身体の節々が凝り固まって居る感覚でリョーマは眠りから覚めた。寝返りを打とうとしたが直ぐ後ろの壁に当たり、動けない。何事かと思って薄く目を開けたら、其処はいつもの自分の部屋では無かった。小さな部屋に無骨なベッド、簡素な机と衣装箪笥、そして隣で眠る一糸纏わぬ姿のなまえ……此処は彼女の部屋だった。
 ふとなまえが身じろぎをし、閉ざされて居た目が静かに開く。いまいち焦点の合わない瞳がリョーマを捕らえた。

「おはよ」
「おはようございます……リョーマ坊ちゃ……ん!?」

 なまえが目を見開き、辺りを見回す。其処が自分の部屋である事を確認し、二人して何も身に纏って居ない事を確認したなまえの顔は真っ青になって居た。

「私ったら何と謂う事を……!」

 土下座せんばかりの勢いで起きあがろうとするなまえをリョーマは制す。慌てるなまえをどうにか布団の中に戻して、向かい合った。

「違う、なまえの所為じゃない。これは俺が望んだ事だから」

 頭を撫でて居ると幾分か落ち着いて来た様で、しかし未だになまえはリョーマの顔を見ようとしない。頬に手を添えて上を向かせると、漸く見えたなまえの瞳は罪悪感で満たされて居た。リョーマの心にも不安が差し込める。昨夜は期待に満ちて居た〝もしかして〟を、今は聞くのが少し、怖い。

「……昨日の事、覚えて無い?」
「覚えておりますとも……私はあの時、抵抗するべきだったのに」
「なんで? 俺の事嫌い?」
「嫌いな訳……!」
「俺はなまえが好き。だからこうなれて嬉しいし、ずっとこうして居たい」

 はっきりと、なまえの目を見て気持ちを伝える。リョーマの視線に捕らえられ、青ざめて居たなまえの頬に朱が差した。

「あまり見ないでくださいませ……恥ずかしいです」

 いつものはきはきした姿からは想像もつかないくらいの声でなまえは答え、隠れる様にリョーマの胸元に潜り込む。その姿が何よりの答えだった。内から湧き上がる高揚感をリョーマは無視出来ない。なまえの身体にそっと腕を回す。距離を詰めると、なまえから白く甘い香りがした。

「ねえ、なまえにあげたドレス、別の人も着てたの見た」
「……もしかして、其のお嬢様と踊られたとか?」

 なまえが顔を上げる。瞳が今度は不安げに揺れて居て、また少し、リョーマの不安が拭い去られる。昨日の〝もしかして〟を再び確信に戻す為に、さり気無い様子だって今は見逃したく無かった。

「踊ったよ。でも、やっぱりなまえの方が綺麗だった」

 なまえの瞳が見開かれたかと思えば、「揶揄わないで下さいまし」と不機嫌そうに頬を膨らませて居る。ころころと変わるなまえの表情と感情のひとつひとつがリョーマに自信を与える。もう、もしかしてと疑う必要は無かった。
 二人の間に投げ出されて居たなまえの手を取り、指を絡める。指のひとつひとつにキスを落とし、小指を甘噛みするとなまえの肩がぴくりと跳ねた。

「ぼ、坊ちゃん……っ」
「リョーマ」
「え?」
「リョーマって呼んで」
「……リョーマ、さん」

 吐息に熱が籠って居る。何方ともなく顔が近付き、口付けて居た。

*****

 それからは、随分怠惰に過ごして居た気がする。なまえにくっついて、テニスをして、夜になればなまえの部屋で抱き合って眠った。自分の部屋になまえを呼び寄せるよりも彼女の狭いベッドの方が好きだった。そんな時間を過ごして居たら何時の間にかリョーマが青学へ到着してから一ヶ月が過ぎ、遂にリョーマが軍学校へ旅立つ時がやって来て居た。
 荷物を詰め込んだ人力車を門の外に待たせ、リョーマは屋敷に戻る。玄関で待つなまえを見付けて抱きしめた。

「休みには戻って来るから」
「ええ、坊ちゃんが帰って来るお屋敷は、このなまえがお守りしております」

 微笑むなまえの唇に口付けて、リョーマは屋敷を出る。なまえも数歩後ろから着いて来て、二人の距離は使用人と主人のそれに戻って居た。リョーマがわざわざ屋敷に戻って来たのは、最後のキスと抱擁を祖父母に見られたく無いとなまえが嫌がったからだ。

 リョーマを乗せた人力車が走り出す。その後ろ姿がそっくり消えて仕舞うまで、なまえはその場でただ見守って居た。

*****

 学校での日々を過ごして居る内に秋が来て、冬が来て、正月休みが来た。学校での生活が楽しく無かったと云ったら嘘になるが、それでもなまえの事を忘れた事は無かった。何せ有れだけ身の回りの事を世話して貰った後だ。寄宿舎では洗濯すら自分でしなければならないと謂う事に慣れる迄一週間も掛かった。

 学校と越前の邸宅は同じ青学の首都に在るとは云え、一度入って仕舞えばなかなか帰る事が出来ない。だからなまえと会うのも数ヶ月ぶりだった。今頃彼女は何をして居るだろうか? 帰る日付と時間は手紙で伝えてあるから、玄関でリョーマの到着を今か今かと待って呉れて居るかもしれない。そんな姿を想像するのはいとも容易く、リョーマは口角を上げずには居られ無かった。

 学校から乗り付けた人力車が邸宅に到着する。はやる気持ちを抑え、車を降りた。前庭を通り抜けて屋敷の前に辿り着くと、玄関の扉は閉じられ、なまえの姿は何処にも無い。昼時だし中で食事でも作って居るのかも知れない――そう思い直してリョーマは屋敷に入った。玄関でなまえの名前を呼んだけれど、返事は無い。段々と不審に感じ始めたリョーマは荷物をその場に置き、屋敷の中を見て回る事にした。

 応接室に入る――誰も居ない。
 食堂へ足を運ぶ――此処にも居ない。

 使用人用の短い廊下を渡って奥の厨房へ向かうと、其処で漸く物音が聞こえた。何時の間にか緊張し切って居た身体から力が抜け、溜息と成って排出される。けれど厨房に入った時、リョーマが見たのはなまえの祖母だった。気配に気付いたのか彼女が此方を振り向き、リョーマを見付けて顔を綻ばせる。

「おやおや、おかえりなさい。もう到着されたのですね」
「ただいま……って言うか、なまえは?」

 なまえの祖父母は少しの庭仕事を除いて隠居して居る筈だ。リョーマが学校に行く前は屋敷に足を踏み入れる事すら滅多に無かった。
 リョーマがなまえの名前を出した瞬間、祖母は一瞬顔を強張らせた。かと思いきや、苦笑の様な笑顔を浮かべて作業に戻る。それがなんだか取り繕う様に見えたのは気の所為だろうか。

「あの子は少しの間お休みを頂いてるんですよ。風邪を引いて仕舞ったので離れで養生させてます」

 なるほど、それならなまえがこの場に居ないのも頷ける。元気が取り柄でありそうな彼女が風邪とはまた珍しいものだと思いつつ、リョーマは後で様子を見に行って来ると申し出た。しかし祖母は一言、「止めて起きなさい。坊ちゃんに移して仕舞ったとなったらあの子も悲しみます」と云ってリョーマを止める。そんな言い方されては食い下がる事も出来ず、リョーマは祖母の作った昼食を食べて手持ち無沙汰な午後を過ごす事となった。

―――― ……。

 次の日も屋敷でリョーマの世話をしたのはなまえの祖母だった。家族も居なければ会いたい人にも会えないとなっては、この家に帰って来た意味が無い。休みの間も学校の寄宿舎に滞在出来るし、いっその事早めに帰って仕舞おうかと考えながら前庭で壁打ちをして居た矢先、車が一台越前宅に乗り入れた。見覚えの有る車種だと思えば案の定、車から出て来たのはリョーガだった。

「チビ助じゃねーの、帰ってたのか」
「正月休み」

 なるほどな、なんて言いながらリョーガは車を降りて何やら荷物を下ろして居る。良い加減リョーガも軍の宿舎に入って居るであろうと高を括って居たリョーマだったけれど、口ぶりからしてそうでは無い様だ。

「お前の事だから、休みでも帰って来ないと思ってたぜ。なまえも居ないしよ」

 荷物に視線を向けたまま、リョーガは「お前、あの子の事気に入ってただろ? 残念だったな」と続ける。何の事か分からずリョーマが眉を顰めて居ると、其処で漸く不穏な空気に気付いたのかリョーガが顔を上げた。

「……チビ助もしかして聞いてないのか? なまえが駆け落ちしたって」

 その言葉を聞いてリョーマは血の気が引くのを感じた。思わず走り出し、屋敷に居るなまえの祖母の元へ向かう。屋敷の掃除をして居た祖母の肩を乱暴に掴み、リョーマは問い質した。

「アンタ、なまえは風邪で寝込んでるって云ってたよね」
「え、ええ……まだ熱は下がっておりませんが、大分良く成って来て……」
「嘘だ。なまえが駆け落ちしたって、さっきリョーガから聞いた」

 途端、彼女は持って居た叩きを落とし、おろおろと頭を下げた。彼女を問い詰めて得られたのは、帰宅を知らせるリョーマの手紙を受け取った次の日になまえが姿を消した事、祖父母の住む使用人屋敷に投函された手紙には『好きな人が出来た為駆け落ちする、落ち着いたら手紙を出すからどうか探さないで欲しい』とだけ書かれて居たと謂う事だった。

 茫然自失とした儘、リョーマはなまえが使って居た使用人室を訪れる。なまえの祖母曰く彼女が居なく成ってから少しも動かして居ないと云うその部屋は、元々簡素ななまえの持ち物が無くなり一層空っぽに成って居た。
 倒れる様になまえのベッドに横たわる。顔を埋めた枕から彼女の白い甘い匂いがして、否が応でもこの部屋で過ごした時間の事を思い出した。

「……うそつき」

 休みには戻ると云ったのに。自分が帰って来るこの家を守って居て呉れると云って居たのに。好きだと伝えたのに。あんなに身体を重ねたのに。頭の中に散らばるのは子供染みた非難の言葉ばかり。けれどその奥で、爛れた肌から膿が湧き出るように現れる焦燥感――

 そう言えば自分は、はっきりとなまえから好きだと云われた事が有っただろうか。

 あんなに確信が有った〝もしかして〟が再び揺らぎ出す。自分は唯、主人と使用人の関係を利用してなまえを手籠にして居ただけだったのだろうか。なんでも云う事を聞いてくれるなまえに甘えて居ただけだったのだろうか。
 問い質したいのになまえは居ない。この小さな部屋がそんな事実を只々リョーマに押し付けて居た。







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