同じ敷地内、unknown。


 それは去年の今より少し前、リョーマがまだ1年生だった頃の事だ。

「越前、昼飯食ったらコートに集合な」

 昼休み、廊下ですれ違った桃城にそう言われて、リョーマは「ッス」と短く返事をした。来たる地区大会、成り行きに近い形でリョーマは桃城とのダブルスを組むことになっていたのだ。物心つく前からボールとラケットに触れているとは言え、ダブルスは今回が人生で初めての経験だ。昨日は菊丸大石のゴールデンペアと練習をして自分達がまだまだであると自覚させられてしまったから、余計に悔しさは募っている。
 今は1分1秒でも多く、練習がしたい――そう思っていたのはリョーマだけではなかったらしい。

 しかし、いざ4時間目が終わって昼休み。

「お、越前じゃないか。ちょうど良かった」

 リョーマは図書委員担当の教師に呼び止められてしまったのだ。近道だからと職員室の前を通ったのが運の尽きだったか。

「これ図書倉庫に持って行ってくれないか。先生、急ぎの職員会議が入っちゃって。大事な本だから、ちゃんと分類して棚に入れといてくれな」

 早口で告げられて、有無を言わさず目線よりも高い量の本を渡される。抗議しようと顔を覗かせた時には既に、教師は目の前から消えていた。
 仕方ない……。大変不服な思いを抱えながらもリョーマは図書室へ向かう。最上階の端にあるその部屋まで、急げばまだ練習する時間はあるだろう。

 目的の倉庫は図書室の隣にある。しかしいざ到着して扉に手をかけてもびくともしなかった。
 あの先生、鍵開けてなかったわけ?
 不測の事態に不満が募りながらも、逸る気持ちを抑えて隣の図書室に向かう。もしかしたら鍵があるかもしれないし、職員室にあるなんて可能性は考えたくもなかった。
 カウンターでは図書当番の女子生徒がひとり、文庫本を読んで暇を持て余しているようだった。返却本の整理でもしているのだろうか、もうひとりいるはずの当番がいない。

「ねえ」

 リョーマが声をかけると、彼女は本から顔を上げる。

「図書倉庫の鍵、貸してくれない?」
「倉庫の鍵なら職員室にあるけど……」

 少女は怪訝な顔をしながら答えた。そんな顔したいのは俺の方なんだけど、とリョーマは内心ひとりごちる。まさか最悪の予想が当たってしまうだなんて。

「……それ、浅野先生が?」
「そう。職員会議があるからって、無理矢理」

 リョーマの不穏な空気を感じ取ったのか、彼女はおずおずと尋ねた。視線は彼の抱える本の山にある。リョーマがため息混じりに答えると、「先生らしいや」と彼女は苦笑した。

「私、代わりにやっておこうか?」

 思わぬ申し出にリョーマは面食らう。ありがたい事ではあるけれど、都合が良すぎるのではないかと一瞬だけ渋った。後で何かあったらそれはそれで面倒くさい。しかし彼女は続ける。

「図書倉庫って割と散らかってるし、それだけの本、整理しないと入らないと思う」

 私そういうの結構好きだから、と彼女は締めくくった。リョーマからすれば聞くだけで面倒で気が滅入る作業なのに信じられない。しかし渡りに船とはこの事で、リョーマは抱えていた本をカウンターに置き、「ごめん、頼んだ」とだけ答えてその場をあとにした。

 結局リョーマは昼休みが終わる前にコートに辿り着き、先に来ていた桃城に「おせーよ越前!」と言われながらも練習する事ができた。そして5時間目が始まる頃には、昼休みに起こった出来事などすっかり忘れていたのだった。

*****

 ふわふわと漂っていた意識が徐々に戻ってくるのを感じてリョーマは目を開ける。身体を起こすと人影のない部屋と大量の本棚が視界に滲み入り、そこでやっと、自分は図書当番中に寝てしまったのだと思い出した。
 壁にかけられた時計を見やると、図書館を閉める時間を少し過ぎている。しまった。早く部活に行かなければ、またペナルティをかけられてしまうだろう。

「あ、起きたんだね」

 誰もいないと思っていたリョーマだったが、どうやらそれは間違いだったらしい。本棚の影から現れたのはひとりの女子生徒だった。帰り支度を整え、手には本を1冊と何枚かの貸出カードを持っている。

「この本の貸出お願いします。あとこれも」

 彼女が差し出したカードにはそれぞれ違う題名が書いてあった。本来ならそれは本の後ろに挟まっている物で、生徒が自分の名前を書いて図書委員に渡す事で手続きが成立する。

「越前くん気持ち良さそうに寝てたし、代わりに受け取っちゃった」

 私も図書委員だから、勝手は分かっていたし。と彼女は続ける。余計な事をしたとでも思っているのか、申し訳なさそうに眉尻を下げ、所在なさげに前髪を払った。ポニーテールが揺れる。

「余計な事してごめんね。でももうひとりの図書委員の子もいなかったから」
「今日は風邪で休み」
「そっか」

 リョーマからすれば寝ている間に仕事が済んでしまったと言う事なので、純粋な感謝の意味を込めて「サンキュ」とだけ言ってカードを受け取る。何はともあれ、今は目の前の物を片付けなければならない。まずは彼女の本から貸出作業をしていると、ほんの小さく笑う声が聞こえた。顔を上げる。目線だけで何かと尋ねたら、彼女は自身の頬を指さして一言、

「顔、跡ついてるよ」

と言った。思わず自分の頬に手を当てる。微かにボタンの凹凸が感じられた。少しだけ恥ずかしくて、眉間に皺が寄る。貸出作業を早めに済ませて、押し付けるように本を渡した。決められた通りのセリフを口にする。

「2週間以内に返却で」
「うん。分かってる」

 彼女は気にする様子でもなく、本を受け取って鞄に入れた。「じゃあね、越前くん」と手を振ると、図書室を去って行く。
 扉が閉まりその背中が完全に消えるまで、リョーマは何をするでもなく見つめていた。少女の顔をどこかで見た事がある気がするのだが、どこでなのか思い出せなかったのだ。

 不意に、学校中にチャイムの音が鳴り渡る。現実に引き戻されたリョーマはバネのように立ち上がり、図書室に鍵をかけた。知りもしない少女の事など気にしている場合ではないし、どうせ廊下で見かけたとかそんな程度だろう。
 今はただ、早く部活に行かなければならなかった。

*****

「この大事な時期に遅刻するとは何事だい、リョーマ!」

 レギュラージャージに着替えてすぐ、コートでリョーマを迎えたのは顧問の竜崎だった。仁王立ちでリョーマを見下ろす姿を直接見ずとも、こちらに刺さる視線だけでご立腹な事が分かる。けれど長々と説教されて練習する時間がこれ以上縮まったら堪らない、とリョーマは口を尖らせた。自分には正当な理由があるのだ。

「今日は図書委員の当番があって、」
「とっくに閉館時間は過ぎとるだろうが! それに、お前さん居眠りしていたそうだね。この間も頼まれた仕事を別の生徒に押し付けとるし」

 げ、とリョーマは呟く。今度は顔を青くする番だった。

「……なんで知ってんの」
「浅野先生とアタシゃ茶飲み友達だよ」

 悪戯がばれたような表情をしつつも、今度は黙り込んでしまうリョーマに竜崎はため息をついた。そして「今度からは気を付けるんだよ」とだけ言い、彼の肩をたたいてコートの中へ促す。態度がどうであれ、リョーマなりに委員会と部活を両立させようとしたのは事実だ。

 思っていたよりも早く解放されて、リョーマは半ば呆気に取られながらレギュラー陣の練習に混ざる。菊丸と桃城がおちょくる中で手塚と目が合った。彼は眉一つ動かさずリョーマに言い放つ。

「聞いていたぞ、越前。……練習が終わり次第、グラウンド10周だ」

……やっぱりこうなるのか。
 リョーマは項垂れずにはいられなかった。

―――― ……。

 そして部活動も終わり、手塚に言われた通りグランドも走り終えたリョーマは部室の扉を開けた。中には部員がチラホラと残っていて、菊丸と桃城が隅で何かを囲んで盛り上がっている。

「絶対左端の子ッスよー!」
「いやいや、右から2番の子もなかなか……」
「一番巨乳……英二先輩、変態っすね」
「なんでだよー! 桃だって足のきれいな子選んでんじゃん!」

 狙っているのかそうでないのか、彼らはリョーマのロッカーの近くで騒いでいた。なので嫌でもそちらへ向かう形になってしまう。
 案の定彼らは目敏くリョーマを見付け、輪の中へ引き込んだ。2人が囲んでいるのは漫画雑誌に付いているグラビア写真だ。

「なな、おチビはどの子が一番可愛いと思う?」
「ぜってー左端だよな、越前!」

 申し訳程度に一瞥すれば、アイドルが水着姿で5人並んでいる。みな髪形こそ違えど、同じような顔、同じようなポーズで並んでいて、あまりの下らなさにリョーマは眉をひそめた。

「……興味ないッス」
「はぁ!?」
「健全な男子中学生がそんな態度で良いと思ってるのかにゃ!?」
「越前、お前もしかして……むっつり?」
「違うッスよ」
「じゃあどんな子がタイプなのか、お兄さん達に教えてくれるよにゃっ?」

 してやられた、と思った頃には遅すぎて、目の前の先輩2人はなんとも言えないニヤニヤした目でリョーマに詰め寄るのだった。
 仕方がない、とひとつため息をつく。ここは適当な事を言って逃げてしまうのが得策だろう。女子の特徴……女子の特徴……――

「あ、」

 不意に、揺れるポニーテールを思い出した。図書室での女子生徒の事だ。どこかで見た事のある少女だと思っていたが、そう言えば彼女には先日、図書委員の仕事を代わりに引き受けてもらっていたのだった。今日は髪形も違っていたし、そもそも人の顔を覚えるのが苦手なリョーマにとって覚えている方が困難なので思い出しただけでも大したものだと自分自身に感心してしまう。
 この間と良い今日の事と良い、随分とお人好しな奴だった。とリョーマは考える。おかげで二次災害的に自分も被害を被ったと思うのは、流石に意地が悪いだろうか。

「おチビー、おーい、おチビー?」
「で、どうだよ、決まったのかよ」

 菊丸に目の前で掌を振られて、意識が思考から引き戻される。
 そうだ、何かしら女子の特徴を答える途中だった。下手な事を言うと「それは誰の事なんだ」と詰め寄られてからかわれるだろうけれど、彼女ならテニス部と全く接点もないからちょうどいい。

「ポニーテールの似合う子、ッスかね」
「……英二先輩」
「……桃」
「「やっぱ越前(おチビ)って、むっつりだ」

 見事に合わさった声に、リョーマも流石に声を荒げて「むっつりじゃないッス!」と言い返すのだった。







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