​並んで歩く、30センチ。


 チャイムが鳴って学校中が一気にざわめき始める。今日の授業はこれでお終いだから、先生が教室から出て行った途端、みんなが一斉に帰り支度を始めた。私も同じように教科書をカバンに詰めていると友人が机まで来て私の名前を呼ぶ。

「私今日委員会ないんだけど、​なまえはどうする?」
「うーん……いつも通り図書室で勉強していきたいかな」
「じゃあ先に帰るね」

 ごめんね。と謝ると彼女は「気にしないで、また明日ね!」と軽く手を振り、教室から立ち去った。3年生に上がってから一緒に帰る事が減って申し訳ないな、と思いつつ、私も帰り支度を終えてから立ち上がり教室を後にする。
 廊下に出たところで、向かいの壁に背を預けて手持ち無沙汰にしている越前くんを見つけた。向こうも私を見るなり手に持っていた本を掲げる。1時間前に私が貸した数学の教科書だ。

「これ、サンキュ」
「どういたしまして」

 受け取ってカバンの中に入れる。越前くんに教材を貸すのはこれで2回目だ。クールでなんでもやってのけてしまう男子テニス部の部長も油断する事があるんだな、と思うと何気なく笑みが漏れてしまった。あ、2年生の時に資料集を見せたから、それも合わせたら3回目かな。越前くんはきっと覚えてないだろうけれど。(と言うより忘れていて欲しい……恥ずかしいし)

「何笑ってんの?」

 我に返って顔を上げると、怪訝そうに眉を寄せる越前くんの視線とぶつかった。しまった、と顔が火照る。

「あ、えと、最近よく忘れ物するから、珍しいなって思って!」
「あー……うん、」

 越前くんの視線が宙に漂う。どうしたんだろうと思っていると、彼は明後日の方を向いたまま居心地悪そうに左手を髪に突っ込んだ。

「外部の大会に出たりとか、最近忙しいから」

 言い終えた後、越前くんははっと小さく息を飲む。普段から何を考えているか分からないところがある彼だけど、流石に気になって今度は声に出して「どうしたの?」と尋ねた。すると越前くんはバツが悪そうに口を開く。

「ごめん、大会あったのに連絡してなかった」

 何の事かと一瞬戸惑って、それから体育祭の時の事を思い出した。あの時はテニスの大会の日程を教えてくれなかったからって、越前くんに対してすねちゃったっけ。もう何ヶ月も前の事なのに覚えててくれて、嬉しいのと、なんだかおかしいのが混ざってお腹の底がくすぐったい。私は思わず笑い出してしまった。

「流石に外部の大会までは行かないよ〜!」

 自分でも何がそんなに面白いのかよく分からないけど、何故だか笑いが止まらない。
 ひとしきり笑って目尻に滲む涙を拭う頃、初めて目の前の越前くんが口を尖らせている事に気がついた。まだ笑いを引きずって声が出なかった私はどうしたか聞く代わりに首を傾げる。越前くんはどことなく不愉快そうに「別に」と短い声を上げた。

「​なまえが興味あったのは俺の試合じゃなかったんだって知っただけ」

 誰? 3年はカチローかカツオ……まさか堀尾じゃないよね? 2年のヤツ?
 そう続けられた言葉に私の笑いは波よりも早く引いた。背筋が凍る。そんな誤解、越前くんにされたくない。

「そ、そういう意味じゃないよ! 私が好きなのは!」
「好きなのは?」

 余計な事を口走ったと気付いた時にはもう遅くて。もごもごと口の中で探し当てた言葉は、苦し紛れそのものだったけれど。

「……テニスの試合、そのものだもん」

 越前くんのテニスだよって言わなかった私、えらい。自分を褒めざるを得ないほど、思っている事を考えなしに声に出してしまう悪癖がある事は自覚している。
 越前くんは再度、けれど今度はどこか楽しそうに「ふーん、そう」と口角を上げた。その瞳がなんだかとてもいじわるな気がしたけれど、もう怒ってなさそうなので私は内心胸を撫で降ろす。越前くんが嫌な気持ちになるのも無理はない発言をしてしまった。誰だって自分の好きなものが好きって言われたら嬉しいし、邪な目で見られたら嫌だよね。

「――なまえちゃん、ばいばい!」

 不意に声をかけられて、振り返るとクラスでたまに喋る子が手を振っていた。私も「また明日」と振り返す。その子は同じグループの子達と楽しそうに話しながら廊下の向こうに去っていった。
 越前くんとの会話に集中していたから気付かなかったけど、教室から出てきたり廊下を横切る子の何人かは明らかに私と越前くんに興味深そうな視線を注いでいたのだ。周りの目に気付いた途端、いつもの廊下が居心地の悪い場所へと変わってしまった。注目される事に慣れていないし、私と何か噂されたら越前くんに迷惑がかかってしまう。誰と誰が仲良いとかみんな敏感だし、越前くんはみんなの王子様だから。

「​なまえ、今日はこれからどうすんの?」

 けれど焦る私とは裏腹に、越前くんは何も感じてないようでいつも通りクールな態度で。

「図書館で勉強していこうかなって。越前くんは?」
「俺今日図書当番」
「あ、そっか、昨日うちだったもんね」
「そういうこと」

 なんとか平静を装いつつ、そういう事ならばと歩き出す越前くんに私も着いて行った。目的地が同じなら、ここでいつまでも話している意味はない。

 周りの目線からも逃げられて、ほっとした私は図書室の扉の前で軽く「じゃあ」と越前くんに挨拶をする。越前くんはひとつ頷いて貸出カウンターの中へ入って行った。私もいつもの席へと向かう。図書室の一番奥にある窓の隣に置かれた机が私のお気に入りの場所だった。あまり人が来ないし、ここからは校庭で部活に励む生徒の姿がよく見えるのだ。……もちろん男子テニス部も、よく見えたりする。

 コートで練習をする越前くんは、本当にかっこいい。きらきらと輝いているからすぐ見付けられるし、なんだか元気を貰えるのだ。今日はそんな姿を見れないのが少し残念だけれど、代わりに図書室まで一緒に来れたから、内心嬉しさで踊り出してしまいそうだった。
 よーし、勉強頑張ろう!

*****

 今日はいつもより調子が良くて、肩を叩かれるまで私の集中が途切れる事はなかった。

「閉館時間」

 顔を上げると、すぐ隣に越前くんが立っている。周りは物音ひとつせず、私が最後の利用者だと言う事はすぐに気付いた。

「今、支度するね」

 立ち上がり、傍に置いていたカバンを取り上げる。越前くんは頷いて本棚の向こうへ消えて行った。
 カバンに参考書と筆箱を詰め込んで出入り口まで向かうと、貸出カウンターの内側で越前くんがテニスバックを肩にかけていた。他の利用者がもういない事は予想通りだったけれど、図書当番の子までいないのは意外だ。

「あれ、もうひとり委員の子は?」
「先に帰った」

 越前くんは青い画用紙をカウンターに置いて出てくる。その隣には色とりどりの画用紙が重ねて置いてあって、昨日まではなかった物に私は感慨深さを感じていた。見覚えのあるそれは、図書委員会の文化祭恒例行事であるおすすめ本の紹介の為のものだ。

「今年ももうこんな季節なんだね」
「手の空いてる奴から書いとけって、先生が置いてった」
「越前くんはもう書いたの?」
「さっき終わったところ」

 話しながら先に図書室を出ると、越前くんが後に続く。今年はおすすめの本、決まってたんだ……ちょっと寂しいな。なんて思いながら、彼が図書室に鍵をかける後ろ姿を見ていた。そしてまた出過ぎた事を考えていたと気付き、かき消すように頭を振る。
 下駄箱に向かうまでは職員室を通るから、途中までは越前くんと一緒だ。

「そういえば、越前くんのクラスは文化祭で何するか決まった?」
「校庭で模擬店。そっちは?」
「うちは劇だよ。西遊記」
「何か役やんの?」
「ううん、大道具係。パネルとか作るの」
「​なまえ、絵描けるんだ?」

 猫のような瞳が少し細まって、視線がぶつかる。ワザとからかってきていると知ってはいても少しムッとしてしまう。越前くんは時々少しいじわるだ。

「これでも美術は結構得意なんだよ?」

 むくれたまま言ったのに越前くんは「ふーん」と広角を少し上げるだけで、更に揶揄われている事は明らかだった。その表情がやけに楽しそうに見えて、それなのに気のせいかもしれないけどすごく優しげにも見えて。怒っているはずだった私の心はすぐにふにゃりと柔らかくなってしまう。

「……越前くんのいじわる」
「そう?」
「ぜーったいそう」
「俺はそんなつもりないんだけど、まあ良いや」

 ​なまえの絵が本当に上手いかどうかは確かめに行けば良いし。
 続けられた言葉にドキリとする。期待で破裂してしまいそうな心臓を抑えていたら、声が震えた。

「……それって、観に来てくれるって事?」
「時間が空いてたらね」

 ただ揶揄われているだけなのかもしれない。社交辞令なのかもしれない。
 それなのに、越前くんの何気ないひとことで私は嬉しくて空の向こうまで飛んで行けそうな気持ちになってしまうなんて。

 他にも他愛のない話をしていたら、いつの間にか職員室に到着していた。図書室の鍵を返しに行くと言う越前くんとそこで別れて、私は下駄箱へと向かう。靴を履いて学校から出るけれど足取りはふわふわしていて、ここにいる実感がなかった。
……なんだか、すごく幸せな気持ち。ずっとこんな日が続けば良いのにな。

*****

 慌ただしい日々が続いてやらなきゃいけない事をやっている内に、気が付けばもう文化祭――青学祭当日だった。私のクラスは教室や校庭で何かをするなんて事なかったから劇を見守る以外は暇で、今年の青学祭はほとんどお客さんのような気分で見回る事ができた。

 3日間続いた青学祭も終わって、あとは後夜祭だけ。毎年恒例のキャンプファイヤーまではまだ時間があるから、今度は学校中が片付けの慌しさに包まれている。

 そんな中、私は図書室を訪れていた。クラスでの役割が終わったので、今度は委員会の展示物の片付けをしないといけなかったから。とは言っても、こちらもやる事と言えば図書室の外に張り出されていたおすすめ本の紹介を取り外すだけ。みんなクラスの片付けに追われているからかこっちに参加している子は数人だけだったけど、それでも10分もあれば終わりそうだった。

 端から画鋲を取って行くと、不意に青い画用紙にそっけない黒のマジックで書かれた〝漫画で分かる日本史〟の文字が目に飛び込んで来る。何度か見た事のあるその文字で案の定、左下に「3年7組越前リョーマ」と書かれていた。
 このシリーズ、まだ読んでてくれてたんだ。それにおすすめしてくれるなんて。
 読書はあまりしないと言っていたから、これ以外に思いつかなかったのかもしれない。たまたま目に入っただけだったのかもしれない。それでも心臓のあたりがぽわんと暖かくなって、頰が緩むのを抑えられなかった。
 大事に大事に、破れてしまわないように画鋲を外す。画用紙を抱きしめてしまいそうになるのを我慢しながら、既に回収していた他の紹介文の上に重ねて置いた。

「あ!」

 次の紹介文を外そうとしたところで、いつの間にか隣にいた1年生の子が声を上げる。いきなりの事だったのでびっくりして何事かと思っていると、その子はぱたぱたと顧問の先生のところまで走っていった。

「せんせー! この紹介文ってこの後どうするんですか?」
「優秀だった物だけ残して処分する予定だ」
「じゃあ、家に持ち帰っても良いですか!?」
「おう、好きにしろ」

 そんなに広い範囲で作業している訳じゃないから、ふたりの会話は筒抜けだった。その子はまたぱたぱたと隣まで戻って来て、私をちらりと見て小さく会釈をしてから、傍の青い画用紙を取り上げる。そして大事そうに胸に抱えて、すぐにまた他の1年生の所へ走り去ってしまった。

「やったあ! これ、越前先輩のだよ!」
「良かったねー!」

 可愛らしく盛り上がる下級生に私が何か言えるはずもなく、ただ残りの画用紙が重ねられた場所を見つめる。見えない手で首を絞められているみたいに苦しくなって、無性に泣きたい気持ちになった。
 本当は「返して!」って叫んでしまいたい。でもあれは私の物でもなんでもない。それに越前くんがこの場にいても、優しい彼の事だから「好きにすれば」なんて言って渡してしまうんだろう。そんな姿が簡単に想像できて、胸のもやもやは余計に大きくなった。

「よし、全部取れたみたいだな。紹介文を提出して解散してくれ」

 それから数分もしない内に先生の言葉を合図にその場にいた生徒が解散する。キャンプファイヤーが始まるまでまだ時間はあるし、友人もまだ委員会の片付けをしているとメッセージがあったので、私は空き教室で自習をする事にした。のは、良いんだけど……。

 参考書とノートを広げて、出るのは解答じゃなくてため息ばかり。
 こんなに落ち込まなくても、最初から分かってた事なのに。越前くんの事が好きな子は私だけじゃない。女の子はみんな、一度は越前くんの事を噂した事があるって、1年生の時から知ってたもの。

 そう言えば、文化祭では一度も越前くんに会えなかったな。劇の始まる直前に観客席を探したけれど、人が多すぎて見付けられなかった。
 誰かと文化祭回ったのかな。……彼女、とか。
 考えれば考えるほど憂鬱な気持ちが全身を巡って、数学の公式も英語の熟語も全く頭に入って来なかった。

 その内に空が暗くなり、全校放送で後夜祭の始まりが告げられる。もうそんな時間かと仕方なく参考書をカバンに入れていると、携帯電話に友人から着信が入った。

「もしもし?」
『​なまえ? やっと委員会の片付けが終わったよ〜!』
「お疲れさま。キャンプファイヤー見てく?」
『もっちろん! どこで待ち合わせしよっか?』
「そうだなあ……」

 きっと下駄箱は今頃人がいっぱいいるだろうし、この教室に来てもらった方が早いかな、なんて考えていた、その時、

「待った!、」

 教室の扉が開いたと思ったら、息を切らした越前くんが私の腕を掴んでいたのだった。







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