​教室で一番遠い場所、11メートル。


 夏休みが終わって、昨日から2学期が始まった。

 昼は未だに蒸し暑いけれど、日が暮れれば涼しく感じられるこの頃。それを良い事に私は掛布団に包まってぬいぐるみを抱きしめ、ひとり悶々としていた。
 頭の中を繰り返し流れるのはあの夏の日、男テニの関東大会を観に行った時の事。

『……ごめん、ちょっと、貸して』

 無表情な、けれどどこか泣きそうな瞳の越前くんの姿だ。思い出す度に、あの時触れられた右肩がじわりと熱を帯びるような気がした。

 あれから夏休み中あの時の事を考えて考えて、始業式の日はきっと気まずくなってしまうだろうと覚悟すらしていた。けれどそんな私の心配とは裏腹に昨日は越前くんから声をかけてくれて、夏休み前と全く変わらない様子で接してくれた。だから私もあの日の事は聞けず仕舞いだ。それに負けた試合の話なんてほじくり返されたくないだろうし。

 枕元にある携帯電話に手を伸ばす。メッセージ画面を起動させて一番の友人の名前を選択したところで、電源を切った。

「……こんな事、相談できないよ」

 自意識過剰だって思われたくないもの。
 越前くんは憧れの的で、みんなの王子様なんだから。

……そうだよ。帰国子女なんだからハグぐらい普通なんだろうし、そもそもあんなのはハグですらない。あの時もきっと、ただ誰かの傍にいたくて、それがたまたま私だっただけ。だから、昨日も何もなかったように接してくれたんだ。
 それに、

「……仲、良さそうだったな」

 頭をよぎるのは、大会で見かけた2人の女の子の事だ。名前までは知らないけれど、女子の会話で「あの越前くんと入学当初から仲良しな女子が2人いる」と何度か話題に登った事があるから、きっとあの子達がそうなんだろう。噂通り2人ともすごく可愛かったし、都大会でも関東大会でもとても親しげに越前くんとお話ししていた。
 きっと越前くんの彼女になれるのは、あんな可愛い子達なんだ。

『ごめん、ちょっと、貸して』
「……だーかーらぁー!」

 頭の中で越前くんの声が勝手にリフレインする。もう何度も同じことを繰り返して、その度ににやけてしまう両頬を今回もむにむにと抓って落ち着かせた。
 違う。違うの。ただの憧れなんだから。憧れの人から頼られたら、嬉しいに決まってるんだから。それだけなんだから。
……なんて事、もう何回自分に言い聞かせたんだろう。

*****

 いつの間に眠っていたのか分からないまま、気が付けば朝を迎えていた。いつも通り支度をして、電車の時間に合わせて家を出る。青学は最寄りの駅と3つ離れていて、なるべく人の少ないものに乗っているから学校に到着するのはいつもギリギリだった。

 そんなこんなで授業を終えて、今日は2学期最初のロングホームルームのある日だ。チャイムと同時に入ってきた先生は箱を抱えている。春にも見たその光景に教室中が席替えの日だと浮き立った。
 席の並び順に教壇に向かい、私が引いた番号は1番だった。今と同じ列の一番前の席だ。代り映えしない上にあまり良い席とは言えず落胆する。
 越前くんもくじを引いて戻ってきたので何番だったか聞くと、得意げな顔で紙を見せてくれた。

「窓際の一番後ろ」
「えー、うらやましい! 私一番前だよ」

 越前くんは珍しく目に見えて嬉しそうで、前の席の堀尾くんともくじを見せ合っていた。そんな彼とは裏腹に、私の心はますます重くなる。席が離れちゃっても、寂しいのは私だけなのだ。

『ほーらね、期待するだけ無駄だよ』

 心の中で、意地悪な自分が舌を出していた。

*****

 ロングホームルームが終われば後は下校するだけだった。

「また席離れちゃったね……あのくじ絶対何か仕込んであるよ!」

 なんて憤慨する友人と一緒に校門に向かう。「流石にそれはないよ」と苦笑すると、彼女は納得がいかなそうに腕を組んだ。寂しいし残念なのは私も同じだから彼女の気持ちはよく分かるけれど、仲の良い子同士ほど席が近くならないのはよくある事だ。

 校門に向かう為にはテニスコートを横切る必要があって、私の視線は自然とにぎやかな掛け声のする方に引っ張られた。図書室から練習を眺めているおかげで、テニス部に目を向けるのがすっかり習慣になってしまったのだ。
 1年生が球拾いや素振りからコートでの練習に移っていて、引退したはずの3年生も何故かまだ参加していて、そして――中央では新部長の越前くんが、全体に何か指示を出していた。私は思わず息をのむ。越前くん、見たことないくらい真面目な顔してる。

 テニスコートの横を過ぎるのはすぐだった。校門をくぐってから青春台の駅までは遠くない。駅前のハンバーガー屋さんで日暮れまでおしゃべりしてから、改札で反対側の線路に向かう友人を見送っても、私の心はまだドキドキしていた。
 どうしてだろう……。越前くんのテニス姿は、もう何度も見ているはずなのに。

 電車がホームに滑り込む。扉が開いて、たくさんの人を飲み込んだ。電車が走り出しても、私はまだ、ホームに立っている。今までのドキドキとも違うこの胸騒ぎの正体を確かめたくて、私は学校への道を戻っていた。

 オレンジ色に染まる校舎はいつもと雰囲気が違い、知らない場所を訪れた気分にさせる。テニスコートからももう掛け声なんて聞こえなくて、部活動の時間は終わってしまったようだった。なのに、

「……いた」

 ひとつだけ気持ちのいいインパクト音が聞こえて、その正体は紛れもなく越前くんだったのだ。部員はみんな帰ってしまっているのに、ひとり壁に向かってボールを打ち込んでいる。フェンスの外からでも、汗をかき、息を弾ませているのが分かった。
 まただ。私の胸がどうしようもなく高鳴る。優しくしてもらった時や、勘違いしそうになった時とも違う、この胸騒ぎはいったい何なのだろう。

“「―――― 最終下校時刻になりました。まだ残っている生徒は、速やかに下校してください。繰り返します……―――― 」”

 不意に学校中に放送が響き、越前くんは壁打ちを止めた。しまった、と思う頃にはもう遅く、私に気付いてこちらに向かってくる。

「みょうじ? こんな時間に何やってんの」
「あ、えーっと……宿題忘れちゃって。数学の問題集」

 咄嗟に思いついた嘘に、越前くんは眉を顰めた。

「明日数学ないけど」

 それ明後日じゃない? と言われて、そこで初めて明日の時間割を思い出す。苦しすぎた言い訳をどう繕えば良いのか迷っていると、都合よく解釈してくれたのか越前くんは「まだまだだね」と揶揄うように笑った。間抜けな勘違いをしていたと思われるのは恥ずかしいけれど、わざわざ越前くんを見に戻ってきたと知られるよりはマシだ。

「越前くんは、こんな時間まで練習?」

 私の問いかけに彼はひとつ頷く。

「後輩の指導したり次のランキング戦の表作ったり、部長って案外練習時間少ないんだよね」
「そんなに大変なのに、残って自主練習までするの?」

 当然、とでも言うような挑発的な笑みを浮かべる越前くんはどこか、とても高い場所を見ているようだった。

「新人戦がもうすぐあるし、来年はまた全国まで行く。……そんで、もっと強いやつと試合したいから」
「……そっか」

 私は相槌を打つ事しかできなかった。クールな越前くんのこんなに真剣でひたむきな姿を見たら、無責任に「頑張ってね」なんて軽い言葉、かけられない。
 会話はひと段落し、どちらともなく「じゃあね」と手を振る。私は校門へ、越前くんは部室へと向かった。気持ちが抑えきれなくて、私は速足で駅に向かう。……なんとなく、このドキドキの正体がわかった気がするのだ。

 部活に入らず毎日ふらふらと過ごしている私にとって、越前くんの姿は眩しすぎるくらいなんだ。あんなに一生懸命な姿を見せられたら、心を動かされない方が無理だと思う。

 私も何か、一生懸命になれるものが欲しい。
 衝動に駆られるまま習慣となっていた本屋に飛び込んだ私が見た光景は、大好きなシリーズ本の原書がリニューアルされて本屋に平積みされている姿だった。思わず手に取ってパラパラとめくる。国語は好きだけれど、英語は得意でも苦手でもない私にとって、中身は半分理解できるかどうかという内容だ。

 けれど、きっとこれなら。
 少しだけ迷って、私は本を手にレジに向かったのだった。

 それからは自宅の部屋や放課後のハンバーガー屋さんだったりで辞書を片手にその洋書を読み始めた。誰かに見つかるのは恥ずかしかったから、自分だけの秘密だ。

 時間は過ぎ去って図書委員の仕事以外では越前くんと話す事も減った。新人戦は図々しくもまたお邪魔させてもらったけれど、それを除けば元々すごく仲が良かった訳でもない。時々図書室からテニス部の練習を眺めていると、なんだか余計に遠さを感じてしまう。

 そして月日は過ぎて気が付けば風も冷たくなり、10月も半ばに差し掛かったのだった。







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