椅子1つ分の空間、40センチ。


 その日も授業が終わり、私は帰り支度を整えていた。教科書を鞄に詰め、忘れ物がないか確認してからひとりで教室を出る。友人が日直だから、終わるまで図書室で待っている事にしたのだ。

 図書室がある校舎までは渡り廊下を進まなければいけない。途中でテニスコートが見えて、子気味の良いインパクト音と部員のかけ声がこちらまで聞こえてきた。その中に見知った顔を見付ける。仮入部の1年生の前で堀尾くんが胸を張り、何かの説明をしているようだった。内容までは聞こえないけれど、先輩風を吹かせているんだろうなって事は見て取れる。偉そうな仕草なのに剽軽で嫌みっぽくないのが彼らしくて、微笑まずにはいられなかった。
 すぐ傍のコートでは越前くんが練習をしている。大勢の後輩に見られているのも厭わず、ボールを放ってラケットに当てた。流れるようなサーブは溜め息が出るくらい綺麗だったのに、反して越前くんは「げっ」と顔を歪める。
……あんなに綺麗だったのに、あれじゃだめなんだ。テニスのルールなんて知らないからこそ、私は不思議で堪らなかった。

 図書室は退屈な顔をした図書委員と、真剣な目で勉強をする生徒数人が静かな空間を作り出していた。みんなの邪魔をしないように私も息をひそめ、隅の席に鞄を置く。そして今朝読み終わった文庫本を取り出してカウンターに向かった。
 返却手続きを済ませたら、隣にある新書コーナーに目を移す。一通りタイトルをなぞったけど、特に惹かれるものはなかった。
 ふと思い立って、その場を離れる。向かった先はスポーツの専門書があるコーナーで、数冊の間で迷った挙句“イチから始める硬式テニス”と言う本を手に席へ戻った。さっき越前くんが見せたあの表情の理由が気になったのだ。

 指南書を読み始めてもその理由は分からなかった。サーブやレシーブなど基本的なルールを確認しても彼のプレーの何がいけなかったのかピンと来なかったし、むしろ理想のフォームと書かかれた図と彼の動きは似ていて感心してしまったくらいだ。もしかしたらもっと細かいところに理由があるのかもしれないと思い、私は再びカウンターを訪れる。続きは帰ってから読もう。

 貸し出しの手続きを済ませ、本を鞄に入れたところで友人が図書室に入ってきた。完璧なタイミングに驚きながらもそのまま図書室を出る。彼女とおしゃべりをしながら靴箱へ向かう途中、再びテニスコートが目に入る。部員全員が走り込みをしている中で、先頭集団を率いる越前くんの姿が無意識に目に焼きついた。

*****

 運動部の喧騒が微かに聞こえる図書室、そのカウンターで私はひとり図書カードの整理をしていた。今日は図書当番の日なのだ。当番の委員は返却手続きをするだけでなく、こうして貸出カードの整理や本棚の清掃など様々な事をする。一見地味で面倒な作業だけれど、静かな空間で黙々とこなすこの時間が私は好きだった。

 切りの良いところでひとつ伸びをし、窓の外を見る。図書室は最上階にある為、校舎の外がぐるりと見渡せた。私の視線はテニスコートに向かう。
 初めてテニスに興味をもってから、今日で丁度1ヶ月……あの時借りた本は最後のページまで読んだけれど、越前くんのあの顔の理由は分からず仕舞いだ。おかげで気になって仕方なくて、こうして図書室でテニス部の様子を見る事が習慣になりつつあった。
 本当は隣の席なんだし、直接聞けば良いんだけど……。きっかけもないのに突然テニスの話題を振る勇気なんてない。

「……あれ?」

 テニス部の部員達は素振りをしたり、コートに入って球を打ち合ったりしている。けれどその中のどこにも、真っ白な帽子を被った姿がなかったのだ。今日は帽子被ってないのかな? と思って、鮮やかなレギュラージャージを着た人の顔を一人ひとり確認する。しかしそのどれも越前くんではなかった。
 授業には出ていたし、今日は登校しているのに、おかしいな……と戸惑っていたその時、あまり開かれない図書室の扉が音を立てた。反射的にそちらを見ると、この場にはそぐわない白と青と赤の姿があった。

「あれ、越前くん?」

 それは青学名物のレギュラージャージを着て、帽子まで被ったままの越前くんだったのだ。弾んだ息を整えながら貸出カウンターに入り、私の隣に座る。帽子を取って鍔の部分をつかみ、顔に風を送っていた。

「どうしたの、急に?」
「急じゃない」

 顔は正面に固定したまま、俯き加減の彼の声が堅い。機嫌が悪いのは明らかだった。4月の頃の彼が脳裏に甦る。少し、恐い。

「今日、俺も図書当番だよね」
「私もだから、そうだね」
「さっきまで忘れてた。誰かさんは教えてくれないし」
「来たくないかなって思って」
「面倒だけど、後で怒られる」
「先生には上手く言っておこうと思ってたよ」
「そういうの、良いから」

 矢継ぎ早に返される言葉がちくりちくりと私を刺す。それだけの事を彼にしてしまったのだと、ただただ申し訳なくて落ち込んでしまった。きっと私が彼だったら、お前は図書室にふさわしくないんだ、って拒絶されていると思うもの。

「……ごめん」
「別に。元々は俺が忘れていたのがいけないんだし」
「でも、ごめんね」

 余計な気を回しちゃったな。なんて思っていたら、口が勝手に動いていた。

「きっとここにいるよりテニスコートにいた方が楽しいだろうし、何より越前くんのそんな姿を私が見たかったの。テニスコートって、ここからよく見えるんだよ」

 なんて事を一気に言ってから、しまったと口をつぐむ。見ていなかったなんて恥ずかしいし、それにストーカーみたいで気持ち悪いって思われたらどうしよう……。考え事をしている最中や慌てた時、思った事すぐを口に出してしまうのは私の悪い癖だった。
 けれど私の心配を他所に、越前くんは顔を歪めるでもなく目を丸くする。

「みょうじってさ、」

 次に繋げる言葉を探す彼に向かって、私は首を傾げる。やっぱり余計な事を言ってしまったのかもしれない。

「……なんでもない」

 越前くんは大きな溜め息を吐く。今度は呆れされてしまったらしい。私は自分が情けなく感じて何も言えずにいた。

「図書委員の先生、名前、なんだっけ」
「浅野先生の事?」
「そう、それ。浅野先生と竜崎先生が仲良いらしくて。図書委員サボったりすると竜崎先生に怒られるんだよね。一度そこから手塚元部長にも怒られて、散々だった」

 だから、トラウマ。と締める越前くんは、言葉に反して少し機嫌が悪そうでもなく、むしろ去年の事を懐かしんでいるようだった。その様子からもう怒ってないのだと分かるし、それ以上に落ち込んだ私に気を使っているのが伝わってきて、私は胸を撫で下ろすと同時にどうしても嬉しく感じずにはいられない。

 それから私たちの間に会話はなかった。時折利用者が本を借りていく以外に仕事もなく、空中を見つめるだけの時間が過ぎる。
 越前くんが来て30分ほど経ったところで今日の閉館時間が訪れた。もともと放課後は1時間しか開いていないのだ。

「あっ」

 最後に図書室の中を巡回して、誰も残っていない事を確認する。自分たちも出ようと鞄を持ったところで、唐突に中に入っている物を思い出した。借りてた本の返却日、今日だったの忘れてた……!

「どうかした?」
「……越前くんは先に帰って良いよ。鍵は返しておくから」
「だから、そういうのはいらない」

 越前くんは再び目の端を上げる。これ以上彼を不機嫌にしてしまっては明日から教室での居心地が悪過ぎるので、私は渋々鞄に手を入れた。“これ一冊で分かるテニスの全て!”と銘打たれた分厚い本を、テニス部でもない私が彼の前に出すのは気まずい。

「これ、返却日が今日までなの忘れてたの。返してくるから、少しだけ待っててもらっても良いかな?」

 分かった、と頷かれたのを確認して、私はそそくさと返却手続きをした。小走りでスポーツ関連書のコーナーまで行って、分類にそって元の位置に戻す。次に借りようと思っていた本は持たずに急いでカウンターまで戻った。

 あとは図書室を施錠して、鍵も職員室に返してから下校するだけだった。越前くんは歩くのが早くて、私の2歩分前を歩いている。早く部活に戻りたいのだろうと申し訳なくなった。

「さっきの」

 沈黙に息苦しさを感じていたのは私だけではなかったのだろう。先に声を発したのは越前くんの方だった。頑張って歩調を早め、隣に追いつく事で次の言葉を促す。彼の表情は帽子の下に隠れていて上手く見えない。

「テニス、興味あるんだ?」
「最近少しだけ」

 プレイがしたい訳じゃないんだけど、と続けて、とうとうこの機会が来たのだとこの間の出来事を話す。

「この間偶然越前くんの練習見ちゃって、綺麗なフォームなのに不服そうな顔してたからどうしたのかなって気になって本を読み始めたの」

 でもどうしても理由が分からなくって、つい何冊も読んじゃった。
 自虐の意味も込めて苦笑いをしながらそう話すと、彼は眉を寄せながら考え込んでいるようだった。何気ない練習の一時だっただろうし、思い出せないのも無理はない。

「俺、どんな練習してた?」
「サーブじゃないかな。最初の一球だったよ」
「……多分だけど、サービスコートに入ってなかった」
「サービスコート?」

 越前くん曰く、サーブで打った球はサービスコートと言う、相手側のコートの特定の位置に入れなければいけないらしい。その範囲すれすれのところを狙って打ったのに、線一本分外側に行ってしまうのはよくある事なんだとか。

「へえ、テニスって面白いんだね!」

 そんな器用な事が出来るのかと感心してしまった。複雑に見えるルールでもひとつひとつ見ていけば分かりやすくて、なのに立てられる戦略はいくらでもあるみたいだ。

「試合だともっと凄い」

 その時の越前くんはいつもみたいにクールではなく、目がキラキラして楽しそうだった。誰かとの試合を思い出しているのかな。
 部活に入らず何かに一生懸命になった事がない私には眩しくて、思わず眼を細める。

「そうなんだ。……観てみたいな」
「来れば良いじゃん」

 さらりと続けられた言葉の中身は衝撃的なものだった。一瞬何を言われたのか分からなかったくらい驚いたのに、対して越前くんは何でもないように続ける。

「今度大会あるし、観に来れば良い」
「でも、私部外者だし、行っても良いのかな?」
「部外者なら前から来てるから、別に良いんじゃない」

 ふ、と越前くんの口角が微かに上がる。本当に僅かな笑みはいつか朝の挨拶を返してくれた時の表情と被って、不思議と私から不安と言う感情を取り除く。

「行きたい。是非、行かせてもらうね」

 会話がひと段落したところで丁度靴箱まで到着した。私は校門の方へ、彼はテニスコートへ向かう。また明日ねと手を振ると、短い返事が返って来た。そのまま背中を向けて、バカになっちゃった心臓を誤魔化すように早足で歩く。

「……違う違う違う」

 呟いた言葉は、自分の言い聞かせる為の言葉だった。
 越前くんはみんなの注目の的で、アイドルとか、遠い国の人みたいで。今のだって越前くんは誰にでも優しいだけ。大会は誰でも観覧できるって教えてくれただけ。
 ただの憧れなの。好きとか、恋してるとか、そんなんじゃないんだってば。

 春も終わり、夏に向けて暑くなってきた空気が私の前髪を揺らす。熱気に当てられた頬を抑えて、私はそう自分に言い聞かせた。







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