後ろを着いて行く、1メートル。
毎日せかせかと何かに追い立てられるように過ごしている内に2学期が終わり、冬休みが到来していた。街並みはクリスマスの赤と緑に溢れているけど、私は相変わらず家で白黒の参考書とにらめっこしている。氷帝の推薦入試は1月の中頃に行われるから、明日のクリスマスも、もういくつ寝ると訪れる年越しも、こうして過ごすんだろうなと思うといつもは楽しみなお年玉やおせち料理も来ないで欲しいって少し思ってしまったり。
それだけじゃない。
「はぁー……」
冬休み1日目、私は重く沈んだ気持ちを抱えながら自室で机に向かっていた。参考書を広げてはいるけれど今日は朝からほとんど進まないまま、もうお昼もだいぶ過ぎてしまった時間で。油断するとまた、ほら。昨日貰った通知表を開いてしまう。そこに書かれている評価を見ると、ため息は止めどなく出てくるのだ。
氷帝学園は基本的に幼稚舎からしか新入生を受け入れなくて高等部も内部進学生しかほとんどいないらしいんだけど、例外で年に数人だけ特待生として外部の生徒を入学させている。その枠に入る為には当日の試験と自己PRの他に、優秀な内申点が必要だった。
正直、通知表がめちゃくちゃに悪かった……と言う訳ではない。けれど、取れたら良いなあと思っていた内申点よりも2点低くて、氷帝の推薦募集要項に書かれた最低ラインちょうどの点数だったのだ。
それにいくら毎日受験勉強をしているとは言っても、折角入れた青学を抜けて外部受験をするなら塾に通わずに自分の力で、と言うのが最初にお母さんとした約束だったから全部独学だ。だからいくら勉強してもこれで本当に良いのかと言う不安がずっと着いて回るのも事実だった。
受からなかったらどうしよう、嫌だな。氷帝でなら高校からフランス語もドイツ語も学べるし、それにギリシャ語だって勉強してみたい。
最初は越前くんがテニスできらきら輝く姿に憧れて、私も何かに打ち込んでみたいと思って始めた事だったのに、ここまで飛躍するなんて思ってもみなかった。けれど今は、はっきりとこれが私のやりたい事だって言える。だからこそ、焦る気持ちは増すばかり。
「……あー、もう、やめやめ」
どうしても文章が頭に入ってこなくて、私は渋々参考書を閉じた。
マイナスな事ばかり考えていたら余計に単語も公式も覚えられなくなってしまう。こんな時は気晴らしをするのが一番だと思って、私は散歩をしようと財布だけ持って部屋を出た。いつもは文庫本も持って公園とかで読書もするんだけど、今日は集中出来そうもないから置いていこう。近所をぐるっと1周して新鮮な空気でも吸えば、このもやもやをどこかに置いてくる事ができるかもしれない。
――と思った、はず、なんだけど……。
気が付けば、私は家から少し離れたストリートテニス場で、越前くんの試合を観戦していたのだった。
事の発端はそう、家の近くを散歩するつもりがなんとなくふらふらと最寄り駅の方まで歩いていた時の事。駅前で越前くんと鉢合わせたのが始まりだった。
「あれ、どうして越前くんがここに?」
まさか冬休みに入っても会えるだなんて思ってなかったから、弾む胸をどうにか抑えるのに内心苦労する。さっきまで沈んでいた気持ちがふわりと少し浮かび上がって、我ながら都合の良すぎる自分に内心苦笑してしまった。
「それはこっちのセリフ」
「私はここが最寄り駅だから」
へえ、と越前くんは興味なさそうに相槌を打って、「どっか行くの?」と続ける。
私は何も答えられなかった。最初は少しだけ散歩するつもりが、一度家の外に出たら今度は帰りたくなくなってしまったのだ。財布の中にはあと2日で期限の切れる定期券が入っているし、いっその事宛てもなく電車に乗るのも良いかもしれないと思っている自分がいた。
「うん、ちょっとね……えへへ」
「冬休みなのに、受験勉強もしないでサボり?」
すると越前くんはニヤリと左の口角だけ上げて笑った。“サボり”と言う単語が思った以上に胸に刺さる。彼がこんな表情をする時は揶揄って遊んでいる証拠だって知っているのに、今日はちゃんと反応できる余裕がない。
「ち、違うよー……息抜きだよ」
取り繕った笑顔はきっと下手くそな作り物なんだろうな、と鏡を見なくても分かった。自分が情けなくて、越前くんをまっすぐ見ることができない。あ、どうしよう、ちょっと泣きそう。
「そう。じゃあ、こっち」
一瞬だけ目を丸くした越前くんは何かを悟ってくれたのか、それだけ言って歩き出した。彼の言葉の意味が分からず、目の前を通り過ぎてどこかへ行こうとする背中を見つめる。
越前くんは再び立ち止まってこちらを振り向いた。
「時間はあるんでしょ? なら着いて来てよ」
戸惑いながらも、拒絶する理由はなく言われるままにその背中に着いて行く。そして到着した先にあったのは、私も今まで知らなかったストリートテニス場だったのだ。
夕方にも差し掛かる時間だからか、中学生から大学生くらいまでの様々な年齢層が10人以上集まりテニスコートを囲んでいる。私ひとりだったらちょっと怖くて近寄れないような雰囲気の中、越前くんは観客席に入るなり何人かの男の子に親しげに声をかけられて、あれよあれよと言う間に「ちょっと荷物見てて」と一言だけ残して対戦を始めていた。
「――ゲーム越前!」
「っくあ~、また負けた!」
「まだまだだね」
1ゲーム終わったら負けた方が次の人と代わると言うのがここのルールらしく、越前くんは既に3人もの選手と対戦していた。4人目の挑戦者がコートに入り間も無くラリーが始まって、私は再び熱に浮かされたようにそのプレイを見つめる。
越前くんのテニスは、やっぱりすごい。目にも留まらぬ速さで応酬される黄色い軌跡をひとつも取りこぼさないで、コートの中を軽やかにスライディングして跳び上がる姿はまるで背中に翼が生えてるみたい。越前くんがラケットを振るたびに弾ける汗は夕日に煌めいて宝石のようだと、思わず溜息が溢れてしまうくらい。けれど本当はきっと、越前くん自身が誰よりもテニスを楽しんでるって事が伝わってくるから、どうしようもなく胸が熱くなるんだ。
「ゲーム越前!」
そして越前くんはまたあっという間に勝利を手にした。けれど今度は他の人に自分側のコートを譲って、こちらに戻ってくる。さっきまでは手を伸ばしても絶対に届かないような遠くにいた姿が今は隣で座っているなんて信じられなかった。バッグからタオルを取り出し汗をぬぐう越前くんに向かって、私は我慢できずのぼせ上がった調子で声をかける。
「お疲れ様。やっぱり、越前くんのテニスはすごいね!」
「元気になった?」
「え?」
「俺のテニス見てたら頑張ろうって思えるんでしょ?」
前にそう言ってたから、と目を逸らした越前くんの表情は、帽子に隠れてよく見えない。
まただ。また越前くんの言葉のせいで、私の頭の中が「もしかして」と「そんな筈」で埋め尽くされる。
どう言う事?って聞けば良いのか、覚えててくれてありがとうと言えば良いのか迷っていると、不意に越前くんが視界から消えた。
「越前、お前ほんっとう、どうしたらそんな強くなれるんだ!?」
代わりに現れたのは同い年くらいの多分他校の男の子だった。彼が背中に勢いよく乗ったから、越前くんは腰を曲げて小さくなってしまったのだ。
「アンタが弱いだけじゃない?」
「なんだとー!?」
男の子は乱暴に、だけどやけに楽しそうに越前くんの頭をぐりぐりといじった。「やめろよ!」なんて嫌がる越前くんをよそに彼は満足してからやっと離れる。その様子は私が知っているような堀尾くんとの関係とはまた少し違うように見えるけれど、でも本当に仲が良さそう。学校の外でも広く交流している越前くんに感心してしまう。
なんて思っていたら、不意に男の子と目が合った。反射的に会釈をすると、彼は固まって、それから目も口も見開いて雷にでも打たれたように驚く。
「お、お前、お前……この、裏切り者! テニスしか頭にねえ野郎だと思ってたのに!」
そして大げさなくらいの態度で越前くんの両肩を掴み、今度はこれでもかと言う程前後に揺らした。越前くんの抗議の声は聞こえていないようだ。私も私で最初は何が起こっているのか分からず動揺したけれど、「クリスマスイブにここに来て良いのは独り身の奴だけだ!」と男の子が叫んで、ようやく自体を把握して急いで首を振った。
「ち、違うの! 私と越前くんはただのお友達で……越前くんはみんなの王子様だし、私なんかじゃ手も届かないくらい遠くの、眩しいステージの上にいるような人で……!」
焦りに身を任せて口が動くままに声を出してしまった私は、ようやく自分が何を口走っているのか自覚した。尻すぼみに消えていく私の言葉を2人とも聞いていて、また越前くんに「口に出てる」って呆れられてしまうかと思ったんだけど。
「ただの、ともだち……」
意外にも越前くんは呆然とした顔でそう呟くだけで。
肯定の意味かと思った私は「そうそう!」と誤魔化すように力強く頷く。
男の子は何かとても面白いものでも見つけたような顔でニヤニヤと越前くんを見るだけだった。
「みんなの王子様、ね……へ〜〜〜〜、ふ〜〜〜〜ん、ほ〜〜〜〜……」
「……なに?」
越前くんは不機嫌な顔を少しも隠さずに男の子を睨みつけた。意外とちょっと怒りっぽいところがあって可愛いよね、なんて心の中で思いつつ、今になって私たちの関係が〝ただの友達〟である事を強く肯定してしまったダメージが心をちくちくと刺し始める。私たちが友達である事は事実だし、むしろ人気者の越前くんの友人だと認めてもらえただけでも嬉しい。嬉しいんだけど……それでも越前くんを好きだと言う心が、それだけでは寂しいのだと訴えてくるのも、また事実だった。
「べっつに~? おい越前、もう1ゲーム打ってくか?」
「もう良い。充分打った」
「なんだよ、イブだろ? 寂しい者同士仲良くしようぜ~」
「イブだからってここに留まる理由にはならいないし。って言うか俺にとっては誰かの誕生日じゃなくて、自分の誕生日なんだけど」
「ええっ!?」
テンポの良い2人の会話を聞いていた私だけど、流石に今の発言には驚きの声を上げてしまった。そして急に去年の事が脳裏によぎる。そうだった、あの時も偶然越前くんの誕生日を聞いて、ポンタを買ったのに渡す勇気がなくて、なのにそんな大事な日を忘れてしまうだなんて……!
「何かお祝いしなきゃ!プレゼント?パーティ!?」
「別にいらない。さっきやってきた」
半ばパニックになって詰め寄ったけど、越前くんは物ともしない。彼の説明によると今日の部活後に男テニでクリスマスパーティ兼誕生日パーティをしたらしくて、ここには腹ごなしで寄ったらしい。けれど、だからって祝わなくても良い理由にはならない。
「でも……」
なんとか食い下がっていると、溜息が聞こえて目の前にラケットをずいっと差し出された。
「じゃあ、テニス付き合って」
「私、やった事ないよ」
「教えるから」
こんなものが誕生日のお祝いで良いのだろうかと渋りながらも、越前くんの有無を言わせない態度に根負けして私はラケットを受け取る。そうして私たちはテニスコートから少し離れた広場に向かったのだった。