​人ひとり分、50センチ。


 10月に入ってしばらく経ち、冬服もしっくりくるような秋空になってきた。

​ 「――という訳で、4組の出し物は女装男装喫茶に決まりました!」

 教壇に立つのは文化祭実行委員で、クラスの出し物がやっと決定した事について満足そうにしている。今更だけれどこのクラスにはノリの良い子達が集まっているらしくて、他にもお化け屋敷や演劇などの提案が出たにも関わらず、あっという間に票が集まったのがこの喫茶店だった。あまりこういった行事の中心になれない私はこんな時聞いているのが常だけれど、流石にこの結果には少し驚いている。

 それから準備の役割もすぐに決まって、私は教室の飾りつけを担当する班に所属する事になった。

*****

 青学の文化祭は青春祭と呼ばれていて、中高大全てが合同で行う一大行事だ。1日目は生徒限定だけどその分高校や大学の先輩とも交流できるし、2日目からは一般の人にも公開されて、3日目の連合音楽祭では中等部のクラス対抗合唱コンクールが待ち構えている。

 喫茶店の準備も中盤に入ったその日、授業を終えた私は同じ班のみんなに謝りつつ教室を後にした。今日は図書当番の日なのだ。

 最上階の角、あまり人の通らない廊下の先まで辿り着くと、図書室の鍵は既に開いていた。中に入る。さすがに利用者はまだいなくて、代わりに貸出カウンターでは越前くんが何かの紙面とにらめっこしていた。
 カウンターの内側へ入る。越前くんが私に気付いて顔を上げた。

「遅かったじゃん」
「教室の机を動かしてたから。越前くんは何してるの?」

 これ、とだけ言って越前くんはカウンターに置かれた色とりどりの画用紙を指さす。同じ大きさの青い紙が一枚、彼の目の前にも置かれていた。傍には色鉛筆やマーカーまで用意されている。

「先生が書いとけって」

 私も倣って紙山から一枚手に取る。〝図書だより文化祭用〟と書かれた付箋が貼られていて、やっと思い出した。そういえばこれ、去年もやったっけ。
 文化祭では委員会毎の出し物もあって、図書委員会では各委員がおすすめする本の紹介文を展示するのが毎年の恒例なのだ。

「こういうの、苦手なんだよね。だいたいあまり本読まないし」

 うんざりしたようなその言葉通り、越前くんがヒラヒラと遊ばせている紙にはまだ何も書かれていなかった。どの本について書くか聞くと、それも決まっていないという答えが返ってくる。机に座って読書をしている越前くんなんて想像できなくて、苦笑せずにはいられない。

「私もあんまり得意じゃないから、気持ちは分かるよ」
「意外……みょうじいつも本読んでるじゃん」
「おすすめを1冊だけ決めるのは難しいし、自由に紹介してっていうのも何書いて良いのか分かんなくなっちゃうから」
「ほんと、それ。自由にってのが一番難しい」

 越前くんは辟易したように溜息をついて、何もない場所を見上げる。紙面に視線を戻して、シャーペンを握って、そして止まった。

「なんかない? 5分くらいで読めて、簡単にこの紙埋めれそうなやつ」
「そんな都合の良い事言われても……」

 本当に困っているようで、ここまで弱り切った越前くんの声は初めて聞いた。ちょっと可愛いな、なんて思ってしまって、かき消すように考えを巡らせる。困ったな、自分のオススメの一冊も決まってないのに、越前くんのも決めるだなんてプレッシャーだな。なんて思っていたら、ふと閃いた。

「テニス関連の本なら、読まなくても内容分かるんじゃない? テニスについて書いて、最後に『この本に詳しく書いてあるからおすすめです』って書くの」

 言ってからちょっと無理があったかな、ズルいかな、と心の中で自問した。けれど越前くんは少し間を置いた後、わずかに顔を明るくする。

「イイじゃんそれ」

 サンキュ、と短く続けて、彼はスポーツの指南書が置かれた棚に向かった。残された私はなんだか無性に弾む気持ちをどう処理したら良いのか分からなくて、とりあえず動いて誤魔化そうと椅子から立ち上がる。去年と同じく最近読み終えた本を探す為に目的の本棚まで向かった。

 それから本が決まってもなお画用紙とにらめっこする私達の間に会話はなく、今日は貸出作業もないままあっという間に閉館時間は訪れた。図書室に残っている利用者がいない事を確認して、扉の鍵を閉める。あとは職員室に鍵を返せば今日の仕事はお終いだ。

「みょうじこれからどうすんの?」
「教室に戻って準備のお手伝いかなぁ。越前くんは?」
「部活に行く。俺まだ仕事ないし」
「食料係だったっけ?」
「そう。食べ物は女子が作るから、男子は前日までにジュース買ってくれば良いって」

 そして私達は職員室の前で二手に別れた。教室に戻ると同じ班の子達はまだ残っていて、ほっとして私もすぐに加わる。
 あーでもないこーでもないと当日飾るセットを作っている内に、見回りの先生が扉から顔だけを覗かせたのは夕日も落ちきった頃だった。

「おーい、もう帰れよ」

 きりも良かったし、先生が廊下の向こうへ歩いていくのを合図にみんな帰り支度を始める。端に寄せてあった机を戻してかばんを手に取ったところで、ふと教室の隅にあるごみ箱の蓋が閉まり切っていないのが目に入った。

「なまえちゃん、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。先に行ってて」
「じゃあ、電気お願いね」

 そうしてみんないなくなってから私はごみ箱の蓋を開ける。案の定、セット作成に使った段ボールや色紙でいっぱいになっていた。ごみ袋を取り出して、掃除用具入れに入っている予備のものと交換する。私達が出したごみを明日の日直に任せるのは申し訳ない。
 ふいにもう一度教室の扉が開いた。先生が戻って来ちゃったのかな、と思って注意される覚悟をする。

「あれ、みょうじひとり?」

 けれど入ってきたのは越前くんだった。部活ももう既に切り上げてきたのか、学ラン姿に大きなテニスバッグを肩に掛けている。

「さっきまでみんないたんだけど、先生がもう帰りなさいって」
「ふーん」
「誰か探してるの?」

 越前くんは首を振って、「体操着、持って帰るの忘れるとこだった」と言いながら教室の後ろにある個人ロッカーに向かった。じっと見ている訳にもいかないので、私もごみ袋が溢れないように開口を縛る。通学かばんも一緒に持ってから、越前くんが教室を出たのを見計らって電気を消した。

「それ、みょうじの仕事?」

 廊下を出てからすぐ、越前くんは怪訝な顔でごみ袋を指さした。今度は私が首を横に振る番だ。

「でも図書当番であんまり仕事しなかったし、ついでだから」

 越前くんは何か言いたそうな顔をしている気がした。けれど彼の口が開かれる事はなかったから、私も何も言わずに廊下を進む。校舎裏のゴミ捨て場に袋を置いて、校門をくぐっても私達の間に会話はなかった。いつの間にか無理やり話題を探さなくても気まずく感じない自分がいて、越前くんと仲良くなれたんだなと嬉しく思う。

 青春台の駅まではあっという間だった。徒歩通学だからと言う越前くんと短く挨拶を交わして改札を抜ける。ホームに立って一息ついたところで、大変な事に気付いてしまった。

 わ、私、越前くんと一緒に下校しちゃった……!?
 考えてみれば、越前くんが駅まで一緒に歩いてくれる必要もなくって、あ、でもちょうど通り道だったのかもしれないし、あいやでもそれにしたってごみ捨て場まで着いて来てくれる必要もなかったわけで!

「え、え、え、越前くんは、優しいだけだから!」

 思わず大きな声が出て、すぐに我に返って周りを窺った。帰宅ラッシュの過ぎたホームに人影はなく、私はほっと息をつく。そしてちょうどよく滑り込んできた電車に飛び乗ったけれど、今日は本を広げる気分にはなれなかった。

 小さな事で振り回される私の心を他所に、毎日の授業に加え合唱の練習や喫茶店の準備をしている内に10月は過ぎていた。そして気が付けばもう11月に突入して、文化祭当日を迎えるのだった。

*****

 文化祭1日目は、夏が戻ってきたような暑さだった。
 男装女装というコンセプトが受けたのか、それともたまたま2年生の階に座って休憩できる場所が私達のクラスしかなかったからか、2年4組の喫茶店は朝から大盛況だ。

「ケーキセット2つ、オレンジジュースと紅茶で。あとお冷もお願い!」

 客室とキッチンを仕切るカーテンをめくり、野球部のユニフォームを着た女の子が注文を読み上げる。ちょうどお菓子を用意する当番だった私は軽く返事をして、言われた通りパウンドケーキをひとつずつ紙皿に用意した。
 再びカーテンがめくられる。入ってきたのは学級委員長で、これから私の自由時間だと告げられた。もうそんな時間なんだと時計を確認すると、いつの間にかお昼ご飯の時間が迫っている。ちょうどキッチンに入ってきた次の当番の子にエプロンを渡している間、ドリンク担当の子が困ったように委員長に話しかけていた。

「いいんちょ~……ちょっとやばいかも」
「どうしたの?」
「紙コップがもうほとんどないよ……」
「噓でしょ!?」

 慌ててその場にいたみんなで確認すると、確かに紙コップがもう残り少なかった。お客さんのほとんどがお冷も注文してたから、予定よりも2倍の消費量だったみたい。確かに、ここまで暑い日になるなんて予想外だったから仕方ないのかも。

「これからお冷は同じ紙コップを使ってもらうって事にしても、残りじゃ明日まで持たないな……」

 買いに行くお金自体は売り上げがあるけど……、と委員長は腕を組んで唸る。そうこうしている間にも注文は入ってきて、紙コップは減っていった。そんな中私は委員長の名前を呼ぶ。

「私、行って来ようか?」

 文化祭中に学校外に出るには先生の許可を取らなくちゃいけないし、店番はギリギリの人数で回してるから忙しくて誰かを抜くなんてできない。かと言って他のクラスメートも体育館のステージ企画や部活の出し物で忙しい子達が大半だった。今この場で予定がないのは私だけだし、ちょうどいい。

「せっかく今から自由時間なのに、良いの?」
「明日も朝から空いてるし、平気だよ」

 他にも必要な物がないか聞いたら、委員長は飛び上がりそうな勢いでお礼を言ってくれた。そして素早く必要な物と、お店の場所をメモしてくれる。近くのスーパーだと高いし量も少ないから、隣の駅にある問屋さんで買うのが良いらしい。その駅なら定期券の範囲内だし安心だった。

「結構多いし嵩張るけど、みょうじさんひとりで大丈夫?」

 任せて、なんて自分の胸をたたこうと思った時だった。みたびカーテンが開き、珍しく慌てた様子の越前くんが入ってきたのだ。委員長が両手を打ち付ける。

「ちょうどよかった! 越前くん、食料の買出し係よね?」
「そうだけど何?」
「みょうじさんがこれから買出しに行くんだけど「俺も行く」

 委員長の言葉に越前くんは食い気味で返事をし、私の手首をつかんで走り出した。彼は呆然とした周りを顧みず、私も訳が分からないまま引っ張られて教室を出る。

「待てってばおちびー!」

 後ろの方でそんな声が聞こえて振り返ると、外はねの髪型が特徴的な先輩がこちらに向かって叫んでいた。

―――― ……。

 職員室に駆け込んで外出の許可をもらって、学校の敷地を出たところでやっと越前くんはほっと一息つく。久しぶりに走ったからか私の息は切れ切れで、胸は激しく動悸していた。

「で、どこに行けばいいの」
「駅、なんだけど……ちょ、ちょっと待って……」
「これくらいで息切らすなんて、まだまだだね」

 なんて言葉にも返事できずにただ越前くんの隣を歩く。
 けれど駅に着く頃には私の動悸も収まっていた。ホームで電車を待つ間、する事もなくて口を開く。

「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
「別に。っていうか、なんでみょうじが買出し行ってんの?」
「ちょうど自由時間で空いてたから」
「……ほんと、お人好しだよね」

 この間もそう思ってた。ほら、ゴミ捨ての時。と越前くんは続ける。眉尻が下がり、猫みたいな目を細めて優しい顔をした。クールで評判の越前くんもよく見れば色んな表情をすると言う事は隣の席に座っていた頃に学んだけれど、この優しい表情だけは未だに慣れなくて、その度になんだかおかしな気持ちになる。

「そ、」

 さっき掴まれた右の手首もいまだに熱くて、私は咄嗟に話題をそらした。

「そういえば、越前くん今日は全身ジャージなんだね!」

 部活の時も体育の授業の時も半ズボンなのに、今日に限って彼は上下とも正レギュラーのジャージを着ていた。珍しい組み合わせだし、それに女装は? というように込められた気持ちを悟ったのか、越前くんはあからさまに顔をしかめる。こちらが戸惑うほどに間が開いた後、苦虫を噛み潰したような顔でつぶやいた。

「……中に、」
「中に?」
「…………母さんから借りたスコート、着てる」
「見せ「いやだ」

 被さる様に返ってきたのは拒絶の声だった。ダメ押しなのか、越前くんは地を這うような声で「絶対、いやだ」と繰り返す。そしてさっきも先輩にジャージを脱がされそうになって逃げてきたのだと語った。
 だからあんなに慌ててたんだ、と私は納得する。それにしても、ホームの椅子に座る越前くんが今まさに女装しているなんて考えたらおかしくて、弱りきった様子がやっぱり可愛くて、私は声を上げて笑わずにはいられなかった。

「笑いすぎ」
「ごめん、でも、あはは!」
「……女子はズルいよね。ズボンなんて普段から履いてるじゃん」

 越前くんはいじけたようにそっぽを向いてしまった。これ以上笑ったらだめだと思い、私は必死で自分を落ち着かせる。ようやく笑いが収まったところで、目尻に浮かんだ涙を拭った。

「確かにそうだね。でもこれでもちょっと勇気がいったんだよ」

 中途半端な物を用意するよりもその分の予算を別のところに回したいという事で、衣装は各自で用意することになっていた。部活に所属している子達は男子部と女子部で交換してる子が多かったけれど、帰宅部の私は学ランを着ている。文化祭という非日常では何とも思わなかった服装でも、こうして外に出てしまうと恥ずかしさはにじみ出た。

「その学ラン、誰に借りたの」
「親戚のお兄さんだよ。今大学生で、お古を貸してくれたの」
「そう」

 短く相槌を打った越前くんはいつものポーカーフェイスに戻っていた。
 駅のホームベルの音が響き渡り、電車が到着する。扉が開き、私達は乗り込んだ。







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