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〝ピピピピピピピピ……〟と、やっぱり不快な音を立てる目覚まし時計を止めて、私はゆっくりと起き上がる。未だぼーっとする頭を抱えながらカーテンを開けると、痛いくらいの太陽光が降り注いだ。
今日は月曜日。ゴミ出しの日では、ない。……にも関わらず、今日も私は早起きをした。きっかり6時、顔を洗って、前より少しだけ時間をかけて歯を磨く。服を念入りに選んだら軽くお化粧をして、私は玄関の扉を開けた。……おっと、冷蔵庫の中の袋も忘れずに、っと。
目的地までは約3秒。お隣の、千歳くんの部屋だ。勇気を出して話しかけて、実は告白紛いな事をされていたと気づいたあの日から、私たちはお付き合いをしている。
貰った合鍵を差し込んで回す。すると空回りしたので、まさかと思ってドアノブをひねった。……やっぱり、鍵が開いている。不用心だなぁと思いつつも、千歳くんらしいなと苦笑を漏らしてしまう。自由奔放な彼の事を考えたら、ちょっと胸がときめいた。
玄関に足を踏み入れて、静かにキッチンをとばして千歳くんの寝室に入った。彼のにおいがする。部屋の真ん中には布団が敷いてあって(万年床らしい)中が膨らんでいた。長身のくせに鼻まで布団を被っているから、下が余って足が飛び出している。それにつまずいて転ばないよう、慎重に彼に近付いて隣に座り込んだ。寝息に合わせて上下に揺れるふわふわの髪にそっと、触れる。こちらに向けている寝顔が安らかな表情をしていた。
「……おはよう」
小さな声で呟くけれど、反応はない。千歳くんは寝付きがとても良いらしく、一度寝たらなかなか起きないんだとか。そんな姿が可愛くて思わずニヤニヤしてしまうけれど、実はもうそんなに時間がない。月曜日は午後からの講義しかない私とは違って、中学生の彼は朝から授業なのだ。
でも今だけは……あともうちょっとだけは、まだ寝てても良いからね。
私は音を立てないよう、そっと寝室を後にした。
キッチンに戻り、私は自室から持って来た袋を開けた。中は昨日買っておいた朝ご飯の材料だ。千歳くんから「昼食と夕食は学食があるばってん、朝は時間がなかけんほとんど食べとらんばい」と聞いてから、こうして朝食は私が用意する事にしている。
簡単なサラダを作って、トースターはないから、パンに卵焼きとハムを挟んでサンドイッチに。机に並べれば、よし、我ながら良い出来だ。
時計を見るともう8時……千歳くんを起こさなければいけない。
再び寝室に入ると、千歳くんは反対側に寝返りを打っていた。なので今度はそちらに座って顔を覗き込む。布団に顔を埋めていて表情は見えない。
「千歳くん」
「…………」
「千歳くん、起きて」
少しだけ声を張ると微かに「んー……」と聞こえたけれど、彼は微動だにしなかった。なので肩の辺りに手を伸ばし、布団の上から身体を揺する。するとその手を引っ張られて、あっと言う間に引きずり込まれてしまった。
「わっ! ちょっと、千歳くん!」
「ん、むぅー……」
もう一度、彼は寝ぼけた声を出す。けれど口元は緩く弧を描いていて、狸寝入りである事はバレバレだ。
「もう、千歳くん。遅刻しちゃうよ」
「こんままもう一眠りすったい」
そう言って彼は横にずれて、枕の半分を私に明け渡してくれた。抱き枕のようにがっちりと両腕に拘束されれば、私よりもずっと背の高い千歳くんにすっぽりと包まれる形となる。誘惑に負けそうになるけれど、抵抗する為に彼の胸元を弱く押す。
「だめ。お化粧が枕に付いちゃう」
「気にせんばい」
熱いくらいの千歳くんの体温と、彼の香りにくらくらする。押し付けられた胸元からトクントクンと聞こえる音は、私のそれよりもずっとゆったりとしたリズムを刻んでいた。私の首のくぼみに挟まった彼の腕が妙に太くて、ああ、たくましいなと改めて思う。そう言えば、部活はテニスだって聞いた。これでまだまだ成長期なんだよなぁ。
徐々に深くなっていく彼の呼吸を聞いていると、だんだんまぶたが重たくなってくるけれど、誘惑に負けちゃ、だめ。
だらしない恋人の所為で千歳くんが自堕落になったなんて思われたくない。
「やっぱり、だめ。ほら起きて」
隙をついて布団から抜け出し、千歳くんの腕を引っ張る。けれど抵抗する彼の身体は重たくて、私の力ではびくともしない。
「……せんり」
「え?」
「千里くんって呼んでくれたら、起きるばい」
「…………もう」
頬に熱が集まってくるけれどうかうかしていられない。私は人知れず決意すると、「早く起きて、せ、千里くん」と口早に言った。すると彼はゆっくりとした動作で起き上がる。
「おはようさんなまえ、今日もむぞらしかね」
「お、おはよう、……千里くん」
動揺をごまかすように「朝ご飯出来てるよ」と続けて部屋を出る。千里くんはこうして毎日「むぞらしかね」と言ってくれるけど、まだ慣れない。特に寝起きの惚けた顔と掠れた低い声は破壊力抜群だ。
先にキッチンまで戻って、ちらり、と部屋の中を盗み見る。扉を開け放したままのその先で、千里くんがパジャマを脱いでいた。シャツのすそから引き締まった腹筋がちらちらとうかがえる。思わず息を呑むと、布から頭を引き出した彼と目が合った。
「どぎゃんしたと?」
「あ、う、ううん。なんでもない!」
あなたの体に見とれていましたなんて言えず、私は自分から目線を外した。
制服に着替えた千里くんが席に着いたら朝食の始まりだ。彼の大きな手に2つに切られたサンドイッチはやけに小さく見える。口を開けて、ひとくち、ふたくち。食べきってしまうと、千里くんは「うまかね」と微笑んでくれた。彼のゆったりとした動作ひとつひとつに目を奪われて、私はいつも食べる事を忘れてしまう。
すると私の視線に気がついたのか、顔を上げた千里くんが口を開いた。
「なまえはいつも食うんが遅かね」
「千里くんこそ、寝起きはすごくゆっくり」
毎週木曜日にゴミ出ししてたのが嘘みたい。と続けると、彼は「あー……」と気まずそうに目をそらした。
「どうしたの?」
「……あん時はなまえに会いたかったけん、頑張って早起きしとったと」
おかげで朝練に出れて、白石に褒められたばい。と取り繕うように続けられた言葉は最早私の耳をすり抜けて行くだけだった。こ、こんなの反則過ぎる……!
彼がこんな調子だからこそ、いつまで経っても千里くんへのドキドキを止められないのだろう。
「あ、えっと、……あ! 千里くん、そろそろ行かなきゃ!」
目線が泳ぎに泳いだ末、行き着いたのは時刻を示す携帯のディスプレイだった。気がつけば、数字は千里くんの出る時を指していた。
私の声を合図に彼は残りのサンドイッチを平らげて席を立つ。案の定、テニスバックだけを持って玄関に向かったので、すぐに鞄を差し出した。
「なら、行ってくるばい」
「うん、いってらっしゃい」
別れの挨拶をしても千里くんが扉に触れる様子はない。不思議に思っていると、彼は再び口を開いた。
「……こぎゃんこつ、新婚みたいで良かね」
そして私の頭をポンポンと撫でると、軽くキスをして出て行く。彼の言葉と行動に私は呆然とするしかなかった。
ガチャリ。扉の噛み合わせの音が私を現実に引き戻す。ふらふらと中へ戻って、キッチンを通り抜けて千里くんの部屋へ向かった。
ボスン。さっきまで彼が寝ていた布団に倒れて、ぐしゃぐしゃの掛け布団をかき集める。少しの汗と、洗剤と、それから千里くんのにおいに包まれると、どうしても恥ずかしくなってきて、言葉にならない声が口から飛び出していた。
お父さんお母さんごめんなさい。なまえはこの恋から抜け出せそうもありません……。