ひじとひじの間、30センチ。
5月
桜も散り、木々が薄緑の衣を纏ってから何日かが過ぎた。周りの大人に「中学2年生です」と名乗るのにもようやく違和感がなくなった今日この頃……――
私は教室で、ひとり気力を出し切って座り込んでいた。今さっき中間テストが終わったのだ。
「なまえ、どうだった?」
いつものように肩を叩かれ、後ろの席に座る友人の方を振り返る。彼女も決して“晴れた顔”とは言えず、私は苦笑するしかなかった。
「びみょー……」
「私もびみょー……」
あはは、と揃って乾いた笑みを浮かべる。テスト週間中一応は勉強していたけれど、だからと言って苦手な数学がすぐ得意になる訳ではない。それに2年生に入って授業の内容もかなり難しくなった気がするのだ。
「……つ、次のホームルームは席替えだね!」
悩むのはやめやめ! テストの余韻を振り払うよう、私はわざとらしく声を張り上げた。もう終わった事は忘れよう。すると彼女も同じ気持ちだったのか、顔を明るくして大きく頷く。
「うん、席近くなると良いね!」
なんて会話をしていたら、短い休み時間はあっという間に過ぎていった。
そして席替えは担任の先生が用意してくれたくじ引きを使って行われた。私は引いた紙を恐る恐る開き、黒板に書かれた表の番号と照らし合わせる。番号は4番……廊下側の前から4番目の席だ。授業中にぼーっとしていても目立たない席が当たって、思わず胸を撫で下ろした。けれど友人とは離れてしまって、それだけが残念。
新しい席に移動すると、前の子はあまり話した事のない女の子で、隣はなんと越前くんだった。しかも越前くんの前には堀尾くんまでいる。
「お、越前が後ろだな!」
「げ、堀尾……」
「なんだよう、嬉しいくせに!」
親しげに越前くんの肩をたたき、堀尾くんは屈託なく笑う。対照的に越前くんは珍しく露骨にげんなりとしていた。
そんな2人が面白くて、気付けば私は笑い声を漏らしていた。すると堀尾くんがこちらを見る。一気に気まずくなって、私は笑いを引っ込めた。
「えっと、みょうじさんだっけ? これからよろしくな!」
けれど返ってきたのは友好的な言葉だった。堀尾くんって良い人だな、と安心しながら私は頷く。
「うん、よろしく。2人とも仲が良いんだね」
「同じテニス部だからな!」
「どこが? コイツが勝手に話しかけてくるだけ」
2人のタイミングは全く同じだった。なのに言っている事は正反対で、しかも互いの言葉が意外だったのか顔を見合わせている。漫才でも見ている気分になって、私は今度こそ声を上げて笑ってしまった。
*****
テストの次の日から授業は通常通りに戻る。昨日までの引き締まった空気が嘘のようにいつも通りの朝だった。
登校すると、教室は朝練を終えた子達で既に賑わっていた。越前くんの姿ももちろんあって、運動してきたはずなのにまだ眠たそうにあくびをしている。同じく朝練があったはずの堀尾くんは何故かいなくて、私の前の席の子もまだ登校していないみたい。
「お、おおはよう、越前くん」
しまった。ふたりっきりだからって、緊張してとても不自然な挨拶になってしまった。だって昨日は思いがけず話が弾んだけれど、それだって堀尾くんがいたからだし、そもそも今まで話した事のない相手だし……。馴れ馴れしいと思われたらどうしようだとか、でも隣なのに無視して席に座るのも、だとか考えている内に舌が思うように回らなかったのだ。
越前くんクールだし、無視されたらどうしよう!?
「おはよ」
……なんて考えは杞憂だったみたい。短い挨拶は掠れ気味のボーイソプラノで帰ってきた。彼から発せられた3文字の言葉が私を酷く安心させる。
私は内心胸を撫で下ろして着席し、それから私たちの間に会話はなかった。そして気まずい朝の時間が10分を過ぎる頃、ようやく始業のチャイムが鳴ったのだった。
1限目は歴史の授業だった。もしかしたらテスト返しと解説だけで1時間つぶれないかなと期待してたんだけど、採点が間に合わなかったのか普通の授業でちょっと退屈だ。
「えー、資料集の25ページを開いて」
指示通り資料集をめくる。先生の話と一致する箇所を探していると、小さく呼ばれた。
「ねえ、」
左を向くと越前くんと一瞬目が合って、彼はすぐに私の資料集に目を向ける。
「悪いんだけど、見せてくんない?」
「うん、良いよ」
2人で見られるように資料集を真ん中に置く。私もよく忘れる、あんまり使わないもんね。と心の中で共感した。
そして先生の説明している箇所がやっと特定出来たところで黒板に目を移す。けれど微かに鼻で笑う声が聞こえて、すぐに目線を横に戻した。越前くんはどこか意地悪な、挑発的な笑みを浮かべている。
「なに、これ?」
彼の指がトントンと資料集を叩いた。指先にはヒゲときらびやかなドレスが書き足された歴史の偉人の写真がある。
身体が固まって、すぐに顔に熱が集まった。前回の授業で落書きしたの、すっかり忘れてた……!
「これはその、違くて、たまたまで!」
そう、たまたまこのおじさんにはひげが生えてる方が似合うなって思っちゃって、たまたま隣のページのドレスが上手く書き写せただけで、普段はまじめに授業を受けている。
授業態度が不真面目だと思われたんじゃないかという不安と、誰にも見せるつもりのなかった落書きを見られたという恥ずかしさが心の中でせめぎあった。急いで筆箱の中を漁るけれど、今日に限って消しゴムが見当たらない。
「良いんじゃない? 俺の織田信長もロン毛だし」
だから消す必要なんてないと思うけど。と続けた越前くんの顔は、よく見れば意地悪とはちょっと違う、優しい顔だった。目尻が少し下がって、猫みたいな丸い目が細くなっている。心のどこかでまだ「近寄りがたい」と思っていた彼が一気に身近に感じられた。
「本当に?」
「嘘言ってもしょうがない」
「じゃあ見せて」
ロン毛織田信長を見るため、越前くんの教科書に手を伸ばす。すかさず右手でカバーされて、その隙に彼の教科書が閉じられた。
「やだ」
「……けち」
ムキになってむくれると、越前くんは呆れたようにそっぽを向いた。こっちを見ていないならバレないかもと思ってもう一度手を伸ばす。見られてないはずなのに、いとも簡単に肘でブロックされた。
「――こらこそ! 授業中に遊ばない!」
教室中に響き渡る先生の声に、びっくりして前を向く。先生はまっすぐ私達を見ていて、周りの子もくすくす笑っていた。
「……ごめんなさい」
顔から火が出るんじゃないかってくらい恥ずかしくて、隠れるように下を向く。それから授業が終わるまでの30分、私は顔を上げる事ができなかった。