※夢主が酷い目に遭います。地雷な方は以下「」を反転して内容把握して頂ければこの話は飛ばしていただいて大丈夫です。
「夢主が養女にいった先で無理矢理身籠らされて(性的描写はなし)、誰にも内緒で産むもバレてしまい、勢いで殺される話」
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いまひとたびの あふこともがな
なまえが葉王の弟子の実家であるみょうじ家に迎えられてから数日が経った。都の一角にある屋敷は静かで住みやすく、家の者も丁重になまえを扱ってくれている。特に身の回りの世話役をとして宛てがわれた少女が何かと慕ってくるので妹が出来たような楽しい日々を過ごしていた。……けれど。
「はぁ……」
文机の上には、手紙を書く為の道具がずらりと並んでいる。真っ白な半紙に『麻倉葉王様』と書いたきり、なまえの筆は止まっていた。
ここでの生活は楽しい……けれど。何一つ不自由無い生活にも関わらず、ここのところなまえは頭を悩ませていたのだ。それこそいつもはすらすらと思い付く文章が、今日は一文字も出て来ないほどに。
理由は2つあった。
ひとつは葉王に手紙を送り続けても、一向に返事が帰って来ない事。新しい年も始まったばかりだし、仕事が忙しいのかもしれない。けれどもう何通も送っているのだから一度くらいは返事をしてくれても良いではないかと思うのは、わがままなのだろうか。
「……あ、」
その内に空中で遊ばせていた筆の先から黒い涙が落ちた。〝麻〟という字がつぶれてしまい、なまえはもう一度溜め息を吐いて紙を丸める。そして新しい便せんを取り出そうと引き出しを開け、まっさらな半紙の他に既に折り畳まれた物が見えて眉を寄せた。これこそがなまえを悩ませるもうひとつの理由だった。人目から隠すように保管し、しかし捨ててしまいたくてもなんとなく居心地が悪くて火にくべる事が出来ない。
それは葉王の弟子の兄、そして先日なまえの兄にもなったみょうじ家長男からの手紙だ。ここの所毎日、夕方頃になるとこっそり届けられるのだ。兄妹となったと言えど互いに成人しているが故、彼と直接顔を合わせた事はない。しかし手紙には一目で良いから会いたいと、出来る事なら夜に部屋を訪ねても良いかと言う歌が書かれていた。同じ意味の歌をこうも毎日違う文章で考えられるものだと感心すらしてしまう。
はっきり拒否してしまうのも今後の生活を考えるとできない。かと言って誰かに言おうものならそれこそ兄自身の顔、ひいては葉王の顔に泥を塗るのではないかと思うと、なまえは誰にもこの悩みを打ち明ける事が出来ずにいた。
頼みの綱は葉王の弟子であり、なまえの弟となったこの家の次男だろう。しかしその彼も麻倉邸にて住み込みで働いている身なので、なまえを邸宅に送り届けて以来屋敷にいない。
はぁ……。何度目かの溜息を漏らす。面倒事から逃げるように、なまえは兄からの手紙を脇へ退かし、新しい便せんを取り出した。
しばらく考えた後、再び筆を取って〝麻倉葉王様〟と書き入れる。面倒だから、もう歌にするのはやめてしまおう。
『貴方への手紙の為だけに、墨を丸ごと擦り切ってしまいそうです。この墨がなくなる前に貴方も筆を取る気になってくれるかしら』
いけないとは思いつつ、書いた言葉に皮肉を込めずにはいられなかった。墨が乾くのを待って綺麗に折ってから、世話をしてくれている少女を呼ぶ。
「これを弟に届けてくれるかしら?」
女からの手紙を直接葉王に届けるのははしたない。けれど家族に宛てた手紙であれば不自然ではないし「いつでも頼ってくださいね」と本人から提案されていた事だった。
「はい、なまえさまっ」
まだ童女とも言える年齢の少女が息を弾ませ部屋を出て行く。小間使いとして召し上げられたばかりで仕事にたどたどしさがあるが、そこも愛嬌だろう。幼い頃の葉王や自分を見ているようで、なんだかくすぐったかった。
*****
貴族の娘になってから、初めて迎える満月の夜――与えられた部屋の中央で、なまえは呆然と座り込んでいた。
傍らには着物が散らばり、彼女自身は肌着のみを羽織っている。夜風が体温を奪いながら過ぎて行くけれど、床の布にくるまって兄が裸で寝ていると思うと、とても拾い集める気にはなれなかった。
『名誉ある結婚が控えているのだ。間違いがあってはいけないから、どれ、ひとつ味見をしてやろう』
その言葉と共に兄が現れたのは、つい半刻前の事だった。
―――― 犬に噛まれたようなものだ。
何もない場所を仰ぎ見てなまえは呟く。生娘でもあるまいし、どうと言う事はない。
しかしそう思えば思うほど、泥のような罪悪感がなまえの心に住む葉王の顔を黒く塗りつぶしていくようだった。ぽたりぽたりとふたつ、雫が襦袢の襟を濡らす。
「葉、王、」
一度流れてしまえば、後の雫は止めどなくあふれ続けた。
「ごめんな、さ、……っ!」
やっと貴方の名前を呼べたのに、それが懺悔の言葉だなんて。
押し殺された嗚咽が、誰かの耳に届く事はなかった。
*****
春が過ぎ、夏はすぐにやって来た。
葉王からの手紙は相変わらずなく、便りがないのは健康な証だと近頃はなまえも自身に言い聞かせている。
幸いあの日以来、兄はなまえの前に姿を現さない。一度思い通りに出来て満足したのかもしれないし、近頃はなまえの体調が優れない為、悪い物でも移されやしないかと怖がっているのかもしれない。
「なまえさま、薬師の方がいらっしゃいました」
「ありがとう、お通ししてくれる?」
気怠い身体を畳から起こすと、見計らったように初老の男がなまえの部屋に入って来た。御簾越しに名前を告げられたので入るように促す。薬師は彼女の額に手を当て、脈を測り、いくつか質問を投げかけた。世話役の少女に肩を支えられながら、鉛のように重い頭を使ってなまえは答える。
しばらくして、薬師は柔和な笑顔を浮かべて口を開いた。
「どうやら病ではないようです」
「と、申されますと?」
「おめでとうございます。父親はさぞかし名のあるお方なのでしょう?」
頭から冷水を浴びせられたようだった。熱に浮かされていた身体は見る見る内に冷え上がり、思わず横にいる少女の手を握りしめる。
「ええ。……神様から授かった子です」
なまえの様子から何かを察したのか、薬師も顔色を変えた。そして数拍口籠ると、目を逸らして退室を願い出る。
「お待ちください」
そそくさと部屋を後にする薬師を引き止め、なまえは咄嗟に使っていた扇子をたたんで彼に握らせた。
「お願いします。どうかこの事は決して他言せぬよう……!」
なまえの必死な形相に、人の良さそうな初老の薬師は戸惑うように目線を泳がせた後、神妙に頷いたのだった。
*****
月が満ち欠けを繰り返し、気が付けば葉王の元を離れてから1年が経っていた。今やなまえの中に眠る赤子は隠し通せないほど成長してしまったが、生来貴族の娘は人の前に出てはならない為、幼い侍女の他になまえの変化に気付く者はいなかった。
近頃はなまえの体調も良く、そろそろ葉王への手紙を再会しようかと考えているところだった。もしかしたら彼も仕事が一段落して返事をくれるかもしれないし、何より葉王との繋がりを感じていたかった。
他愛もない季節の流れと庭の情景を短くしたため、丁寧に折り畳む。隣室に控えているであろう少女を呼ぶ為、息を吸ったその時だった。
「なまえさまはお体のちょうしが優れないのです!」
「だったら尚更、葉王殿にお伝えする為にも会う必要がある」
焦る少女の声と青年の声がひとつずつ、なまえの部屋の前まで近付いて来たではないか。何事かと顔を上げる前に困りきった少女の声で名前を呼ばれる。どうしたの、とだけ尋ねると、今度は青年の声が返ってきた。
「私ですよ。葉王殿に時間を頂いたので帰って来たのです。貴女の様子を見て来て欲しいとも仰せ仕りました」
それは葉王の弟子にして、なまえの弟となった彼だった。誰も通してはいけないと侍女には言っていたので、彼女がここまで弱るのも無理はない。
なまえは一瞬戸惑いを見せたが、ここで体調を理由に彼を追い出してしまっては葉王に余計な心配をかけてしまうだろう。何より久しぶりに葉王の話が聞けると言うだけで、なまえの心は既に高鳴っていた。手紙も書いた事だしちょうど良いと、なまえは御簾の後ろに隠れてから2人に入ってくる様促す。
「御身が優れないと聞いて、居ても立ってもいられませんでした」
「ありがとうございます。でも、近頃は随分良くなったんですよ」
「それは良かった」
御簾越しに見える彼の表情までは透けて見えない。しかし麻倉邸での日常や葉王の様子を語るその声は慈愛と若い自信に満ちていた。
しばらくは彼の話を聞いていたが、他愛もない話は長くは続かなかった。そろそろ自室へ戻ると言った彼に、なまえは御簾の隙間から手紙を差し出す。
「また頼んでも良いですか?」
「これを、葉王殿に?」
「ええ。いつも申し訳ないのだけれど」
「もう手紙を書くのは嫌になったのかと思っていました」
「いいえ、少し休んでいただけですわ。……あちらの方はどう思っていらっしゃるのか、分からないですけれど」
ふ、と短い笑いが聞こえてから、御簾越しに手紙が受け取られる。彼の纏う空気が一瞬で変わり、違和感を覚えた。
「何がおかしいのです?」
なまえは訝しげに眉をひそめる。身体を隠す必要がなければ、顔を見せる事も厭わず御簾を上げ、彼の瞳から真意を覗こうとするところだ。
「返事など来ませんよ」
唐突に紙の破れる音がした。呆気に取られている内に御簾が上げられ、彼の姿が目の前に現れる。人好きするような若者の面影は最早どこにもなく、背筋が凍るほど冷たい視線がなまえを貫いた。
傍らの侍女が「おやめください!」と彼の足下に縋るけれど、いとも簡単に撥ね除けられてしまう。
「貴女からの手紙は、私がこうして薪の足しにしているのですから」
髪を破く音が3回続き、なまえの頭上に白い物が撒かれた。ひらり、と一粒膝まで振ってくる。見慣れた文字の一部が描かれていて、そこでやっと手紙を破かれたのだと気付いた。
「私には兄が居ましてね。これが人となりは最低だが女の扱いだけは上手い。ついでに貴女の心も持っていってはくれぬかと思っていたのですが……」
ねっとりとした視線が身体の表面を這いずり、腹の辺りで止まる。誰が見ても明らかに身重である事を見付け、彼は口元を歪ませた。
「まぁ、最低限の仕事だけはしてくれたようですね」
それだけ言って、彼はくるりと背中を向ける。部屋を出て行こうとする姿を見て、なまえはやっと我に帰った。
「どうしてこんな事……あの方を裏切るのですか!?」
「裏切る? 何を馬鹿な事を」
振り返りもせずに、彼は続ける。
「あの方にはもっと高貴な方が相応しい。……私が男でなかったらと、何度思った事か」
最後にそれだけ告げて、彼は部屋を後にした。声に込められた嫉妬になまえは今度こそ言葉を失う。家族になったのだからと盲目的に信じ、不測の事態など考えもしなかった己の愚かさを呪った。
突然の裏切りへの衝撃や、秘密が暴かれてしまった事への焦りに心と頭が付いて行かない。ぐるぐると気持ちの悪い感情が頭の中を巡っている内に、突然下腹部に重い痛みが走った。
「なまえさま?……なまえさま!?」
しきりに彼女の名を呼ぶ侍女が助けを呼びながら部屋の外へ駆けていくのを、なまえは朦朧とした意識の中で見つめていた。
―――― ……。
駆けつけた産婆達が赤子を取り上げる頃には真夜中になっていた。今夜は月が昇らぬ暗い夜だったので、いつもより多めの火が焚かれて屋敷の中はむしろ明るい。
昼御座ではみょうじ家が総出で集まっていた。遅い時間にも関わらず、皆一様に血走った目で額を突き合わせている。
「善意で娘にしてやったのに、寄りにもよって屋敷でこんな穢れた……恩を仇で返すような事を!」
「それよりもあなた、こんな事になっては麻倉様に顔向けができませんよ! 息子も破門されてしまうかも……陰陽寮からの給金で家はもっているようなものなのに」
怒りに震える父親を見、金の心配をしている母親を見、そして一言も発さずに青ざめる兄を見て、この家の次男はうすら笑いを浮かべていた。こうなれば良い、と思っていた事が気持ち良いくらいに実現している。
あの女が現れてから、滅多に会いにいらしてくれない葉王殿が更に宿舎に寄り付かなくなった。それだけでも憎たらしいのに、葉王殿は良家の娘の家にも通わず、あの女を娶ろうとおっしゃる。……お可哀想に、あの方は女狐に騙されているのだ。ならば私が、御方をお助けしなければ。もうすぐそれが実現出来る。
彼は心の内に滾る喜色を押し込めて、悲壮な表情を浮かべた。
「何よりも葉王殿の事が心配です。結婚が決まって尚、不貞を犯す娘に師匠殿が騙されているだなんて私には耐えられません!…………父親が誰なのか、問いただして参ります」
両の親が彼の顔を見る。数拍空いた後、2人とも口々に彼に賛同した。それが良い、まずは何があったかを明らかにしよう。もしかしたら、万が一にもあれは葉王殿がお忍びで作られた子かもしれないじゃないか。
「それもそうかもしれません! ねえ、兄上もそう思いませんか?」
追い打ちをかけるように、彼は自身の兄に話を振った。先ほどから不自然なほどに冷や汗を流す兄を見れば、冷静な者なら誰が父親かは明白だ。お目出度い頭の両親には見えていないようではあるけれど。
「兄上、どうかされたのですか?」
兄は何も答えなかった。何かに追いつめられたように突如立ち上がり、廊に出る。庭を見回っていた兵に詰め寄ると、有無を言わさず懐の刀を奪い取った。
――あの女を殺してしまわねば。
あるのはその一心のみだった。頭の良い弟が問いつめれば、彼女はすぐに自分の名前を出すだろう。自身の女癖は都中に知れ渡っているし、人の女に手を出したなどと知られれば、あの陰陽頭は黙ってはおるまい。考えるだけで震えてどうにかなってしまいそうだった。
地響きのような足音を立てながら、彼は屋敷の奥へと進んだ。
*****
侍女以外の者を帰らせたなまえの部屋は静かだった。先ほどまでは産声を上げていた赤子も今やすやすや眠っている。生まれたのは珠のような女の赤ん坊だった。
不意に、乱暴な足音が近付いてくるのが聞こえた。遂にこの時が来たか、となまえはごちる。秘密が明かされてしまった今、裏切ったのだと葉王は憤怒するだろうか。けれどこの先何が起こっても、どんな罰でも受け入れよう。赤子をあやしている内に冷静になった頭で、これから起きる事全てへの覚悟は出来ていた。
ただひとつ気がかりなのは生まれて来たこの子と、健気に世話をしてくれた少女の事だ。無垢な子供達まで巻き込みたくはない。
なまえは赤子がしっかり寝ている事を確認すると侍女に渡す。そして一番大きな櫃から着物を全部取り出し、侍女を赤ん坊ごと中に押し込めた。
「良いですか、私が蓋を開けるまで決して出て来てはなりませんよ」
まだ幼いと言って良い程の若さ故に、不安を隠しきれない侍女に向かって最後になまえは微笑む。そして櫃の蓋をしっかりと閉めた。
放り出された服の山が不自然にならないよう上に座ると同時に、部屋の戸が勢い良く開けられる。
入って来たのはなまえの兄となった男――顔を見るのは実に10ヶ月ぶりだろうか。彼の手には銀色に光る刀が握られていた。数歩の距離はあっという間に縮められ、彼は頭上高く刀を振りかざす。その刀が振り下ろされる瞬間、篝火の反射する刀身に柿を差し出す麻葉童子の姿が見えた、気がした。