知り合ったばかり、unknown。
リョーマにとって、みょうじなまえは知らない人間だった。
U-17テニスワールドカップルも終わって桜が咲く頃、リョーマは2年生に進級した。新しいクラスでは堀尾とクラスメイトになりそれだけでも先が思いやられるというのに、あろう事かうとうとしている間に図書委員に推薦されてしまったらしい。去年も似たような流れで同じ役職を押し付けられたのだから、こういうところで成長していない自分が嫌になる。
「あ、ほら! あの子も越前と同じ、図書委員だぜ」
堀尾が指し示した先にいた女子生徒を見た瞬間、何故だか妙に懐かしい気持ちになった。どこかで会った事があるのだろうかと思っても、彼女のような生徒はそこら中にたくさんいる。強いテニスプレーヤー以外を覚えるのが苦手なリョーマにとって、会った事のある人物を初対面として扱ってしまうのは最早よくある事だ。
それはそれとして、自身が図書委員に決まってしまったのなら仕方がない。委員会の担当教諭は何かあればすぐ竜崎に報告するし、真面目にやらないと後々困るのは自分だった。
「委員会、行かないの?」
促したらやっと動き出したその女子生徒――みょうじというらしい――と共に、リョーマは図書室への道を進む。道すがらやる事もなく、思考は委員会後のテニスへと移っていった。
そんな時不意に、揺れるポニーテールを思い出す。
「あ、」
思わず立ち止まった。2、3歩後ろの距離にいる彼女の顔を改めてよく見ると、いくつかの記憶が蘇る。
「アンタ、去年も図書委員じゃなかった?」
「……覚えてて、くれてたんだ」
「今思い出した。今年もやるなんて、みょうじも物好きだね」
委員会の仕事を変わってもらった事、そのお陰でグランドを走らされた事……ひとつ思い出すと、引っ張られるように次々と出てきた。あんなに嫌だった手塚からの罰則が、今や良い思い出だなんて。
「越前くん、1年間よろしくね!」
既に何度か忘れられている事なんて知らないみょうじは随分と嬉しそうで、リョーマは少しだけ罪悪感を覚えた。どちらにせよ同じクラスだし、これから委員会で関わっていく事も多いだろうからもう忘れないだろう。
「……ヨロシク」
*****
リョーマにとって、みょうじなまえは不思議な人間だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室が一気にざわつく。ずっとこらえていたあくびをひとつする横目で、隣のみょうじが文庫本を取り出すのが見えた。またなんか読むんだ。声には出さず、リョーマは呆れる。
「眠そうだね」
その視線に気付いたのか、それともリョーマのあくびが気になったのか、みょうじはからうような口調で話しかけてきた。
リョーマがみょうじの姿を想像する時、それはいつも本を読んでいる姿だ。彼女は不思議な人物だと思う。5月の席替えで隣同士になってから話す機会がぐっと増えたが、最初は朝の挨拶だけで緊張しているのが分かるほど大人しい人物だった。だから所謂真面目な文学少女なのかと思えば教科書に落書きはしているし、この間なんて授業中にも関わらず机の下に文庫本を隠して読んでいた。好きなシリーズの最新刊が出て、休み時間が待ちきれなかったらしい。なのにリョーマの想像する大人しい女子にありがちな、言いたいことも言えないような性質もなく、むしろ時折こちらがびっくりするほど思っている事を率直に言ってしまう。一度天然なのかと聞いてみたら、遠回しであれど反対意見だって言ってのけた。
大人しいと言うか、物静かってヤツ? やっと思いついた語彙に納得しながら、リョーマは背中を伸ばしつつ答える。
「あの先生、話長すぎ」
5時間目も終わり、ようやく部活の時間だ。
―――― ……。
「オイ1、2年! 声が小さいぞ!」
海堂がいつになく声を張り上げる中、部員達はその厳しい姿にたじろぎながらも気合を入れ、掛け声を大きくして練習に励んだ。部全体の空気がいつになく張り詰めているが無理もない。地区大会、関東大会と順調に駒を進め、来週には関東大会が控えているのだ。去年全国優勝した青学は各大会でシード扱いされるとは言え油断はできなかった。他校も打倒青学を掲げ、今頃血の滲むような努力をしているのだろう。
「おい越前、次、俺とコートな」
「うぃーっす、桃先輩」
リョーマも言われた通りコートに入り、桃城と対峙した。試合形式の練習をしていると意識はどんどん中に入り込み、身体の外側と内側の境界がなくなるような感覚になってくる。見えるのは黄色いボールと、その先にいる相手のみ。聞こえる音もラケットの打ち返す音だけとなって、試合終了の声をかけられるまでそれは続いた。
「随分調子が良いじゃねーか」
「桃先輩はまだまだッスね」
「なんだとこのヤロー!」
言葉とは裏腹に笑いながら小突かれる。桃城と良い海堂と良い、自分でも相当生意気なのではないかと思うリョーマに気前よく接してくれる。そしてその事に無意識に安心する自分がいた。
練習がひと段落ついて、休憩の為にドリンクを手に取る。手ごろな場所に座り込むと、ちょうど視線の先をみょうじが歩いていた。こんな時間まで学校にいたなんて、先ほど持っていた本でも読んでいたのだろうか。
ふと、彼女がテニスコートに目を向ける。視線がぶつかって、向こうの口が「バイバイ」の形に動いた。小さく手を振っている。特に無視する理由もないので、リョーマもドリンクをあおりながら手を振り返した。
*****
リョーマにとって、みょうじなまえはお人好しな人間だ。
去年図書委員の仕事を引き受けて貰った事もあって、それはみょうじをみょうじだと認識する前から抱いていた印象だった。席替えでよく話すようになってからも変わらないし、むしろあれからも何度か自分から面倒事を引き受ける姿を見かけている。
だからだろうか、彼女の姿を見た時、その肩に身体を預けてしまったのは。
「……ごめん、ちょっと、貸して」
――関東大会、2回戦敗退
その瞬間を、リョーマはテニスコートの外で迎えていた。
「すまねえ越前……お前に、回してやれなかった……ッ!!」
ジャージの胸元をぐしゃぐしゃに握り、こらえきれずに涙を流す桃城を前に、リョーマは何も言えずにいた。
桃先輩の所為じゃないッスなんて、言ったら多分殴られる。1勝2敗、後がない状態で挑んだシングルス2は、桃城にどれだけのプレッシャーを与えただろう。
負けた学校がこの場所にいる意味はなく、30分の休憩を挟んだ後に学校へ戻ると竜崎は告げる。ひとりまたひとりと桃城のように泣き出す生徒もいる中、リョーマは眉一つ動かさずその場を離れた。
向かった先は自動販売機の並ぶ東屋だ。いつものように好物のポンタを買おうとすると、そこには既に、冷えた缶を取り出すみょうじの姿があった。
「越前くん」
リョーマの姿を確認するなり、彼女はジュース缶を差し出す。頭のどこか、やけに冷静な部分が以前の事を思い出した。そう言えば次回の大会ではポンタを買ってきて欲しいと言った事があるけど、向こうも覚えていたのか。
「お疲れ様。かっこよかったよ」
「……俺、何もしてないけど」
青学はシードがあったので2回戦からの参加だ。リョーマは今日、ラケットを握る事さえしなかった。
「そんな事ないよ。かっこよかった」
だって最後まで目を逸らさずに見てたの、知ってるよ。強くないと、みんな事信じてないと、そんなのできないよ。
言い切ってからみょうじはしまったと言う表情で口をつぐむ。考えなしに思っている事を口に出してしまうのが悪い癖だと以前言っていた。直したくて悩んでいるのだとも。
呆れてしまったけれど、無性におかしくも感じて口角が上がった。
その癖、また出てんじゃん。直す気ないだろ。
ポンタを受け取ってプルタブを開ける。冷たい液体をひとくち流し込むと、どれだけ暑かったのかを思い出した。喉から何かせりあがる。炭酸だろうか。
「……ごめん」
気が付けば空いた右手でみょうじの肩を掴んでいた。その上に額を乗せる。
「ちょっと、貸して」
みょうじが一瞬身体を強張らせたのが分かったが、すぐに短い許可が戻って来る。その声にやたら安心して、少しだけ体重を預けた。
もし自分がシングルス1じゃなかったら。もし桃先輩の代わりに戦っていたのが俺だったら、結果は違っていたのだろうか。考えても仕方のない事だけがぐるぐると頭を巡る。
――越前、お前は青学の柱になれ。
脳裏に手塚の言葉が蘇った。こんな時に思い出すだなんて、我ながら皮肉な脳だ。
整理できない、名前も分からない感情が心を支配して、リョーマは小さく「……クソ」と吐き出す。その間、みょうじは何も言わず、少しも動かずただその場にいてくれた。
みょうじは本当にお人好しだと、リョーマは改めて思っている。
*****
リョーマにとって、みょうじなまえは時々理解できない人間だ。
散々だった夏の大会も過ぎ去ってしまえば過去の事……風の噂で今年の全国優勝校は不動峰だったと聞いた以外は何事もなく時間が過ぎ、9月になった。
未だ太陽が容赦なく照り付ける中、朝練を終えたリョーマはいつもより遅めに校舎へ入り込む。海堂や竜崎と話していたら、つい遅くなってしまったのだ。
靴箱にたどり着くと、ちょうどみょうじが上履きに履き替えるところだった。
「おはよ」
リョーマから声をかける。みょうじは目を丸くした後、酷く安心したように破顔した。
「おはよう、越前くん。……部長就任、おめでとう」
「なんで知ってんの?」
「今さっき堀尾くんにも会ったの。レギュラージャージ着て、『なんで部長が俺じゃなくて越前なんだー!』って」
みょうじの言う堀尾の様子は安易に想像できた。3年生がいなくなった8月のレギュラー決めで遂に正レギュラーの座を獲得した堀尾は、夏休みのあいだ常に赤と青のジャージを羽織っていたから。テニス歴も3年以上ありなんだかんだ実力もついてきた事は認めるけれど、まさか部外でさえジャージを見せびらかしているなんて。
「……後で注意しとこ」
面倒事が増えたとリョーマがうなだれていると、隣を歩いていたみょうじからクスリと笑う声がした。
「もうすっかり部長さんだね」
言われてから自覚する。今まで、誰かを注意する発想なんてなかったのに。
後輩の指導をしたり、誰かを咎めてグラウンド何周と言い渡したりする自分なんて、先月までは想像もできなかった。アメリカでもテニスクラブに通ってこそいたが、そこはこんな特殊な上下関係などない強い者同士が対等に渡り合う世界だったのだ。
手塚部長に海堂部長、2人も部長になる前はこんな気持ちだったのだろうか。そう考えると、頭の中の時間が関東大会まで巻き戻る。
あの時バンダナの下に隠した海堂部長の顔は、どんな表情をしていたのだろう。
教室に到着し、席につく。
隣に座るみょうじは「暑い」と呟きながら廊下に面した窓を開けた。
「もう蝉の声も聞こえなくなってきたね」
「そろそろ静かにしてくれないと困る」
「困るって?」
「アイツらうるさすぎ」
アメリカにいた時は、あんな音聞いた事がなかった。去年なんて日本へ帰って来て初めての夏だったし、寝付くのに時間がかかったくらいだ。
うんざりした様子のリョーマを他所にみょうじは少し考え込んだ後「そうかな」と呟く。
「〝閑さや 岩にしみいる 蝉の音〟って言うし」
「何それ」
「松尾芭蕉だよ。去年国語の教科書に出てた人」
「国語苦手」
普段の生活の中でもあまり他人に関心がないのに、物語の人物の心情を考えなければいけない国語がリョーマはどうも好きになれなかった。ましてや、古めかしい日本語を使った俳句なんて、そもそも何を言っているのかすらよく分からない。
「どっちにしろ涼しくなればそれで良い」
「あはは、確かにそうかも」
下敷きを団扇代わりにしながら、みょうじは文庫本を取り出した。「汗でページがふやけちゃってる」と不満そうにしている。
そんなに嫌なら読まなきゃ良いじゃんと声には出さずに呆れる。みょうじは分かりやすいのに、時々理解できない。……けれど彼女とこうして話す時間は気楽なもので、一緒にいて不快ではなかった。
チャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってくる。教室中が静かになり、リョーマも考え事をやめた。みょうじも本を机の中に仕舞っている。
9月1日――今日から2学期が始まるのだ。