拾壱


「……リョーマ、坊ちゃん」
「やっと見つけた……なまえ」

 坊ちゃんの声は記憶よりも少し低くなっていた。そんな些細な変化にすら如何しようも無く胸が切なく締め付けられる。真っ白になった頭で何も出来ずに佇んで居ると、様子を訝しんだのか店の奥から店主の奥様が顔を覗かせ、名前を呼ばれた。その一言でなんとか我に返る。

「なまえちゃん、知り合い?」
「え、ええ……昔の職場のよしみです」
「あらあらそうなの! ささ、此方へどうぞ」

 慌てて取り繕った言葉を奥様は疑わず、人好きのする笑顔を浮かべながらリョーマ坊ちゃんを店内へ促す。

「どもッス」

 坊ちゃんも坊ちゃんで何事も無かったかのように席に着くから、私はひとり、置いて行かれた様な、けれど一先ずほっとするような気持ちで厨房へ戻った。

「お水を持って行って注文を聞いておいで。少し位お話ししても構いませんからね」

 暫くしない内に奥様が飲み水の乗った盆を渡して来たから、私は再びリョーマ坊ちゃんの元へ向かわなければならなかった。窓際の席に案内された坊ちゃんは頬杖をついて外を見て居る。窓の反射に私が映ったのを見て、此方を振り向いた。その瞳は細められており、まるで私を非難して居るようだ。他ならぬ坊ちゃんにそんな目線を注がれて居心地が良い筈も無く、直ぐにその場を離れよう水の入ったグラスを坊ちゃんの前に置く。しかし手は引っ込める前に掴まれて仕舞った。

「昔の職場のよしみ、ね」

 声色が随分硬い。

「……間違った事は言っておりませんわ」
「なんで居なくなったの?」
「家の者から聞いておりませんか?」
「駆け落ちしたって?」
「その通りです。私、結婚しましたの。お金はないですけど、素敵な大人の殿方ですわ」
「じゃあそいつ今すぐ此処に連れて来てよ」

 坊ちゃんの手に力が籠る。握られた手が痛くて顔を歪めると、坊ちゃんは慌てて謝りながら、それでも手を緩めはするけど離して呉れなかった。

「居なくなってから三年……ずっと探してた。だからちゃんと証明して呉れないと、帰れない」
「……いつも、お店が終わったら迎えに来て呉れるんです」
「じゃあ店が終わるまで待ってる」

 漸く手が離され、私は安堵の溜息と共に厨房へ戻る。掴まれた手首はもう痛く無い筈なのに、未だにじわりと熱を帯て居た。もう二度と会う事は無いと思って居た坊ちゃんが直ぐ其処に居る事が嬉しく無いと言ったら嘘になる。……けれど今は只、咄嗟に吐いた出まかせを如何しようかと頭を抱えずにはいられなかった。

―― ……。

 坊ちゃんは宣言通り、食事を一通り済ませてからもお店を後にする事は無かった。暖簾を下げお客様が皆家路に着く中、坊ちゃんは店の軒先に立って待って居る。上手い言い訳が思い付かない儘、遅くなれば諦めて帰るかも知れないと思った私はいつもよりも随分ゆっくり店の掃除をして居たけれど、軒先の坊ちゃんに気付いた奥様が怪訝そうな様子で事情を問うてきた。私は咄嗟に嘘を重ねる。

「今日は遅くなると言ったら、家まで送って呉れると申し出て下さったんです」
「あらまあ素敵ねぇ! 殿方を待たせ過ぎるのも良くないし、今日はもう帰って良いわ」

 奥様は少女の様に顔を綻ばせて、店の外まで私の背中を押した。いつもは嬉しい奥様の気遣いが今日は少し恨めしい。
 店の外では当たり前ながらリョーマ坊ちゃんが一人、雨から逃れる様に佇んで居た。奥様は早々に店の中へ戻って仕舞い、私は何も言えず坊ちゃんの隣に立ち尽くす。雨音だけが聞こえる中で幾分か経たない内に、先に口を開いたのは坊ちゃんの方だった。

「で、その旦那とやらは?」

 もう嘘も、言い訳すらも思い付かなくて、泣きそうな気持ちになりながら私は答える。

「来ません。…………結婚なんて、してませんもの」

 するとリョーマ坊ちゃんはその場にしゃがみ込んだかと思えば、大きな安堵の溜息を吐いたのだった。

「良かった……本当に結婚したかと思ってた」

 緊張の糸が緩んだ様な表情は、三年前の生活の中で見た物と良く似て居て。坊ちゃんの事を一日足りとも忘れた事なんて無かったのに、如何して他の殿方に嫁ぐ事が出来ましょうかと言って仕舞いそうになる。けれど私は唇を噛み、なんとかその言葉を飲み込んだ。

「雨が強くなって来ておりますわ。坊ちゃん、宿は?」
「取ってない」
「では、私の所へいらっしゃいませ。大したお持てなしは出来ませんが」

 何時迄も店の外で立ち往生して居る訳にもいかなくて、私は傘を広げ坊ちゃんを迎え入れる。三年の間に坊ちゃんの背は伸びており、今や私を追い越して居た。その身長差が居心地悪かったのか、坊ちゃんは私から傘をひったくり、二人の間に差し直す。
 誰も居ない道を、私達は静かに歩き出した。時折私が「坊ちゃん、次の角を右です」だとか案内する以外会話は無い。かと思えば、私が下宿して居る場所あと半分と謂う所で「ねえ」と坊ちゃんが声を上げた。

「リョーマって、名前で呼んでって、前にも言ったじゃん」
「そう謂う訳にもいきませんわ」
「〝昔の〟仕事のよしみだって、自分から云った癖に。もう俺はアンタの坊ちゃんじゃないって事でしょ?」
「……本当に意地悪なお方ですね、リョーマさんは」

 少し食い下がられるだけで、私は坊ちゃんの云う事を聞きたくなって仕舞うのだって、分かって言って居るのかしら。なんて悔しい気持ちを抑えつつ、坊ちゃん改めリョーマさんに云われるが儘、私は呼び方を改めた。私の失礼な言い分にも関わらずリョーマさんは満足そうに短く笑った。

 私が身を寄せて居る長屋は店から程近い場所に在る。店の御主人と奥様が物置代わりにして居た場所を貸して下さったのだ。邸宅で使わせて頂いて居た使用人部屋よりも狭くて暗い場所にリョーマさんをお連れするのは気が引けたけれども、雨風を凌げるだけましだろうと自分に言い聞かせた。なんせ観光地でも無いこの辺りには宿なんて見た事が無い。
 帰って寝るだけの部屋には薬缶ぐらいしか無く、リョーマさんが夕飯を済ませて居て良かったと心底安堵した。流しに立ってお茶を淹れる準備をして居ると背後に気配を感じて、身体に腕が回される。首筋にリョーマさんの顔が埋められて、頬を掠める髪の毛がくすぐったかった。

「会いたかった」

 どんなに鈍感でも分かるだろう切ない声色に私は何も返せず、だからと言って彼の腕を振り解ける筈も無い。私はこの手を振り払わなければいけないのに、三年前だって、そうしたのに。

「……如何して此処がお分かりになったのですか?」
「なまえが屋敷に送った手紙の消印から」
「二つも隣の町から送ったのに?」
「そっちから探したから、こんなに時間掛かった。休みの時しか来れなかったから」

 何時の間にか、薬缶が激しく湯気を立てて居る。私が慌てて火を消すと、つられてリョーマさんの拘束が緩んだ。「もう逃げませんから、どうかお座りになって居て下さい」と促すと、リョーマさんは渋々と云った様子で畳に腰を下ろす。私は胸を撫で下ろし、作業を続けた。
 部屋には一人で使うのに十分な大きさの座卓しかなく、用意した二人分のお茶を置いて、座卓を挟んだリョーマさんの向かいに座る。こうして改めて面と向かってお姿を見たら、部屋が余計見窄らしく感じられる程立派になられた事に気付いて、胸が締め付けられた。

「今度は俺が聞く番。如何して突然居なくなったの?」

 私の心中など察する筈も無く、リョーマさんは此方を見据える。もう逃げないと約束した手前、話す他に無い。

「……リョーマさんが帰って来ると手紙を下さったあの日、もう一通手紙が届きました。大きな財閥のお嬢様が、リョーマさんの事を気に入られたと。……その手紙を、私は燃やそうとしたのです」

 あの日の記憶が、感情が甦る。嫉妬と罪悪感で潰れて仕舞いそうで、全てを放り投げて仕舞ったあの日に。何処かに隠れて仕舞いたくて、私は両手で顔を覆った。

「いつか貴方が素敵なお嬢様と結ばれる日が来たとしても、貴方のお傍に居られるだけで十分だった筈なのに、もうそれだけでは足りなくなって仕舞った。私の自惚れた独占欲で貴方様の将来を潰して仕舞いそうになって、如何して顔向けが出来ましょうか……!」

「……なんだよ、それ」

 話し終えた後、随分と間を空けて聞いた返事は短く、怒りを帯びて居るのが嫌でも分かった。座卓の上でリョーマさんが拳を作る。その拳は震えて居た。

「俺の将来、勝手に決めんな」
「ですから、そうしてしまわぬ内にお屋敷から!」
「違う! なんで俺がなまえ以外の人と一緒になるって、勝手に決めるんだよ……!」

 それからリョーマさんが語ったのは、三年前の話なら南次郎様を通じてその日の内に断ったと云う話だった。南次郎様も南次郎様であっさりと了承したとの事。

「って云うか、小さな出来事過ぎて今まで忘れてた。あの時はなまえが居なくなった騒ぎでそれ所じゃなかったし」
「私は、何方にしろリョーマさんにご迷惑をお掛けして居たのですね」
「本当、迷惑。まあなまえが居なくなって無かったとしても、断ってたけどね」

 リョーマさんは拳を緩め、呆れた様に口角を上げる。その瞳には何処か優しさが宿っていて、それが余計に私の中の罪悪感を助長させた。彼を不幸にしない為に決死の覚悟で最善の選択をしたつもりだったのに、結局の所悪戯に時間を浪費させただけだったらしい。自分で自分が情けなかった。
 だからこそ、頑なになって仕舞う。膝の上で拳の握るのは今度は私の方だった。

「探して下さってありがとうございます。でも、お屋敷には戻りません」
「良いよ、戻らなくて」

 意外な返答に虚をつかれた。同時に、嫌な考えが頭を過ぎる。もしかして、私は途方も無い勘違いをして居るのではないか。思えばリョーマさんは私の事を探して居たとしか云って居ない。リョーマさんが探して下さったのは私に対して未練が有るからでは無く、ご迷惑をお掛けしたツケを払わせる為なのでは無いか。

「もう俺も学校を卒業したし大国に戻る予定だから、なまえが屋敷に戻っても俺に何のメリットもないし」
「じゃあ、如何して……」
「俺はなまえが好き。居なくなってからの三年間気持ちはずっと変わらなかった」

 リョーマさんの真っ直ぐな言葉が、視線が私を貫く。杞憂は瞬時に消え去り、その言葉のひとつひとつに歓喜して仕舞う自分が居た。

「なまえが俺の事嫌いになったなら、諦める。二度と姿を現さない。でも嫌いになったのじゃ無いなら、俺と一緒に来て欲しい」
「……私は女中ですし、リョーマさんよりうんと年上です」
「もう女中じゃ無いし、年齢だって関係無い。俺はただなまえの一番近くに居たい。なまえが作ってくれたご飯ももっと食べたいし、喧嘩もしてみたい。堂々と手を繋いで道を歩きたい」

 リョーマさんが私の隣まで移動して、膝の上で握って居た私の拳を包み込んだ。大きな手に、離れて居た時間の長さを感じる。

「なまえの気持ちを聞かせて。俺の事、嫌いになった?」

 私を見上げる瞳は、今度は不安気に揺れて居た。
 もう無理だと、身体の奥で本心が叫ぶのを聞こえる。此処までされて仕舞ったら、私はもう、本心を偽る事が出来なかった。だって、私はまだこんなにもリョーマさんの事をお慕いして居る。

「嫌いなものですか……! 好きです、貴方の事が、大好き」

 だって、〝坊ちゃん〟の幸せを壊して仕舞う前に、だなんて、嘘だ。本当は、私はこの人の傷で居たかった。突然消えて仕舞えば、この人にとっての傷として、ずっと心の中に居られるのではないかと思った。それなのに、三年も掛けて探して下さるなんて。
 再び、リョーマさんの腕が身体に回される。もう幼い頃のように気軽に抱き上げる事は出来なくて、少し苦しい程に伸し掛かる彼の体重すら愛おしい。

「だったらもう、居なくならないで」

 耳元で囁かれた言葉はまるで祈りの言葉の様で。涙が止めど無く溢れ、私は頷く事しか出来なかった。

*****

 お店を辞め、祖父母にこれでもかと怒られ、全ての後片付けを終えて、リョーマさんと大国へ向かう頃には更に一ヶ月の時が経って居た。船旅もましてや外国に行く事さえも初めての経験だったけれど、私達の事をお互いの両親になんと説明すれば良いのかと謂う事に比べたらほんの些細な事だった。リョーマさんは「心配しないで」と云うばかりで船旅を楽しんでおられるから、私は余計胃が重く感じずにはいられない。

 気の遠くなる様な長い旅を経て、大国の港でお迎えされてから案内されたお屋敷は青学の邸宅とあまり変わらない様相だった。応接室に通され待って居ると、暫くしない内に南次郎様と倫子様が入室し正面のソファに腰を下ろされる。後ろには私の両親が着いて来ており、当然の様に壁際に佇んでいた。本来なら私もその様にしなければならないのにと、少し肩身が狭い。

「久しぶりだな、リョーマもなまえちゃんも」
「大きくなって、素敵なお嬢さんに成られたわね」
「ご無沙汰しております、旦那様、奥様」

 ふと南次郎様は後ろを振り返り、私の両親を見やった。

「親子の感動の再会は良いのか? 俺達よりも更に長い間会ってないだろ」
「いいえ、坊ちゃんを誑かして、あまつさえ姿を消すような娘を持った覚えは御座いません」

 ぴしゃりとした父の口調が私の肩身を余計に狭くする。私とリョーマさんの間にどんな出来事があったとしても、そう謂う結果になって仕舞ったのは事実なので言い返す言葉が無かった。
 途端、南次郎様と倫子様の笑顔すら怖くなる。私は堪らずその場で深く頭を下げた。

「この度は申し訳ございません」

 直後リョーマさんに肩を抱かれ、顔を上げさせられる。

「大丈夫だから。ね、親父、良いよね?」
「おう、結婚すんだろ? おめでとさん」
「……お許し下さるのですか?」

 拍子抜けする程あっさりとした了承は、いっそ私を戸惑わせた。南次郎様は相変わらずやけに楽しそうな様子で無精髭を撫でて居る。

「たまたま軍人になって一財産築いただけで、別に貴族でもなんでもねえからな。結婚の制限なんてしねえよ」

 南次郎様が同意を求めると、傍らの倫子様も「幼い頃はあんまり仲が良かった物だから、この儘お嫁に来て呉れれば安心だなんて言ったものよねえ」と頷く。展開の速さに着いていけずにリョーマさんの方を見ると、頬杖を着いて揶揄う様に口角を上げて居た。

「だから『大丈夫だ』って言ったじゃん。もう二人には報告済み」
「だ、黙っていらしたのね!」

 リョーマさんの意地悪、と詰め寄りそうになっていると今度こそ南次郎様が声を上げて笑い始めた。そして、相変わらず壁際に控えて居る私の両親を指差す。

「そう謂う事だ。俺達主人が気にしてねーのに、こいつらばーっか気にしてんだぜ?」
「それは当たり前でしょう!」

 母が声を荒げ、はっとして一言詫びた。それからとても長い溜め息を吐くと、諦めた様な、けれどとても優しい瞳をやっと此方に向けて呉た。

「……私達はお前さんの直接の世話はしませんからね。娘の世話なんておしめで充分よ」

 それが結婚のお許しである事は明確だった。全てが順調に進んでいる事を未だ信じられずに居ると、南次郎様から解散の言葉が掛けられる。荷物は既に客間に運んであるから、後は自由に休んで良いとの事だった。
 廊下に出た所で、先に部屋を出られていた南次郎様に声を掛けられた。「リョーマには内緒だぜ」と前置きの後、耳打ちで告げられたのは一言。

「去年だったか? 仕事で俺が青学に一時帰った時、リョーマからなまえちゃんの話を聞いたんだけどよ、こいつにも好きなやつが出来たんだってすぐ分かったぜ。俺がかーちゃんと出会った時とおんなじ顔してたからな。……あいつの事、宜しく頼んだぜ」

 それだけ云うと、南次郎様は飄々と屋敷の奥に戻って仕舞った。後を置かずして応接室の扉を潜り抜けて、リョーマさんが現れる。改めてお顔をじっと覗くと、リョーマさんは怪訝そうに顔を歪めて「なに?」と呟いた。南次郎様が見た彼の表情とはどんな物だったのだろうと想像を巡らせ、其処で漸く、私はこの先もこの方の隣に居て良いのだと実感が湧いて来る。

「なんでもありませんわ」
「そう。ねえ、ちょっと庭を散歩しない? 俺、船旅で体が鈍ってんだよね」
「お供します。……あの、」
「なに?」
「……手を、繋いで頂けませんか?」

 手を繋いで堂々と歩きたいと、あの時言って下さった言葉は、私にとっても悲願だった。リョーマさんは優しく微笑んで、手を差し出して下さる。まるでダンスの練習をして居たあの時のようだと思いながら、私はその手にそっと自身の手を乗せたのだった。







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