図書室の自習机、60センチ。


     慌ただしい青春祭が終わり、振替休日の後に登校したら、学校はもう期末テストのそわそわに包まれていた。氷帝への受験対策と並行して今日からテスト勉強もしなければいけないとつい憂鬱になってしまう。三年生になってからは普段からの復習を心がけてはいるけれど、それでも放課後の図書室での一時間だけでは全然足りないだろうと言う事は予想していた。

 図書室に到着し、早速ノートと教科書を広げて授業でやった問題を解き直していると、段々と色んな音が遠くなって集中してきた事を自覚する。特に私がいつも座っている席は図書室の奥まった場所にあるからかわざわざ選ぶ人も少なくて没頭しやすい環境だった。
 けれど、今日は小さな変化がひとつ。視界の端で、隣の席に誰かが座るのが見えたのだ。いくら閑散としているとは言っても全く人が来ない訳じゃないし、特に今日からはテスト週間だからおかしな事は何もない。けれどその人影は私が数学の問題を三問解いている間も、隣に座ったきり教科書も広げずじっと座っているようだった。
 流石に気になって横を見る。するとそこにいたのは、頬杖をついてこちらをじっと見つめる越前くんだったのだ。

「やっと気付いた?」

 左の口角だけ上げて越前くんは悪戯に笑った。何気ないその仕草と、思ってもいなかったタイミングで彼に会えた事で、私の鼓動は簡単に跳ね上がる。心臓の音が聞こえてしまいませんようにと祈りながら越前くんの名前を呼んだら、図書室の気温が急に上がったような気さえした。

「どうしたの? 今日、部活は?」
「テスト週間で休み」
「あ、そっか」
「ねえ、頼みがあるんだけど」

 首を傾げて続きを待つ。越前くんは鋭いくらいの目線を少しもそらさずに「ノート、見せてくれない?」と言った。聞けば、青春祭当日までの二週間アメリカのジュニア大会に出ていたので、その間の授業に全く出れていなかったのだとか。

「私、別のクラスだよ?」
「クラスだからって内容が変わる訳でもないし、堀尾の文字を解読するよりはマシ」

 はあ、と溜息混じりに越前くんは答える。
 私は相変わらずの堀尾くんの扱いに思わず苦笑を漏らしてしまった。去年同じクラスだった二人のやりとりを思い出して懐かしさが込み上げる。相変わらず仲良いんだな、なんて思いながら、カバンの中から今日の授業の分だけノートを取り出した。

「今日はこれだけしか持ってないから、他の教科は明日以降になるけど大丈夫?」
「問題ない。サンキュ」

 越前くんはノートを受け取って筆記用具を広げ始めた。紙面に目を落とす様子を見るのは去年隣の席だった頃以来で、いつもはまっすぐに遠くを見ている視線が伏し目がちにノートをなぞる表情や、下を向いた事で短い髪が流れて不意に見える首筋や、シャーペンを握る節くれだった左手に、目が離せなくなる。

 あの瞳で射抜かれている時はいつだって逃げ出したい気持ちになるのに、逸らされたら少し寂しいだなんて。
 こっちを見て。だめ、やっぱり見ないで。早く私も勉強に戻らなきゃ。
 このまま時が止まってしまえば、ずっとその横顔を眺めていられるのに。
 頭の中で色んな想いがくるくる回って、混じり合って動けなくなっていたら、不意に大きな猫のような瞳がもう一度こちらを向いた。

「なに?」

 視線と視線がぶつかっただけなのに交通事故でも起こしたような衝撃が私を襲う。私ったらなんて事を考えていたんだろうと急に自覚して、壊れたみたいに汗が全身から吹き出すのを感じた。

「え!? あ、えっと、あの、あ、そうだ!」

 慌てて教科書の隣に積んでいた別のノートを取り上げる。今やってる数学が終わったら取り組もうと思っていた、受験用の自己PR文の練習ノートだった。

「越前くんに会えたらっ、聞こうと思ってた事があって!」

 急いでページをめくり、最新の書き込みを探し出す。こういうの、英語でどうやって表現するんだろうと思っていた文章がいくつかあるのだ。
 該当の箇所を見付けるなり越前くんにノートを見せる。そしたらしばらく考えた後にいくつかのパターンを教えてくれた。その全てをメモしてからお礼を言うと、越前くんは「ん」とひとつ頷く。そして紙面に視線を戻そうとしたところで、急にまた顔を上げた。

「……そういえばさっきの事なんだけど」
「さっきの事?」
「他のノートは明日以降って。それって明日からもここに来て良いって事?」

 ニヤリ、越前くんの口角が再び上がる。からかっているのだと言う事は、猫のような瞳に宿る悪戯な光が教えてくれた。

「図書室の利用は誰でも自由、だから」

 どう反応したら良いのか分からなくて、越前くんの真意がわからなくて、私はどうにかこの一言を絞り出すのが精一杯だった。

「そ、じゃあそうさせてもらう」

 最初は越前くんが隣にいる事や、貸したノートの字が汚い事、それにどのページに落書きしていたか忘れちゃった事が気になってそわそわしていた私も、シャーペンが紙面を引っ掻く音とページを捲る音を聞いている内に自然と集中モードに戻る。

 そうして問題集と睨めっこしている内に、あっという間に図書室の閉館時間は訪れたのだ。と言うか、今日はなんだかいつもより早く感じた気がする……。
 テスト期間中は図書室の開け閉めをするのが委員ではなく先生だから、注意されないよう素早く帰りの支度をして校舎を後にする。いつかの時のように、帰りの方向が同じ私達は自然と一緒に歩いていた。

「そう言えば、アメリカの大会どうだったの?」
「五つ出て三回優勝した。後の二回は準優勝」

 なんでもないように越前くんが告げた結果は想像したよりもずっとすごいもので、思わず感嘆の言葉がいくつも口から飛び出す。けれど「そう?」なんて言う越前くんは全然自慢してるようにも見えず、余計に大物感があってますます感心せずにはいられなかった。

「その内宇宙一のテニスプレイヤーになっちゃうね」
「宇宙一って、なんだよそれ」

 宇宙人ってテニスすんの、と越前くんが笑顔で呆れて、それくらいすごいって思ったの、と私も返す。彼の一挙手一投足にドキドキしてしまう毎日だけど、こうして会話が始まると自分でも意外に思うほどスムーズに続ける事ができて、それがとても心地良かった。
 そんな会話をしている内に青春台の駅に到着してしまう。
 じゃあね、と手を振ろうとしたところで、なんだかいつもよりも多くの人が改札より手前で屯している事に気付いた。どうしたんだろうと言う意味を込めて越前くんと顔を見合わせると、ちょうどよく『事故による線路点検の為電車が遅れている』というアナウンスが流れる。復旧まではもうしばらくかかるとの事で、早く帰って復習を続けたかった私としては少し参ってしまった。近くのファーストフード屋さんは同じような人達で満員みたいだし……。

「ちょっとあっち行かない?」

 するとそのまま家に帰ると思っていた越前くんが駅の外を指差した。突然の事に戸惑ったけれど、電車が来るまではやる事もないし言われるまま着いて行く。越前くんは駅を出てすぐ向かいにある公園に入っていった。
 青春台はそれほど大きな規模の駅ではなく、駅の中にはカフェとファーストフード店、向かいに大きな自然公園があるだけで、あとは住宅地ばかりだ。公園は奥へ行くと大きな広場になっているけれど、入口付近にもベンチや噴水があって毎朝登校する時にここで散歩しているお年寄りを見かける。

「駅中の店は混んでたけど、ここなら座れるし電車が動いた時にも様子が分かるんじゃない?」

 越前くんが誘導してくれた先は入口にいくつか並んだベンチのひとつだった。
 なるほど、ここに座っていれば駅の様子を見る事が出来るし、改札の前で立って待っているよりもずっと楽そうだ。
 そうする、と頷くと越前くんはベンチに自分のカバンを置いた。

「俺、ジュース買ってくるから」
「あ、私も買う」

 越前くんが大きなテニスバッグの中から財布を探している隣に私もカバンを置いて財布を取り出す。そしてふと気が付いた。
 もしかしてと、そんな筈が、が混ざり合って、声が震える。

「……一緒に待っててくれるの?」
「ダメなの?」

 キョトンと、まるで当然のように越前くんは目を丸くしている。財布を胸元で握りしめ、緩む頬をなんとか抑える。

「だ、めじゃ、ないです……」

 なんとかそれだけ絞り出して、変な顔しちゃう前に一目散に越前くんを置いて自動販売機に向かった。小銭を入れてボタンを押すとガシャンと音を立てて缶が取出口まで落ちてくる。後ろから越前くんが追いついてくる気配がしたので、深呼吸をして、どうにか顔を引き締めて、買ったポンタを取り出した。そして振り返り、越前くんに差し出す。

「はい、越前くん」

 すると越前くんは眉をひそめ、なんとも言えないような表情をしたのだった。どうしたんだろうと思っていると、彼は私の顔とポンタの缶を交互に見比べてから口を開く。

「……なんで俺の分まで買ってんの?」
「え?……あ……!」

 落ち着かせた筈の顔に再び火がついた。つい癖で、と呟くと、越前くんは一瞬唖然とした後すぐに吹き出す。彼の笑いはみるみる内に大きくなった。

「癖で、って、何それ……っ!」

 越前くんはお腹を押さえ、崩れ落ちるように自動販売機にもたれかかった。こんなに笑う越前くん、初めて見た……。新鮮で嬉しい発見の筈なのに、それを上回る恥ずかしさと気不味さが私を苛む。
 やがて笑いが落ち着くと、越前くんは未だ引きつった呼吸をしながら自身の財布から小銭を取り出し、自動販売機に入れていった。そして改めて一呼吸置いて、「どれ?」と軽い調子で言う。

「え?」
「だから、どれが好き?」
「えっと、ミルクティー」

 了解、と続けてから越前くんはミルクティーのボタンを押した。取り出した小さなペットボトルを私に差し出す。

「はい、交換」
「うん……ありがとう」

 私も再びポンタの缶を差し出して、二人して空いている方の手でお互いのジュースを受け取った。
 ベンチまで移動したら、並んで座る。越前くんから貰ったミルクティーは普段よりもなんとなく甘く感じた。隣からプルタブを開く音と、炭酸の抜ける軽い音がする。越前くんは一口飲んでから、ふう、と息を吐いた。

「……やっと試合が終わったって感じがする」

 意味深な言葉に私は首を傾げる。越前くんは「アメリカでさ」と前置きを入れてから続けた。

「最後の試合の後にポンタ買おうとしたら小銭が足りなくて、アニキもカードしか持ってなかったから結局飲めなかったんだよね。……試合に勝って、誰かさんにポンタ貰うまでが俺の中でワンセットだって、その時気付いた」

〝誰かさん〟という単語のところで、越前くんが視線をこちらに投げかける。
 越前くん、お兄さんいたんだ。なんて新しい情報に驚きながらも、私は彼の表情に目が離せなかった。クールな越前くんの表情はあまり変わらないと言われがちだけど、でもからかうような意地悪な笑顔だったり、不機嫌そうなむくれ顔だったり、びっくりするほど優しい瞳だったり、本当は色んな顔をする事は知っている。
 けれど今のはにかんだような微笑みは初めて見るもので、私は身体の真ん中あたりをきゅーっと掴まれて、無性に走り出したいのに、身体が動かなくなってしまう。
 どうしたら良いのか分からず固まっていると、私を射抜いていた越前くんの視線が正面の駅に移った。

「あ、電車動き出したっぽい」

 不思議な力で縛られていた身体が動き出し、私は火がついたように立ち上がった。

「そ、そうみたいだね! じゃあ、また明日ね!」

 そうして有無を言わさず、私は全速力で駅へ向かう。越前くんに名前を呼ばれた気がするけど、だからと言って立ち止まって振り返るだなんて到底無理だった。
 電車は三十分遅れの末ようやく動き出したようで、今まで待っていた人達が一斉に乗り込もうとする流れに私も身を任せるしかなかった。朝のラッシュに負けないくらい寿司詰めになった車内にどうにか自分の居場所を確保する。
 両手で持ったミルクティーの冷たいペットボトルに頬を押し付けると、火照った身体がゆっくりと冷やされていった。そしていくらか冷静になると、図書室にいた時から続く自分の変な行動が順番に頭をよぎって、泣きたくなった。

「変な子だって思われてたらどうしよう……」







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