同じホテルの下の階、35メートル。
『全国大会優勝おめでとう! お母さんにおつかい頼まれちゃったから先に帰るね。ポンタは今度必ず渡すから、ごめん』
とだけ越前くんの携帯宛てに送って逃げるように帰ってしまってから、新学期が始まるまであっという間だった。こんな時、今年はクラスメートじゃなくて本当に良かったと思う。だって全国大会の日からもう1ヶ月近く経ってるけれど、越前くんの顔をまともに見れる自信なんて未だにこれっぽっちもないもの。
そんな私の心情なんてお構い無しに学校生活は何事もなく毎日過ぎて行く。中学3年生の2学期といえば修学旅行で、10月に向けて今日から準備が始まった。今日のロングホームルームではまず班を決めて、授業の半ば頃からは自由日の計画を立てる時間となる。
「――じゃあ今日決めた班で3日目の予定を決めて、次のホームルームまでに提出してくれ。って事で今日は解散なー」
チャイムと同時に先生が教室の騒音に負けない声で言い放った。同時に帰りの支度をする子もいれば、席を離れずおしゃべりを続ける子もいる。私も無事普段から仲の良い女の子達と4人の班を作る事ができたので、そわそわしながらも席を離れなかった。
時計を見る。今の時刻は3時45分……今日は図書当番の日なんだけど、いつも4時まであまり人が来ないし、それまでに行けば良いよね。
なんて思いつつ、手元の携帯電話を操作して観光情報サイトを開く。修学旅行の行き先の京都には1度家族旅行で訪れた事があるけれど、友達と一緒に行けるのはそれだけで全く別の新しい場所に行くみたいで楽しみだ。
「あ、ねえねえ、清水寺の近くに有名なあんみつ屋さんあるって」
携帯の画面に映る情報の気になったものから順に言うと、みんながそれに反応して班長がノートに書き留めた。携帯を触っているのは私だけではないから、リストはさっきから長くなるばかりだ。
「ちょっとストップストーップ! こんなにたくさんの場所、1日じゃ回りきれないよ!」
ついに音を上げた班長の子がシャーペンを置き、口を尖らせた。ついつい盛り上がってしまった私たちを見かねて、彼女は明日までに行きたい場所を3つまで絞ってくるように言い渡す。次のホームルームまであと1週間もあるのだから、ゆっくりやっても問題ない。
そうして班は解散し、帰りの支度もそこそこに私は教室を飛び出したのだった。
図書室までだんだん人気のなくなる廊下を歩いていると、心まで弾むような気持ちになる。足を動かすのも自然と速くなった。
もうテニス部は練習を始めている頃かな。今頃グラウンドを走っているかもしれない。直接会うなんて事できないくせして、新学期が始まってからは毎日図書室で越前くんを見つめているだなんて、意気地なしの自分がなんだか情けない。
けれど越前くんは、みんなの王子様だから。
私なんかが好きになったところで、越前くんに見向きもされないのは分かってる。
だけどこうして、図書室が開いている放課後の1時間だけは、コートから一番遠いここから、越前くんがきらきらと輝いている姿を見つめる事をお許しくださいと、祈らずにはいられないのだ。
到着すると図書室の鍵は既に開いていた。もうひとりの委員の子が先に来て開けてくれたのかな。今年のパートナーは珍しく自分から図書委員に立候補した子で、真面目で委員長のようなタイプの男の子だ。私としても接しやすいし、最近同じ作家が好きだと知ってから、たまに本の貸し借りもしている。
「ごめんね、班の子と話してて少し遅れ……――」
図書室の扉を開けて、カウンターに向かいながら告げた言葉を、最後まで言う事ができなかった。私を迎えたのはメガネ越しの穏やかな視線ではなく、猫のような目から発せられる鋭いそれだったから。
心臓が、途端にうるさく暴れ出す。
「越前、くん、」
理由もなく恥ずかしくて今すぐここから逃げ出したいのに、もっとその瞳を見ていたい。早く声を聞きたい、でもその声を聞いてしまったら、話してしまったら、変な事を言ってしまったら。おかしくなってしまうかもしれないくらいの矛盾した気持ちの中、ついに越前くんの口がゆっくり動くのが見えた。
「遅れたって言うか、閉館時間はまだ先だけど」
思わず見とれてしまうその唇から、戸惑いを含んだ声が発せられる。我に帰った私の頭に最初によぎったのは、『どうして彼がここに?』だった。だって越前くんは今、図書カウンターの内側で頬杖をついて座っているのだ。
「え、だって、今日の図書当番……」
「俺のクラスでしょ?」
「7組は明日じゃない?」
そんなはずはない、とでも言うように越前くんは眉を寄せる。そしてカウンターの内側にある引き出しのひとつからプリントを取り出した。4月に配られた当番予定表だ。当番の生徒がサボってしまった時に先生が見る為に保管してある。
「……うわ、本当だ」
どうりで、女子の方が全然来ないと思った。とため息交じりに呟く越前くんの眉尻が下がって、弱った顔が可愛くて、左胸のあたりがきゅんとした。でもそんな事悟られたくなくて、自分の顔に無理やり苦笑を貼り付ける。
「じゃあ代わるね。鍵、開けてくれてありがとう」
私はカウンターの内側に入り、代わりに越前くんは外側に向かう。これでやっと落ち着けると思って今まで越前くんが座っていた椅子に腰掛け(暖かいな、って私ったら変態みたい)、文庫本を取り出してカバンは床の上に置いた。
「ねぇ」
声をかけられ、顔を上げる。出ていったはずの越前くんがカウンターに手をつき、身を乗り出してこちらを覗き込んだ。強気な眼差しと視線がぶつかる。頬が熱くなるのを感じて、私は目線を落とした。彼の前髪が文庫本のページに影を作っている。
「俺まだ待ってるんだけど」
「な、何を、かな、」
「ポンタ。試合で勝ったらくれる約束、忘れてないよね」
優勝って、貰うには十分すぎる程の勝ちだと思うんだけど。と続けられるその吐息まで聞こえるようだった。越前くんとの距離が近すぎて、今の私には、ううん、越前くんの事を好きだって気付く前の私にでさえ、この距離は心臓に悪すぎる。
「ねぇ、聞いてる?」
少しだけ苛立ちを含んだ声が更に近くで聞こえて、頭の中が沸騰してしまいそうだった。咄嗟に口を開く。あ、だめ、今声を出したら絶対変な事言っちゃう……!
「――ごめんみょうじさん、遅れた!」
その時、図書室の扉が乱暴に開かれる音がした。救われたような気持ちになって入り口の方を見ると、委員会のパートナーの子が慌てた様子で飛び込んでくる。私と越前くんの間に流れる不穏な空気なんてお構い無しに、彼はカウンターに入ってきた。
「あ、そうだ! この間の本なんだけど……」
彼が自分のカバンを漁り、1冊の本を取り出す。それは数日前に私が貸した物だ。
「すごく面白かったよ。俺、この作者の文体好きだな」
「あ、やっぱり! 前に貸してくれたミステリーが好きなら、こっちも好きじゃないかな、って思ったの」
これ幸いに、というより勧めた本を気に入ってくれたのが単純に嬉しくて、私は笑顔で本を受け取る。そのままどの場面が良かったかと話して、盛り上がって、それから急に今まで誰と話していたかを思い出した。
しまった、と思って恐る恐る見上げる。越前くんが眉間に皺を寄せ、腕を組んでこちらを見下ろしていた。見た事もないくらい不機嫌そうな顔をしている。
「今俺と話してたじゃん」
「……ごめん」
重い溜息をつかれても何も言い返せなかった。結果的に越前くんを無視してしまったのは事実だから、悪いのは完全に私だ。もう一度ごめんと繰り返すと、再び溜息の音が聞こえて、それからいくらか軽くなったトーンで「もう良い」と返ってくる。
「あの事、忘れないでよね」
それだけ続けて越前くんは不服そうに図書室を出て行ってしまった。残されたのはいくらか気まずい空気と、隣に座る彼の頭に浮かぶハテナマークだ。
「あの事、って?」
軽く首を傾げる彼に私は首を振る。さっきまで越前くんとふたりっきりだった事をどう弁解しようかとか、越前くんを不快な気持ちにさせてしまったとか、色々問題はあるというのに、私は頬が緩んでしまうのを抑えられなかった。
「……ううん、こっちの話」
だって、〝あの事〟だなんて。まるで越前くんと私の、ふたりだけの秘密みたい、だなんて思ってしまったのだ。我ながらなんておめでたい頭なんだろう!
*****
結局越前くんにポンタを渡す事が出来ないまま9月が過ぎて、あっという間に修学旅行当日になってしまった。関西を巡る2泊3日の1日目である今日はクラス単位で工場や社会科に関する施設の見学だから、あまり面白いものではない。明日は班での行動ではあるけれどやっぱり用意された体験学習コースをなぞるだけだし、本番は3日目の自由行動日だと言っても過言ではなかった。
初日が終わり、私たちを乗せるバスが到着したのは団体で貸し切れる小さな宿泊施設だった。4人で雑魚寝できる畳の部屋に荷物を置き、夕飯を食べてから自由時間となる。お風呂にも入って、みんなは他の部屋に行ったりと散り散りになってしまったので、私は施設の中を少し散歩する事にした。
廊下を進んで、端にある階段を降りる。3階は全て女子の部屋で、2階が男子、1階はロビーや宴会場となっていた。さすがに正面玄関の前には見張りの先生がいるみたいだけど、基本的に建物の中は自由に動き回っても良い事になっている。けれどそもそも遠くに行くつもりもなく、ひとつ階を降りると自動販売機がいくつか並んでいて、そしてそこで見た姿は他でもない越前くんだったのだ。
越前くんは私の姿に気付き、猫のような目をぱちくりさせる。手には財布が握られていた。
「みょうじ?」
まただ。私は心の中でそう呟き、密かに胸のあたりの服を掴む。越前くんの声を聞くとこの辺りがきゅ、と締まって、一瞬だけ呼吸の仕方を忘れてしまうのだ。
「越前くん……こんばんは」
「ここ男子の階だけど、どうかした?」
「ううん、ちょっと散歩」
そう、と頷き、越前くんは自身の財布を開く。コインを取り出して自動販売機に入れる直前、私は「あ!」と閃いて、思わず両手で現金の入れ口を塞いでしまった。百円玉が手の甲に当たる。越前くんは驚き、少し眉を寄せた。
「なに?」
「私に払わせて!」
ほら、約束の! と続けると越前くんは納得したように短い声をあげる。財布を仕舞うところまで確認してから、今度は私が取り出した。
「ポンタで良い?」
越前くんが首を縦に動かしたのを確認しつつ、私は自動販売機のボタンを押した。ついでに自分用のお茶を買って、ふたりして壁にもたれてプルタブを開ける。先に口を開いたのは私の方だった。
「この間はごめんね」
「どれのこと?」
越前くんの顔色ひとつ変えない返答に言葉が詰まってしまう。私が口ごもっていると、向こうは指折り数え始めた。
「大会の後勝手に帰った事、そっから全然ポンタくれなかった事、この間図書室で俺を無視した事、それと……」
「……越前くんのいじわる」
途中でからかわれているのに気がついて、今度は私がむくれる番だった。
「みょうじがしつこいのが悪い」
缶のお茶をひとくち流し込む頃、越前くんが気にする様子もなく続ける。急いで缶から口を離し、「私が?」と聞くと彼は小さく頷いた。
「そう。もう何度も謝まってもらってるし、その度に俺も『もう良い』って言ってるのに」
「ごめん」
「また謝まった」
「だって……ごめ、あっ」
ほとんど反射に近く謝罪を重ねてしまって、途中で気がついて口を押さえる。これも悪い癖の内に入っちゃうのかな、と心配していると、見かねた越前くんがとうとう吹き出して笑い始めた。釣られて私も笑いがこみ上げる。
なんだか不機嫌にさせちゃった事とか、恥ずかしくてまともに越前くんの前に立てなかった事とかが全部どうでもよくなってきて、久しぶりに気を遣う事なく接する事のできていた頃に戻ったみたいだった。
神様、お願い――烏龍茶をいつもよりちびちび飲みながら、私は人知れず祈る。
友達で良いの。好きとか、彼女になりたいとか、わがままは言わないから。
もう少し、このままお話ししていたいだけだから。
越前くんとあとちょっとだけ仲良くなれる勇気と幸運を、私に下さい。
―――― ……。
ひとしきり笑ってから缶の中身を飲み干すと、私たちはそれぞれの部屋に戻った。消灯時間はすぐに来て、暗闇の中話している内にひとり、またひとりと寝息をたて始める。
「……誰かまだ起きてる?」
不意に、隣で寝ていた友人が小さな声が聞こえた。
「私、まだ寝てないよ」
ささやき声で答えると「ちょうどよかった」と返って来る。そして衣擦れの音がして、彼女が私の布団の中に入って来た。彼女は中学入ってから3年間ずっと仲が良くてお泊まり会も何度かした事があるので、同じ布団にいてもそれほど嫌ではないけれど、それでも少しびっくりする。
至近距離の中、よほど用心しているのか彼女は私の耳に口を寄せた。
「越前くんって、ポニーテールの似合う子がタイプらしいよ」
「なっ!?」
発せられた言葉に動揺し、思わず大きな声を出して起き上がってしまった。なんでそんな事を私に、と続ける前に、彼女が「しーっ!」と人差し指を自分の口に当てる。
「みんな起きちゃうよ! なまえが4人で恋バナしたいのなら別だけど」
もっともな言い分に返す言葉もなく、私は仕方なくまた寝転がった。今度はふたりして頭まで同じ布団を被って、外に声が漏れないようにする。
「なんでそんな……! もしかして、結構わかりやすかった……!?」
「私がずっとなまえと一緒にいるから分かっちゃっただけだと思う。……で、認めるんだ?」
面白半分といった口調に、私はしまったと思わざるを得なかった。
「……そんなんじゃないもん」
せめてもの抵抗として、それだけ言って私は彼女に背を向ける。何度か指でつつかれたけれど、無視して寝たフリをすると、しばらくして彼女は自分の布団に戻っていった。すぐに寝息がひとつ増えて、私も徐々に意識が薄れていく。
けれど次の日、悩みに悩んで結局ポニーテールにした私は、その日1日中彼女の含み笑いを拝む事になったのだった。