ファーストフード店にて、80センチ。
青春祭を終えてすぐにやってきた中間テストもなんとか凌いでいたら、11月はあっという間に終わってしまった。木枯らしの吹く12月――まだ月も始めだと言うのに、町には既にクリスマスの空気が流れている。今日は友人が風邪でお休みだからひとりの下校なんだけど、商店街に流れる楽しいクリスマスソングを聞いていたらまっすぐ帰る気になんてなれなかった。
だから電車に乗る代わりに、駅前のハンバーガー屋さんに寄る事にする。一番小さなサイズのドリンクとポテトを頼んで、空いている席に落ち着いた。そしてかばんからノートと筆箱、電子辞書、それに本を取り出す。以前越前くんの頑張る姿に触発されて、思わず買ってしまった洋書だ。あれから時間を見つけては分かりそうな所はそのまま読んで、ややこしい文章や分からない単語はノートにまとめて、という事を繰り返しているのだ。やっている事は英語の授業とそんなに変わらないのに、好きな本だとこんな作業も楽しく感じられる。けれどこの数か月間毎日読んでいるのにも関わらずページは半分くらいまでしか進んでおらず、その半分も分からない箇所は飛ばしているのもあったりと正直順調とは言えなかった。
今だってこの文章にある単語を直訳しても意味が通らなくて、でも辞書で調べてもそれらしいものが見つからなくて頭を抱えているのだ。やっぱりいきなり一般書は無理だったのかな……、と挫けそうになる。
「――あれ、みょうじじゃん」
そんな心情を知ってか知らずか、頭上から私の名前を呼ぶ声がした。顔を上げると、そこにいたのはトレーを持った越前くんだったのだ。
「ここ、誰か来る?」
越前くんは視線だけで私の向かいの席を示した。いつの間にか外は真っ暗になっていて、狭い店内は空席がないほど込み合っている。私は慌てて向かいの席から通学かばんを取り上げ、今まで自分が座っていた壁側の席を指す。
「ごめんね。すぐ帰るから、ここ座って?」
「俺もひとりだし、別にそこまでしなくても良い」
そう言って越前くんは向かいの席に座る。私は仕方無く上げた腰を戻した。ここで帰るのも避けてるようで感じが悪いもの。未だに残るポテトを口にするとすっかり冷たくなっていて、時間の過ぎる早さに驚く。
「何してたの?」
ハンバーガーをひとくち食べてジュースを飲んだところで、ふいに越前くんが口を開いた。視線は広げられたノートに向かっている。私は慌てて本を閉じて胸に抱え込んだ。私がこうして洋書に挑戦している事はお母さんにだって秘密の事なのだ。誰かに、ましてやアメリカ帰りの越前くんに見られるなんて、そんなの恥ずかし過ぎる。
「英語……宿題じゃ、ないよね」
けれど既に遅かったようで、越前くんの指摘にみるみる内に顔が熱くなる。えーっと、あの、とか言葉にならない音を並べてはみたけれど、どうしても誤魔化しきれなくて。観念した私は遂に事情を話してしまった。
「よくそんな面倒な事できるね」
すると返ってきたのは怪訝な表情とこの一言だった。もっともだなと思い、そう思ってしまった自分自身に苦笑する。
「でも、楽しいよ」
「意味分かんない」
「……越前くんにとってのテニスの練習、かなぁ?」
面倒だけど、好きな本だから楽しい。と続けるといくらか納得したのか、越前くんはぶっきらぼうに相槌を打ってからまたハンバーガーにかじりついた。
「辞書で調べてもわかんない場所があったりして、ちょっと苦戦してるんだけどね」
「どれ?」
短く発せられた言葉は一瞬なんだったのか分からず、私は思わず聞き返してしまった。すると越前くんは視線をノートから外し、ポーカーフェイスのままポテトをつまむ。
「だから、俺でよかったら教えるけど」
「あ、えっ、と、」
思わぬ申し出に戸惑いながらも私は抱えていた本を開いた。しおりを挟むのを忘れてしまったから、該当のページを探すのに苦労して余計に焦ってしまう。やっとの事で見つけた箇所を見せると、越前くんは少し考え込んだ。小さな声で「日本語だと」とつぶやいたのが聞こえる。
「すっげーいっぱい雨が降ってるって意味」
「……土砂降りって事?」
「そう、それ」
考えもつかなかった意味に面喰いながらも、いっその事と思って同じページの違う箇所を指さす。
「じゃあ、こっちは?」
「やる事いっぱい、みたいな」
言われた通りの意味を当てはめて訳すと、どうしても分からなかった文章がぴたりと意味を成した。大好きな主人公が頭の中でそのセリフを言っているのが想像できる。
「……すごい。意味が通ったよ!」
なんだかとても感動してしまって、私は何度もお礼の言葉を繰り返した。越前くんは「大袈裟すぎ」なんて言いながら呆れた笑顔を浮かべている。
そしてひとしきり感激して冷静になってから、私はおずおずと切り出した。
「あの、もし越前くんの邪魔じゃなかったらで良いんだけど、分からなくなったらまた聞いても良いかな?」
図々しいかな、迷惑かもしれない。なんて不安を他所に、越前くんはハンバーガーを食べ終え、ジュースも空にした後で再び口を開く。
「暇だったらね」
その様子に拒絶の意思も社交辞令も感じられなくて、私はそれだけでどうしようもなく嬉しかった。
*****
それからも数回、越前くんには英語を教えてもらった。しっかり勉強を教わるわけではなく、何々ってどういう意味かな?と聞いて答えをもらうだけの短い会話だ。けれど席が離れてしまった今では、接点のない彼に教室で話しかけるという事は随分と勇気のいる事だった。越前くんはぶっきらぼうながらも毎回邪険にせずに答えてくれて、時々そこから会話が発展する事もあったり。
今日は私達にとって2学期最後の図書当番の日――あと2日で冬休みだからか、今のところ本を借りにくる生徒はいない。その代わり思いっきり読書と質問ができるのは私にとって願ったり叶ったりだった。
そして……私は最後のページをめくり、本を閉じる。生まれて初めて外国語の小説を丸々一冊読み終わったという達成感と、読了後の余韻が相まって胸がいっぱいだ。
貸出カウンターの内側、隣に座る越前くんを見る。向こうも私の様子に気が付いたのか、互いの視線がぶつかった。
「越前くん、読み終わったよ……!」
「やるじゃん」
持参したテニス雑誌をめくるのを止め、越前くんは頬杖をついたまま片方だけ口角を上げる。私は今しがた読み終えた本を抱きしめた。お気に入りの物語が一層愛しく感じる。
「越前くんのおかげだよ。本当にありがとう」
「大した事してない」
私は首を横に振る。口は勝手にそのあとの言葉を作っていた。
「越前くんのテニスしている姿がきらきらして、どきどきして。私も何か頑張れるものがほしいって思ってこの本を読み始めたの。だから越前くんのおかげだよ。………………あ、」
また変な事言っちゃった……! いつも言い切ってから失態に気付いて、どうしようもなく恥ずかしくなるまでがセットだ。いつの頃からか身についていた悪癖は私の悩みの種だった。引いてないかな、なんて不安がる私を他所に越前くんは軽く笑って頬杖をやめ、机の上で居眠りをするみたいに両腕を組んで頭を乗せる。顔は横を向いていて、揶揄う意地悪な目線が私を見上げていた。
「その癖、また出てる」
「直します……」
「直さなくても別にいいんじゃない? 俺は嫌いじゃない」
思ってもいなかった言葉に私は目を見開いた。越前くんは再び頬杖をつき、まっすぐ前を向いている。
「……本当に?」
自分でも驚くほど声が震えていた。心臓の音がうるさすぎて、耳元でなっているみたいだ。
「何考えてるか分からないよりはマシ」
いつの間にかいつものポーカーフェイスに戻っていた彼の表情から感情を読み取るのは難しく、分からないのはこっちの方だよ、と心の中でつぶやいてしまった。おかげで肩の力が抜ける。
仕切りなおそうと私はもう一度お礼を述べた。そして手伝える事があったら何でも言って欲しいと続ける。例えば国語とか、越前くん前に苦手だって言ってたし。
「国語って教わるものでもなくない?」
普段の歯に衣着せぬ言い方とは打って変わり、越前くんは微妙な顔をしていた。彼の言い分は最もで、言い出した私でさえも困ってしまう。けれどどうしてもお礼がしたくて頭をひねっていると、不意に一冊の本を思い出した。
一目散に目的の棚に向かう。〝漫画で分かる日本史・松尾芭蕉編〟と書かれた本を見つけて、手に取って再び貸出カウンターまで戻った。越前くんの前に置いたら怪訝な顔をされて、表紙と私を交互に見られる。
「何、これ?」
「漫画だから読みやすいし、歴史の本だけど登場人物の心情とか詳しく書いてあるから、国語にも役立つかもと思って」
「文化祭の前に教えてくれれば良かったのに」
「あ……そうだったね」
あの時はとっさに聞かれて思いつかなくて、でもテニスの本も読んだけど実際おすすめだったし。と色々言い訳を並べている内に越前くんはまた呆れたように短くふきだした。鋭い、挑戦的な視線が柔らかくなる。
「暇で暇でしょうがないってなったら、読んであげても良い」
そんな事を言いつつ越前くんは本の裏にある貸出カードを取り出し、自分の名前を書く。そしてカードはカウンターの引き出しに、本はかばんの中にしまった。
良かった、と私は理由もなくほっと胸をなでおろしたのだった。
―――― ……。
図書当番が終わり、私は荷物を取りに教室へ、かばん持参だった越前くんはそのまま部活へ向かった。
教室に入ると女の子が何人か残っていて、その内のひとりに名前を呼ばれる。今日は先生の手伝いをしている友人と靴箱で待ち合わせだったので、輪には加わらずに手を軽く振って愛想笑いを浮かべた。理解してくれたのか、その子は会話に戻る。
「っていうか知ってた!? 越前くんの誕生日、今度の金曜日なんだって!」
「えーうそ、クリスマスイブ? 終業式の後じゃん!」
女の子達の会話は自然と耳に入ってきた。誕生日プレゼントを用意しようかと盛り上がっているのを聞いて、やっぱり越前くんは人気なんだと改めて感心する。
忘れ物がない事を確認してみんなにバイバイと告げてから玄関に向かうと、友人はまだ到着していなかった。時間がかかる時は連絡してくれる手はずになっているけれど、携帯電話にはまだなんの履歴も入っていない。
――越前くんの誕生日、今度の金曜日なんだって!
不意に、先ほど聞いた言葉が頭の中で再生された。足が自然と傍の自動販売機に向かう。
図書室では結局自分の好みを押し付けるような形になっちゃったし、やっぱりちゃんとお礼がしたいな。もうすぐ誕生日ならちょうどいいかな。なんて思いながらポンタを買った。もう一度廊下と携帯を確認して、友人がまだ来ない事を確かめてから靴を履く。
今頃練習を始めているであろう越前くんにどうやって渡そうか考えながらテニスコートに向かっていると、校舎裏で目的の姿を発見した。越前くんは女の子と向かい合って立っていて、思わず今しがた曲がった角に隠れる。こんな人気のないところに二人きりでいるなんて、何が起こっているかは明白だった。
だめ、早く離れなきゃ、と思っているのに、足は棒のように動かない。
「あの、私……、越前くんが好きです。付き合ってください!」
「ごめん、そういうの興味ない」
思った通りだった。越前くんの冷たい声の後に、女の子が息を飲んだのが分かる。次に聞こえたその子の声は明るいものだったけれど、泣きそうなのを必死で我慢しているのは嫌でも伝わってきた。
「じゃ、じゃあ誕生日プレゼントだけでも! 越前くんの為に一生懸命選んだ物だから、受け取って欲しいな!」
「……貰うだけだから。期待とか、しないでね」
「分かってる」
時間取らせてごめんね。そんな言葉の後に、こちらに向かってくる足音がする。ようやく動くようになった足で私もはじけるようにその場を離れた。
2年生の靴箱まで戻ると、幸いな事にまだ友人は来ていなかった。靴箱に背中を預けたら、力が抜けてその場に座り込んでしまった。
越前くんに告白していた子と自分が重なる。貰うだけだから、期待とかしないでね。その言葉が、私を暗くて深い穴に突き落とすようだった。……私ったら、またいつの間にか勘違いしていたみたい。
あの子はきっと、越前くんに何か月も片想いをしていて、越前くんの事を考えながら何時間も悩んで、やっとプレゼントだけを受け取って貰えたんだ。そんな子の後に、ついでに買ったプレゼントなんて渡せない。お礼に託けて受け取って貰おうだなんて、そんなズルい事は、できない。
ずっと握りしめていたポンタの缶が冷たくて、指が痛い。プルタブを開けると炭酸の抜ける音がした。一口流し込む。とろけそうなほどの甘さとは裏腹に、液体は食道を切りつけるような冷たさで下っていった。
スポーツプレイヤーの身体を冷やしちゃいけないよね。こんなもの、渡さなくて良かった。と自分に言い聞かせる。冬風も相まって、私の身体はぶるりと震えた。