5歩、3メートル。
例年通り桜が咲き誇る春だった。
ようやく着慣れてきた制服にくたびれてきた通学鞄、髪型だけは春休みの間に整えて、ちょっぴり新しい自分がなんだかくすぐったい。切られ過ぎた前髪をいじりながら青春台の駅を出ると、通学路は卒業した先輩がいない分静かだった。なんせ入学式は明日で、今日は始業式だけだから。去年の私は初めての革靴が痛くて、でもそれ以上に緊張と不安で頭が真っ白だったけど、今日は大丈夫。
なんて言ったって私、みょうじなまえは今日から中学2年生なのだ。
学校に着いてまず目指したのは校舎の外に張り出されたクラス表だ。昨夜に友達と「クラス、離れないと良いね」と電話越しに話した余韻が引いているのか、胸の奥がざわついている。
集まる生徒の間をなんとか潜って最前列に辿り着く。2年1組から順に確認して……見付けた。私はどうやら4組みたい。すぐ下に親友の名前もあって、今度は嬉しさで胸が弾んだ。早く伝えなきゃ。
私は勢いよく振り返った。……のが、いけなかったのかもしれない。
「――うわっ」
「きゃっ!?」
周りに人がたくさんいるなんてすっかり忘れて、すぐ後ろの人物にぶつかってしまったのだ。下を向いていたのでとっさに顔を確認できなかったけれど、視界を埋める学ランの生地が男の子だと教えてくれた。
「ごめんなさ、い……!?」
咄嗟に謝って、そこでやっと相手の顔に目を向ける。するとそこにいたのは思いもよらない人物だった。そんな、だって彼は……――
「え、越前くん!?」
「……なに?」
寸頓狂な声で名前を呼ぶと、帰ってきたのは気怠げな声だった。眉を顰める表情が「なんだこいつ」と言葉もなく語りかけてくる。その顔を見て私は我に帰った。
「あ、ごめん。アメリカに行ったって聞いたから……」
おずおず思ったままを話したら、今度は大きく溜め息を吐かれた。気分を悪くさせちゃったかなと焦っていると、予想通り越前くんはツンとした表情で口を開く。
「大袈裟なんだよね、みんな。わざわざこっちの中学に通い始めて、すぐ向こうに戻るわけないじゃん」
越前くんの言いたい事がいまいち分からなくて首を傾げる。すると彼は小さな溜め息を吐き、一歩踏み出した。すれ違い様、呆れたような言葉が添えて。
「大会で一時渡米してただけ」
そんな事も分からないなんて、馬鹿だね。と言われている気がして、なんだかとても恥ずかしかった。
気を取り直して、クラス表の前を離れて下駄箱へ向かう。靴を変えて、初めて足を踏み入れる2年生の廊下は意外にも変わり映えしなかった。教室に入ると真ん中辺りの席で手を振る友人の姿を見付ける。
「おはよう」
「おはよう、なまえ! 同じクラスだね」
「ねー!」
なまえの席、私の前みたいだよ。と黒板を指される。またもや張り出された表には座席と同じ数のマス目と、それぞれ中に出席番号と名前が書かれていた。真ん中の列、後ろから2番目のこの席は、先生の目につきやすそうで少しだけ残念だ。
「おーい、席につけー」
間延びした声と共に先生が教室に入ってきて、騒がしかった教室が静かになる。先生が色々と話し始めたので、手持ち無沙汰になって教室を見渡した。去年のクラスメートは2、3人で、あとは……
「(……越前くんだ)」
2つ隣の列の1つ前の席座っていたのは、さっき校庭で見た人物だった。ぶつかってしまった上にため息を2回もつかれた事を思い出す。恥ずかしさがフラッシュバックして慌てて目を逸らすけれど、しばらくしない内に視線は元に戻った。誰にも気付かれませんように、と心の中で祈る。
越前くんは頬杖をついてウトウトしていた。……やっぱりかっこいいな。
越前くんとは去年は違うクラスだったけれど、委員会が一緒だった。でもそれだけじゃなくて、彼はクラス問わず女子の間でよく話題に上がるのだ。1年生の仮入部の期間からテニス部でレギュラーに抜擢されて、去年の全国大会優勝も越前くんのおかげだって言う噂だって聞いた。そんな事もあって、みんなの意見は「顔はかっこいいしクールなとこも素敵」だったり、「ツンケンしててちょっと怖い」だったりで、ちなみに私は前者だったり。
だからアメリカに行ったって聞いた時はびっくりして、その後委員会で姿を見なくなったから、てっきり転校したのだと思っていた。
別に好きとか、恋してるとか、そんなんじゃない。ただなんとなくファンで、憧れなだけ。だから引っ越していないと分かって、しかも同じクラスだなんて、正直嬉しかった。
*****
始業式が終わって体育館から戻ってくると、続いてホームルームが始まった。担任の先生の自己紹介が終わって今度は生徒の番だ。出席番号1番の人が終わると、2番目が越前くんだった。
「越前リョーマ、テニス部っす」
そっけなくそれだけ言ってすぐに座る様子に、数列向こうから茶々が入る。あの距離で何か言うなんて、仲が良いんだろうな。同じテニス部なのかな。
そうこうしている内に私の出番が回ってきた。小学生の頃から毎年のようにしてきた事だけれど、やっぱり緊張する。
「みょうじなまえです。えっと、部活には特に入っていなくて、趣味は読書と散歩です。よろしくお願いします」
先に終わらせた人達の真似をして無難に終わらせる。感じ悪くなかったかな? と心の中で反省するのも毎年の事だった。
それからも自己紹介は進み、最後の生徒が座ってから先生が教壇に立つ。これから学級委員を決めるらしい。意外にもスムーズに決まって、その人達を中心に他の委員会や教科係が決められる。
「では次に図書委員、誰か立候補者はいませんか?」
静かな教室に声を出す人はいない。みんなが黒板から目を逸らす中、私はこっそり深呼吸してから手を挙げた。
「えーっと、」
「みょうじです」
「みょうじさんだね、ごめんごめん。他に立候補者がいなければ、女子の図書委員はみょうじさんになります」
特に反論もなく、教室の空気はむしろ安堵した様子だった。図書委員は地味な割に書庫整理だったり図書当番だったりと仕事が多くて、人気がないから無理もない。私としては静かな空間で本も読み放題だから、好きな役職なんだけどな。
「では次に男子。男子で図書委員に入りたい人はいませんか?」
少し気まずい沈黙が再び訪れる。見かねた先生が口を開いた。
「このままだと決まっていない男子でジャンケンだな。もしくは……去年やっていたやつ、誰かいないのか?」
「はいはーい! 越前が去年やってました!」
自己紹介の時に越前くんに茶々を入れた男の子が元気よく答えた。えっと、確か堀尾くんだっけ。
「経験者は越前だけか。おーい越前、他にやりたい事がなければ是非……って、寝てやがる」
呆れる先生の様子に教室中からクスクスと笑いが漏れる。もういい、とだけ言って、先生は黒板の図書委員という字の隣に越前リョーマと書いた。
「居眠りしている奴の意見なんぞ知らん」
また同じ委員会に入れるなんて。
再び起こる笑いの中、私の心は思わぬ幸運にドキドキしていた。
それからクラスの役職が全て決まり、タイミング良くチャイムが鳴る。先生によると、今日はこれから委員会の顔合わせに行かなければいけないらしい。
後ろから肩を叩かれて、友人に待っていようかと確認される。いつもなら先に帰ってと言うところだけど、今日はきっと時間もかからないだろうしそうしてもらう事にした。
「遅くなりそうだったら連絡するね」
「おっけー」
席を立って、鞄を持つ。斜め前の席が気になって目線を送ると、越前くんの元へ堀尾くんが近寄っていた。
「おい越前! お前これから委員会だからな!」
「……何それ」
「越前が寝てたから、俺が代わりに推薦しといてやったぜ!」
「はぁ!?」
「先生も“居眠りしている奴に拒否権はない!”ってノリノリだったし」
いかにも不満そうな越前くんと、全く物怖じしない堀尾くんは見ているこっちが面白く感じてしまう。でもあまりじっと見ていたら失礼だし、先に図書室に向かおうかと教室を出ようとした時だ。
堀尾くんが私の事を指さしたのだ。
「あ、ほら! あの子も越前と同じ、図書委員だぜ」
注目される居心地の悪さを感じつつ、無視するわけにもいかないので2人の所まで行く。かと言って何も言う事がないし、越前くんに「またこいつか」と思われる前に、今朝の事を謝らなくちゃ。
「今朝はごめんね」
「……誰?」
怪訝そうな顔は今朝と全く同じで、つまり越前くんは私と初対面だと思っているらしかった。寂しいような、失態を忘れてくれてホッとするような複雑な気持ちだ。
「同じ委員会のみょうじです」
「……ふーん」
ぶっきりぼうな返事だけして、越前くんは教室の外に向かって歩き出す。扉から片足だけ踏み出したところで、微動だにしない私が気が付いたらしい。
「なに?」
いや、「なに?」って聞きたいのはこっちなんだけどな……。なんて思ったけれど、口にするのも躊躇って黙り込む。職員室に抗議でもしに行くのかな。それともサボって部活に言っちゃうとか? なんて考えていると、越前くんはじれったそうに口を開いた。
「委員会」
「え?」
「だから、委員会。行かないの?」
それだけ続けて、越前くんは教室を出る。止まっていた私の思考も動き出して、慌てて越前くんを追いかけた。
「い、行く!」
速足の越前くんの隣に並ぶのは気が引けて斜め後ろの距離を保つ。会話はなかった。
「あ、」
もう図書室に着くかなって頃、越前くんは唐突に立ち止まった。びっくりして後ろからそっと覗き込む。三白眼の瞳は意外にも私に向けられていた。
「アンタ、去年も図書委員じゃなかった?」
心臓が高鳴る。私すごく地味なのに、部活もクラスさえ違って、図書委員も他にたくさんいるのに。それなのに、私の事、
「……覚えてて、くれてたんだ」
「今思い出した。今年もやるなんて、みょうじも物好きだね」
越前くんは相変わらずクールなポーカーフェイスだけど、心なしか満足気にも見えた。なんだか可愛くて、覚えてくれていた嬉しさも相まって、喉の奥が詰まるような感情が沸き上がる。
「あの、越前くん!」
仲良くなりたいと思った。気付けば名前を呼んでいた。けれど気持ちばかりが先立って身体は逆に動かない。下校する生徒と部活や委員会に向かう生徒で廊下はあふれかえっているのに、私達の周りだけやけに静かに感じられた。
「1年間、よろしくね!」
ほんの少しだけど、越前くんの口元が緩められる。勝ち気な瞳が少し下がって、とても優しい顔をした。
「……ヨロシク」
初めて見た越前くんの笑顔はとても貴重な気がして、なんだか心がむずがゆかった。