きみの隣まで、     。


 冬休みも終わり、中学で過ごす最後の学期が始まって少し経った1月中旬。
 私は授業が終わるなり一目散に走り帰る日々を過ごしていた。氷帝への入試試験が終わってから1週間……合格でも不合格でも、もうすぐ結果が届くはずなのだ。

 そして今日も家に着くなり、はやる気持ちでポストを開ける。するとここ数日はチラシぐらいしか入ってなかったポストに、今日は大きな白い封筒が入っていた。祈るように取り出すと宛名には私の名前があって、氷帝学園という文字とロゴがしっかり印刷されている。

「来た! 来たよお母さん!」

 ただいまも言わずに玄関を抜け、居間へ向かう。お母さんに見守って貰いながらでも、封筒を開ける手が震えた。緊張でどうにかなってしまいそう。
 封筒の中には何枚も書類が入っていた。とりあえず全部掴んでゆっくり引き出すと一番上の書類が徐々に顔を出し、日付と、もう一度私の名前が確認できる。そして次に目に飛び込んできたのは――〝入学案内についてのお知らせ〟と言うタイトルだった。
 手がいっそう震える。書類を全部封筒から取り出して何度も読み返したけれど、やっぱり『語学特待生としての入学を許可されました事をお慶び申し上げます。』と書いてあった。思わず歓声をあげてお母さんに抱きつく。

 けれど喜びも束の間、「学校にちょっと忘れ物をした」と告げて私は再び家を飛び出した。高ぶる気持ちのまま、息が切れるのも厭わず駅まで駆け戻る。カバンも何もかも置いて来てしまっているけれど、胸ポケットには青春台までの定期券と、スカートのポケットにはもうずっと越前くんのリストバンドが入っていて、これだけあれば充分だった。

―――― ……。

 電車が青春台のホームに滑り込んで、扉が開くのも待ちきれずまた全速力で駆け出す。再び青学の校門をくぐった時、校内は未だ部活動の喧騒に包まれていた。息が随分乱れている。脇目も振らず私が向かった先はテニスコートで、その中心で佇む白い帽子の姿を見逃せる筈なんてなかった。

「越前くんっ!!」

 倒れるようにしてフェンスにつかまり、息切れを自覚する前に彼の名前を叫んだ。周りの部員が一斉にこちらを振り向く。けれど空っぽになった肺に酸素を入れるのに必死で、視線を集めているいる事なんて気にしていられない。
 呼吸が少しだけ落ち着いて来たところで、ポケットからリストバンドを取り出す。フェンスに押し付けて、顔を上げると、越前くんはすでにコートの中心から目の前まで来てくれていた。

「なまえ? 何かあった?」
「……これ、返しに来たの」
「え、」
「私、受かってたよ……!」

 泣きそうな気持ちでそう告げて、フェンスの穴越しにリストバンドを差し出す。越前くんが受け取り、リストバンドは再び彼の左手首に収まった。

「やるじゃん」

 いつも通りの不敵で挑戦的な瞳に息を飲む。気のせいかもしれないけど、その視線が「俺は分かってたけどね」と言ってくれているようで。越前くんの声を聞いた瞬間、安堵と、嬉しさと、興奮と、全部全部が混ざって、「ありがとう」と笑ったら瞳から涙が一粒零れ落ちていた。
 滲んだ視界の向こう側で越前くんが目を見開く。けれどすぐに眉間にしわを寄せ、何も言わずに歩き出してしまった。涙を拭くのもそこそこにどうしたんだろうと戸惑っていると、フェンスの扉を開けてこちらに歩いてくる。俯き加減の顔は帽子のつばに隠れていて表情がよく見えなかった。

「越前くん……!?」

 越前くんは目の前に来るなり私の手首を掴んで歩き出した。わけの分からないまま引っ張られ、途中で何度も名前を呼んだのに彼は構わず進むばかり。すれ違う生徒たちの好奇な目線に晒されながら校舎の横を抜けても、歩みが止まる事はなかった。その内に人影のない昇降口まで連れて来られると、そろそろ掴まれた手が痛くなってくる。

「痛いよ、越前くん! ねえ!」

 もう一度名前を呼ぼうと息を吸ったら、越前くんは急に立ち止まった。背中にぶつかると思ったのにそんな事は起きなくて、振り向いた彼に、抱きしめられた。

「……ごめん」

 越前くんの猫っ毛が頰を掠める。身体の周りにぐるりと巻きついた両腕はむしろさっき掴まれていた時よりも強い筈なのに、全然痛くなくて、このドキドキと脈打つ心臓の音はどっちのものなんだろう。

「もう会えないんだと思ったら、ちょっと無理だった」

 俺、なまえが好き。
 囁かれた耳元からじわりと熱が帯びる。越前くんの言葉の意味を頭が理解して、心にストンと落ちて来たら、そこから迫り上がる喜びに涙が留めなく溢れた。

「なまえ?……って、え!?」

 ようやく腕を緩めた越前くんは、私の顔を見るなり慌てた声を上げて恐る恐る尋ねる。

「なに、泣いてんの」
「……私、こんなに幸せで、良いのかなぁ……?」

 氷帝にも受かって、それだけで天にも登る思いだったのに。
 越前くんは、みんなの王子様で、ただ憧れるだけの遠い存在の筈だったのに。
 ただ時々隣にお邪魔して、少し話して、からかってくれるだけで充分だったのに。
 いつの間にかこんなに近くに居て、信じられないくらい優しく瞳を細めている。大きな手が私の頭に置かれ、スルリと髪を撫でていった。

「……良いんじゃない?」

 で、返事は? と私を覗き込む瞳は、今度は自信に満ち溢れた、私のよく知っているそれで。ああ、敵わないなと思った。だってそんな瞳、私の答えを確信していなければきっと出来ないもの。

「私も」

 そう、きっと君が隣の席に座ってくれたあの時から、ずっと。

「越前くんの事が好きです」

*****

 通学路上にある公園の桜が今年も満開になった。
 春休みの内に整えて貰った髪をポニーテールに結んで、皺ひとつ無い制服に腕を通す。ブレザーはセーラー服に比べてパーツが多く、昨日の入学式で一度着ているとは言え未だに慣れなくて、なんだかくすぐったい。それに新しい革靴はまだちょっぴり硬くて、けれど今日はこっそり足首に絆創膏も貼ったから、大丈夫。
 なんて言ったって私、みょうじなまえは昨日高校1年生になったのだから。

 まだ早朝と言っても良いくらいの時間帯だからか通りに人は少なく、朝の爽やかな空気が気持ち良い。最寄りの駅に到着して定期券を通すのももどかしく改札を抜けたら、静かなホームにその人は立っていた。

「おはよう、越前くん」
「……はよ」
「ごめんね、待った?」
「今出た電車で来たから、そうでもない」

 越前くんはあくびを噛み殺すけれど、まだ眠そう。これがラケットを握ると一転するのだから、とコートに立つ越前くんの姿を頭で思い描いたら、隣に本人がいるにも関わらず少しときめいてしまった。

 学校が離れ遠距離恋愛になる私たちが、せめて朝の時間を一緒に過ごそうと決めたのは春休みの間のこと。私の最寄り駅から氷帝までの間に青春台駅があるので、青学の朝練が始まる時間に合わせて越前くんとここで待ち合わせして、途中まで一緒に登校するのが私たちの新しい習慣となった。

 電車が時刻通りホームに到着する。乗り込むとチラホラと空席を見かけるくらい空いていて、中学3年間ピークに近い電車に乗っていた私には新鮮な光景だった。私たちは連れ立って扉の近くに佇む。

「昨日の入学式どうだった?」
「別に普通、ってか寝てたからあんま覚えてない」
「あはは、越前くんらしいね」
「そっちはどうなの?」
「卒業生で現役オペラ歌手の人が校歌うたってくれたよ」
「うわ、氷帝っぽい」
「私もそう思った」

 越前くんが呆れたように肩をすくめ、私も声を抑えつつ笑う。周りの迷惑にならないようになのか、それともまだ眠いのか、いつもより低い掠れ気味の越前くんの声が耳と心をくすぐっていった。何気なく続く会話のリズムと、電車が線路を弾く音が重なって心地良い。

「それでね、生徒会長の人が挨拶を、」

 ガタン、不意に電車が大きく傾いて足がもつれた。ここのカーブは急だからいつも足を踏ん張っていたのに、越前くんと同じ電車に乗っている事が嬉しすぎて忘れていたのだ。右手が咄嗟に近くにあったものをつかむ。

「、大丈夫?」

 よろける私を越前くんは片腕で軽々と支えてしまった。数歩の距離が一気に縮まって、吐息が頰を撫でていく。車窓から差し込む朝の光が越前くんを優しく照らしている。烏の濡羽を思わせる深緑の髪に琥珀色の瞳がよく映えて、思わず見とれてしまった。さっきまで聞こえていたガタンゴトンという音も、そこかしこで囁くように繰り広げられる話し声も、全部溶けて消えていく。なんて、幻想的なんだろう。

「なまえ?」

 私に魔法をかけるのも、かけた魔法を解くのも、いつだって越前くんだ。彼の一声で世界は音を取り戻し、私は自分がどこにいるのかを思い出す。

「あ、えっと、うん、大丈夫」
「なに、俺に見惚れてた?」

 左の口角だけ上げるのはからかっている時の表情だ。いじわるな質問にさえ私の体温は跳ね上がり、熱が顔に集まる。それでも嘘なんてつけず、かと言って口を開けば余計な事まで言ってしまいそうで、やっとの事で私は首を上下に一度動かした。

「……そう」

 私の反応が予想外だったのか、越前くんは目を丸くした後に目線を窓の外に向けた。なんだか私まで更に恥ずかしくなってきちゃって、いたたまれなくて下を向く。そうしたら、さっきから自分が掴んでいるものが越前くんの学ランの裾だと言う事に今更ながら気が付いた。
 いけない、皺になっちゃう。と指に込めた力を緩める。けれど完全に離す前に、越前くんの手が覆いかぶさった。

「危ないから、そのまま掴んでて」

 すぐに手が離れていく。
 うん、と再び頷く以外の選択肢を、私は未だに知らない。

 この時間がずっと続いたら良いのに、なんて思うほどに時間は早く進み、アナウンスは電車が間も無く青春台に到着する事を告げた。通り過ぎる景色が減速し、やがて扉が開く。
 越前くんが外に出ると、もう春だと言うのに車内が途端に寒くなった気がした。一歩前に出ればそこにいるのに、ふたりを隔てるものを私は飛び越せない。……さみしいな。
 不意に越前くんが振り向いた。発車のベルが鳴る。学ランの袖が顔の横まで来て、唇に柔らかいものが触れて、視界が越前くんでいっぱいになった。

「じゃあ、また放課後」

 越前くんが離れ、扉が閉まる。電車が走り出し、越前くんの通う青学から遠ざかっていく。あまり人がいない時間帯で良かった。だって私、今どんな顔してるのか分からないもの。
 アメリカの習慣がまだ抜けていないのか、抜くつもりもないのか、越前くんのスキンシップは激しい方だと思う。正直まだ慣れないし、慣れる事なんてないのかもしれない。

「……また、放課後」

 さきほど言われた言葉を無意識に繰り返す。また、放課後。帰りは私の方が早いだろうから、青学まで行く事になっている。今は別れてしまったけれど、放課後になればまた会えるんだ。
 けれどそれまでにこのドキドキをなんとかしておかないと、きっと変な事を口走るか、それとも会った途端走って逃げてしまうかもしれない。
 私はせめて気を紛らわせてようと、カバンから文庫本を取り出したのだった。






押して頂けると励みになります。無記名一言感想大歓迎です!