​校庭にて、10メートル。


 日に日に湿度も気温も上がる6月の土曜日――
 半袖の制服に腕を通し、私は朝から制服で青春台の駅に降り立った。今日は体育祭の日なのだ。

 学校に到着したら、男女に分かれて体操着に着替える。校庭の指定された場所にクラス毎に座って、軽快な音楽とともに体育祭は始まった。運動があまり得意でない私だけれど、全員参加が必須の為に身体能力があまり問われない借り物競争に参加することになっている。
 放送委員の仕事がある友人は始終近くにおらず、午前中はみんなと一緒に応援に徹した。
 そうしてお昼ご飯休憩直前、

『借り物競争に出場する生徒は、入場門に集まってください。繰り返します……』

「なまえちゃん頑張れ!」
「1位取れよみょうじー!」

 クラスメイトに見送られながら、私は緊張しつつも集合場所に向かったのだった。
 体育祭の競技は全て、学年関係なく行われる。種目によって代表者は1人だったり2人だったりで、借り物競争では私の他に男子がひとり出場していた。けれど一緒に走るわけではなく、スタートラインに立ったのは私が先だった。緊張と気温のせいで伝う汗を手で拭う。

「位置について、よーい……ドン!」

 乾いたピストル音が響いたのを合図に一斉に走り出した。お題の紙が書かれた場所までは100メートルあって、そこで私はあっという間に差を開かれてしまう。走るのは苦手だ。
 走者の数だけ地面に並べられた紙はどれを取っても良くて、一度だけ交換も可能というルールになっている。先の走者の何人かが右端のを取ったあと、全員が別のものに交換するのが見えた。そんなに大変な何かなのかな、と疑問に思いながらも、ビリになってしまった私は仕方なく残った例の札を取り上げる。
 そこに書いてあるお題を見て、驚くと共に納得してしまった。

〝異性の友達(好きな人でも可!)〟

 茶目っ気たっぷりな字は何度読み直しても同じ事が書いてある。
 みんな交換するのは当たり前だ。こんな公開告白もどき、恥ずかしくてとてもできない。

「こ、交換お願いします!」

 近くにいた実行委員の人に呼び掛ける。けれどその人は含みのある笑いを浮かべながら、

「ごめんね。それ最後だから、交換はなしです!」
とだけ言うのだった。

 どうしようどうしようどうしようどうしよう……。先ほどとは違う種類の汗が背中を流れる。男の子が苦手って訳ではないけれど、クラスメイトに友達と言える程仲良くなった男の子はいない。
 唯一割と話す男子と言えば……と思う頃には私の視線は既に、頭に浮かんだ人物を見つけていた。でもだって、そんなの余計に勇気がいる人物だ。

『3年6組止まっています! どうしたのでしょうか!?』

 放送は紛れもなく友人の声だった。それを合図にクラスの席から応援の声が聞こえる。いつもでもこうしている訳にはしかないし……仕方がない。
 色々な感情が混ざって泣きそうになりながらも、私は意を決して3年7組の陣地に向かった。

「お願い、一緒に来て!…………越前くん!」
「俺?」

 周りの生徒がざわめく中、呼ばれた本人は目を丸くしている。青学レギュラージャージとは違う学年色の体操着を着て、トレードマークの帽子がない姿は新鮮だった。私は目が回りそうな程の羞恥心を抑えて、必死で頷いた。

「……ポンタ」
「何本でもおごる!」
「そうこなくっちゃ」

 いつもの不敵な笑みを浮かべて、越前くんは立ち上がる。そうして私の右手首をつかんで走り出した。

「どうせ取るなら1位デショ!」

 テニス部で鍛えている越前くんの走りは流石というか、足がもつれそうなくらい早くて、それでも転ばなかったのもやっぱり彼が引っ張ってくれたおかげだった。

『3年6組速い! 最下位からまさかの逆転です!』

 夢を見ているような気分のまま、友人の放送が耳を通り抜けていく。まさか本当にゴールテープを切る事ができるとは思ってもいないかったので、1と書かれたフラッグの許に誘導されても私はまだ呆気に取られていた。息もいまだに上がっている。肩を上下させる私の横に、越前くんが「まだまだだね」と笑いながら腰を下ろした。なんとかお礼だけは述べる。

「お題、なんだったの?」
「……異性の友達」

 私の答えに越前くんは納得したように低い声をあげた。かっこの中は言ってないけど、本当の事だ。実際に友達と言えるくらいよく話す男の子は越前くんしかいないし、好きな人ではないけれどそれはだって、オプションだもの。
 私達が会話をしている間にも後続の人が次々に案内されて来る。その内のひとりが越前くんの姿を見るなり走り寄ってきた。

「越前部長、足早すぎッスよー!」

 緑色のジャージは2年生の学年色だ。気さくに越前くんに話しかけているし、テニス部の後輩なのかな。

「俺なんて校長のネクタイ取って来いって書いてあって、職員室まで行ったんスからね!」
「まだまだだね」
「相変わらずクール……。さすが地区大会失点なしの事だけはあるっすね」
「それ今関係ないし。っていうか4位のとこに座ったら」
「うぃーッス。また部活で試合してくださいねー!」

 元気よく手を振って後輩くんは少し離れた場所に座る。部長として親しまれている越前くんの姿は新鮮だけれど、それ以上に私はある事に戸惑いを隠せないでいた。

「地区大会?」

 越前くんに声をかける。なんでもないように「テニスの。この間あった」という返事があった後で、私の顔を見た越前くんが「あ゛、」と顔を歪めた。

「もしかして、来たかった?」

 返事をする代わりにひとつ頷く。私そんなに酷い顔してるのかな、と咄嗟に頬をむにむにと抓った。それでも言いたい事は忘れない。

「私すっかりテニスのファンになっちゃったんだよ。大会、毎回楽しみにしてたのに」
「ごめん。けどクラスも変わって、日程とか知らせるタイミングもなかったし」
「それはそうだけど……」
「じゃあ後で連絡先教えて。大会の日程送る」

 思わぬ申し出に「え、」としか声に出せなかった。何か言わなきゃと思っていると、校庭に退場のアナウンスが響く。周りが一斉に立ち上がったので、返事をするタイミングを逃してしまった。私も慌てて腰を上げる。暑いな、と汗を拭うのに合わせて視界いっぱいに様々な色の粒が弾け、目の前が暗くなった。

「みょうじ?……みょうじ!?」

 越前くんの声が聞こえたような、聞こえなかったような。
 あれ、おかしいな。目なんて瞑ってたっけ。
 そう思う頃には、私の意識は途切れていた。

*****

 ぬるま湯に浸かっていたような意識が急に引っ張り上げられるような感覚があって、私は目を覚ました。もう、朝?……あれ、違う。ここ家じゃない。
 天井を見てもここがどこだか分からず、未だぼーっとする頭を引きずりながら起き上がる。すると目に飛び込んできたのは周りを囲むカーテンと、ベッドの縁で頬杖をつき目を瞑る越前くんだった。呼吸が止まる。え、うそ、なんで、こんなところに越前くんが!?

「……目、覚めた?」

 それだけ言ってから越前くんは目を開けた。そのまま立ち上がりカーテンの向こうに消える。何が起こっているのか全く分からないまま、彼はすぐに戻ってきた。

「これ、飲んで」

 手渡されたのは霜のついたペットボトルだった。ラベルはなく、保健の先生の名前が書いてある。言われるまま口を付けると、薄めのスポーツドリンクと、少しだけ塩の味がした。一息ついて、改めて越前くんを見上げる。

「私、一体……」
「倒れたから運んだ。軽い熱中症だって」

 言われた事が信じられなかった。咄嗟に「ごめん!」と荒げ、手を合わせる。越前くんは感情があまり伺えない顔で、再びパイプ椅子に座った。

「別に。隣で倒れられたら、運ばない方が変だし」

 いつも通りのクールな彼をよそに、私はますます狼狽える。
 運んだってどうやって? 私、重かったかな? きっと、いや、絶対重かったよね。ダイエットしておけばよかった……。
 嵐のような心中ではそんな事聞けず、悩みぬいた私は当たり障りのない事を言っていた。

「私どれくらい寝てた?」
「そんなに。昼飯終わって、今は午後の部の途中」
「ずっと居てくれたの……?」
「涼しいから、ここ」

 確かに暑い運動場とは違って、クーラーがかかっている保健室は居心地がいい。迷惑をかけたとは言え納得のいく答えに、私はようやく胸を撫で下ろした。
 あとこれ、と越前くんが椅子の上を指し示す。そこには見覚えのある鞄と制服が置かれていた。

「先生が持ってきた荷物。目が覚めたら帰っても良いって言ってた。……じゃ、俺は校庭戻るから」

 再び立ち上がり、越前くんはカーテンに手をかける。考える前に手が彼の体操着をつかんでいた。倒れる直前に話していた事を思い出したのだ。

「なに?」
「あ、えっと、」

 慌てて鞄をあさり、携帯電話を取り出す。この機会を逃したらもう次が来ないかもしれない。

「連絡先、聞いても良いかな」

 テニスの大会、また行きたいから。
 そう続けると越前くんは納得したように短い声を上げ、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。向こうの情報を表示してもらい、こちらからメッセージを送る。互いの連絡先を登録した事を確認して、今度こそ越前くんは保健室を去って行ったのだった。

 けれど私は、未だベッドの上に座ったまま、電話の画面を見つめて動けないでいる。
〝越前リョーマ〟の字が、まさかこの画面に現れる日が来るなんて、嘘みたい。今思えば自分から連絡先を聞くだなんて、どうしてそんな大胆な事ができたのだろう。越前くんが優しい人で、交換してくれて良かった。

 どうにか動悸が収まってから、改めて携帯を操作する。メッセージ画面を開いて、友人に先に帰ると連絡した。
 ベッドから抜けて、着替えて校舎を出る。校庭ではまだ運動会が行われているというのに、ひとりだけ制服を着て遠くから見ているのは不思議な気持ちだった。

『次は、クラス別選抜リレーです。選手の方は……――』

「あ、この声、」

 再び友人の放送が流れて、自分に向けられたものではないからか、今度は意味もなく楽しい気持ちになる。競技中も応援の声が入るだろうし、どうせだからここで少しだけ見ていこう。

 さすが体育祭の花形競技というだけあって、リレーが始まると代表選手たちは信じられないスピードで競い合っていた。そしてレースも中盤の第三走者で、私はその人を見つける。
 バトンを受け取ってきれいなフォームで走る越前くんは、あっという間に先の2人を抜いて1位でアンカーにバトンを手渡した。

「すごい……!」

 誰もいない校舎の片隅、私は感嘆の息を漏らす。
 声と共に出た吐息にやけに熱がこもっているのは、きっとこの暑い日差しと熱中症のせいだ。







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