リョーマが生まれた国を離れ、海の向こうの大国で生活を始めたのは二歳の時の事だったらしい。“らしい”と謂うのは当の本人曰く、

「十年以上経ってんだから覚えてる訳ないじゃん」

 との事で。
 だから彼にとっては寧ろ父親の南次郎が駐在武官として働く彼方の大国の方が馴染深いし、覚えていない祖国に帰りたいとも別段思った事はなかった。
 しかしそんな気持ちとは裏腹に、リョーマはひとり祖国・青学往きの船に乗って波に揺られている。

『お前もいつかは家を継いで駐在武官として働くんだ。一度自分の国を見て来た方が良いだろ? 向こうに着いたら俺の母校に入れるように手紙書いといてやったから』

 なんて言葉と共に旅の荷物を押し付けられ、軍人にしては驚く程良い加減な父親の思い付きで、気が付いたら船に乗せられていたのだ。
 リョーマの祖国である青学は、大陸の約四分の一を占める民主主義の大国である。大陸には他にもおおよそ同程度の面積と国力を持った氷帝と立海の二国が在り、残りの四分の一の隙間を埋めるようにして中小の国がいくつか点在している。大陸内の国々は政治形態こそ違うものの、交流は古くから盛んで慣習も似ていれば言語も同じだった。

 しかしリョーマが今まで住んでいたのはそのどれでも無い、海を隔てた向こう側にある別大陸を全て支配するような大国である。一般的な教養として青学がどんな国で在るかの知識は学んで来たけれど……それに寄れば、彼方では大国で慣れ親しんできた文化や風習は全く通用しないと謂うではないか。

 そんな何とも云えないリョーマの心を他所に、船は順調に航海を続ける。
 そして地平線の向こうに祖国の島が現れたのは、丁度一ヶ月後の事だった。

******

 南次郎の話によると、滞在中に世話をして呉れると云う人物が港で待つ手筈になって居るらしい。件の人物を探す為、地上に降りてからも未だふわふわと覚束無い足取りの儘辺りを見渡していたら、「もし、其処の方」と声を掛けられた。

 振り向くと、控えめな色の和服に身を包んだ女がひとり、申し訳なさそうな瞳でリョーマを伺って居る。年の頃はリョーマより幾つか上だろうか。背も額ひとつ分程高い。見慣れぬ和装の出で立ちに少し新鮮な気持ちになった。向こうではたまの休みに親父が和装もどきのようなものを着ていたが、この国では本当に生活着にしているらしい。

 おっと、今はそんな事を考えている場合ではない。リョーマは首を傾げ、視線だけで何の用かと尋ねた。女はおずおずと口を開く。

「失礼ですが、越前リョーマ様でいらっしゃいますか?」
「……そうだけど」

 名前をぴしゃりと当てられ、反射的に怪訝な調子で答えて仕舞う。しかし彼女は気にする様子も無く瞳の中の不安をかき消してふわりと、只道端に生えるダンデライオンが不意に蕾を開くように、ふわりと目を細めた。

「やっぱり……御立派になられましたね、リョーマ坊ちゃん!」

 港でリョーマに声を掛けた女はみょうじなまえと名乗った。馬車の中で一方的に聞かされた話によると、なまえの家族はリョーマの祖父の代から越前家で使用人として働いて居るらしい。父親などリョーマもよく知る人物で、向こうの家で執事を務める彼だと云う。(「云って呉れれば良かったのに、親父のやつ……」)なまえも、幼少の頃から越前の屋敷で育ったとの事だ。

「坊ちゃんが産まれた頃は私もまだ幼くて、よく遊び相手をさせて貰って居たんですよ」

 彼女は始終穏やかな態度で、けれどもリョーマに関する話だけはやけに楽しそうに話すものだから、リョーマは全く覚えてないとも言えず曖昧に相槌を打つばかりだった。

 馬車に揺られ暫くしてから到着した先には、向こうの国に居た時と大差無い屋敷があった。大きな前庭を抜けて二階建ての煉瓦造りの建物を見ると、まるでまだあちらの国に居るような気分になる。家の前では老夫婦が待ち構えており、彼らは越前家の使用人でなまえの祖父母だと名乗った。越前家の使用人は数人を除いて皆、主人の引っ越しと共に奉公先を変えたので、今はこの老夫婦となまえだけで屋敷を管理しているとなまえが背後で付け加えた。

「まあ使用人と云っても屋敷の事はなまえがして居ますし、庭の手入れをするぐらいで殆ど隠居暮らしの様な物です」

 こんな老いぼれにも食い扶持を下さって、旦那様には感謝してもし切れません。と老人が続けるのを見ると、あんなちゃらんぽらんな父親でも慕われているらしいと謂う事が分かる。正直意外だった。

「ささっ、中へ入られませ。坊ちゃんが帰って来られて、なんだか此の屋敷も喜んで居る気がします」

 なまえが玄関の扉を開けると中は埃ひとつ無く片付いており、昨日まで無人だったとは思えない程空気も澄んでいた。案内される儘屋敷の中をぐるりと歩く。玄関から入って書斎、応接間、食堂と案内され、最後に階段を登って二階の一室に到着した。

「此方がリョーマ坊ちゃんの寝室です。足りない物がありましたら、何時でも仰って下さいね」

 中を覗くとベッドにクローゼットと一通りの調度品が揃っている。窓からは立派な庭園が見えており、その庭園の端に控えめな大きさの建物があった。
「あれは?」
「あちらは使用人用の離れでございます」
「アンタもあっちに住んでるの?」
「ええ、昨日までは」
「昨日?」
「リョーマ坊ちゃんが帰られたんですもの。今日からはわたくしもお屋敷に住んで、お世話をさせて頂きますわ」

 二階の使用人室を使わせて頂いておりますから、御用が有りましたら何時でもお呼び下さいね。なんて顔を綻ばせてなまえは続ける。
 リョーマには何が彼女をこんなに喜ばせて居るのか分からなかった。

******

 長旅で疲れた身体を休ませて居たら何時の間にか寝ていたらしい。控えめなノックで目を開くと、なまえの声で「夕食の準備が出来ました」と知らせられる。丁度腹も減っていたので食堂に向かうと、広いテーブルにひとり分の食器が並べられていた。湯気の上がる料理は席に着くなり直ぐに運ばれて来る。

「お口に合うと良いのですが……」

 そう言ってなまえが持ってきた夕食はスープに始まりサラダ、ハンバーグステーキにローストベジタブルと、リョーマの見慣れた物ばかりだった。味も申し分無いし、パンの代わりにご飯が付いている事を除けば向こうで食べて居た食事と同じと言っても過言ではない。

「悪く無い、けど……」
「何かお嫌いな物でもございましたか?」
「そう言う訳じゃない」

 けど、和食が良かった。
 なんて我が儘、初対面で言える筈も無く。

 両親が二人とも青学の出だからだろうか、海外に居ながらも越前家の食卓には和食の出る事が少なくなかった。寧ろリョーマにとっては其方の方が好みの味付けで、だから少しだけ本場の味を楽しみにして居たのだ。何しろ向こうでは手に入る食材も違えば料理人も違うからか、出てくる料理は時々驚くほどのアレンジが施されて居たのだから。でも、

「……まあ、良いや」

 別に急ぐ事でもないし、その内食べられるだろう。

「左様で御座いますか?」

 尚も食い下がるなまえにリョーマは肯定の意味を込めてひとつ頷いた。お世辞は言わない主義だから、美味い物には美味いと言う。……聞かれれば、だけど。

「それはよう御座いました。……坊ちゃんったら昔からハンバーグステーキは残さず食べていらっしゃいましたから、御眼鏡に適う物が作れるか心配で」

 遠く、昔の記憶に想いを馳せる様にしてなまえは続ける。

「お嫌いだった人参も、ハンバーグステーキと一緒なら全部食べていらっしゃいましたのをよく覚えております」

 また始まったとリョーマは内心項垂れずには居られなかった。一寸も覚えていない昔の話をされても正直なところ「それが如何した?」としか思えないし、腹を内側からくすぐられている様な居心地の悪さすら覚える。
 思わず溜息が漏れた。これから毎日こんな会話が続くのは御免だ。
 けれどなまえは気付いていないのか口元に笑みを保った儘、上機嫌でリョーマの前から空の皿を下げる。

「デザートをお持ちしますね」

 そして其れだけ云うと配膳室へ消えていった。幾ばくもしない内に飾り付けられたアイスクリームの器を銀の盆に乗せて戻って来る。

「確か、坊ちゃんは昔からいちごのアイスクリームが「あのさ、」

 もう我慢出来なかった。遮るようにして声を出し、彼女を見上げる。眉間に力が入っているから、きっと睨んでしまって居るのだろう。
 リョーマの態度が意外だったのか、なまえは「はい」と目を丸くして答えた。

「俺、全然覚えてないから。そう云う話されても困るんだけど」

 言い切らない内になまえがハッと息を飲んだのが分かった。目が泳ぎ、ほんの一瞬だけ迷子にでもなったような寂しい表情で「そう、ですよね」と相槌を打つ。

「坊ちゃんと久しぶりに会えて、つい浮かれて仕舞いました」

 しかし「申し訳ありません」と言い終わる頃にはなまえはまた穏やかな笑顔を取り戻して居た。リョーマは内心胸を撫で下ろし、アイスクリームを平らげる。

「夕食は足りましたか? 何か他に召し上がりたい物は御座いますでしょうか?」
「いらない。充分食べた」
「それはよう御座いました。では入浴の準備をして参りますので、気が向いた時にお申し付け下さいね」

 そしてなまえは食堂から立ち去り、残されたリョーマは漸く肩の力が抜けるのだった。
 それから夕飯を終え、風呂に入って寝室に戻るまでなまえは甲斐甲斐しく世話を続けてくれたが、一度も昔の話が出る事は無かった。







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