うしとみしよぞ いまはこひしき


 虫の知らせと、言うのだろうか。

 ふとなまえに呼ばれた気がして、葉王は文机から顔を上げた。葉王がしたためていたのは彼の叡智を集めた書物、超・占事略決――先日手に入れた宋の巻物に寄れば、件の精霊王が主を決める大会がすぐそこまで迫ってきている。その来たるべき日に、この書物は必要になるだろう。
 しかし途切れてしまった集中力はもう戻ってきそうにもないし、今夜はここらでやめておこうか。ほとんど完成に近いと言っても過言ではないので、そう焦らずとも良い。

 筆を仕舞い、代わりに出かける準備をする。なまえに会いに行こうと思ったのだ。急に彼女を思い出したと言う事は、星が彼女について何かを告げているのだろうか。
 そういえば忙しさにかまけて、彼女がこの家を去ってから今日まで手紙すら出した事がなかった。向こうも葉王からの便りを待って寂しがっているかもしれない。

 今夜は新月だし、都に巣食うあやかし達も悪さをしないはずだ。きっと朝までなまえとゆっくり時間を過ごせる。
 胸の内でぽつりと沸き上がる胸騒ぎを押し込むように、葉王は努めて明るく自身に言い聞かせて麻倉邸を後にしたのだった。

*****

 みょうじの屋敷は月明かりがない事を感じさせないほど煌々と照らされていた。普通とは違うその様子に、違和感がまた大きくなる。葉王を乗せた牛車は構わず門をくぐったが、その時門番をしていた兵が目の前に立ちはだかった。

「申し訳ないですが、今夜は誰も通さないよう仰せつかってんで、へぇ」
「誰か家の者を呼んで来てくれないか」
「そう言われましてもね」

 門番の言い分に葉王は戸惑う。今朝方弟子を実家に帰した時は何も言っていなかったはずだ。ふつりふつりと大きくなる違和感が、葉王を焦燥させた。

「葉王殿!」

 そんな時、丁度良く彼の弟子がこちらへ向かってきた。屋敷から葉王の様子が見えたのだろうか。彼は牛車の御簾を上げ、葉王が降りて来る手助けをする。門番は主人の登場に安心したのか、何も言わず持ち場に戻って行った。

「こんな遅くに、どうされたのですか?」

 人好きする笑顔を向けながら、彼は葉王に尋ねる。言い知れぬ引っかかりが心をじわじわと浸食していく中で、見慣れた顔に僅かながら安堵した。

「少し、なまえに会おうと思ってね」
「………………ああ、あの女ですか」

 しかし葉王の口からなまえの名前を聞いた途端、彼の顔から笑みが消える。一応は口角を上げているが、すっと細められた目の奥は能面のように感情がなかった。こんな彼を見たのは初めてだと、思わず彼の心の内を読もうと意識を向ける。すると普段当たり前のように垂れ流されている葉王への好意は今や全く聞こえず、形容し難い黒い感情が葉王の魂に触れた。
 かと思えば、彼はぱっと顔を明るくしていつもの爽やかな笑みを葉王に向ける。

「恐れながら、今夜はやめておいた方がよろしいかと思います。……それより私と一緒に御座までいらしませんか? 良い果物が手に入ったのです!」

 そしてまた、当たり前のように垂れ流される葉王への好意……あまりの変わり様に柄にもなく背筋が凍った。
 まさかなまえに何かあったのではないかと、葉王は彼の忠告を聞かずに母屋へ歩を進める。

「なまえに会って来る」
「……はーい。では僕は御座でお待ちしておりますね」

 葉王の背中に軽い言葉を投げかけながら、彼は何故かそれ以上食い下がりはしなかった。

 屋敷に入ると中の喧騒は表以上のものだった。従者達は皆、葉王の顔をちらりと見るだけですぐに自分たちの仕事に戻っていく。やはり何かがおかしいと、胸騒ぎを覚えるには充分だった。
 貴族の屋敷は作りが似ているので、初めて訪れた場所でもどう進めば良いのかは分かっていた。正しい廊下を選び、娘の部屋がある場所まで目指す。

 そして目当ての場所を見付け、扉を開けた葉王が見たものは――――散らばる単衣と、鈍く光る赤黒い刀、そして四肢を投げ出して横たわるなまえに、彼女を囲うようにして立ち尽くす2人の男だった。

「なまえ……?」

 部屋に入れば、数歩でつま先がなまえの身体にぶつかった。寒い夜なのに、彼女は赤と白の斑な襦袢しか身に付けていない。こんな下品な着物などやった覚えはないのに。
 襦袢からはみ出る手足は雪よりも青白かった。膝の力が抜けて座り込んだ拍子に触れた手は氷のように冷たく、細い指が葉王の手を握り返す事もない。

 不意に乱暴な足音が近付いてきて、次の瞬間には部屋の入口に弟子が立っていた。髪を振り乱し、呼吸が荒い。

「葉王殿!? ああ、やはり間に合わなかったか……!」
「あ、あああ麻倉殿だとっ!?(なんでここにあの陰陽頭が!? このままでは私がこの女を殺した事も、あまつさえヤッてしまった事も知られてしまう……い、いや、大丈夫だ。頭の良い父上と弟がなんとかしてくれるさ!)
「あ、麻倉殿、これにはその、深い訳が……(よりにもよって今夜現れるとは……明日であれば、背格好の似た娘を用意出来たものを)
「父上、兄上、なまえは自害したのですか!?(面倒だが、ここは作り話でもしておこう。頼むから乗ってくれよ)
「あ……ああ、そうだ! 助けようと思ったのだが、私達が来た時には既に遅かったのだ(その手があったか! さすが私の弟だ)
「申し訳ありません、麻倉殿……全てはこの娘の不貞を見抜けなかった私めがいけないのです……。(さすが私の息子だ、このまま全て娘になすりつけてしまおう。どうせこの麻倉葉王という男も、気まぐれに容姿の良い娘を貴族にして迎え入れたいだけだろう。娘が不貞を犯したと知れば諦めもつくだろうさ)

 彼らのいかにもな言い分と、身勝手な心の声を外から内から聞かされる。誰かの記憶が勝手に流れ込んでくる。女を組み敷く兄と、手紙を破って嘲笑う弟、全て分かっていながら見て見ぬ振りをする父親……。
 気持ち悪い。何を言われているのか分からない。しかし混乱の中でも確かに突きつけられる、受け入れ難いひとつの事実…………こいつらがなまえを殺した。

「……お前達は一体、何を喚いているのだ?」

 葉王がそう呟いて、それから全ては一瞬だった。

「――――え?」

 父親の右腕が闇夜に消え、肩から血が噴き出したのだ。しかし何が起こったか彼が理解する前に、今度は理解する為の頭が消えていた。首から溢れる血飛沫が長男を濡らすけれど、彼も見えない何かに脇腹を抉られた為にそれどころではなかった。

「うわぁぁぁぁぁああぁぁぁああああっっ!!!」

 悲鳴はむしろ葉王の弟子から上げられた。彼にだけは見えていたのだ。葉王の周りに突如鬼火が生まれ、見る見る内に餓鬼の姿になって父と兄に喰らい付く姿を。肉親が生きながらにして化物の餌となるその瞬間を。彼は悲鳴のように師匠の名を呼び、足元にすがりついた。

「私は……私だけはお助けください! 全ては兄と父がしでかした事……私はただ、あなたの傍でお役に立ちたいだけなのです……!」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、彼は必死で懇願する。しかし虚ろな葉王の瞳は彼を映す事はなく、葉王が何を考えているかなど彼に知る由もなかった。

「……ちっちぇな」

 葉王がなんと言ったか理解する前に、彼の五体は無数の小さな口に喰い破られていた。

*****

 新鮮な肉を喰らい尽くした餓鬼達は次第に次の獲物を求めて彷徨い始める。ある者は部屋を飛び出し、またあるものはそこに横たわる死体に目をつけた。しかし葉王がひと睨みするだけでなまえに近付く鬼は姿を失い、炎となって屋敷に火をつける。葉王自身は標的にすらされなかった。
 喧騒も遠い部屋の中で葉王は目を閉じる。神経を研ぎ澄ませれば、辺りに何万もの魂の気配を感じた。陰陽師にとって、身体の死は本当の死ではない。魂がこの世に留まる限り、人は死なない。なまえはまだ死んでいない。

 しかし、

「どこにもいない……!」

 都中の生ける者と死せる者の魂を洗いざらい検分しても、なまえのそれはどこにも感じられなかった。
 そんなはずはない。必ず迎えに行くと約束をした。いつまでも待っていてくれると約束してくれた。なまえが僕をおいて行ってしまうなんて事、あってはならないのに。

 がたり

 不意に傍らの櫃が揺れる。蓋を開けると、幼い少女がひとり歯を鳴らして怯えていた。彼女の腕には赤子が抱かれていて、場にそぐわぬ安らかな寝息を立てている。

「……その子は」
「あ、なまえ、様の、み、御子で、あ、あ、あらせ、られ、ます」
「なまえ、の、」

 赤子の頬をそっと撫でる。指先に伝わる仄かな暖かさの向こうに、我が子を抱いて微笑むなまえの姿が見えた、気がした。

「…………どうりで、鼻筋がよく、似ている」

 掠れた声は事情を知らぬ童女の心さえも切なく締め付けるほどであった事など、葉王は知らない。彼は懐に手を伸ばすと、人形の札を取り出した。短く術をかけると人形は漂うように宙に浮く。

「着いて行け、麻倉邸まで安全に辿り着ける。『みょうじの生き残りだ』と言えば、丁重に迎え入れてもらえるだろう」

 さぁ、早く。と促せば、少女は転がるようにその場から逃げて行った。

 誰もいなくなった後で、葉王はなまえの身体を抱き上げる。

「こんな所で、君をひとりにはしないよ」

 そして炎に呑まれる屋敷にも、災厄に巻き込まれる人々にも目をくれず、屋敷の門をくぐり出た。
 折しもその時、目も眩むばかりの大きな光が都の夜空を駆け抜けていった。その星降りはまさに宋の巻物に書かれた、精霊王の主を決める大会の開催合図そのものではないか。
 葉王の口から乾いた笑みが漏れる。それは次第に大きな笑いに変わり、葉王を歪んだ高揚感に包んだ。

 伝承は本物だった。世界を変える大きな力を、手に入れられる。

 こんな醜い世界なんていらない。
 誰も母上に石を投げない世界だけが、
 なまえの小さな心を傷付けない世界だけが、あれば良い。

「待っていてくれなまえ! 僕ならやれる……必ず迎えに行く!」

 冷たくなったなまえの躯を掻き抱き、葉王は決意する。月のない明るい空だけが、彼の言葉を聞いていた。

 この日から、京の都で葉王の姿を見た者はいなかった。
 帝は稀代の陰陽頭を失い、麻倉家は屋敷を出雲に移し葉王の討伐に手を尽くす事となる。







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