脚立の上と下、2メートル50センチ。
冬休みが終わって、気が付けば校庭の桜が蕾を膨らませていた。3学期は短く、あっという間にもう春休みが来てしまう。
越前くんが告白されているところに遭遇してしまってから、私達の間に会話らしい会話はなかった。席だって2学期のままだから遠いし、例の洋書を読み終わってしまった今わざわざ話しかけに行く用事もない。図書委員の当番が回ってきた時もカウンターにはあまり近寄らず、なるべくゆっくり本の整理をして乗り越えた。
そして終了式を1週間後に控えた今日は、図書委員総出の委員会がある。毎年年度末になるとこうして蔵書の一冊一冊を確認して、紛失や損傷がないか調べているのだ。
「――では、同じクラスの男女でペアになって、配られたプリントに書いてある棚に向かってください。男子は準備室の脚立を持って来てからの移動をお願いします」
委員長の言葉を合図にみんながぞろぞろと立ち上がる。私も倣って本棚に向かった。2年4組の担当は図鑑のコーナーで、自分達の背よりもずっと高い棚に大きな本がこれでもかというほど陳列されている。ここには立ち寄った事がないので新鮮だ。
動物図鑑にきのこ図鑑、鳥類図鑑と背表紙を眺めていると、しばらくしない内に脚立を担いだ越前くんがやってきた。少し、肩に力が入る。私はそれを悟られないよう、なるべく笑顔で本棚の向こう側を指さした。
「じゃあ私、あっちの本から見ていくから、越前くんはこっちから……」
「脚立1台しかないけど、上の方どうすんの」
「……手を伸ばせば届くかな」
「届いても重た過ぎて取れないだろ」
最もな意見に言葉が出なかった。口をつぐんでいると、ため息が聞こえて私の心を苛む。越前くんはおもむろに脚立を広げ、一番上まで登った。
「俺が番号読んでくから、みょうじはリスト書いて。その方が早い」
有無を言わせない態度に頷くしかなかった。私達は作業を開始する。
図書室に所蔵してある本は背表紙に分類を表すシールが貼ってあり、裏表紙を捲った所に青学独自のシリアルナンバーが書いてあった。その両方を用紙に書かなければいけない為、一冊一冊取り出す必要がある。
「背表紙が002のタ、中は768、割ときれい」
「002の、タの、768、と。次いいよ」
「こっちは002のシ、795。……これ絶対誰も触ってないだろ」
ため息交じりの越前くんが新品同様の毒草図鑑を本棚に戻す。私は乾いた笑いを上げながらリストに数字と、本の状態が良い事を表す二重丸を書き込んだ。
「次、どうぞ」
「最近俺の事避けてない?」
「さい、きん、お……えっ?」
言われた事を機械的に紙に写して、途中で気が付いて顔を上げた。越前くんは本を持っておらず、脚立に座ったままの状態で腿に肘を置いて頬杖をついている。鋭いナイフのような視線を見つけて、思わず目を逸らしてしまった。口が勝手に愛想笑いを作る。
「どうしてそんな事聞くの?」
「質問を質問で返すのはズルい」
「……ごめん」
「別にいいけど」
声に込められた非難は無視できなかった。居心地の悪さを誤魔化すように私はしゃがむ。床に置いていた筆箱を開いて消しゴムを取り出した。
「みょうじ、俺に話しかけてこなくなったよね」
「本、読み終わったから。用事も特になかったし」
明確な理由があって避けてる訳じゃない。ただあの日、越前くんに告白した女の子の事を思い出すと、私なんかがこうして気軽に話している事に申し訳なく感じてしまうのだ。
「あっそ」
越前くんのいらだった声を浴びながら、私は必死で書き損じた部分に消しゴムをこすりつけた。シャープペンシルで書いた文字が黒く伸びて、すぐ上の数字を巻き込みながら消えていく。その数字は消しちゃいけない場所なのに。かろうじて残った部分を補うように修復すると、妙にいびつな数字が出来上がった。なんだか今の私の心みたい、なんて。
「次、002のフ、中は213、古い」
これ以上こんな会話続けても無駄だ、とでも言うように、越前くんは作業に戻る。私もそのままリストを再開するしかなかった。
―――― ……。
作業は思いの外早く終わった。私達が担当した本棚は確かに大きかったけれど、その分図鑑は一冊一冊が分厚くて、冊数自体はそこまで多くなかったのだ。
越前くんは脚立を、私はリストと筆箱を持って集合場所まで戻る。会話はない。最近は無理に話題を探さなくても気まずくなかったはずなのに、こんなに重い空気は久しぶりだ。
……このまま、越前くんと距離が離れちゃうのかな。
不意にそんな考えが頭をよぎる。この委員会が終われば図書館は来年度まで閉鎖されて、教室でも何も話さないまま春休みが来て、3年生になって今日までの事がなかったかのように別のクラスで別に過ごす……。そんなのは、嫌だな。
「ポンタをね、」
慎重に口を動かす。今日はいつもみたいに勝手にしゃべらせてはいけない。
越前くんは立ち止まり、いぶかしげな視線をよこした。
「越前くんにあげようと思ったんだけど、飲んじゃったの」
恥ずかしかったし、気まずくて。と続ける。完全に本当の事を言っているわけじゃないけど、嘘は言っていない。なのに居心地の悪さはどうしても残って、少しでも隠れたくて前髪に手を伸ばした。伸びてきた部分が視界を狭めてくれる。
「……それだけ?」
顔を見なくても、いまいち信じてもらえてないのは分かった。けれど頷くしかない。
「本当に、それだけ?」
「本当に、それだけ」
「…………みょうじって、バカ?」
たっぷりと間を空けて返ってきたのは心底呆れた声だった。直球な単語とは裏腹に言葉尻に棘が感じられず、ようやく私は顔を上げる。越前くんは呆れを通り越して戸惑っているようですらあった。そんな彼の様子に私は安心してしまい、力が抜ける。酷いなぁ、と控えめに苦笑した。
「誕生日プレゼントのつもりだったんだよ。でも飲んじゃって、情けなくて」
「だって、言わなきゃ分からなかったのに」
「……確かに」
神妙な顔で頷くと、今度こそ越前くんは「ほんと、バカだね」と笑ってくれたのだった。
それから倉庫で脚立を片付けて、貸出カウンターで待つ先生に用紙を渡した。先生は紙面を軽く確かめてから、もう帰って良いと告げる。私達はかばんを回収し、図書室を後にした。
最上階から1階まで下って靴箱にたどり着く。その間会話らしい会話はなかったけれど、今度は気まずく感じられなかった。
「みょうじはさ、来年も図書委員やるの?」
越前くんの問いに、ローファーに足を入れながら「そのつもりだよ」と短く答えた。運動靴に履き替える越前くんはしゃがんでいて、表情が見えない。
「どうかしたの?」
「別に。ほんと物好きだなって思っただけ」
じゃあ、と軽く手を上げると越前くんは行ってしまった。
彼の背中が小さくなって、曲がり角に学ラン姿が消えても、私の足は動くことを忘れたままだ。バイバイ、と顔の横まで上げていた手で口元を押さえる。
お願いだから、これ以上勘違いさせないで。舞い上がらせないで。じゃないと、私、
「……いやいやいや、違うんだってば」
期待、しないでね。越前くんの無情な声が、もう一度、頭の中から聞こえた。
大丈夫、分かってる。越前くんは、みんなの王子様なんだから。
*****
それから何事もなく終了式を終えて、春休みも過ぎて私は中学3年生になった。友人とは春休みの間に何度か遊んで、その度に「同じクラスになるといいね」なんて、去年と似たような会話をする。
そうして迎えた始業式当日
貼り出されたクラス表をチェックすると、3年6組に無事自分と友人の名前を見つけた。けれど案の定というか、6組の一番最後まで見ていっても越前くんの名前はなく、落胆する心を無視できない。
新しいクラスでの自己紹介はやっぱり緊張したけれど、その後の委員会決めで図書委員にもなれた。今回は友人も放送委員を受け持ったので、私達はホームルームが終わってからそれぞれの委員会に向かう。
そして図書室で決められた場所に座った時、斜め前に座る人物を見て私は目を見開いたのだった。
「え、越前くん!?」
「チッス」
頬杖をついたまま、越前くんは目線だけをこちらに向ける。好きで続けている私とは違って彼があまり図書委員の仕事を歓迎しているとは思えなかったから、今日ここでその姿を見るのは意外だった。
「……もしかしてまた寝てたの?」
だからだろう、どうしてと問う代わりに出てきたのは別の言葉だった。越前くんは眉間に縦皺を薄く作って、心外だとでも言うように「違う」と答える。
「あの漫画、新作出るって聞いたから」
「歴史のやつ?」
「そう。みょうじの言った通り分かりやすかったし、新選組がかっこよかった」
図書委員になればわざわざ借りに来なくても読む時間ができるし、誰もやりたがらなかったから。なんて越前くんが続けるのを、私は暖かな気持ちで聞いていた。
あれから本当に読んでくれていたとは思ってもみなかったし、それも別の本にまで興味をもってくれていたなんて。同じものを好きなってくれたのが嬉しくて、心はふわふわと飛んでいってしまいそうだった。思わず饒舌になる。
「新選組が好きなら、源義経もおすすめだよ。あと坂本龍馬」
「坂本龍馬は読んだ。義経は今度読む、暇だったらね」
坂本龍馬は同じ名前だから読んだの? なんて聞くと、越前くんは軽く笑って肯定した。
それからすぐに先生が図書室に入ってきて、私達は口を閉じたのだった。