選手席と観客席、2メートル。


 越前くんの言っていたテニスの大会は、6月の土曜日に開催されるらしい。

 当日の朝、私は眠い目をこすりながら支度をしていた。昨夜は着ていく服を慎重に選んでいたら、寝るのが随分遅くなってしまったのだ。スポーツ観戦に行くのだから動きやすい服装をして、髪形もポニーテールにして、出かける前に鏡で全身を確認する。

「どうしたの朝から。珍しいわね」
「うん。ちょっと出かけてくるね」

 からかうお母さんを誤魔化しつつ、玄関の扉を開ける。初夏の日差しが肌に当たってジリジリとした。日焼け止め塗っておいて良かったな。

 昨日調べたところによると、大会は電車で数駅行った場所で開催されているらしい。目的の駅に到着して、そうだ、と思い立ってコンビニに入る。長くなるだろうし、飲み物を買っていかなくちゃ。
 どのメーカーのお茶にするか悩んでいる時、ふと隣の棚が目に入った。冷凍されたスポーツ飲料が並べられている。そのままお邪魔するのも悪いし、これも買っていこう。
 越前くんの分と堀尾くんの分、2本を冷凍庫から取り出す。不公平になっちゃうけど、他に何人いるか分からないし、お小遣いも足りないので仕方がない。

 ペットボトルが3本も入ったビニール袋が全然重たくなくて、そこで初めて、私は自分が思っていたよりも今日を楽しみにしていた事に気付いた。

*****

 大会の会場は市民公園の中にあるテニスコートのようだった。公園の敷地に入るとジャージを着た中学生がたくさんいて、部活に入っていない私はこういう場所に慣れておらず、所在なく辺りを見回す。それでもなんとか声のする方へ歩いて行くと、運よく白と赤と青のジャージを見つけた。青学はコートに整列し、相手校と挨拶をしているところだったのだ。間に合った、と私は胸を撫で下ろす。
 挨拶が終わって最初に試合をする選手以外がフェンスのこちら側に帰って来て、その中に見覚えのある白い帽子を見つけて、声をかけようとした時だった。

「リョーマ様っ! 応援に来ちゃいました!」
「なんだよ小坂田、お前また来たのかよ?」
「補欠の堀尾には関係ないでしょ! 少しはリョーマ様とカチローくんを見習ったらどうなの!?」
「俺はシングルス派だから、今回はカチローに譲ったんだって!」
「あの、リョーマくん、カチローくんも、頑張ってね」
「ありがとう、竜崎さん。荒井先輩の足手纏いにならないと良いんだけど……」
「別に負けても良いんじゃない。そしたら俺まで回ってくるし」
「もー、リョーマくん!」

 越前くんと堀尾くん、他のテニス部員が2人と、同じ2年生の女の子2人が話し始めたのだ。その様子は仲が良さそうで、部外者は部外者でも、本当に何の関係もない人は私だけなのだと気付かされた。

……邪魔しちゃ、悪いよね。
 右手に下げたビニール袋が途端に重く感じる。私は誰にも見つからないよう、観客席の隅に腰を下ろした。試合はもう始まっている。

 試合は青学のストレート勝ちだった。結局越前くんがコートに立つ前に終わってしまったけれど、私はすっかりテニスが好きになっていた。小さな球があんなに早く動いて、しかもそれに追いついてしまうだなんて。
 これから休憩が入って、そのあと決勝戦をするらしい。けれど充分に堪能できたし、これで帰ろうかな。

 テニスコートを離れて、公園を横切って駅まで戻る。ガサリ、ガサリ、持て余していたビニール袋が足の動きに合わせて音を立てた。ペットボトルは半分ほど解凍されて汗をかいている。これ、どうしよう。

「もう帰るの」

 ふいに、声をかけられた。近くに設けられた休憩所に、越前くんがいたのだ。

「俺の試合、まだ観てないじゃん」

 越前くんは飲み終わったジュースの缶を器用にゴミ箱に投げ入れる。そして私の前まで歩いて来ると、右手に下げられたビニール袋を見て「それ」とだけ言った。

「あ、えっと、差し入れ」

 今さっきジュースを1缶飲み終えた人に飲み物の差し入れをするのは気まずくて、私は急いで「いらなかったら、他の人にあげて良いから」と付け加える。すると越前くんはペットボトルをひとつ手に取って、迷わず蓋を開けた。

「もう1缶買おうか迷ってたから、ちょうどいい」

 サンキュ、と短く続けて、越前くんはペットボトルに口をつける。半分ほど飲み干してから、彼はコートの方に向けて歩き始めた。

「決勝戦は俺もシングルス3で出るから、もう少しいた方が良いんじゃない」

 袋のなくなった右手が軽い。
 うん、と頷く以外の選択肢を、私は知らなかった。

 決勝戦は忘れられない時間となった。越前くんの試合に、私は魅せられてしまったから。越前くんが点数を取る度に息をのみ、他校の先輩相手に余裕で勝ってしまう不敵な姿にどきどきが抑えられない。普段の教室ではあんなにクールな彼が、心の底から楽しそうに汗をかいてきらきら輝くのが新鮮で、試合が終わってからもしばらくはぼーっとしてしまって、気が付いたら家に着いていたくらいだ。

*****

 週末が明けて月曜日、教室に到着すると越前くんは既に着席していた。最近は緊張せずにおはようと言う事ができて、その度に彼も短く返事をしてくれる。授業の合間に話したりもするから、友達と言えるレベルにはなれたと思う。一昨日の余韻も相待って、今日は私の方から会話を続けた。

「試合すごかったね」
「決勝戦、ちゃんと見てた?」
「うん。とっても楽しかった」

 だからね、昨日は思わずテニスがテーマの小説を買っちゃった。と続ける。越前くんは微妙な表情だった。

「プレイする方が楽しいと思うんだけど」

 私は苦笑するしかなかった。あんなにかっこいいプレイをする越前くんだもの、実際にラケットを握らずただ見たり読んだりするだけで充分だなんて理解できないのかもしれない。

「私、運動は得意な方じゃないから。越前くんがうらやましいな」

 試合の時の越前くんってきらきらしてて綺麗だったから。何かに一生懸命になれるってとても素敵な事だと思う。
 いつものように言葉がついつい口をついて出てくる。越前くんは猫のような目を丸くしていた。

「やっぱり、みょうじって天然?」

 そんな事を言われたのは初めてで、私は首をひねる。思っている事をそのまま声に出してしまう悪い癖はあるけれど、よく聞く天然な人物像に自分は当てはまらない気がして私は曖昧に否定した。いつも通りクールな表情の越前くんが納得してくれたかは分からないけれど、「まあ、いいや」という返事だけが返ってくる。

「次の試合はいつなの?」
「関東大会が再来週ある」

 都大会よりもすごい奴がたくさんいる。次も負けないけどね。
 そう話す越前くんの勝気な笑みが、もっと彼のテニスを見ていたいと思わせる。邪魔にならないかなとか厚かましいかなとか、他の子と仲良さそうにしていた越前くん達を見てからずっと悩んでいた事なんてすっかり忘れて、現金な私はまた試合を観に行っても良いかと聞いていた。

「次はポンタ買ってきてよ」

 肯定の代わりのその言葉に思わず笑ってしまう。クールに見えてこういう冗談は言うし、教科書に落書きはしてあるし、知れば知るほど越前くんと話をする時間が楽しくてたまらなくなってくる。

「何本買っていけば良い?」

 越前くんから帰って来た答えは「売り場にあるやつ全部」で、私は更に笑ってしまったのだった。







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