コートの中を見守る、20メートル。
〝ピロン〟
そっけない電子音が部屋に響く。聞き慣れた受信音なのに、大袈裟に飛び上がってしまった。いそいそと携帯電話を取ってベッドに寝転ぶ。祈るように画面を見ると、メッセージの差出人に〝越前リョーマ〟と表示されていた。待ち侘びた人物からの連絡に安堵と緊張が重なる。今日は全国大会のトーナメント抽選日だと事前に教えてもらっていたから、一日中そわそわと待っていたのだ。
『会場今年は神奈川。来れる?』
「だい、じょう、ぶ、だ、よ、……」
体育祭の日に連絡先を交換してから、越前くんとは何度かメッセージのやりとりをしている。それは主にテニスの大会の日程を教えてもらう事だったり、図書委員の事務的な連絡だったりで、回数こそ少ないけれど、その度に緊張しながら返信したものだ。関東大会で青学が優勝した後にお祝いの言葉を送った時なんて、緊張しすぎてお腹が痛くなったくらい。
今だって、一言だけだとそっけないかなとか、最後に絵文字を付けた方が良いかなとか、たったそれだけの事でもう3分は悩んでいる。越前くんのメッセージは絵文字も顔文字もない短いもので、けれどそれが彼らしかった。
悩みに悩みぬいた末、結局笑った猫の絵文字だけを付けて送る。越前くん、猫派だったらいいな。
すると数分後、もう1度携帯が短く鳴った。返信が来るなんて思ってなかったから、びっくりして携帯を顔に落としてしまう。鼻をさすりながらメッセージ画面を開くと今度も簡潔なメッセージが現れた。
『猫好きなの?』
す、き、だ、よ、と打ち込んでから、画面を見つめる。猫の事だって分かってるけど、〝好き〟という単語自体なんだか無性に恥ずかしくて、その4文字を消して『うん』とだけ打ち直した。それからあと少しだけ勇気を出して、私からも質問を返す。
「え、ち、ぜ、ん、く、ん、は……と」
〝ピロン〟
しばらくして返って来たのは猫の画像だった。
『俺も』
たった2文字の短い返信なのにどうしようもない感情が沸き上がって、変な声が出てしまう。枕に顔をうずめて、衝動にかられるまま足をジタバタさせた。
8月の熱帯夜も相まって、なんだか、とても暑い。
*****
次の日は出校日だった。
茹だるような暑さの体育館で校長先生の話を聞いて、読書感想文と美術の課題を提出して、最後に校舎の掃除をする。
私の班が担当するのは裏庭の草むしりで、そこはなかなかに広いために持ち場に別れるとほとんど1人のような状態だった。掃除の終わった生徒から下校して良いと先生が言っていたので、頑張って早く終わらせよう。
夏休みの間に伸びきった雑草を抜いていくと、時間の感覚がなくなってだんだん無心になる。辺りで聞こえる筈の掃除の音楽やクラスメイトの喋り声がフェードアウトしていって、蝉の鳴き声なのか耳鳴りなのかすら曖昧になってきた、その時、
不意に右の首筋に何か冷たいものが触れた。
「っ、ひゃあああっ!!?」
心臓が口から飛び出ちゃうんじゃないかと思うくらい驚いて、全身が飛び上がってしまう。思わず振り向くと、越前くんがポンタの缶を両手にひとつずつ持って立っていた。
「……ごめん、そんなに驚くなんて思わなかった」
越前くんは鳩が豆鉄砲でも食らったような顔でポツリと漏らす。ようやく落ち着いてきた私は息を整えがてら首を横に振った。
「き、気にしないで」
私の言葉に越前くんは相槌を打ってから左手のポンタを差し出す。これは? と言う疑問を込めて首を傾げると、「こっちはみょうじの」と言われた。お礼言って、受け取る。プルタブを開けると炭酸の開放される音がした。冷たいジュースが喉に心地良い。みんな暑い中頑張ってるのに、と思うと少し罪悪感だ。
「みんな掃除してるけど、良いのかな?」
すると越前くんは怪訝な顔をして
「掃除の時間、もう終わってるけど」
と言うのだった。
「えっ、うそ……!?」
辺りに注意を向けてみるといつの間にか掃除の時間に流れる音楽は止まっていて、生徒の声も下校したり部活に向かっているような雰囲気だ。いつの間にか草むしりに夢中になっていたみたい。
「集中しすぎ。また倒れたいの」
揶揄うような言葉にむずむずと居心地が悪くなる。恥ずかしくて、私はまたひとくちポンタを飲みこんだ。
「……越前くんが〝これ〟くれたから、今日は大丈夫だもん」
それから再びお礼を述べると、「別に。いつも貰ってばかりだし」と返ってくる。試合の度に何か差し入れしなきゃと言う気持ちになって、毎回ポンタを買って行っているのは事実だった。
ちょうど良く話題が出たので、私は切り出す。言い辛い事だったので、声が少し上ずった。
「その事なんだけど、」
目線で促されて、私は続ける。
「ポンタ、もう前みたいに買えないかも。今月はいつもよりもたくさん本を買っちゃって」
それに神奈川への交通費を考えると、もう自由に使えるお小遣いがあまりない。
知り合いと言う事で堀尾くんにも差し入れをしているし、500円程度の出費でも重なると地味に痛かった。
私の言葉が意外だったのか、態度が意外だったのか、越前くんはぱちくりと大きな目を瞬かせる。
「時々みょうじが律儀なのか馬鹿正直なのか分からない」
「えっ!」
別に毎回期待してない。
そう続けられて、肩透かしを食らったような気分だった。気を遣ってくれたのだろうけれど、期待していないと言う言葉はなんだか「どうでも良い」と言われたようで寂しかった。思わずムキになって続ける。
「でも私、部外者だし、何か差し入れしなきゃ肩身狭くって」
「じゃあ俺が試合で勝ったら、その時は奢ってよ」
私の心情を他所に、越前くんはなんでもないような顔をしてポンタをひとくち飲む。上下する喉仏に目が行ってしまった。
視線に気が付いたのか、彼は「なに?」とでも聞くような横流しの視線をこちらに送る。私は慌てて目を逸らし、「そうする」と答えた。
「まぁ、俺は負けないから、どっちにしろみょうじはポンタ買わなきゃいけないんだけどね」
「なにそれ、ずるい」
「あと堀尾の分もなしね。アイツ関東大会で勝ちなしだったし」
「厳しい部長さんだ」
思わず笑いが漏れる。いつの間にか胸の寂しさは消えて、冗談を言えるくらい私は回復していた。
「じゃあ、俺もう行くから」
最後のひとくちをあおってから、越前くんは部活に行くと告げてその場を立ち去る。
遠ざかるその背中をいつまでも見つめていたいと思う理由を、私はまだ探したくなかった。
*****
そして全国大会はあっという間に当日を迎えた。
越前くんから教えてもらった神奈川の試合会場は電車を乗り継いで1時間のところにある。今年の青学はシードなしの一回戦からなので、遅れないように前日は何度も電車の時刻を確認して、服装や持ち物も確認した。
神奈川まで一人で遠出なんてした事がなかったので少し不安だったけれど、会場まで無事に到着する事もできて、試合が始まると私はあっという間に夢中になった。やっぱりテニスは見ているだけで面白いし、青学のみんなの活躍も凄い。
そして順調に勝ち進み、お昼ご飯も終わって……――ついに、決勝戦
大阪の学校との団体戦はシングルス2の堀尾くんがギリギリのところで勝利し、2対2でシングルス1を迎えた。開始直前に、越前くんはアップから戻ってくる。試合結果の書かれたボードを見やって満足そうに口の端を上げると、肩にラケットをかけて歩き出した。
運良く最前列に座れていた私は、越前くんに声をかける事ができた。
「が、が、頑張って、ね!」
身体の前で両手を握る私に、越前くんは呆れたような目線で一瞥する。
「なんでみょうじの方が緊張してんの」
「だ、だって、決勝戦だよ!? 2対2だよ!」
あまりの緊張にいつもは出ないような大きな声が出た。我に返って辺りを見回す。幸いな事に気にしている人は誰もいないようだ。
仕方ない、とでも言うように越前くんは苦笑して、帽子のつばに手をかける。
瞬間、視界が真っ白になった。頭をぽんぽんと叩かれる。
「ポンタ、用意しといて」
帽子を被せられたんだ、と気付く頃にはもう視界は広がっていて、帽子を被りなおす越前くんの背中だけが見えた。
試合が始まると、私たち観客はみんな魔法をかけられたみたいだった。息をつかせぬスピードで繰り返される黄色いボールの応酬に目を離すタイミングなんてどこにもなくて、点を取られて逆転されても越前くんはむしろ楽しそうにラケットを振る。足を動かす。汗を流す。
そして〝その一瞬〟――世界は無音に包まれた。
「――ゲームセット! ウォンバイ越前、7-5!」
審判のコールで越前くんがかけた魔法はとけて、世界に音が戻ってくる。
歓声や悔し涙を一心に受けて、それでも臆さない彼の表情は試合に勝ったという優越感よりも、楽しいテニスができたというような満足が浮かんでいて、キラキラと輝いていて、かっこいい。
「……好き」
無意識に呟いた言葉に一番驚いたのは私自身だった。
「ちが……!」
う、と続ける事を口が拒否している。
ひとりでパニックになる私を他所に、コートでは男テニの部員が越前くんを胴上げしていた。そして表彰式が行われるという放送を合図に胴上げは終了し、整列する青学の部員の中でふと越前くんと目が合う。それだけなのに私の身体は呼吸の仕方を忘れてしまったようで。
越前くんは缶を持つような仕草をして、〝クイクイ〟と手を口元で2、3度小さく動かした。それから何食わぬ顔で列の先頭へ行き、優勝旗を受け取る。そこまで見届けてから、私は観客席を離れた。
ポンタを買いに行くつもりだったのに、身体は自動販売機の前を通り過ぎ、スタジアムの外に出る。さっきまでとは比べ物にならないくらい胸が高鳴って、頭の中は真っ白なのに、目を閉じても、開いても、越前くんの姿が消えない。
もう一度、先ほどの考えをかき消すように口を開いたけれど、今度は「ち」とすらも声に出なかった。……きっともう、違う、だなんて、ただの憧れだなんて言えない。自分にウソ、つけないんだ。
涙があふれる。
心の中で小さな自分が「やっと認めるんだ?」と意地悪に笑った気がした。
憧れなんかじゃ足りない、もっともっと強い感情……私、越前くんの事が、
「……好き、です」
溢れ出る感情が苦しくて、吐き出すようにつぶやいた私の言葉は、蝉の鳴き声に隠されて誰にも届く事はなかった。