今思えば私は、もう随分前から坊ちゃんの事が好きだったのかも知れない。

 幼い時分に生まれた自分よりもずっと小さな坊ちゃんは、私にとってお傍に居るのが当たり前の存在だった。「なまえ、なまえ」と舌足らずに名前を呼んでは私が後ろを着いて来て居るか振り向いて確かめる様は本当に可愛らしくて、坊ちゃんが転んでしまわぬ様幼いながらも最新の注意を払って一緒に庭を駆け回った事を良く覚えて居る。

 月日が過ぎて坊ちゃんが大国へ行って仕舞った後も、年頃の友人が街で見かけた書生に黄色い声を上げる中でも、私の頭の中にいる殿方と云えば坊ちゃんだった。傍から見れば異常だとすら思えただろう。主人と一緒に外国に行って仕舞った両親を恋しく思う気持ちと、幼い頃に別れて仕舞った坊ちゃんの将来の姿を想像する気持ちを混同して居たと誰かは云うかも知れない。けれどあの頃の私は確かに、両親の手紙に綴られた坊ちゃんの様子を読んでは「今頃どれ程大きく成られたのだろうか」と想像して無償に誇らしい気持ちになって居たのだ。

 坊ちゃんが青学の士官学校へ通われると謂う知らせが届いた時は、心臓が早鐘を打ってその儘飛び出して仕舞うのでは無いかと謂う程浮き足が立った。入学に向けて少し早く到着する様に帰って来られると聞いて、お屋敷の掃除にも力が入ったのを良く覚えて居る。なんせ日頃から手入れを欠かさなかったとは云え、このお屋敷に誰かが住むなんてもう随分と無い事だったから。

 港まで迎えに行って再会した坊ちゃんは私の想像なんかよりもずっと逞しく美丈夫に育っておられて、私はまるで隣国の王子様にでもお会いした気分になった。それがとても誇らしくて、同時になんだか酷く寂しくて、私は幼かったあの頃を取り戻すかの様にあれやこれやと坊ちゃんにお節介を焼いた。毎日誰も居ないお屋敷を只管手入れするだけだった私にとって坊ちゃんと過ごす日々は本当に楽しくて、坊ちゃんが満足そうにすれば涙が出そうになる程嬉しかったし、不満げにしたら如何にかしてでもその不満を解消して差し上げたいと思った。

 事の次第が変わったのは、リョーマ坊ちゃんがパーティに行く為の指南をする様になった事だ。嫌がる割に坊ちゃんは飲み込みが早く、エスコートの捌きが様になればなるほど、あくまで指南役として坊ちゃんの前に居る事をふと忘れそうになる自分に気が付いた。何処かの社交界で偶然坊ちゃんにお会いした少女のような気持ちになる度に、この気持ちに名前を付けて仕舞いそうになる自分を正すかの様にお掃除に精を出したものだ。

 そんな私の心の内なんて露知らず、坊ちゃんは私に簡単服を買い与えて下さった。練習だと自分に言い訳してその服を着て坊ちゃんの前に立って仕舞えば、どんなに自分に言い聞かせても何処かのご令嬢になった気分になって仕舞う。蓄音機から音楽が鳴って居る間は私も社交界の一員なのだと勘違いしそうになる。
 立派な燕尾服を着て、髪の毛を上等に整えてパーティに向かう坊ちゃんの後ろ姿を見送る頃には、私は胸の内の甘い感情を誤魔化す事が出来なくなって居た。けれどこんな気持ちが許されないのは火を見るよりも明らかなのだ。私は一介の女中に過ぎず、リョーマ坊ちゃんは雲の上のお方なのだから。

 だから飲み慣れない一杯の洋酒と一緒に、全て飲み込むつもりだった。まさか、お酒があんなに私の人となりを変えて仕舞うだなんて想像すらして居なかった。ふわふわと宙に浮かぶ様な時間は私の苦悩を全て薄靄の向こうに隠して呉れて居る様で、坊ちゃんがお屋敷に帰って来たのはそんな一時を楽しんで居た頃だ。

 その夜の出来事は、正に夢の様だった。否、寧ろ朝が来て重い頭を抱えながら起きるまでは夢だと本気で思って居た。リョーマ坊ちゃんはいつもと変わらず優しくて、少し強引な口付けは甘く、酒が心身を巡り切った私は拒みたく無いと本心に従って仕舞った。シーツの中で泳ぐ手足を絡ませ、引いては押し寄せる気持ち良さと苦しさの中で坊ちゃんの背中に腕を回してしがみ付いた。肌が当たる度に坊ちゃんの匂いが掠めて、知りもしなかった多幸感に一層頭が酔いしれた。

 折角夢なのだからと力強い胸板に顔を埋めたまま意識を失った筈なのに、夢から覚めて目を開けて見ても、隣にはまだリョーマ坊ちゃんがいらして、此方を見上げて居るだなんて。

「……昨日の事、覚えて無い?」
「覚えておりますとも……私はあの時、抵抗するべきだったのに」
「なんで? 俺の事嫌い?」
「嫌いな訳……!」
「俺はなまえが好き。だからこうなれて嬉しいし、ずっとこうして居たい」

 ああ、如何しよう。如何したら良いのだろう。
 そんな事を言われて仕舞ったら。その視線を、手を、私が振り払える訳、無いのに。

 それからの日々は、如何しようもなく幸せだった。坊ちゃんの隣で目覚めてその髪を撫でる度に、指先から甘い気持ちが溢れ出す。坊ちゃんの腕に抱かれながら、今日死んで仕舞っても構わないわと毎日泣きながら幸せを噛み締めた。

 坊ちゃんが学校へ行って仕舞われる日、坊ちゃんを乗せた人力車が景色の向こうに消えて仕舞った時、『夢から覚める時が来た』と云う言葉が唐突に頭の中に浮かんで来た。学校へ行かれて、外の世界を沢山知れば、きっと坊ちゃんは私などには見向きもしなくなる。今のお気持ちが一時の気の迷いだと気付かれる筈だ。そうなれば、私はこれ迄の事は無かったかの様に振る舞わなければいけない。恋心を隠して生きていくのだ。この気持ちは誰にも知られてはいけない。……これからも、あのお方と一緒にいる為に。
 いつか気立ての良いお嬢様をお迎えになられて、家庭を持って幸せそうにするリョーマ坊ちゃんを変わらずお世話する事が出来たら、それが私の夢だから。

 その筈だった。

 邸宅に二通の〝手紙〟が届いたのは、師走に入って直ぐの事。一通目はリョーマ坊ちゃんから私に宛てられた物で、もう一通には差出人に青学で名を馳せる財閥の名前があり、旦那様である南次郎様に宛てられてた。

 逸る気持ちを抑え、邸宅に戻って台所の作業台に手紙を並べる。弾む息を落ち着かせるように深呼吸をひとつして、まずは坊ちゃんからの手紙を開けた。其処には正月休みが始まる日の昼頃には邸宅に帰っていらっしゃるとだけ書かれて居て、簡潔な文章が坊ちゃんらしく、私の心を温める。帰っていらっしゃる日に向けて早速お食事やお掃除の計画を立てたい気分だったけれど、もう一通の事を思い出し断念した。二通目の封に手を伸ばす。機密事項の手紙は大国にいらっしゃる御本人様に直接届く為、この邸宅に届く手紙は寧ろ開けて確認するのが慣わしだった。急ぎでなければ季節毎にまとめて、万が一緊急の事柄であれば直ぐに電信を打ってお知らせするのだ。

 手紙には突然の連絡を詫びる一文と簡単な自己紹介の後で、先日娘が社交会を訪れてから此方、御子息の話を毎日なされる事。御子息は士官学校に通って居ると聞き及んだが、正月には邸宅に戻るのでは無いか、家族の居ない邸宅に戻るのはさぞ寂しかろう、折角なので我が家に招待したいとの旨が随分と友好的な文章で書かれて居た。

 手紙を持つ手が震える。そう言えば坊ちゃんは、あの夜の社交界で何処かのお嬢様と踊られたと云って居た。そのお嬢様だろうか。私でも分かる程大きな財閥出身で、きっと可愛らしいお嬢様で、坊ちゃんの隣が似合う素敵な方に違いない……――

「なまえや、何をして居るんだい?」

 ふと声を掛けられ我に帰った。気が付けば私は手紙を七輪に焚べる寸前だった。振り向けば庭仕事の用意をしたお祖父様が怪訝そうに立って居る。私は五月蝿い位に早鐘を打つ心臓を悟られない様に必死だった。

「……旦那様へのお手紙が届いて居たから、火に透かして確認して居たのです。冬の朝は暗くていけません」
「そうかい。十分気を付けなさい。燃やして仕舞ったら大変だ」

 どう考えても苦しい言い訳を、お祖父様が信じて下さったのかは分からない。けれどそれきりお祖父様はお屋敷を後にして庭に向かった。自分の行動に衝撃を受け、私はふらふらと傍らの椅子に腰掛ける。自分のしでかしそうになった事の恐ろしさに背筋が凍った。……恋心を隠した儘坊ちゃんのお傍に居たいなんて、私はどんなに脆い嘘で自分を騙そうとして居たのだろう。坊ちゃんの幸せを願えないのだと謂う事を、こんなにも簡単に証明して仕舞った。

 それからの事は良く覚えて居るのに全く実感が無くて。呆然とした儘いつもの様にお掃除をして、受け取った手紙の内容の電信を送って、そしてお祖父様とお祖母様も寝静まったであろう夜も深くなった頃、私は少しの荷物を纏め越前邸を後にした。
 リョーマ坊ちゃんの幸せを壊して仕舞う前に、私は此処を離れなければいけなかった。

*****

 そして、あっと言う間に三年の月日が経って居た。
 私は青学の外れに在る小さな町の洋食屋で働いて居る。着の身着の儘流れ着いた先でも洋食屋を選んだのは、大国の味を提供するこの場所でなら少しでもリョーマ坊ちゃんを感じて居られると思ったから。

 その日は、しとしとと雨が降って居た。夕方の忙しい時間を終え、店内は食後の珈琲を頼んだ数組を残して静まり返って居る。今日はこの儘店仕舞いだろうかと思って居たら、押戸が開けられ誰か入って来た。私は慌ててお客様を迎える。

「いらっしゃいま……」

 けれど、言葉を最後まで続ける事なんて出来なかった。
 三年過ぎて顔つきは大人びていたけれど、間違える筈もない。だって幼いお姿から変わっても判ったんですもの、たった三年の違いを見分けられない筈も無い。でも、如何して。この場所が知られる筈なんてないのに。

「……リョーマ、坊ちゃん」
「やっと見つけた……なまえ」







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