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突拍子もない出会いを果たした次の日、裕次郎は普段と同じように授業を受け、部活に参加していた。唯1つ違う事は、彼がその全てに集中出来ていない事だ。彼は携帯電話を見ては「あーーー!」と奇声を上げかぶりを振る、を繰り返しているのだった。
「……良い加減にしなさいよ、甲斐くん」
見兼ねた木手が彼をたしなめる。部活中の裕次郎は電話こそ手にしていないものの、どこか上の空だった。部長としても幼馴染みとしても、これじゃあ堪ったものではない。
「えーしろー……」
「全国もまだ決まってないのにこの様子じゃ、余程ゴーヤが食べたいと」
「ゴーヤは勘弁!」
木手の出す脅しにも近い言葉の前に一度は背筋が伸びるものの、数秒で裕次郎の顔は曇ってしまう。何を言っても無駄だと悟った木手は、それならば聞いてやるしかないと溜め息をつくのだった。
「昨日何があったのですか」
昨日の部活動まではいつも通り、少し鬱陶しいくらい元気だったのだ。何かあったとしたら彼と別れた後だろう。
眼鏡の奥に光る冷酷なまでの鋭さが柔らかくなる。滅多に見せない木手の優しさに、裕次郎は全てを話さずにはいられなかった。
昨日出会った少女の事、
彼女がどうしても忘れられない事、
なのに彼女の名前と年齢以外、何も知らない事。
どうせ兄と喧嘩でもしたのだろうとあたりを付けていただけに、木手にとってこれは予想だにしない話だった。
「こんな気持ちになるなら、連絡先ぐらい聞いておけば良かったさ……」
「……何を悩んでいるかと思えば、下らない」
「下らないとは何ばぁよ! わんは真剣に……!」
頭に血が上って裕次郎は相手に詰め寄った。なのに向こうは怯みもせず、さっきまでの優しさが嘘のように厳しい眼光でこちらを貫いてくる。
「イナグひとりでうだうだ悩んでいるようでは、全国なんて到底行けませんよ」
けれど彼の言う事は尤も過ぎて、裕次郎は次に繋げる言葉を失ってしまった。自分でも分かっているのだ。情けねーらんのはわんの方さ。
どうしようもなくなって、畳み掛けるように涙腺が緩むのを感じた。だめだ、ここで泣いてしまっては本当にかっこわるいと歯を食いしばる。すると木手はもう一度大きな溜め息をついたのだった。
「連絡先が分からないなら分からないなりに、ホテルを探し回るくらいの根性見せなさいよ。出来ないならその程度の気持ちだと言う事です」
「……永四朗!」
目から鱗が落ちる思いだった。目先の後悔に頭がいっぱいで、そんな事思いつきもしなかったのだ。
裕次郎の表情に生気が戻ったのを見ただけで、木手は悟ったようだった。
「ただし、部活が終わってからにしなさいよ」
「にふぇーでーびる!」
満面の笑みで礼を言う幼馴染みに木手は何も言わず、ただ無言で眼鏡を上げるだけだった。
*****
夜
修学旅行2日目を終えたなまえは、ホテルの部屋で友人が運んでくるお菓子とジュースを待っているところだった。
昨日はあれから学校が定めた集合時間と場所に着くまで、友人達と合流する事はなかった。彼女らの悪戯に腹を立てたなまえだったが、結局好物のお菓子とジュースを買ってきてもらう事で手を打ったのだ。
布団を敷いた4人部屋も、誰もいなければとても静かだ。優先的に決めた自分の布団に寝転んでなまえは携帯電話を見つめていた。ディスプレイに映るのは、昨日不意打ちで撮られた写真。色黒の少年が人懐っこい笑みを浮かべている横で、なまえはきょとんと間抜けな顔をしている。普段ならこんな写真すぐに消してしまうのに。そんな事が気にならないほど、彼女の頭の中は少年でいっぱいだった。
……甲斐くん、今頃何してるのかな。
本当はすぐにでもメッセージ画面を起動させて、どうしているか聞きたい。けれど交換していない連絡先が見付かるはずなくて、その度になまえは電話を消しては付けてを繰り返すのだ。
「あーもう、やめやめ!」
電話の画面を乱暴に切って枕元に放り投げた。吊り橋効果ってやつでしょ、と呟く。知らない土地でひとりになって、そのドキドキを彼に対するドキドキだと勘違いしてるんだ。きっとこの旅行が終わっていつもの生活に戻ったら、昨日の事は思い出に変わるはず。
そうだよなまえ、連絡先なんて逆に聞かなくて良かったじゃん。そう自分に言い聞かせると、胸のあたりが軽くなったような気がした。
そんな時だ。ノックもせずに部屋の扉が開けられ、なだれ込むように友人が入ってきたのは。
「なまえ、ちょっと来て!」
「え、何ー?」
「良いから!!」
有無を言わさず腕を引っ張られ、ホテルのスリッパに足を入れる。ロビーまで連れて来られると、なまえを待っていたのは他でもない裕次郎だった。
*****
ホテルの近く、海岸沿いの道を裕次郎は歩いていた。繁華街から遠いので喧騒はなく、夜風が頬に当たって気持ちいい。けれど、
(「……パジャマやし」)
2歩の距離を保って着いてくるなまえを意識すると、身体の芯がむずがゆくなって、夜風じゃ誤摩化しきれないくらい頬が火照ってしまう。
「こんな遅い時間やしが、悪いな」
そんな自分を隠すように、裕次郎は唐突に口を開く。「大丈夫」と短い返事が聞こえた。
「それよりびっくりしちゃったよ。私ホテル教えたっけ?」
「いや。くぬ辺りのホテル全部回ったばーよ」
「え、えぇ!?」
「おかげでこんな遅くまでかかったやしがな」
へへ、と照れ隠しの笑みが自然に漏れる。横を見るフリをしてなまえを見たけれど、前髪が邪魔で何も見えない。仕方なしに、帽子を被り直すついでに彼女を盗み見た。目を丸くしている姿に「してやったり」と鼻が高い。
しばらく海岸沿いを歩いた後は、舗装された道路から外れて草の生える小道を進んで行く。何も告げずに連れ出してしまって不安がらせていないかと頭をよぎったけれど、後に訪れる驚きを優先したくて黙ったままだ。
やがて裕次郎がなまえを連れてきたのは小さな入り江だった。
「着いたさー」
「う、わぁ……!」
あれよ、と夜空を指差すとなまえが息を呑むのが分かった。星が瞬きがあふれんばかりに夜空を彩っていて、波もない海にそっくり写し出されている。宇宙の中に立っているみたいさ、と裕次郎は内心呟いた。
「くぬ景色は誰にも見してねーらん、わんぬ秘密ぬ場所やし」
座りよ、と促して先に腰を下ろす。昼間の熱が残っているのか、砂浜は仄かに暖かかった。人ひとり分の距離を空けてなまえも裕次郎に倣う。腕を伸ばせば届きそうな距離だ。
それから2人、会話はない。裕次郎は考えていた。自分はなまえをここに連れて来て何がしたかったのだろう。彼女を忘れられない理由が、もう一度会えば分かる気がしていた。けれど答えは未だ見付からない。頭の片隅をちらつく2文字の感情とはまた違う気がして、心の奥をむずがゆくするこの気持ちににまだ名前は付けられなかった。
「昨日と今日、本当に楽しかった! 沖縄って良い場所だね」
最初に口を開いたのはなまえだった。目線を星に向けたまま、心底楽しそうにしている。そんな彼女から目が離せなかった。
「おう、当たり前やっさ」
「ハンバーガーも美味しかったし」
「わんのいち押しさー」
「シーサーが買えなかったのは、ちょっと残念だけど」
「あんなん、買う理由がじゅんに分からんど」
「首里城綺麗だったね!」
「やーの間抜けな顔ぬ方が忘れきらん」
「甲斐くんが勝手に撮ったんでしょ!?」
もー! と口をへの字に曲げて不服そうな顔をされる。目が合って、同時に吹き出した。腹を抱えて笑う。勢いのまま寝転ぶと、星空が視界を占領した。2人の真上で並ぶ2つの星が印象的だ。あの星と同じくらい、近くにいられたら良いのに。なんて言葉にしたら、彼女は頷いてくれるだろうか。
「……私ね、明日、帰るんだ」
「で、あるな。やーぬ友達に聞いた」
「お昼のフライト、確か1時だったかな」
そうか、とだけ答えて裕次郎は次に繋げる言葉を探したけれど、ついぞ見付かる事はなかった。
*****
どれだけ時間が経ったのだろうか。暖かい沖縄の地でも、夜になれば流石に冷える。寒くなってきたとなまえが身体を縮めると同時に、「帰るか」と言って裕次郎は立ち上がった。もうちょっとここにいたいけれど……そんな事言えずに、なまえもその場を後にする。
ホテルまでは思っていた以上にあっという間だった。後少しで入り口と言うところでなまえは裕次郎に向き直り、ここまでで良いと態度で示す。
「送ってくれてありがとう。もう夜も遅いけど、甲斐くんは大丈夫なの?」
「よくある事やし、なんくるないさー」
抜けた調子の沖縄弁を聞いたら、笑みは自然にこぼれてしまった。
ホテルに入らなければいけないのに、身体が固まってそうさせてくれない。ここだと先生にも見付かりやすいし早くしなくちゃ、と思えば思うほど石になったように言う事を聞かないのだ。
「あい、そうやっさ」
そうこうしている内に裕次郎は自身の懐をまさぐり始めた。取り出したのは携帯電話で、なまえの心臓はどきりと跳ね上がる。
「番号、教えれー」
はにかみながら、裕次郎は光る端末を操作している。ポケットに入れた自身の電話を痛いくらいに握りしめて、なまえは一言しぼりだした。
「…………ごめん。携帯、部屋に忘れて来ちゃった」
本当は教えたい、けど。
自分は明日、飛行機に乗ってこの地を離れてしまうのだ。なまえにとって沖縄は途方もなく遠い場所だし、先が見えない苦しい恋愛なんて耐えられなかった。
もし甲斐くんが他の女の子を好きになったら?
高校生だなんて、おばさんだって思われたら?――考えれば考えるほど、怖くてたまらない。
好きになっちゃだめ。忘れるの。自身に言い聞かせて、なんとか手を離す。じんじんと痛むのが掌なのか心なのか、なまえには分からなかった。
彼女の真意を悟ったのか否か、裕次郎は眉尻を下げて残念そうに笑う。けれど気を取り直して、鞄からノートを取り出すとページを1枚ちぎった。
「これ、わんの番号さ。部屋についたら電話くれよ」
「分かった。……それじゃあ」
おやすみ、甲斐くん。さよなら。
それだけ続けて、なまえは逃げるようにホテルへ入った。自室に入って、携帯電話を乱暴にベットへ放る。そして友人の声も無視して無理矢理眠りについたのだった。
*****
夜が明けて、裕次郎は寝不足の頭を抱えてベッドから這い出る。一晩中電話を見つめていたけれど、なまえからの連絡は来なかった。
当たり前やっし。自分のどこか冷静な部分が彼に語りかける。彼女にとって自分は、たった1日一緒に過ごしただけの現地ガイドみたいなものなのだ。誰がこんな中学生のガキ、相手にするか。
支度をして、邪念を振り払うように思い切り玄関を開けた。見上げれば沖縄の空は今日も快晴だ。いつものように学校へ行き、授業を受けてテニスをして、帰りは寄り道しよう。まだ小遣いに余裕があるし、バーガーショップで一番大きなものを頼んでやる。
〝「ハンバーガーも美味しかったし」〟
「――!?」
何気ない単語に引きずられるようになまえの顔を思い出した。裕次郎がすすめた物を美味しそうに頬張る姿はとても年上には見えず、妙に目が離せなかったのが忘れられない。
歩き始めると道ばたにシーサーの置物があった。いつも通る道にある見慣れた物なのに、今度は土産屋で真剣に悩む姿を思い出してしまう。
〝「えこれ超可愛い! 小さいし、お土産に買ってこうかな……?」〟
「……ああ、もう!」
自分自身がじれったくて、裕次郎はかぶりを振る。これから何かを見る度に彼女を思い出す事になるのか。ばかばかしい。なまえとは一昨日あったばかりで、何も知らないのに。でも、
「……そんなの、関係ないさ」
わんにこんな気持ちだけ残して、どっかに行くな。
気が付けば裕次郎は学校なんて忘れ、街に向かって走り出していた。
―――― ……。
走って、電車に飛び乗って、汗だくの裕次郎が向かった先は空港だった。英語のアナウンスが響く中で、大荷物を持った人々が忙しなく歩き回っている。けれど出発ロビーを探し回ってもなまえの姿は見付けられなかった。
時刻はもうすぐ昼過ぎだ。早くしなければなまえが遠くへ行ってしまう。もうゲートをくぐったなんて言う可能性は考えたくもなかった。
この階でないのなら、と裕次郎はエスカレーターを駆け上がる。向かった先はチェックインカウンターで、着くなり彼は唖然としてしまった。高校生くらいの集団がいくつもあり、そのどれもが違う服装をしていたのだ。初めて会った時のなまえの服装がどんなものだったか、必死に頭に思い浮かべるけれどよく思い出せない。制服な気もしたし、私服だった気もした。
こうしている間にも集団は複数のカウンターを利用し、着々とチェックインしている。時計を見ると、フライトの時間まで1時間を切っていた。
あーもう、面倒やっさ!
躍起になった裕次郎は思い切り息を吸い、そして――
「――みょうじなまえーっ!!!」
持てる限りの声量で叫んだのだった。
ざわ
その場にいた全ての人から注目される。視線の痛さに一瞬怯み、己の行動を後悔しそうになった。けれど集団のひとつから「きゃあ!」と黄色い声が上がり、周りに押し出されるようにして現れたのは他でもない、なまえその人だったのだ。
「甲斐くん……?」
「やっと、見付け、た」
最後の力を振り絞ってなまえに近付き、倒れるように彼女を抱きしめた。きゃあ! と再び悲鳴が周りで飛び交う。けれどすぐ近くで聞こえる彼女の呼吸しか、裕次郎の耳に入ってこなかった。
「どうして……」
「くぬままで終わらせたくなかったさ」
なまえの姿を目にした瞬間、小さな肩に触れた瞬間に、心臓のあたりを締める感情の名前は決まっていた。
時間の短さなんて関係ない、彼女を良く知らないなんて関係ない。
「……なまえの事が、じゅんにしちゅんからに」
この気持ちは、恋だ。
「あ、ではなくて、」
しまった、と思った。口をついて出た言葉は沖縄の訛りが強過ぎて、これでは彼女に伝わらないかもしれない。
「わんはなまえの事が好、!」
けれど裕次郎の口を遮ったのはなまえだった。右手で裕次郎の口を抑える彼女の顔は俯いていてよく見えないが、髪の間から見える耳が桃色に染まっている。
「大丈夫だから! さすがに分かるから!」
腕の中で震えるなまえはか弱くていじらしくて、なんだか虐めたくなる。余裕のない相手を前に、むしろ余裕が出てきて裕次郎は両手で彼女の頬を包んだ。そのまま顔を上げさせ、半ば無理矢理目線を合わせる。伏し目がちな瞳は潤んでいた。
「返事、聞かせてくれないんど?」
「……ばか」
折角諦めようと思ったのに。その言葉と共に、なまえは堪えきれず涙を流した。予想外の事に裕次郎は慌てふためき、掌で不器用になまえの頬を拭う。元々女の子の涙が苦手なのに、それが好きな子となってはどうしたら良いか分からなかった。
「ぬーやるばーがよなまえ!? 泣き止んでくれやっし!」
「うー〜〜〜……甲斐くんのばかぁ!」
私も、甲斐くんの事が好き。
小さな声で呟かれた言葉に、びっくりして涙を拭う事すら忘れてしまいそうだった。目の前で泣きながら好きだと言ってくれる少女がただただ愛おしくて、胸が詰まる。時間も音も止まって、2人の世界を作ってくれている気さえした。
しかしものの2秒後には野次馬と化した周囲の人間が歓声を上げ、2人は自分たちがどこにいるのか思い出すである。
*****
夏が来た。
なまえはひとり、東京の空港でその時を待っていた。
『今は離れるやしが、すぐに会える。夏になったら全国で東京に行くやし、応援に来て欲しいさ』
2ヶ月前の別れ際の言葉通り、裕次郎の属する比嘉中テニス部は全国大会へ駒を進めたらしい。今日は彼らが上京する日で、なまえは到着ゲートの前で今か今かと待ち続けていた。大きな荷物を抱える人々の中に、太陽のようなあの髪はまだ見付からない。
まだかな。
時刻を確認する為に携帯電話を取り出す。待ち受け画面はあの日、首里城で撮った2人の写真だ。待ち受けだけではない、通話の履歴もメッセージの送受信歴も〝甲斐裕次郎〟の字でいっぱいだった。
不安だった飛行機の距離も、歳の差も、踏み出してしまえばなんて事はなかった。毎日重ねるメールと3日に1回の電話でいつも彼の顔を思い浮かべて、気が付いたら2ヶ月が経っていたのだ。
電話の画面をそっと撫でる。眩しい笑顔を浮かべる裕次郎にどうしても胸が躍った。もうすぐ彼に会えるんだ。嬉しくて、ふふ、とこぼれる笑みを我慢出来ずにいた、その時、
「なまえーっ!」
電話越しで何度も聞いた、男の子にしては少し高めの声が、聞こえた。
「裕次郎くん!」
人ごみに逆らって走り出す。広げられた褐色の腕に自ら飛び込んで行くと、潮の香りがなまえを包み込んだのだった。