カッとなって彼女は手を振り上げる。けれど振り下ろす前に捕らえるのは、精市にとって造作もない事だった。

「悪いけど、君に興味なんてないから」

 それだけ言って彼はなまえの消えた方へ足早に去っていった。“悪いけど”なんて本当は微塵にも思ってなかったし、彼女の顔が憎悪に歪んでいるのを見てもなんとも思わなかった。

 精市がなまえを見付けたのはそう遠くない場所だった。どこか虚ろな彼女の姿を見ると、先ほどとは打って変わり彼の心はどうしようもなく痛む。こんな事ならあんな子、相手にするんじゃなかった。

「……みょうじさん」
「幸村くん!? どうして……あの子は?」
「知らない。飽きて帰っちゃったんじゃない。……それよりも、みょうじさんが急にどこかに行くから驚いたよ」
「……ごめんなさい。私なんていなくても、2人とも楽しそうだったから」
「俺が一緒に絵を見たかったのはみょうじさんだ。彼女じゃない」
「でも……」

 あーもう、じれったい! 思わず頭に血が上って、精市はなまえの手を取った。有無を言わさずその場を離れ、ずんずん進んで美術館を出る。

 一方なまえには訳が分からなかったし、常に優しい精市がこんなに強引なのは少し怖かった。繋がれた右手も彼の力が強すぎて痛くて、ドキドキする余裕なんてない。

「っ、幸村くん、痛いよ!」

 美術館に隣接する並木道まで出たところでなまえは声を上げ、手を振りほどいてしまった。その勢いに精市は呆然として、放心気味に一言謝る。しかしすぐ不機嫌を隠そうともせずに眉をひそめた。

「みょうじさんが悪いんだよ、俺が楽しそうだったなんて言うから」
「だって、話が弾んでたよ」
「向こうが勝手に喋ってただけだろ」

 お互い言葉を重ねる毎に語尾が荒くなって、苛立ちは募るばかりだった。

 俺はいつだってみょうじさんの事を考えていたのに、何故伝わらないのか。
 私はずっと幸村くんの事しか頭にないのに、どうして伝わらないの。

「幸村くんだって、別に誰でも良かったんでしょ!? たまたま絵画の話が出来たってだけで、私じゃなくても良かったくせに!」
「良くないよ、俺は君が好きなんだ!」

 全ての時が止まったようだった。互いに怒りを忘れ、今しがた起きた事に呆然とする。すぐに精市ははっとして自分の口を押さえた。やってしまったと後悔が彼を襲って、そして観念して苦笑する。箍が外れてしまったのか、ひとりで笑いながらなまえから隠れるように顔を背け、左手で顔を覆った。けれどそれだけでは上気した耳や首を隠しきれなかった。
 やがて精市は笑いを抑えつつ、なまえに微笑みかけた。下がった目尻は赤く染まり、はにかんだ表情はなまえまで恥ずかしくなってしまうほどいじらしい。

「……ふふ、言っちゃった」

 それだけ言うと彼はなまえの手を取り、慈しむように両手で包む。俯くの姿は教会で祈る聖人のようで、なまえは息を呑んだ。

「ねえ、なまえって呼んでも良い?」

 囁くように問われれば、なまえは頷くしかなかった。

「……好きだよ、なまえ」

 そして精市はなまえを見つめる。まただ。またこの視線で貫かれるんだ。彼の視線は信じられないほど真っ直ぐで迷いがなくて、恥ずかしくて逃げ出したいのに見えない力で捕らえられたように動けない。

「ゆ、きむら、くん、」
「精市って呼んで」

 精市は軽くなまえの手を引く。つられてなまえは一歩前に進んで、2人の距離が近くなる。節榑立った“男の子の指”を順番になまえの指に絡め、もう一度精市は手に力を込めた。彼の吐息が組まれた手から伝わって、なまえの思考を止めようとする。

「せ、精市、くん……」
「余分なものが付いてるけど、良いか。……なんだい、なまえ」
「……私も、精市くんが、好き」

 睫毛に縁取られた瞳が見開かれる。息をのむ音が聞こえると、次の瞬間なまえは精市の腕の中だった。

「……あぁ」

 絞り出すような声が頭上すぐ近くから降ってきて、それが信じられないほど心地良い。
 大きな手が彼女を精市の胸板に押し付ける。早めの鼓動が聞こえて、彼も緊張しているのだと分かると、どうしようもなく愛おしくなって、なまえはそっと目をつぶった。







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