飛行機で12時間、unknown。
「おーいリョーマ、手紙来てたぞ」
その白く、細長い手紙が届いたのは11月に入ってすぐの事だった。南次郎から渡された封筒には縁に赤と青の縞模様が入っており、表には“via Air Mail”と赤字で書かれている。裏返すと差出人にはRyoga Echizenの文字があった。彼から手紙が来るなんて事は今までほとんどなかったから、少々驚きながらもその場で封を開ける。中はいたってシンプルで、アメリカの各州で行われるジュニアテニスの大会のチラシが数枚と、ノートを破いた便箋に一言、
『エントリーしといたぜ。』
とだけ書かれているではないか。突然の事に目を見張りながらも反射的に日付を確認する。全部11月だ。ついでに言えば、ニューヨーク大会なんてもう3日後に迫っている。
「にゃろう……!」
些か急すぎやしないか、なんて悪態をつきつつリョーマは急いでフライトチケットの打診をしに南次郎の元へ向かった。突然の事ではあるけれど、出ないなんて選択肢は初めからない。なんせ部活を引退してからはプロを視野に入れ、時間の許す限り国内外のジュニア大会に積極的に参加しては優勝を掻っ攫っているのだから。
*****
そしてアメリカ行きの飛行機に飛び乗ってから今日でちょうど2週間……リョーマはボストンの地で、沢山の歓声に包まれながら立派なトロフィーを受け取っていた。2週間前にニューヨークで最初の優勝を手にしてからほとんど休む間もなく州を渡り5つのジュニア大会に参加したけれど、それも今日で終わりだ。
いきなり現れて優勝をした日本人選手の名前を覚えておこうと、会場内はリョーマに好奇の眼差しを向けていた。それもそのはず、この2週間でリョーマは3つの優勝トロフィーを手にしているのだ。スポーツ紙にも既に小さくではあるが彼の記事が載っている。
そんな遠慮のない視線を物ともせずコートを後にするリョーマを出迎えたのは、傍らで試合を見ていたリョーガだった。オレンジを皮ごと頬張る姿は20になった今でも変わらない。
「チビ助、お前また強くなったんじゃねーの?」
「そりゃどうも」
一昨日のアトランタ大会の方が強いやつ多かったけどね。と続けると、リョーガは苦笑いを浮かべてリョーマの帽子に手を乗せる。そして彼曰く愛情をたっぷり込めて帽子ごとわしゃわしゃと乱暴に撫でてやった。
「かっかっかっ! 減らず口だけは相変わらずだな」
そのまま勢いで肩を抱こうとするリョーガの腕からなんとか離れ、リョーマは自動販売機へ向かった。試合の後は喉が乾く。日本では見慣れない、けれどもリョーマにとっては懐かしい色とりどりのジュースが並ぶ中、お気に入りの炭酸飲料を見つけてテニスバッグの中から財布を出した。のは、良かったのだけれど……。
「どうした、買わねーのか?」
リョーガが追いついた時、彼は自身の財布を覗き込んで固まっていた。
「……小銭が足りない。50セント持ってない?」
「あー、悪りぃ。俺今カードしか持ってねえわ」
なんて使えない兄貴なんだ。とは言葉にはせず、代わりに思い切り溜息を吐く。試合のすぐ後にポンタを飲むのはもはやリョーマの中で必須の事項となっていて、あの甘ったるい炭酸が喉を通らないと、試合を終えた気がしなくて収まりがつかなかった。
そんな時、ふと脳裏にポンタを手にしたなまえの姿がよぎる。「お疲れ様」と、頼んでもいないのに毎回冷えた缶を差し出してくれる姿が今はとても懐かしい。
なまえ、元気でやってんのかな。もう2週間も学校を休んでるから、それだけ彼女に会えていない事になる。最後に会った日に見たのは『流石に外部の大会までは行かないよ~!』と大袈裟に笑う彼女で、そんな姿に少し寂しくなって意地の悪い事を言ってしまったのが記憶に新しい。いつの間にか、大会にはなまえの姿があるのが当たり前になっていた。
他にも「みょうじが2人もいて紛らわしいから」なんて言い訳して名前を呼び始めたり(本当はそんな事どうでも良くて、ただ自分が彼女を名前で呼びたかっただけだ)アピールって程のものじゃないけど、わざと教科書を忘れて会いに行ったりもして。
テニス以外で誰かに会いたくなる事なんて今までなかった。
こんな自分が少し変で、でも、嫌じゃない。
「――おーい、どうした、チビ助?」
なんて事を考えていたら、知らない内にぼんやりしていたらしい。こちらを覗き込むリョーガの視線から逃げるように、リョーマは帽子を目深に被った。察しが良いリョーガの事だから、もしかしたら頭の中の事を悟られてしまうかもしれない。
「なんでもない」
そんな態度を物ともせず、リョーガはカラカラと笑って腕時計を見やった。リョーマは今夜のフライトで帰国する事になっているのだけれど、それまではまだ時間がある。
「少し疲れちまっただろ。兄ちゃんが何か奢ってやるよ」
「和食が良い。スシ食べたい」
「は? お前もうすぐ嫌でも日本で食えるだろーが」
「母さん洋食ばっか作るし、アニキが思ってるほど食べれてない」
「ったく、仕方ねーな」
こっちで食うスシは結構高ぇんだぞ、とぶつくさ呟くリョーガを他所にリョーマは近くに寿司屋があっただろうかと携帯電話を取り出す。
なんだか、日本に帰るのが楽しみになってきた。
*****
リョーガに呆れられるほどたくさんのスシを胃袋に詰め込んでから飛び乗った飛行機が成田空港に着いたのは、日本時間ではもう夕方の事だった。12時間以上窮屈な座席で眠っていたからか、全身が凝り固まっている。背筋を伸ばしていたら、機内モードを切った電話が立て続けに震えた。何事かと画面を見ると、時間を置いて何通も送られてきた桃城からのメッセージが一斉に入ってきているところだった。
『おーい、お前のクラスの出し物なんだ?』
『模擬店にいなかったけど休憩?』
『後夜祭始まるぞ、もしかして休み?』
一瞬だけ頭の中にハテナがたくさん浮かんで、それからすぐに思い出す。そう言えば今日は文化祭だったっけ。すっかり忘れてたけど、まあいっか。なんて心の中で呟いてリョーマはスーツケースを引いて空港から続く電車駅に向かった。元々学校行事にはあまり積極的ではない方だし、今回のクラスの出し物だってやる気のある生徒が中心になっていて自分は特に何もしなかったから、忘れていたところでどうと言う事はない。
切符売り場には短いながらも行列ができていた。一番短い列を選んで最後尾に並ぶ。すぐ前にいたのは母親と小さな女の子の親子連れで、2人分のスーツケースを持った母親にしがみついた少女が顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「でんしゃやだー!」
「パパはお仕事で迎えに来れないんだから仕方ないのよ」
「やくそくしたのにーっ!!」
約束――その単語を聞いた瞬間、リョーマは突然蘇る記憶に息が詰まった。
〝「それって、観に来てくれるって事?」〟
期待と不安の入り混じった視線でおずおずとこちらを見上げるなまえの表情、そんな彼女を無性にいじめたくなって「時間があったら」などと言う枕詞をつけたけれど、本当は絶対に行くつもりだった。なのにまさか、忘れてしまうだなんて。
テニスが絡むと途端にそれ以外の事が頭から抜けてしまう自分が時々嫌になる。と悪態をつきながら、リョーマははやる気持ちで切符を購入する。行き先は家への最寄り駅ではなく、青春台に他ならなかった。
*****
そして、
「待った!、」
リョーマは携帯電話を握るなまえの腕を掴んでいた。
いつも本に視線を落としている印象の強い、伏し目がちな瞳がこれでもかと言うほど丸く見開かれている。なまえの耳から外れた電話の向こうから彼女の名前を繰り返し呼ぶ声が微かに漏れ出て、我に帰ってすぐに手を離した。
「あ、ごめんね……そう、今、越前くんが来て……え!? ちょっと待っ!……あ、」
再び携帯に耳を当てたなまえはしかし、何か慌てたようなそぶりを見せてから呆然と携帯電話の画面を見つめる。どうやら通話が終わったらしい。お互いに状況が飲み込めず沈黙の霧が辺りをじわりを湿らせたところで、リョーマは改めて口を開いた。
「えっと……後夜祭、空いてる?」
「今、空いた……」
なまえの返事に内心安堵しながらも、それを面には出さずに相槌を打つ。「じゃあ着いて来て」とだけ言って返事を待たずに教室を出ると、背後で彼女が教室の扉を閉める音がした。
リョーマが向かった先は体育館だった。ここでは演劇や、3日目の音楽祭ではクラス対抗で合唱コンクールが行われていたので、昼間まではステージ上が華やかに飾られていたり、何百ものパイプ椅子が並べられていたりしていたのだが、片付けが終わった今ではその名残もない。しかし2人がステージの階段を登って袖に入ると、そこにはまだ青学祭で使った大道具が乱雑に置かれていた。
「どれ?」
「え?」
「なまえが描いたやつ。大道具係だったんでしょ?」
観に来るって、約束したから。
ぼそりと続ける。今まですっかり忘れていたから、こんな風にしか埋め合わせできない事に少しだけ罪悪感があった。
なのにポカンと首を傾げていたなまえは、次の瞬間吹き出したではないか。てっきり怒るか拗ねると思ったのに。言葉を失っていると、彼女は鈴の転がるような声でころころと笑う。
「私の事を律儀すぎるって言ってた癖に、越前くんだって律儀じゃない!」
なまえがあまりにも楽しそうに笑うので、なんだかむず痒いような妙な気持ちが腹の底から迫り上がる。夜の体育館が暗くて良かった。だっってもしかしたら今、変な顔をしているかもしれない。
「俺そんな事言った?」
「言ったよお! 全国大会の前、ほら、ポンタくれた時」
「そんな事よく覚えてるね」
「越前くんの事だもん」
薄暗くて顔がよく見えないけれど、それでもなまえが息呑んだのが聞こえた。リョーマの心臓が一度、ドクンと大きな音を立てる。その音がなまえにも聞かれたのではないかと錯覚してしまいそうなくらい、辺りは静まり返っていた。
「あ……その、意地悪なことを言うのは越前くんくらいだからっ」
取り繕うような言葉をすぐに付け加えられる。けれどその慌てるような声色に、もしかしたら、という気持ちが止められない。
「なまえ、」
気が付いたら名前を呼んでいた。薄暗い中、窓から差し込む光を反射してキラリとなまえの瞳が輝き、視線がぶつかる。
手を握りたい。さっき、俺はどうやってなまえの腕を掴んでいた?
顔に触れたい。今ここでキスしたら、どんな表情をするのだろう。
「え、ちぜん、くん?」
手を伸ばし、指の背が頰に触れた、その時だった。
2人の間に壁を作るようにけたたましいアラーム音が辺りに響いたのだ。咄嗟にリョーマは手を引っ込め、ズボンのポケットに入れる。なまえは狼狽えながら携帯電話を取り出し、側面についたボタンを連打して音を止めた。
「……なに、今の?」
「いつも夕ご飯食べた後勉強してたら眠くなっちゃうから、アラームかけてるの」
なまえは照れ隠しのように謝罪し、それからどうしても氷帝に受かりたいのだと漏らした。きらりきらりと彼女が輝く。夜の暗さは増していき小さな窓から十分な光が入っているはずもないのに、なまえの周囲だけまるでスポットライトが当たっているようで。
「……受かると良いね」
告白できないと、思ってしまった。なまえの気持ちがどうであれ、衝動に任せて想いを告げてしまったら確実に彼女の心を乱してしまう。受験の邪魔になってしまう。
なまえの事が好きだと気付いてから、本当はその笑顔も、本に落ちる視線も、全部自分に向かえば良いと思う気持ちは止められないけれど。今はそれ以上に、自分の所為で悲しい思いをさせるのは嫌だった。
「うん、ありがとう!」
屈託無く礼を言ってから、なまえは目の前に積み重ねられた大道具やパネルを慎重に動かして自分の担当した物を探し出す。
その様子を眺めながら、リョーマは泣いてしまいそうな気持ちでズボンの中の拳を痛いくらいに強く握るのだった。