君の家まで、unknown。
冬場の儚い太陽の光が、夕日に変わろうとしている。
青春台から数駅離れたこの場所には、リョーマ行きつけのストリートテニス場があった。2年前の地区大会の後「こっちにシングルス専門のストリートテニス場があるから、お前はもうダブルスやるな」とげんなりした玉林中の生徒にこの場所を教えてもらってから、気が向いた時にこうしてここを訪れているのだ。
けれどまさか、駅に降りた途端なまえと鉢合わせるなんて。今日から冬休みだから、てっきりしばらく会えないと思っていたのに……。しかも何気なくテニスに誘ったら本当に付いてきたものだから、リョーマは思わず小さなガッツポーズをしてしまったぐらいだ。見られてないと、良いのだけれど。
そして一通りテニスコートで対戦した後、成り行きでなまえにテニスを教える事になり、ふたりは連れ立って隣接している広場に向かっている。
「……さっきの、」
その道すがら、リョーマは口を開いた。隣を歩くなまえは首を傾げる。その無垢な表情を見ていると、先ほどのやりとりを思い出して心の中がざわついた。
〝「私と越前くんはただのお友達で……」〟
友達なのは間違ってない。
間違ってないけど。
〝ただの〟まで付けられると、自分がなまえにとってその他大勢の中のひとりと言われているようで、曲がりなりにも彼女に恋心を抱いている身としてはショックなものがあった。それだけではない。
「みんなの王子様とか、ステージの上がどうとか、何あれ?」
なまえが思った事を全て言葉にしてしまう性質なのはよく知っている。だからこそあれはリョーマを茶化しているわけでもない、本心からの言葉なのだろう。自分としては王子様だとかそんな煌びやかな存在になったつもりはないので心外だ。
だいたい、アンタのならまだしも、みんなって誰だよ。みんなって。
「あれは言葉の綾というか、物の例えと言うか……」
「意味わかんない」
八つ当たりなのはわかっているけれど、ヘソを曲げずにはいられない。口を尖らせて反論すると、なまえはもともと下がり気味の眉尻を更に下げた。ふらふらと左右に走る目線は、取り繕う言葉を宙から探しているようにも見える。
「1年生からずっと男テニのレギュラーで活躍してる越前くんは、私みたいな地味な生徒からしたら、その、ヒーローみたいな存在だから」
もごもごと繰り出される彼女の言葉にふーんと相槌を打って、今度は緩もうとする頰をなんとか我慢した。言いたい事は色々あるし自分が自分で思っていたよりも単純で呆れてしまうけれど、彼女の口からヒーローだと賞賛されて悪い気はしない。
「……まあ、そう言うコトにしといてあげる」
それにこんな会話をする為にテニスコートを離れたのではなかったのだ。折角2人きりにもなれた事だし、早速誕生日お祝いとやらに付き合って貰おうではないかと、リョーマは予備のラケットをなまえに渡した。
「わ、すごい。グリップの感触ってこんな感じなんだね」
「そんなに珍しいモンでもないでしょ」
「私にとっては初めての感触だもの」
なまえはやけに嬉しそうな様子でラケットを裏返したり、グリップエンドを覗き込み「あ、Rって書いてある」とつぶやいたりしている。初めてラケットを手にした時なんて物心が着く前だから覚えてなどいないリョーマは、そういうもんかと思いながらその様子を見守っていた。
「えっと、握手するように握るのがイースタングリップだっけ?」
「正解。やるじゃん」
よくいるんだよね、間違えるヤツ。と続けるとなまえは一層楽しそうに笑う。その反応に何か含みを感じてリョーマはどうしたのかと尋ねた。すると彼女はなんでもないとでも言うように首を振って、それでも口を開いた。
「ずっと前に読んだ本の主人公も同じ事言ってたなって思い出しただけ。グリップの名前もその本を読んで覚えたの」
テニスの叔父様って言うんだけどね、と付け加えられたタイトルにリョーマは聞き覚えがあった。
「その本知ってる」
「本当に!?」
「前に図書の整理で見た。読んではないけど」
「すっごく面白くて笑っちゃうから、おすすめ!」
本の話をしている時のなまえはやっぱり、どんな時よりも生き生きとしていて。件の本を見たのは焼却に出す為の図書を先生に押し付けられた時だと言う事は黙っておこうと、リョーマは密かに口を噤んだのだった。
*****
それから時間は跳ぶように過ぎていった。
テニスの知識に関しては予め本で読んでいた彼女(ホント、なまえらしいよね)も、実践に関しては全くのド素人だった。運動もあまり得意でないと言っていた通り最初はボールに追いつくのも一苦労だったけれど、もともとおっちょこちょいと言う訳でもないし、何度かアドバイスをしている内にコツを掴んだようでホームランボールもなくなった。
ままごとのようなラリーを繰り返していく内に日も暮れ、コートと違ってナイト設備もない広場では徐々にボールが見辛くなってくる。練習を始めてから1時間ほど経って2人は切り上げ、その場を後にして駅へ向かったのだった。
ストリートテニス場から駅までは遠くなく、ものの数分で着いてしまう。
改札が視界に入ったら、このままなまえを帰してしまうのが惜しくなった。
「なまえの家ってここから近いの?」
「うん、歩いて10分くらい」
「送ってく」
「そんな、悪いよ!」
本当にすぐだから、と両手を身体の前で振るなまえはそのままリョーマを振り切って帰ってしまいそうな勢いだ。何かさりげなく食い下がる方法はないかと辺りを見回して、駅の掲示板に貼られたポスターが目に入る。
「悪いと思ってたら言わない。それにほら」
それは〝不審者に注意!〟と書かれたポスターだった。リョーマが指で示した先を見て、なまえも心なしか顔を青くする。
「じゃあ、お願いします……」
不安を顔に滲ませる姿を見ると、まるで自分が脅しているようで少し心が痛んだ。けれど暗くなれば不審者や痴漢が出やすいのも事実だ。別に心配なのは本当だし。って言うか、何かするとか、下心とか、そういうのから言ったわけじゃないし。なんて誰にともなく心の中で言い訳をしつつ、「ん、」と頷き返事をする。
再び駅を出てなまえの言うままに歩き始めると、どうやら本当に近所だったようで、またもやあっという間に彼女の家の前に辿り着いてしまった。「ここだよ」と示した一軒家の前で、なまえは改めてリョーマに向き直る。
「今日は本当にありがとう!」
「別に、何もしてない」
「そんな事ないよ。テニスってやってみると楽しいね!」
「知ってる」
「あはは! それもそっか」
それっきりなまえは黙り込み、その場に沈黙が訪れた。てっきりそのまま玄関の扉を開けるかと思っていたのに、彼女はまだ動かない。
もしかして、向こうもまだ帰りたくないのかな。……まだ一緒に居たいと、万が一にも思っていてくれたり、するのだろうか。
「……越前くんは、テニス留学とか、しないの?」
それは唐突な話題だった。いきなりの質問に驚きつつも、つい数秒前とは打って変わって沈んだ様子のなまえは、まるで今日会った時のように辛い顔をしている。何があったのだろうと疑問に思いつつ、リョーマは質問への答えを言葉に直そうと考えていた。
「アメリカにもちょいちょい帰るつもりではいるけど……今はまだ、日本に残って倒したい奴がいるんだよね」
プロになるために若い内から日本を出て海外で活動をした方が良いというのはテニス界ではセオリーのひとつだ。リョーマはもともとアメリカにいただけに、戻ろうと思えばいつでも戻れる。けれど彼の脳裏に浮かぶのは、中学3年間で出会った日本にいる強敵の面々だった。
「……越前くんは強いね」
一見すると嘲笑するような言い方と声色が少し引っかかった。なまえは自分と違って思っている事や感情をすぐ言葉にしてしまう。けれど今のは何かを無理やり飲み込んだような、けれど抑えきれずに意図せず漏れてしまったような、そんな雰囲気を感じたのだ。
「いつだってテニスに一生懸命で、迷いがなくて……羨ましいな」
いつもとは様子が違うなまえの姿に、ただただリョーマは目を丸くする。その言い方ではまるで、なまえは好きな事を犠牲にして今の生活を送っているようではないか。
「なまえは嫌々本を読んで、嫌々氷帝を受験すんの?」
「違うよ! 私は本が好き……氷帝だって、自分で選んで受験するの!」
必死にかぶりを振ってなまえはリョーマの言葉を否定した。
やっぱり、と口角を上げる。だって文化祭の夜、どうしても氷帝に合格したいのだと意気込んだ彼女は、どう考えたって無理やり壁に挑んでいる姿ではなかったのだから。
「俺と一緒じゃん」
リョーマの言葉になまえは戸惑いの視線を投げかけた。これでは足りなかったか、と言葉を重ねる。
「俺からしたら毎日本を読むのも、ひとりで図書室に閉じこもって勉強するのも面倒だけど、なまえは好きだからやってるんでしょ? 俺もテニスが好きだから毎日やってる。俺たちに違いなんてあるの?」
「そうだけど……」
なまえは俯き、華奢な肩を震わせている。消え入りそうな声で「それでもやっぱり、自信を持ってる越前くんが羨ましい」と呟く姿を見て、リョーマはやっとなまえの不安に気が付いた。
多分なまえにとっての氷帝受験は、俺にとっての親父だ。
自分は勝てそうにもない相手との試合ではむしろ奮起するタイプだけれど、それでもなまえの不安は理解できる。リョーマは左腕からリストバンドを外し、彼女に差し出した。
「これ、俺が全国で着けてたヤツ」
「そんな大切な物貰えないよ!」
「あげるわけじゃない。……ちゃんと合格して、返して」
なまえはハッと息を飲んで、恐る恐る両手を差し出す。水を掬うような形にした掌にリストバンドを乗せると、彼女は今にも泣き出しそうな顔でありがとうと笑った。
「……なんか私、貰ってばっかりだ。今日は越前くんの誕生日なのに」
「だからあげてないって。なまえ、相変わらずシツコイね」
はあ、とリョーマはわざとらしく溜息をつく。場を和ませようと思ったのだが、結果的に嫌味っぽく聞こえてしまったかもしれない。その証拠になまえの口から「ごめ、」と聞こえて、最後まで謝られてしまう前にリョーマは「謝んなくて良い」と遮った。
「そんなに気にしてるなら、おめでとうって言ってよ。俺、まだなまえから聞いてない」
今のは少しクサ過ぎただろうか。気恥ずかしい思いを抱きながら、それでも放った言葉を取り返すなんてできなくて、帽子のつばを触って誤魔化す。
そうだっけ、なんてとぼけてから、なまえは思わず見惚れてしまうくらい喜色を顔に溢れさせた。
「お誕生日おめでとう、越前くん!」
「……サンキュ」
もっと彼女を見ていたいのに、心と身体はちぐはぐで、帽子ばかりを触って隠れてしまう。
不安を吹き飛ばすことができたのか、なまえは屈託のない表情のまま「それじゃあ、またね」と家の中へ入っていった。すぐに2階の窓のひとつが明るくなって、あれがなまえの部屋かとリョーマはひとりごち、言いようのない満足感に包まれながら駅への道を戻ったのだった。