われてもすゑに あはむとぞおもふ


 春になり、夜も段々と過ごし易くなって来た。近頃は着物を重ねるのをやめてしまったが、そう来ると今度は寝入るまで少し寒い。
 しかし2人して同じ布団に縮こまっていれば話は別だ。ここの所、葉王は夜の時間をなまえの部屋で過ごしていた。朝になれば母屋に帰って自身の仕事に精を出すけれど、日が沈む頃には東の客室まで足を運び朝日が昇るまでそこを離れなかった。それは今日とて例外ではない。
 帳に囲われた畳の上で2人は向き合って寝転んでいた。闇が辺りをとろりと浸し、一寸先にある互いの顔すら見えない。

「――眠れないのかい?」

 先ほどから会話は止み、後は寝付くだけだった。しかしいつまで経ってもなまえの寝息は聞こえず、不思議に思って声を掛けると暗闇の向こうで迷いのある吐息が聞こえる。

「……葉王様は、近頃毎日いらしてくださいますね」
「嫌だったかな?」
「分かっているくせに、意地悪な方」

 すねるような言葉の奥で、嬉しいに決まっているとなまえの心が言った。闇に目が慣れ、布団代わりの着物に顔を埋める輪郭が見える。葉王は満足げに笑みを浮かべた。
 しかし次に聞いたのは、予想もしていない言葉で。

「ただ、他にも良い人がいたのでしょう? そろそろあちらにも顔を出されないのかしらと思って」

 驚いて、思わず跳ね起きた。なまえの声に批難の色は含まれていないが、それでも自身の女性関係を知られていると言うのは心地の良いものではない。

「知ってたのかい?」
「知らないと思っていらしたのですか?」

 呆れるような声色に、どうしたものかと思わず頭を抱えた。
 すると、ふふ、と短い笑いが聞こえる。

「都を守る陰陽頭ですもの。お家を残す為には当然の事です」
「……なまえがいるのだから、他はもう必要ない」
「いずれあなたの正妻になるお人もいるでしょうに」
「君は……」
「私の事なら良いと申し上げたはずです」

 その声に迷いはなかった。

「貴方が一時愛してくださるのなら、私はどうなっても構いません」

となまえは続け、更に言葉を重ねる。

「正妻を屋敷に迎え入れたら、女の客は不自然です。その際は飯炊き女でも女房でも尼削ぎでも、お好きなように申し付けてくださいね」

 まだそんな事を言うのかと、流石に少しへそを曲げずにはいられなかった。想いが通じ合ったと言うのに、何故なまえは僕と距離を置きたがるのだろう。頑なまでに貫くその姿勢が葉王には理解出来なかった。
 いずれにしても会話は彼の望まぬ方向に向かっている。

「それを言うならなまえだって」
「私、ですか?」

 柄にもなく感情を表に出し、言葉の端に刺が出来てしまった。なまえの顔がはっきり見えずとも、眉を寄せるのが分かる。上手く話題を逸らせたと安心すると同時に、半ば自棄になって葉王は今まで気にかかっていた事を尋ねた。

「その口調、前にも一度直して欲しいと言ったはずだ」
「……客人が屋敷の主に敬意を払うのは当然の事です」
「今はもう、ただの客と主人ではないだろう?」
「でも本来なら貴方様は、私のような身分の者がおいそれと口をきいて良い方ではないのに」

 なまえの物言いは葉王が言葉を詰まらせるには充分だった。苛立っているであろう雰囲気だけが彼女の肌をちくちくと刺す中、葉王は長い間沈黙する。霊視の力がないなまえには葉王が何を考えているかなんて分からず、どうか今の言葉で彼が分かってくれますようにと祈るしかない。

 やがて永遠とも一瞬とも言える時間が過ぎると、葉王は大きく息を吸い、溜め息を吐くようにして言葉を紡いだ。

「身分が同じなら、良いのだね?」
「え、ええ……」

 含んだ物言いに、戸惑いながらもなまえは頷く。そして「だから貴方様は後ろ盾のある娘を早くお見付けになって」と、内心で一言添えた。何か引っかかりがあるが、きっと分かってもらえたのだろう。だってこの人は私の心なんて全てお見通しなのだから。
 そんななまえの心中を他所に葉王は「分かった」とだけ答える。

「もう遅い。寝ようか」

 そしてなまえの首の下に腕を差し入れると、暖を取るように彼女を抱えてさっさと寝入ってしまったのだった。

*****

 次の日なまえが目を覚ますと、葉王の姿は既になかった。冷えてしまった隣の空間に切なさを感じ、かき消すように布団代わりの着物を身体に巻き付ける。こんな寂しい思いをするくらいなら一晩中起きていれば良かった、なんて思うのは馬鹿げているだろうか。
 邪念を払うように大仰な身振りで帳から出る。服装を整え、葉王から貰った櫛で髪を梳いた。使い終わった櫛は元結と共に鏡台の上に置く。好いた殿方に頂いた物だと思うとそれらが一際美しく見えた。朝日を浴びて輝く様は本当に綺麗で、つい肘をついて眺めるのをやめられない。

 時間も忘れて髪飾りを眺めている内に、ふと女房が来てなまえの名を呼んだ。

「葉王様からなまえ様を呼んでくる様仰せ仕りました」
「すぐに向かいます」

 慌てて支度途中だった髪をまとめ、目の前にある紐で結う。目前から消えてしまうと少し寂しいけれど、着ければ着けたでこれをくれた本人に褒められた事を思い出して、はにかまずにはいられなかった。

*****

「葉王様、なまえにございます」
「入ってくれ」

 部屋に足を踏み入れると、葉王は脇息に肘を乗せたまま満面の笑みでなまえを向かい入れた。ここまで機嫌の良い彼を見るのは珍しい気がする。

「何か御用ですか?」

 なまえがこの部屋を訪れたのは随分と久しぶりだった。少し前までは部屋に呼ばれれば決まって囲碁の対局をしたものだが、負けると分かってまで碁盤を見たくないと申し出てからはなしになった。わがままだろうかと心配したにも関わらず、「良いよ」とだけ軽く言われたのが記憶に新しい。元々葉王もそこまで執着していなかったのだろう。

「君の迎え入れ先が決まったよ」

 その一言はなまえを凍りつかせるには充分だった。聞けば彼の弟子のひとりが貴族の出で、人ひとりを養う余裕ならあると言う。そこで準備ができ次第、なまえにそこへ移って欲しいと言う事だそうだ。他にも、その弟子はつい最近まで学生だったけれど、成績も良く大変熱心な態度である事から最近では葉王の屋敷での補佐になっただとか、彼は色々と語っていたが、どれもなまえの耳には入ってはこなかった。

 嫁に相応しい方を、見付けたんだわ――

 顔から血の気が引くのを感じた。この屋敷で働くのではなく、他の家に奉公にだされる事になったのか。
 分かっていたのに、覚悟していたはずなのに、〝その時〟が来た途端に狼狽えてしまうだなんて情けない。彼の年齢を考えたら遅すぎるくらいだった。それに私はもう充分に幸せな時間を頂いた……せめてお傍で働きたかったと言う願いが我が儘である事が理解できる程度には、充分に。

「ちょ、ちょっと待っておくれ。何か勘違いしていないか?」

 葉王は何やら慌ててこちらまで近付き、俯いていたなまえの顔を上げさせた。気付かぬ内に流れていた涙が指ですくい取られる。

「必ず迎えに行くよ。その間、君はそこの養女になるだけだ」
「養女……?」
「そう。なまえが言ったのではないか、『対等な身分であれば良い』って。僕もちょうど良かったよ。君が貴族の娘になれば周りから小言を言われずに済む」
「あれは、そういう事ではなく!」

 飄々と言ってのける葉王になまえは目を回してしまいそうだった。そういう意味で言ったのでない事は彼が一番よく分かっているはずなのに。文句の一つも言わずに聞いてくれたかと思いきや、こんな突拍子もない事を思い付いていただなんて。
 一方葉王は今度こそなまえの心中が聞こえたのか、突然真剣な眼差しをして彼女を見つめた。

「僕も言ったはずだ。『なまえがいるのだから、他はもう必要ない』と」

 思わずはっと息を呑んだ。彼の言葉の意味を考えるのに一瞬を要し、それからは身体の奥から零れ落ちんばかりの喜びがあふれる。全身がうち震え、返す言葉が見付からなかった。夢なのではないかと今すぐ頬をつねりたいのに、手が触れた瞬間に本当に現実へ戻ってしまうのではと思うとそれもできない。

「全くもう、貴方と言うお人は、」
「嫌だったかい?」
「本当に、意地悪な方ね……!」

 嫌なはずがございませんと一声絞り出す頃には、なまえは葉王の力強い腕の中に飛び込んでいた。

*****

 ひと月も経たない内になまえの旅支度はすっかり整っていた。とは言っても例の弟子の実家も都の中にあり、牛車を使えば半刻の内に着いてしまう。
 牛車が麻倉邸を出る直前、見送りの葉王と窓越しに言葉を交わした。

「全ての準備ができ次第、迎えに行くよ。それまで待っていてくれるかい?」
「ええ、いつまでも」

 そうしてなまえは葉王の元を離れたのだった。
 別れの挨拶は必要なかった。必ずまた会えると、信じていたから。







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